「おい、飯だぞ」
陰鬱な声と同時に納屋の扉が開き、砂埃で靄がかった白い光が差し込んだ。薄暗い空間に囚われているものだから、淡い陽光ですら、眼球を焼きそうなほど眩しく感じる。
蒸した玄米を包んだ葉と水差しを抱えてやって来たのは、人間の子どもほどの大きさの黄色い俗鬼。彼は、納屋の梁から吊るした縄で拘束されて地べたに腰を下ろした清高と目を合わせようとはせず、少し離れた地面に食事を置いてそそくさと去って行った。
清高の両腕は、内手首を合わせるようにして互いに結ばれている。不便ではあるが、握り飯を食うには困らない。清高は貪るようにして僅かな食糧を胃に流し込むと、喉を鳴らして水を飲み、口元を拭って大きく息を吐いた。
鬼頭の館を震撼させた事件の晩から、今日で二十一日目である。清高は、日が昇る度に土に線を引き、経過日数を記録していた。
館の敷地の片隅にあるこの納屋は、主殿からは程遠い。それゆえ、あの晩以降の状況については明確には把握できていない。だが、見慣れぬ俗鬼ばかりが食事を運んで来ることや、未だ鬼導丸が大殿を演じていることから推察するに、館内の人員は一掃されたのだろう。館の主が壮健な姿を見せているのだから、惨事を知る者がいなければ、何とでも言い訳が立つ。おそらく、あの晩に居合わせず命拾いした者らには、突如として湧いた鬼穴により館の家僕や郎党が全滅したとでも説明したのだろう。
鬼導丸の真意は知れないが、わざわざ危険を冒して鬼頭の当主に成り代わるならば、人にとって不都合な策を企んでいるに違いない。鬼から人の暮らしを守る東国武者の棟梁が悪しき大鬼であるなど、あってはならないことだ。
真均と奈古女は逃げ切っただろうか。偽の大殿と、大鬼三紅の手から館を取り戻す手立てはあるのだろうか。清高は、土に刻まれた二十一の線を睨むように眺めながら、焦燥を押し殺す。
曙を数えるのも、出された食事を米粒一つ残さず食べるのも、いつか反旗を翻す日が来ると願っているからだ。雌伏して時を待つ。ただそれが、清高にできる唯一の……。
「清高様、どうしたのー。大丈夫ー?」
不意に、膝元から間延びした声がして、清高は思わず肩を震わせて視線を落とす。見れば、見慣れた緑色の俗鬼が心配そうにこちらを見上げていた。確か、奈古女につけていた家僕だ。
突然の俗鬼の登場に、鼓動が一回二回飛んだ気がする。清高は止まっていた呼吸を整えてから、唾を飲み込んで言った。
「おまえ、確か」
「あくびだよー」
「あくび?」
「奈古女様が名前くれたのー」
あまりにも安直な命名に、常であれば頬が緩むところだろうが、今はそれどころではない。
「そうではなく、おまえ、生きていたのか」
「うん。あの日ね、おいら厨でお昼寝してたんだけど、騒がしいなぁと思って起きたら館中が大変なことになってて、とりあえず逃げたのー。でもね、俗鬼のおいらには行く場所がなくて、人間に石を投げられて怖かったからとりあえず戻ってきたー」
「鬼穴に帰らないのか」
「あそこ嫌いー。どろどろぐるぐるした重たい感情ばっかりなんだもん。地上の方がよく眠れるー」
鬼や人を食うことを望まない、人間に近い感性を持つ俗鬼は一定数存在する。あくびもそうした鬼の一体なのだろう。ならば、もしかすると、状況を打開する切り札になるかもしれない。
「あくび、若殿のことは好きか」
「若殿? うーん、嫌いじゃないよー。あんまり話したことないけど」
「では、奈古女様のことは」
「奈古女様、好きだよー。おいらに名前くれたしー」
「そうか、ならば頼みがある。奈古女様を探して、館の状況を伝えてくれ。清めの波動が生まれる場所に、彼女はいるはずだ。出立する前に、大殿の墓から髻を持って行け。あの赤い色合いの髪は印になる。髻を切られて一月もしないうちに、髪の長い大殿の姿が見えたら皆おかしいと思うだろう。この館に我が物顔で居座る大殿の正体が鬼であると証明する一助になるはずだ」
「ええーお墓を荒らしちゃだめなんだよ。それに、髻は大事なんだよー。切られるなんて、すっごい恥ずかしいことなんだよー」
「致し方ない。大殿もご理解くださるはずだ」
通常、罪人でもないのに髻を切られることはない。だからこそこれは、大きな証拠になる。
対外的には大殿は存命だ。そのため、貴人らしく法華堂に弔うどころか火葬すら叶わなかったが、清高の嘆願と三紅の気まぐれにより、棟梁の遺体は食い尽くされることなく、館の裏手にひっそりと埋められている。
「あくび、頼む。このままでは、人食い鬼食いの粗暴な鬼たちが、東国を蹂躙することになる。そうなれば、ゆっくり昼寝もできなくなるぞ」
「えー、それは困るー。うーんわかったよ。お墓掘りに行くねー」
「そしてそのまま奈古女様のところへ向かい、東一様に伝えてくれ。清高は命尽きるまで、あなた様に仕えると」
「わかったよー。清高様、元気でねー」
少し気づかわしげな目で清高を見上げてから、俗鬼は板壁の小さな裂け目に身体をねじ込ませて外へ出た。
あくびの姿が消え、再び静寂が訪れると、純鬼の清高は瞼を閉じて神仏に祈った。どうかこの混乱を制すのが、悪鬼ではなく人でありますようにと。
陰鬱な声と同時に納屋の扉が開き、砂埃で靄がかった白い光が差し込んだ。薄暗い空間に囚われているものだから、淡い陽光ですら、眼球を焼きそうなほど眩しく感じる。
蒸した玄米を包んだ葉と水差しを抱えてやって来たのは、人間の子どもほどの大きさの黄色い俗鬼。彼は、納屋の梁から吊るした縄で拘束されて地べたに腰を下ろした清高と目を合わせようとはせず、少し離れた地面に食事を置いてそそくさと去って行った。
清高の両腕は、内手首を合わせるようにして互いに結ばれている。不便ではあるが、握り飯を食うには困らない。清高は貪るようにして僅かな食糧を胃に流し込むと、喉を鳴らして水を飲み、口元を拭って大きく息を吐いた。
鬼頭の館を震撼させた事件の晩から、今日で二十一日目である。清高は、日が昇る度に土に線を引き、経過日数を記録していた。
館の敷地の片隅にあるこの納屋は、主殿からは程遠い。それゆえ、あの晩以降の状況については明確には把握できていない。だが、見慣れぬ俗鬼ばかりが食事を運んで来ることや、未だ鬼導丸が大殿を演じていることから推察するに、館内の人員は一掃されたのだろう。館の主が壮健な姿を見せているのだから、惨事を知る者がいなければ、何とでも言い訳が立つ。おそらく、あの晩に居合わせず命拾いした者らには、突如として湧いた鬼穴により館の家僕や郎党が全滅したとでも説明したのだろう。
鬼導丸の真意は知れないが、わざわざ危険を冒して鬼頭の当主に成り代わるならば、人にとって不都合な策を企んでいるに違いない。鬼から人の暮らしを守る東国武者の棟梁が悪しき大鬼であるなど、あってはならないことだ。
真均と奈古女は逃げ切っただろうか。偽の大殿と、大鬼三紅の手から館を取り戻す手立てはあるのだろうか。清高は、土に刻まれた二十一の線を睨むように眺めながら、焦燥を押し殺す。
曙を数えるのも、出された食事を米粒一つ残さず食べるのも、いつか反旗を翻す日が来ると願っているからだ。雌伏して時を待つ。ただそれが、清高にできる唯一の……。
「清高様、どうしたのー。大丈夫ー?」
不意に、膝元から間延びした声がして、清高は思わず肩を震わせて視線を落とす。見れば、見慣れた緑色の俗鬼が心配そうにこちらを見上げていた。確か、奈古女につけていた家僕だ。
突然の俗鬼の登場に、鼓動が一回二回飛んだ気がする。清高は止まっていた呼吸を整えてから、唾を飲み込んで言った。
「おまえ、確か」
「あくびだよー」
「あくび?」
「奈古女様が名前くれたのー」
あまりにも安直な命名に、常であれば頬が緩むところだろうが、今はそれどころではない。
「そうではなく、おまえ、生きていたのか」
「うん。あの日ね、おいら厨でお昼寝してたんだけど、騒がしいなぁと思って起きたら館中が大変なことになってて、とりあえず逃げたのー。でもね、俗鬼のおいらには行く場所がなくて、人間に石を投げられて怖かったからとりあえず戻ってきたー」
「鬼穴に帰らないのか」
「あそこ嫌いー。どろどろぐるぐるした重たい感情ばっかりなんだもん。地上の方がよく眠れるー」
鬼や人を食うことを望まない、人間に近い感性を持つ俗鬼は一定数存在する。あくびもそうした鬼の一体なのだろう。ならば、もしかすると、状況を打開する切り札になるかもしれない。
「あくび、若殿のことは好きか」
「若殿? うーん、嫌いじゃないよー。あんまり話したことないけど」
「では、奈古女様のことは」
「奈古女様、好きだよー。おいらに名前くれたしー」
「そうか、ならば頼みがある。奈古女様を探して、館の状況を伝えてくれ。清めの波動が生まれる場所に、彼女はいるはずだ。出立する前に、大殿の墓から髻を持って行け。あの赤い色合いの髪は印になる。髻を切られて一月もしないうちに、髪の長い大殿の姿が見えたら皆おかしいと思うだろう。この館に我が物顔で居座る大殿の正体が鬼であると証明する一助になるはずだ」
「ええーお墓を荒らしちゃだめなんだよ。それに、髻は大事なんだよー。切られるなんて、すっごい恥ずかしいことなんだよー」
「致し方ない。大殿もご理解くださるはずだ」
通常、罪人でもないのに髻を切られることはない。だからこそこれは、大きな証拠になる。
対外的には大殿は存命だ。そのため、貴人らしく法華堂に弔うどころか火葬すら叶わなかったが、清高の嘆願と三紅の気まぐれにより、棟梁の遺体は食い尽くされることなく、館の裏手にひっそりと埋められている。
「あくび、頼む。このままでは、人食い鬼食いの粗暴な鬼たちが、東国を蹂躙することになる。そうなれば、ゆっくり昼寝もできなくなるぞ」
「えー、それは困るー。うーんわかったよ。お墓掘りに行くねー」
「そしてそのまま奈古女様のところへ向かい、東一様に伝えてくれ。清高は命尽きるまで、あなた様に仕えると」
「わかったよー。清高様、元気でねー」
少し気づかわしげな目で清高を見上げてから、俗鬼は板壁の小さな裂け目に身体をねじ込ませて外へ出た。
あくびの姿が消え、再び静寂が訪れると、純鬼の清高は瞼を閉じて神仏に祈った。どうかこの混乱を制すのが、悪鬼ではなく人でありますようにと。