「助力はできないだと?」

 低く抑えられてはいるものの、部屋中を震撼させるほどの怒気を孕んだ真均(まさひと)の声が、巫女装束を纏った巫頭(かんなぎがしら)を打つ。

「正気か。東国武者の棟梁館が、鬼に占拠されているのだぞ。東に鬼が満ちれば奴らが次に侵略するのはこの西国だ。それにもかかわらず、見て見ぬふりをすると言うのか」

 片膝に手を突き前傾しつつ、真均が凄む。隣に座す奈古女(なこめ)は、彼が放つ激しい怒りに怯えを抱くことはなく、むしろ同調している己に気づいた。

「巫頭様。私からもお願いします。私、実際に東国に赴き、理解しました。夜毎、遠くから届く清めの波動だけでは、鬼穴を塞ぎ尽くすことはできません。埒が明かないんです。大きな穴が一晩に二つ出るのなら、東国には二人の巫女が必要です。三つなら三人。四つなら四人です」

 落ちこぼれ巫女であった奈古女が精一杯の勇気を絞り出して進言する姿に、巫頭は微かに目を細めてから首を横に振った。

「最初から、鬼頭に遣る巫女は一人だけと取り決めたはず。そこの奈古女を差し出したのだから、巫の宮はこれ以上、東国に巫女は遣れませぬ」
「あの時とは状況が違う」
「鬼頭の若殿よ。西国巫女の人数が、必要十分だとでもお思いか」

 真均は口を閉ざし、見る者をすくみ上がらせるほどの眼光で巫頭を睨んだ。対する老齢の女はほんの一欠片も動じた様子なく、淡々と続ける。

「ただでさえ巫女の素質を持つ者が足りないのです。大局的にお考えいただきたい。軽々しく巫女を東へ遣り、百年前のように鬼に食われてしまったら、西国から送られる清めの波動はいっそう不十分な量になり、本末転倒ではありませぬか」

 巫頭は、反論できない二人の顔へ交互に視線を向けて諭す。

「鬼頭の館が鬼に占拠されだというあなたのお話、私とて、事態は憂慮しています。しかし百年前の教訓を生かさぬ愚は犯せない。ご理解いただきたい、鬼頭の若殿。そして奈古女よ」

 真均が唇を噛み締めた。やがて、これ以上説得の余地はないと思ったのだろう。彼は黙って腰を上げ、挨拶もなしに大股で遣戸(やりど)を引いて廊下に出る。

「若殿、待って!」

 奈古女は慌てて後を追う。敷居を跨ぐ直前、じっと注がれる眼差しを感じて振り返れば、巫頭と目が合った。彼女の老いた顔には深い皺が刻まれて、長年の責務による疲労が透けて見えるようだった。

 巫の宮を出てから、ほんの一ヶ月ほど。それでもいざ離れてみれば、これまで恐れすら抱き、認められたいと切望してきた巫頭が、記憶よりもずっと弱々しい印象を纏って見えるのだから不思議だ。

 奈古女は口元を引き結び、目礼して部屋を辞す。巫頭の正義は、国全体にとっては正しいことなのだろう。鬼頭の事情とは相容れないだけのこと。

 道は分たれた。もう二度と、彼女の前にやって来ることはないのかもしれない。