その日は朝から霧雨が垂れ込めていた。夏の終わりを惜しむ葉が露に濡れ、庭にはしっとりとした空気が満ちている。

 言いつけ通り、朝のお勤めの後に巫頭(かんなぎがしら)の部屋を訪れた奈古女(なこめ)は、床に膝を折って座り身をちぢこめていた。

「奈古女、そなたが昨晩犯した失態が、遥か東国で血を流す武者たちにどのような負担をもたらしたか、理解しておるか」

 巫頭の声音は、相変わらず穏やかである。それがむしろ、恐ろしい。奈古女は両手を床板に突き、平伏した。

「はい、理解しております。弁明の余地もありません」
「そなたの行いのせいで、昨晩東国では多数の武者の血が流れたかもしれぬ。償う気はあるか。巫女として」


 巫女として。意外な言葉を耳にして、奈古女は少し顔を上げて答えた。

「私にできることならば」
「そうか」

 巫頭は平坦な抑揚で返す。続いて、部屋の外から衣擦れの音がした。

「若殿。お入りなさい」

 巫頭が促すと同時に、開け放たれた妻戸(つまど)の向こうから足音が近づいた。巫女らの滑るような上品な歩みとは異なる、堂々として重量感のある音。それと併せて一瞬だけ、血の臭いが鼻の奥を突いた。

 何者か。思わず顔を上げて、奈古女は絶句する。

 藍色の袴が目に入る。そのまま布地をたどり視線を上げて、それが直垂(ひたたれ)を纏い烏帽子(えぼし)を被った武人然とした男であることを知った。

 巫の宮には、女人しかいない。男子禁制というほどではないが、用もない者が立ち入るような場ではないので、男の姿を見たのは久方ぶりだった。

 戸惑う奈古女に静かな目を向けて、巫頭が口を開く。

「若殿、彼女が奈古女。昨日話した巫女です。奈古女、このお方は東国の武者を束ねる棟梁、鬼頭(きとう)の館の若殿でいらっしゃる」

 二十代半ばほどと見える若殿は巫頭の隣に腰を下ろし、目を軽く細めて値踏みするような視線で奈古女を眺めた。

「鬼頭東一(とういち)真均(まさひと)だ」

 ひんやりとした声だった。その言葉が発せられた唇は薄く、鼻梁は細く高い。切れ長の目からは意志の強さが滲み出ている。整ってはいるのだが、全体的に、どこか鋭利な印象のある容貌だ。まるで、月夜に妖しく光る名刀の刃のような人だと思った。

「奈古女」

 巫頭に呼びかけられて、鬼頭の若殿をじっと見つめていたことに気づく。慌てて顔を下げ、視線を床板に固定して奈古女も名乗った。

「奈古女、と申します。お見知りおきを」
「ああ。これから頼む。慌ただしくてすまないが、すぐに東国へ出発する。急ぎ支度をしろ」
「東国?」

 予期せぬ言葉に目を丸くして、上体を起こして真均と巫頭に視線を向ける。若殿は、当惑した様子の奈古女に軽く首を傾けた。

「聞いていないのか」
「な、何を」
「急な変更があったもので。このことがなくとも今朝は元から彼女を呼び立てておりましたから、今から話す予定でございました」

 巫頭が、さも当然といった調子で言った。

「奈古女、東国は今、巫女の清めを必要としている」
「どういうことですか?」
「東は鬼穴(きけつ)が湧く国。その地の守護職にある鬼頭家は奮闘しているものの、近年強まる鬼の勢力に苦慮しているのだ。この度、鬼頭の若殿が直々に巫の宮までお越しになり、巫女を所領に連れ帰りたいと仰せだ」
「清め……。ですが私たちは毎晩この巫の宮で清めの舞を奉納しております。それだけではいけないのですか」
「多くの鬼は、地に沈澱した負の感情から成るものだ。その(おり)を我々巫女が清め、鬼穴を歪めて塞ぐのは周知のこと。しかし、もはや遠くから祈るだけではこと足りぬようなのだ」

 それゆえ、東国の武士を束ねる鬼頭家は、より手近に使役できる巫女を必要としているということか。しかし、ならばこそ。

「なぜ私が」

 奈古女は落ちこぼれだ。そのことは、巫頭が一番よく知っているはずではないか。

「確かに奈古女は集団神楽が苦手だ。しかし、一人で好きに舞わせれば、きちんと清めの気を呼び集めることができる。単身東国へ派遣するのに問題はない」
「知っていたのですか」

 一人で舞う時は、決まって深夜であった。鬼の(たぐい)である影雀(かげすずめ)との交流もかねているため、人目のある日中では具合が悪かったのだ。まさか気づかれていたとは……もしや、昨晩の気配は彼女だったのだろうか。巫頭の表情を観察してみたが、常のとおり感情の起伏があまり見えなかった。

「ですが、巫女が東に行くなど、異例で」
「いいや、そうでもない」

 戸惑いを露わにした奈古女の言葉に、巫頭は淀みなく返す。

「そもそも以前は、この巫の宮も東国にあったのだ」

 奈古女は困惑しながらも頷いた。巫の宮の誰もが知る話だ。

 かつて東国に暮らし、武者らと肩を並べて戦った巫女。しかし、いくら勇猛な武者といえど、鬼と戦いながら、多数のか弱き者を守ることは困難だった。約百年前、とある凶悪な大鬼(たいき)により東国の巫女が皆食われるという惨事が起こってから、巫の宮は西国に移されたのである。

「あれから百年余りが経ち、遠方から清めの気を送り続けるという歪な体勢に限界が表れ始めたということだ」
「で、でも巫頭様。私一人でそのような重大な……」

 その時だ。責任の重さに震える奈古女の声を、ばん、という鋭い音が遮った。思わず身体を震わせて目を向ければ、真均が手のひらで床を打った姿勢のまま、やや前傾しつつ奈古女を睨んでいた。

「決定事項だ。おまえは今日から鬼頭の配下となる。つべこべ言わずに身支度をしろ。快く向かわぬというのなら、縛ってでも馬に乗せる」

 真均は低く高圧的な声で言い捨てて、粗暴な所作で腰を上げる。去り際、思い出したかのように巫頭に軽く目礼をし、そのまま大股で部屋を辞する。廓下に消える、怒気を纏った背中。奈古女には、まるで彼自身が鬼か何かであるかのように感じられた。

 怯える心が見せた幻覚か、彼が部屋を出る寸前、庭から差し込んだ朝日が生み出した真均の薄い影に角が存在したかのような気がして、奈古女は目を瞬かせる。しかしそれはすぐに早朝の薄明りに溶けて消えてしまった。おそらく、気のせいだったのだろう。正面から見上げた若殿の形の良い額には、角などなかったはずだ。


「奈古女」

 言葉を失い真均を見送る奈古女に、巫頭が相変わらず静かな声をかける。

「東でも息災で。鬼頭の若殿によく仕え、この国を鬼から守るのだ」

 鬼穴の湧く地など嫌だ。それに、恐ろしいのは鬼ばかりではない。真均がああも乱暴で横柄な男であるならば、その郎党(ろうとう)たちもきっと同様なのだろう。鬼と荒くれ者が蔓延(はびこ)る東国になど赴きたくない。しかし、落ちこぼれ巫女の奈古女にはそれを主張する権利はないのであった。