「俺の名が元は真人(まさひと)であったということは、以前話したな」

 日が暮れて、薄暗い(いおり)の中。冴え冴えと照る満月が格子越しに投げかける光が、奥に無造作に立てかけられた斧や背負い籠を仄かに浮かび上がらせている。

 決して広くはないものの、鬼が潜んでいるかもしれない山中で夜を明かす危険を考えれば、扉のある場所で横になれるだけありがたい。

「あの名をもらった時、俺の中に生まれたのは強い憤りであり、寄る()をなくした赤子のように途方に暮れる思いでもあった」

 近くの沢で旅の埃を流し人心地ついた頃、真均(まさひと)はぽつぽつと語り始めた。彼の心の柔らかな部分に触れる話題に、奈古女(なこめ)は戸惑いながらも姿勢を正し、ただ静かに耳を傾ける。

「強固な鎧を纏っていたこの心が、音を立てて崩れていくような気がしたものだ。そうして額が疼き、違和感を覚えて庭の池に顔を映すと……これがあった」

 真均の指先が、彼の額に生まれた親指ほどの大きさの角を弾く。

「あの日までは、自分に角が生えるなどとは考えたこともなかった。もちろん、生まれる前から、鬼頭の嫡男は鬼の子なのではないかと陰で囁かれてはいたのは知っている。()(つの)の息子だから角を自在に出し入れできるのだろうとも言われていた。だが、一度たりとも角など出たことがないのだから、ただの鬱陶しい噂だと思うだけだった。しかし」

 真均は額から手を下ろし、蜘蛛の巣が張る部屋の角辺りを、見るともなしに眺めた。

「あの日、俺は自分が鬼であることを知った。そしてその事実を、母からも突きつけられた」
三紅(みくれ)様から?」

 思わず声を上げてしまう。真均は頷いた。

「ああ。何かに囚われたかのように池を見つめる息子を見つけ、妙に思ったのだろう。母上は俺の方へと歩いて来た。反射的に顔を上げて目が合った途端、恐れと悲嘆にじわじわと凍りついていく母上の表情の動きが、今も脳裏に焼きついて離れない。そして、母上は言った。『ああ、鬼の血が伝わってしまったのね』と」
「そんな」
「母上は最初から知っていたのだ。息子の父親が三つ角であると」

 そうでなければ、鬼の血が伝わってしまったなどという言葉は飛び出さない。奈古女は言葉を失い、膝の上で拳を握った。このように大きな秘密を抱え、孤独に耐えて鬼頭の若殿としての責務を全うすべく己を律してきた真均。その苦悩はいかほどだろうか。

 しばらく黙り込んだ後、真均はふと視線を戻し、奈古女に向けて自嘲の笑みを浮かべる。

「まあ、そんなつまらない過去に囚われる小さな男なのだ、俺は」
「そんなことは」
「昼は、曖昧な態度を取ってすまなかった。だが、心配するな。無様な弱音を吐いたが、一晩もすれば元に戻る。なすべきことは心得ている。俺が三つ角の子であるのなら、鬼導丸(きどうまる)とやらは異母兄弟ということになる。身内の悪行には、責任を持ち制裁を下す」

 誰に何を言われようと、幼き日の真均は自分が人間であると信じていた。その願いが打ち砕かれ、支えを失い崩れ落ちた真均の心に巣食った絶望が、慟哭を宿した黒い瞳を通して奈古女の胸を刺す。

 彼はこれまで、ほとんど一人で苦しみに耐えていた。弱音を吐くことを嫌悪し、怯えてすらいた。そして今、そんな自身の弱さを奈古女にさらけ出してくれている。

 この人の心を、守りたい。

 強い感情が身体の奥底から湧き上がり、気づけば奈古女は膝立ちになって腕を伸ばしていた。ふわり、と真均の頭部を包み込む。腕の中で、たじろぐ身じろぎを感じた。

「おまえ、何を」
「大丈夫。何も怖くなんてありません。私の前では心を隠さないでください。弱音を吐いたっていいんです。泣いたって気にしません」
「泣きなどするものか」
「虚勢を張らないでください」
「虚勢だと?」

 途端に怒気を帯びた低い声を腕の力を強めて封じ、奈古女は言葉を絞り出す。

「痛みを堪える若殿を見ると、私が辛いんです」
「痛みなど、俺は……」

 真均の言葉尻が、外で鳴く虫の声に溶けて消えた。

 束の間、沈黙の帳が下りる。やがて、真均は手を伸ばし、奈古女の腕を掴んでやんわりと引き離すと、正面から視線を合わせた。

「なるほど、確かに俺は人並みに傷つく弱さを持っているらしい。だが奈古女。おまえはなぜ、そうも親身になる」

 いったいなぜなのだろうか。奈古女は、真均の黒い瞳に漂う微かな戸惑いを見つめ、過去を回想しながら唇を動かした。

「多分、あなたが私に生きる意味をくれたからです」

 大袈裟な言葉に、真均は怪訝そうに目を細める。奈古女は視線を逸らさずに続けた。

「私は落ちこぼれの巫女でした。ずっと自分に失望していて、いつかは誰かの役に立ってみたいと願っていました。それなのに、何の努力をするでもなく、仲間の巫女の陰に隠れて息を潜めて過ごしてきた弱い人間なんです。でも、若殿に出会い東国に行って。最初に見た鬼穴の側で、若殿が私を頼りにしてくれた時、初めて自分の存在意義を感じることができました。だから私は、若殿の役に立ちたいんです。生まれて初めて、私を頼ってくれたあなたを支えたい」

 それはある意味では正しく、ある意味では不十分な説明であるように感じられた。だが、奈古女には、己を衝き動かした感情の全貌がまだ見えない。

「俺は正真正銘の鬼だぞ。鬼に義理立てしてどうする」
「清高様やあくびのように、人と寄り添い合える鬼もいます。実際、私の唯一の友達、影雀は鬼です」

 ああ、と真均は頷いて、掴んだままだった奈古女の腕を放す。手のひらから伝わっていた熱が去り、奈古女の胸を冷やして疼かせた。その寂寞はしかし、次に続く真均の言葉で意識の外へと吹き飛んだ。

「白状する。実は、東国に連れて行く巫女は最初、別の女だった」
「はい?」

 何の脈絡もない「白状」に、奈古女は目を丸くする。真均は意に介した風もなく、淡々と続けた。

「だが、(かんなぎ)の宮に滞在した晩、敷地の端で雀姿の異形の鬼と親しげに舞うおまえを見て、どうしようもなく心引かれたのだ。だから俺は、おまえを求めた。きっと最初から、おまえならば俺の鬼である部分にも寄り添ってくれると期待していたのだろう」

 そういえば、と奈古女は回想する。東国へ向かう前の晩、神楽に失敗し、その日の清めを台無しにしてしまった後のこと。奈古女は確かに影雀の元を訪れて、弱音を吐き、共に舞ったのだ。

 その際、藪を揺らした何者かの気配があったことを思い出す。奈古女は、あっと声を漏らした。

「まさか、あれは若殿だったんですか」

 真均はただ奈古女を見つめるばかり。返る言葉はないが、それが回答なのだろう。

 奈古女の東国行きに、そのような事情があったとは。てっきり、巫の宮から厄介払いするため、巫頭(かんなぎがしら)が指名したのだと思っていた。だが、そうではなかった。奈古女は最初から選ばれ、必要とされていたのだ。

「……初めてお会いした時の様子からは、そうは見えませんでしたけど」

 朝霧けぶる早朝、巫頭の部屋で初対面した折、突然の東国行きに動揺する奈古女に苛立ち、真均は畳を打って声を荒げた。その瞬間、奈古女の中で鬼頭の若殿は、粗暴で恐ろしい男だと印象づけられてしまった。

 思わず、といったように零れた奈古女の言葉を耳にして、真均はきまり悪そうに顔をしかめる。

「悪かったな、気が短くて」

 少し口を尖らせたような表情がいつになく子どもじみて見え、奈古女は頬を緩めた。すかさず見とがめた真均が、いっそう不機嫌顔になるので愛嬌がある。

「何だ」
「いいえ、何も」

 どうやら、普段とは立場が逆転したようだ。真均の眉間に刻まれた不本意そうな皺に、本物の怒りは見えない。対する彼は、奈古女の顔からどのような感情を読み取っただろうか。

 至近距離で互いの瞳の色を確かめ合う。次第に頬に熱が籠り、どこかしっとりとした暖かな空気が庵の中に満ちたような錯覚を覚えた。

 そのまま、瞳同士が引き寄せられるように二人の距離が近づいた。気づけば柔らかく唇が重なっていて、甘美な痺れが全身を突き抜ける。鼓動が跳ね、慄き微かに離れた隙間から、意図せず小さく吐息が漏れた。その僅かな距離すら許さぬというように、真均の手のひらが奈古女の後頭部を押さえ、いっそう深く繋がって……つまり今、奈古女はいったい何をしているのだろう。

 ふと我に返り、咄嗟に腕を突っ張って、密着しかけていた身体を押しのけた。

「そ、そそそそういえば!」

 艶めいた空気を破り裏返った声を上げた奈古女を、真均が熱の冷めきらない瞳のまま怪訝そうに眺める。奈古女は混乱する頭で、床に手を突いて膝を後ろに滑らせながら、ずりずりと距離を置こうとした。

「か、影雀! 影雀はどこに行ったのかしら。そろそろ反省しているかもしれないから、私、ちょっと探しに」
「それは後でいい」

 逃げ腰な腕を掴まれて早々に動けなくなった奈古女は、情けなくも小さく声を上げ、燃えるように熱い顔を俯かせて息を潜めた。

「嫌か」

 頭頂に、熱を帯びた声が降って来る。

「望まぬというなら無理強いはしない。だが、そうでないならば」

 真均の手のひらが、頬に触れる。意外にも優しい所作で促され顔を上げれば、真摯な色をした瞳に貫かれる。

「そうでないなら、拒まないでくれ」

 ――鬼であるこの身を、拒絶しないで欲しい。

 言葉の真意を正確に汲み取った奈古女は大きく息を吸い込んで、火照り潤んだ目で視線を受け止めた。ああ、そうか。彼の心を守りたいと願うのはきっと……。

「若殿、その言い方は、ずるいです」

 奈古女はわざと少し棘のある口調で言って、愛おしい人の温もりを求めて自ら手を伸ばした。