「おかしいな。静かすぎる」

 真均(まさひと)が、(くりや)の扉を薄く開き様子を窺いながら囁くように言った。

「炊事の時間ではないとはいえ、家僕の一人もいないのは妙だ」

 奈古女(なこめ)は、斜め後ろに立つ俗鬼(ぞっき)のあくびと視線を交わしてから、真均の隣に寄り添い、同じ隙間から外を見る。

 約一月半ぶりに見る鬼頭の館の庭には、惨事の名残など跡形もない。血潮で赤い花を咲かせていた砂は清められ、戦いの衝撃で崩れた石積みも修復されている。

 館の搦手(からめて)方面、有事に備えた抜け道から館に忍び込んだ奈古女たちは、人目につくのを恐れ、無人の厨に身を潜めている。息を整えてから状況を把握し、行動を起こそうというのだ。

「本当に人がいませんね。これなら、密かに大将を討つことができるかもしれません」
「だが、油断は禁物だ」

 真均は、奈古女の腰に吊るされた袋に軽く触れた。中には、大殿の(もとどり)が入っている。本来、真均が持つべきものだろうが、剣戟の合間に断ち切られてしまい紛失してしまってはいけない。そのため、奈古女が預かり身に着けているのだ。

 誰の目にも留まらず、敵を討てればそれでいい。だが、そう上手くはいくまい。姿を認められてしまった時には、人間の郎党らだけでも味方につけたい。そのための切り札である髻。あえて人の集まる日中に潜入をしたのも、大殿の髻が示す真実を多くの者に暴露するためだった。

「行くぞ」

 真均は願いをかけるように袋を握り締め、手のひらを開いてから扉を開けた。

 身をかがめ、建物の陰に沿って進む。慣れない隠密行動に、奈古女の耳には自身の鼓動ばかりが大きく響く。万が一にも鈴の音を出さないように布できつく封じられた神刀が、いつになく重たい。

 奈古女たちは言葉なく、目で会話をしながら、まるで盗人のように腰を屈めて駆けた。可能な限り迅速に行動できるよう、事前に策を練っておいたのだから、言葉は不要である。

 この館で最初になすべきことは、清高の救出だ。彼が捕らえられている納屋は敷地の外れにあるため、敵が暮らす主殿に近づく必要はない。

 やがて、敷地内を区切る網代(あじろ)塀の側を進み(うまや)の近くを通りかかった時、奈古女の耳は、懐かしい声を捉えた。

「だから、あたちは飛べるんだから、ずっとこんなところにいる必要はないって言ってんのよ!」

 奈古女は息を呑み、思わず足を止める。数歩先を行っていた真均とあくびが遅れて立ち止まった。塀の向こう側から、ちゅんちゅんと騒ぎ立てる声がする。

「わからずやね。世の中は適所適材なの。偵察なら、空からやれば手っ取り早いじゃない」
「だからといって、勝手に敷地外に出ることは許されぬ。何事も、大殿の許可を得てから行動に移せ」
「はあ、大殿ねえ……」

 含みのある口調で言ったのは、十中八九影雀(かげすずめ)だろう。常と変わらぬ調子に場違いにも安堵する一方で、胸が抉られるように痛んだ。

 仲互いの末、突然奈古女の前を去った影雀。彼女は今、奈古女と敵対する立場に身を置いている。物心ついた時からずっと側にいた。出会った最初の日のことは、もう思い出せない。だが、影雀が側にいるといつも、まるで欠けてしまった大切なものが補われるかのように活力が湧き、空虚な心が満たされた。それなのに。

「影雀」
「……ねー、奈古女様」

 つん、と袖を引かれ、我に返る。目を落とせば、あくびが心配げに眉尻を下げ、奈古女を見上げていた。

「大丈夫。何か事情があったんだよー。だって影雀、奈古女様のことが大好きだって言ってたもんー」
「そんな話、いつしたの?」
「えっとね、影雀が飛んで行っちゃう前の夜……。あ、これ、本当は内緒のお話だったんだー。奈古女様。今の話、聞いてないよねー」
「う、うん、聞いてないよ」

 あくびと影雀が密かに親交を深めていたとは初耳だ。しかしそれならば、あくびから詳しく話を聞けば、影雀の真意を知ることができるのではないか。

「あのね、あくび。影雀は」
「奈古女、今はそれどころではない」

 真均が、潜めながらも苛立ちを帯びた声音で言った。

「塀の向こうには鬼がいる。奴らが騒ぎに気を取られている今が好機。このまま清高を探す」
「そ、そうですよね。すみません」

 奈古女は神刀を胸に引き寄せるようにして抱き締め、深呼吸をしてから真均の目を見て頷く。彼は軽く目を細めて応じてから再び足を進めた。

 網代塀が途切れる通路を息の音すら漏らさないように注意深く通り過ぎ、目的の納屋までたどり着く。ほんの僅かな時間しか経っていないはずだが、奈古女には小半刻にも感じられた。

 納屋には鍵がかかっているが、一部壁板が腐食している箇所がある。あくびは以前、そこから中へと入り、清高と対面したのだという。もちろん、成人した人間が身体をねじ込むには細すぎる隙間だ。そもそも、いつかは館への侵入が露呈するのだから、行儀よく開錠する必要もない。真均は刀の柄で錠の基盤ごと板扉を打ち壊し、強引に戸を開けた。

「清高、無事か……」

 急いて発せられた真均の声が緊張に強張り、やがて凍りついた。遅れて中を覗き込んだ奈古女も、鋭く息を呑む。

 突然の闖入者が巻き起こした砂埃が陽光に透け、古びた納屋の内部を白っぽく照らし出す。その中央。梁に括りつけられた縄に拘束されて、白い肌の男が横たわっていた。異様なのは、その周囲。彼を中心に砂が赤黒く変色している。やや間を空けてから漂ってきた金臭さが鼻を突かなくとも、一目でわかる。あれは血痕だ。

 真均が納屋に踏み込む。滞留していた空気がかき乱されて、腹の底がざわつくような、不快な臭気が立ち上がった。

「清高、怪我を」

 真均が、清高の頭の側に膝を突く。小刻みに荒い呼吸を繰り返す清高の肩を掴み、軽く揺らす。そして。

「清高」

 伏した男が顔を上げた。口元を中心にして、乾いた赤黒い血が付着している。細い目は虚ろで、眉は薄く、頬はこけ……いいや、彼は清高ではない。少なくとも、容貌は別人だ。

「ああ」

 血だまりの中で、男は呻く。真均が反射的に膝で後ずさり鯉口を切る。男は薄い眉尻を悲しげに下げて口を開いた。

「若……東一(とういち)様」

 鬼頭の若殿を普段から名で呼ぶ者は、数少ない。ならばこれはいったい誰か。

 この納屋には、純鬼清高が捕らわれていた。眼前の男の身体の下には大量の血痕。そして口元に赤。真均は眉間を険しくしたまま、絞り出すように言った。

「清高、食ったのか」
「まさか」

 思わず、奈古女の口から声が漏れる。大鬼(たいき)の姿を前にし、あくびが本能的に身震いして、奈古女の腿にしがみついた。

「清高、なぜだ」

 清高は口の端を軽く歪め、辛うじてそれとわかる笑みを浮かべた。そして。

 不意に、痛々しい感情を張りつけた皮膚が墨を垂らしたかのように黒く染まる。暗黒の渦に顔が呑み込まれ、やがて別の男の容貌になる。続いて肉が盛り上がり黄色い俗鬼に転じる。しばらくそうして変化を繰り返してから、見慣れた大きな目と濃い眉が戻ってきた。

「東一様、私は」
「なぜ食ったと訊いている」

 低く詰問する声に、清高は震える腕で上体を支えて起こし、赤黒い砂の上に尻を下ろした。

「このような姿では東一様のお側にあれません。私を斬ってください」
「質問に答えろ」

 清高は、やや衰弱して焦点が揺れがちな瞳で主を見上げてから、居たたまれない様子で視線を逸らす。

「生きるため。己のために食ったのです」
「鬼導丸に対抗するため進んで大鬼になったか」

 答えは返らない。いつの間にか柄から離れて自身の膝に乗せていた真均の右手が、青筋が浮くほど強く握り締められた。

「全ては俺のためだ。そうだな、清高」
「私は」
「清高は俺にとっての弱点だ。もしおまえが鬼に食われたら、俺はおまえの姿に化けた鬼に騙されて自滅するかもしれない。だからおまえは敵に食われず抵抗を続けられるよう、鬼導丸(きどうまる)の鬼格に近づくため、大鬼になった。少なくとも、下級鬼は清高を恐れ、おまえを傷つけようとしなくなる」

 清高は妙なものでも見るかのような目で真均を見つめる。やがて、薄く唇を開いた。

「どのような事情があったとしても、私は人食いの鬼。人の館で、人を束ねる主君に仕えることなどできません。私を終わらせてくれるあなたがお越しくださるのをお待ちしておりました。どうか私を処分してください。そして、この身を誰にも食わせぬよう、焼き尽くしてください」
「ふざけるな」

 真均は地鳴りのような声で一蹴し、抜刀する。砂埃の幕越しに差し込む陽光を受け、刀身が禍々しく光を弾く。

「若殿!」

 奈古女がほとんど悲鳴に近い声を上げる。真一文字に銀が一閃する。ざくり、と物を裂く音がして、清高の頭頂すぐ側で、梁と繋がっていた荒縄が断ち切れた。

 真均は、呆気に取られる清高の手を乱雑に取り、手首同士を拘束する縄を切先で裂く。それから激情の籠った声音で言った。

「死ぬのなら、東国のために戦い抜いて果てよ。俺には今、一人でも多くの手下が必要だ。命尽きるまで、俺に仕えるのではなかったか」

 清高が息を呑む音が響いた。主従はただ、見つめ合う。ほんの僅かな時間であったが、心の通じ合った二人には、それだけで十分だった。やがて清高は、唇を震わせて俯いた。

「二言はありません。この清高、若殿がお許しくださる限り、たとえこの身が朽ちようと永劫にお側でお仕えします」

 清高の顔の下、乾き切った赤黒い砂の上に、ぽとりと新たな水分が滴下して斑を描く。真均は幼少の頃より共にあった従者の肩を掴み、これまでの辛苦を労ってから、腰を上げた。

「時間が惜しい。鬼導丸のところへ向かうぞ」

 清高は面を上げる。綻びた直垂の袖で口元の赤と目元の水分を拭うと、いつの間にか雲のかかり始めた空から降る淡い陽光に浮かび上がる庭へと、意思の強い目を向けた。