鬼導丸(きどうまる)は、影雀(かげすずめ)が起こした騒ぎの状況を確認するため、(うまや)を訪れているらしい。やや距離があるため、低く交わされる会話は途切れ途切れになり内容はわからない。奈古女たちは網代(あじろ)塀の側の茂みに身を潜め、蘇芳(すおう)色の直垂(ひたたれ)を纏った大殿姿の大鬼(たいき)を窺った。本物と何ら変わらないを目にし、このような時だというのに、奈古女の胸には一つの確信が生まれた。やはり真均(まさひと)の容貌は大殿に似ている。

「父上」
東一(とういち)様、あれは偽物です」
「でも、そっくり」

 思わず話の腰を折るような声が漏れる。真均と清高が勢いよく奈古女を振り返った。奈古女は慌てて両手を顔の前で振り、取り繕う。

「あ、いいえ違うんです。もちろんあれは、鬼導丸なんだと思います。でもやっぱり若殿と似ています」

 細く高い鼻梁、切れ長の目、険しい表情と身に纏う苛烈な空気。髪色こそ異なるが、二人に血縁がないなどとは思えない。

「やっぱり、若殿は()(つの)ではなく大殿の子なのでは」
「ならば俺に角が生じるのはなぜだ」
「それは」

 奈古女は、今は滑らかな真均の額を見上げ、言葉に詰まる。大殿に角はなかった。尼姿になる前の三紅(みくれ)も同様だったと聞く。ならば真均は、血縁以外の事情で、生まれては消える角を得たのだろうか。

「どちらにしても」

 真均の瞳に、激しい炎が宿った。

「あの姿をした者を父と慕い育ったことは確かだ。館が落ち東国に危険の火種が燻っているのは鬼頭(きとう)の咎。身内の不手際は身内で終息させる。父母の姿をした大鬼(たいき)は、俺が斬る」
「でも、鬼導丸は上級鬼。取り巻きの大鬼だっているはずです。どうやって隙を突きましょう」
「心配ない。人として武で敵わぬならば、鬼として食う」
「え?」

 食う。人の顔をした真均が平然と述べたのはつまり。

「だ、だめ! そんなことをしたら若殿が大鬼になる。人から討伐される立場になってしまいます」
「それでいい。鬼導丸や母上姿の大鬼を道ずれに鬼穴(きけつ)にでも沈み、奴らに死が訪れるまで永遠に地の底に縛りつけてやる」
「そんな」
「聞け、奈古女」

 真均は奈古女の肩を掴んだ。決意を帯びた手のひらが、肩骨を軽く軋ませる。

「万が一俺が悪しき大鬼になり人に害なす存在に変化したのなら、迷わず鬼穴に蹴落とし、おまえの舞で穴を塞いでくれ」
「そんな……できません」
「それがおまえの存在価値だ。ずっと、人の役に立ちたいと願ってきたのだろう。ならば今こそその時だ」
「こんな形は望んでいません」
「万が一の時は、と言った。おまえにその役が回ってこないよう、努力する。だが、戦いになれば館に再び鬼穴が湧く可能性が高いのは確かだ。あらかじめ神刀に清めを纏わせ、準備だけはしておいてくれ。何があってもおまえが俺の尊厳を守ってくれると信じれば、心置きなく戦える。心配は無用だ。そう簡単にはやられない。……奈古女」

 真均の眉間の皺がふと緩み、淡い笑みが浮かぶ。

「大切なのは、鬼か人間かということではなく、その人が何をなすかだ。そう言ってくれたのは、おまえだろう。だからこそ、俺は人として、鬼頭や東国のために尽くしたいと思う。どうか、角を持つこの身に宿るのが人間の心であることを証明させて欲しい」

 魂の叫びに全身を打たれ、奈古女の喉は張りついたようになる。細く息を吸い込むだけで精一杯だ。しばらくして、辛うじて絞り出したのは、まるで子どものような声だった。

「ずるいです」

 奈古女は唇を噛み、呼吸を整えてから、目元を険しくしてもう一度口を開いた。

「若殿はずるい。いつもそうです。そんな言い方をされたら私は拒めません。だって、ただでさえ私は……」

 あなたの全てを愛おしく思っているのだから。

 胸に満ちて今にも溢れ出しそうな甘ったるい言葉は場違いも甚だしく、唇から零れ落ちることはない。だがきっと、真均はそれを受け取った。

「言っただろう、背中を預ける巫女として奈古女を求めたのは俺だ。影雀という鬼に偏見を持たずに語り合う姿を見て、おまえならば、孤独と憤怒の闇に沈みそうな俺の心を人の世に繋ぎ止めてくれると思ったのだ。実際、おまえには助けられた。今回の働きも期待している。さあ、つべこべ言うな。おまえはおまえのなすべきことをすると誓え」

 奈古女に向けていた視線を切って、真均は草越しに厩を見た。そのまま顔を動かすことなく、短く指示を飛ばす。

「あくび、大鬼に占拠されたこの館に最も詳しいのはおまえだ。奈古女を安全な場所に連れて行き、神楽を舞う間守れ。清高は俺と来い。人の敵を狩る」

 あくびと清高、それぞれが頷き、次なる行動を開始する。

 ただ一人動けない奈古女の肩を、清高が柔らかく押して促した。身体が離れる直前、彼は大きな目に慈愛の色を乗せて囁いた。

「東国にいらしてから今日までのこと、本当にありがとうございます。東一様に代わり、御礼申し上げます」
「清高様」
「奈古女様、急いでー。おいらと行こうー」

 あくびがいつになく真剣な面持ちで奈古女の袖を引く。奈古女はもう一度だけ視線を上げた。どこか達観したような清高の柔らかな表情、こちらを一瞥すらしてくれない真均の怜悧な横顔。奈古女は腹の底に力を込めて、あくびの手を取った。

「そうね、行こう、あくび。どこか神楽を舞うのにいい場所を教えて」
「うん、任せてー」

 駆け出したあくびに腕を引かれながら、奈古女は身を屈め、茂みと築地の間を小走りに進む。振り返ることはしなかった。それぞれがなすべきことをする。今は前だけを向いて突き進むべき時だ。