やがて、敷地の奥、蔀戸(しとみど)の下ろされたやや小ぶりな建物にたどり着いた。あくびは足裏の砂も落とさずに縁側によじ登り、妻戸(つまど)を掴む。小さな身体の全体重をかけて後傾し、勢いよく戸を開いた。

奈古女(なこめ)様、早くー」

 奈古女は首を巡らせ辺りを見回し、人目がないことを確認するとあくびに倣って縁側に飛び乗る。そのまま半ば転がるようにして室内に駆け込んだ。

 しばらく閉め切られていたのだろう。敷居を越えるなり、建材の古い木の香りと、微かに鼻の奥を突く黴の臭いがふわりと舞い上がった。

「この建物は?」
「昔、大殿が、隠居屋敷だって言ってたよー。少し前までは大奥様がここで時々ごろごろしてたけど、最近は対屋(たいのや)にいることが多いから、今日も多分誰もいないのー」

 鬼の本性を露わにした三紅(みくれ)。何も知らない郎党は別として、同志たる鬼らに対して角を隠す必要はない。それゆえ、寂れた隠居屋敷ではなく対屋や主殿で暮らすことができるようになったのかもしれない。

 三紅の事情はどうあれ、四方を壁に囲まれた無人の家屋となれば、身を潜めるには都合がいい。

 奈古女は神刀を包んでいた布を剥ぐ。これまでは圧迫されて籠った音を微かに漏らしていた鈴が、外気に触れてしゃん、と揺れた。そのあまりの鮮烈さに、奈古女は思わず全身を硬直させた。

「奈古女様?」

 難儀しつつ妻戸を閉じながら、あくびが肩越しに振り返る。

 奈古女は側頭を流れる冷たい汗を感じながら、神刀を両手で掲げ持ち、舞の最初の位置へと導いた。その間も、清めの鈴が静謐な室内の空気を揺らし続ける。全身がひやりとする。

 神楽を舞えば、さらに大きく鈴が鳴るだろう。そうなれば、聞き慣れない音を妙に思った者たちが集まってくるに違いない。それまでに、神刀に十分な清めの光を纏わせる必要がある。何の取り柄もない落ちこぼれ巫女の奈古女に、やり遂げることができるのだろうか。

「大丈夫だよー」

 明障子から差し込む微かな光の中、あくびが無邪気に言った。

「奈古女様、今まで何度も若殿を助けたよー。だから今回も大丈夫だよー。それに、大殿の髪の毛もあるもん。そうだ、おいらがちょっと根回ししてくるよー」
「え、ちょっと、あくび?」

 言うなりあくびは、閉じかけた妻戸の隙間から外へ飛び出した。呆気に取られた奈古女が呼び止める間もなく、戸が閉まり、再びしんと静まり返る。

「根回しって……大殿の(もとどり)はここにあるのに」

 奈古女は腰に吊るした袋を撫でる。そういえばそのまま持って来てしまったが、鬼導丸(きどうまる)と対峙する真均(まさひと)に渡しておくべきだったのではなかろうか。気が回らなかったことを悔やむが、今さら仕方ない。奈古女は神刀を握る手に力を込める。

「私は、何度も助けた」

 あくびの励ましを反芻する。

 そうだ、奈古女はこれまでに幾度も鬼穴(きけつ)を封じた。漆黒の沼のような穴に飛び込み真均を連れ戻しもした。

 幼少期より、集団神楽が苦手であった。大きな失態を犯したこともある。だが、一人でならば、清めの光を呼び寄せることができるはず。

 奈古女は前に足を滑らせた。ひんやりとした床板を、足裏が擦る。後ろに戻り、前へと進み、さらに後ろ、そして斜め前、片足を軸にして一回転。その間、神刀にたわわにつけられた鈴が清涼な音を響かせたが、奈古女は気に留めず、ただひたすら、なすべきことに意識を集中させた。

 やがて、どこからか青白い光が漂い始め、奈古女を包む。だが、何か違う。

 奈古女の足裏が床板のささくれを踏んだ。ちくり、と痛みが走り、拍子が崩れる。清い光が泡のように弾けた。その残滓を浴び、奈古女は焦燥に駆られてもう一度足を滑らせた。

 前、後ろ、前……。

 鈴の音が、狂ったかのように鋭く鳴り鼓膜を打つ。己の心臓の音が、嫌に大きく全身に響いた。

 手が震え、神刀が小刻みに振動する。せっかく刀身に集い始めていた青白い光が震える刃に切り刻まれ、はらはらと足元に散った。神刀には、微かな光しか宿らない。これでは遠くから清めの波動を送ることなどできない。鬼穴に直接突き刺すならば少しは役立つだろうが、それも、いったいいくつの穴に対抗できることか。

 奈古女はとうとう足を止める。額から流れ落ちた汗が、床板に染みを作った。

「どうして」

 精神が極限状態にあるからいけないのだろうか。いいやそれならば、大鬼や武者らの亡骸を目前にしながら神楽を舞った、東国最初の夜は何だったのか。あの時は、血腥い惨状の中でも、問題なく清めの気を呼び出せたはず。奈古女は混乱し、己の半身にすら等しい相棒の名に縋った。

「どうしたらいいの。影雀(かげすずめ)……」

 その時だ。

「ここだよー」

 妻戸が勢いよく開き、曇天から斜めに差し込む淡い陽光が奈古女を照らし出した。

 思わず腕を庇にして目を細める。光をやり過ごしてから縁側を見れば、逆光に、数人の武者の影が浮かんでいた。その傍らに立つ小柄な姿に、奈古女は声を引きつらせる。

「あくび。何で」
「おい、あの女は」

 武者の一人が低い声で言い、鯉口を切る。奈古女は青白い光を纏う切先を相手に向け、後ずさった。鬼頭の郎党らしい男らが、じりじりと迫って来る。

「見たことがある。東一真均が西国から連れて来た巫女だ」
「では、あの晩の惨事を引き起こした鬼の一味か」

 惨事を引き起こした鬼。それは鬼導丸であり三紅だ。しかし偽の情報を耳に流し込まれた彼らにとって、諸悪の根源は真均なのだろう。

 じわり、と腹の底でどす黒い感情が蠢いた。館を追われても真均は、東国を解放することを願い続けていた。そのことを誰も知らず、それどころか彼こそが悪とされている。あまりにも悲しく、どうしようもなく腹立たしかった。気づけば、口が開いていた。

「若殿はあの件になど関わっていません!」

 怯え震えていた小娘が突然上げた大声に、武者らが鼻白み足を止める。身体の底から湧き上がる激情が、奈古女に言葉を紡がせ続けた。

「あなた方が大殿と敬っている男。彼こそが全てを仕組んだ大鬼。本物の大殿はあの晩、大鬼に食われたんです」

 虚を衝かれた男らが、鋭く息を呑む。次の瞬間、それは濁流のような怒りに変貌し、奈古女に襲い掛かった。

「不敬な! 東国武者の棟梁が、鬼に食われただと?」
「本当です」

 いよいよ抜刀した男たち。日々の鍛錬で鍛え抜かれた大きな身体と、研ぎ澄まされた白刃に迫られた奈古女はしかし、顎を上げたまま動かない。

「これを見てください。お願いです」

 奈古女は腰の袋から大殿の髻を取り出した。赤い、特徴的な頭髪が、根本から切り取られている。

 鼻先に赤髪を突きつけられた武者は、怒りに任せて奈古女の腕ごと髻を打ち落とす。鋭い痛みを受け反射的に涙が滲んだが、奈古女は気を奮い立たせてもう一度髻を掲げた。

「冷静になってください。誰が見ても、大殿の髻です。どうしてこれがここに存在すると思いますか」
「たかが頭髪が何だ」
「大殿以外に、ここまで見事な赤髪を持つお方を見たことがありますか?」

 男は奈古女の首に刃を沿わせながら眉根を寄せる。冷たい死の気配に首筋を撫でられても、奈古女は口を動かし続けた。

「そして、今もこの館のどこかにいる大殿に、髻はありますか。烏帽子(えぼし)を被っていても、頭髪がここまでばっさりと切られていれば、後ろ髪の様子だけでも、そうとわかるはずです」
「だいぶ前に切り取られたものでは」
「では、この何年かの間で、大殿が髻を切られたことがありますか。そんなことになれば大騒ぎです。鬼頭の棟梁が、そのような恥辱を受けるはずありません」

 揺るがぬ意思を宿した奈古女の瞳を睨み、男はしばらく思案する。その背後から、おずおずと声が上がる。

「そうだ、そういえば」

 皆の視線が、声の主である小柄な武者に集まった。彼は躊躇いがちに言った。

「この前、大殿の様子が少しおかしかったんだ。ほら、大殿はいつも厳格で、立ち居振る舞いも隙がなく、東国武者の鏡だっただろう。でもな、たまたま所用で夜に主殿を訪ねた時、大殿が大奥様とお話されているのをお見掛けしたんだが、その様子がまるで盗賊か何かのように粗野で。その時は、奥方にしか見せない姿があるのだな、とむしろ微笑ましく思ったが……そもそも大殿と大奥様は疎遠だったはず。気を許した仲ではない妻に、ご自分の本性をお見せになるだろうか」
「ではおまえは、この巫女が言う通り、俺たちが今朝言葉を交わした大殿は鬼だと言うのか」

 奈古女に刃を突きつけた男が凄むと、小柄な武者はややたじろいだ。

「いやいや、確信はない。だけど、その可能性も……」
「鬼穴だ!」

 突然、主殿の方角から金切り声が上がった。隠居屋敷に集った人間たちは、顔を見合わせて耳をそばだてる。

「助けてくれ、俗鬼……いいや、大鬼も這い出したぞ!」

 ぞくりと背筋が冷える。鬼頭の館に鬼穴が湧いた。和香(わか)が犠牲になった晩の惨状が脳裏に蘇り、思わず膝が震える。誰一人動けず凍りついた空気。それを溶かしたのは、緑の俗鬼あくびの、気の抜けるようなわざとらしい声だった。

「うわー大変だ。鬼穴、塞がないと! 西国から清めの波動が届くのは夜だけなんだよー。今はまだ昼間だから、奈古女様が封じるしかないんだよー。わーどうしよう」

 先頭にいた大柄な武者が奥歯を擦り合わせ、再び奈古女に鋭い目を向ける。しばらく睨み合った後、彼は刀を下ろす。今にも奈古女を捻り潰しそうなほど接近していた身体が一歩離れた。

「背に腹は代えられない。いいか、娘。俺はまだ信じ切っていない。だが、おまえにしか鬼穴が塞げないのも確か。共に騒ぎの方へ向かうぞ。しかし妙な動きをしたら即刻斬る」

 言うだけ言って、彼は大股に縁側に出て庭へ飛び降りた。その後ろを、ばらばらと武者らが続く。取り残されかけた奈古女の腕を、あくびが引いた。

「よかったーおいらの根回し、上手くいったよね。鬼に見つかる間に、人間を連れて来たんだよー」
「根回し」

 そうか、そういうことだったのか。奈古女を発見した者が敵の一派である鬼ならば、大殿の髻は切り札にはならない。だからこそ、あくびはあえて郎党を呼んで来た。理屈はわかる。しかし。

「心臓が止まるかと思った」
「ええー! 大変、大変。奈古女様大丈夫―?」

 何と他人事な。とはいえ純粋に心配しているらしいあくびの姿に、張りつめていた気が解れるのを感じ、奈古女は苦笑交じりに頷いた。

「大丈夫よ。ありがとう」
「あーよかった。じゃあ、おいらたちも行こー」

 奈古女は決意に口元を引き結び、神刀を軽く振る。しゃん、と清涼な鈴の音が響く。刀身に宿った頼りない光が青白い軌跡を宙に描いた。

 最後の戦いが近づいている。奈古女はそう確信した。