――おまえ、本当に鬼なのか。これほど綺麗な目は見たことがない。

 清高(きよたか)の運命を変えたのは、彼のその一言だった。

 親の顔など知らない。己の名すらも存在しない。ただ、この額には角があり、人間とは相容れない存在である。幼き日の清高にとっては、それだけが自明のことだった。

 鬼と対峙をすれば会話の余地もなく、食うか食われるか、逃げるか逃げられるかの攻防が始まった。人の輪に入ろうとすれば、恐れられ農具や刀で排斥された。

 だが、幼い鬼が一人きりで生きるのは不可能だ。生まれつき歩き言語を解す俗鬼(ぞっき)ならばともかくとして、この身は人と同じように赤子の姿で生まれて時と共に成長するらしいのだ。ならば、自我が芽生えるまでの間、世話をしてくれた存在がいたはずなのだが、思い出そうとしても何の記憶も蘇らなかった。

 生きるため、食事をせねばならない。だが、他の鬼を狩るほどの膂力はないし、かといって穀物や野菜を恵んでくれる庇護者もいない。それゆえ、幼い名無しの鬼は、この日も里に忍び込み、ささやかな盗みを働いていた。

 夜陰に紛れれば、ほとんどの場合、試みは成功を収める。しかし此度は運悪く姿を認められてしまい、鬼狩りの武者に山へと追い込まれてしまった。

 全身に傷を作り、心にはさらに大きな痛みを抱え、必死の形相で山中を彷徨った。気力が萎え、気づけば巨木の根本に倒れ込んでいた。

 ざくり、と頭の横で、枯葉を踏む音がする。ああ、ここまでかと命の終わりを察した。

 虚しく短い生涯だったと思った時、意図せず唇から、死後の安寧を願う経の文言が零れ落ちていた。いつどこで誰に教わったものなのか、わからない。だが、それを唱えると心が浄化されて、賤しい盗人である己の全てが清いものに塗り替えられていくような心地がした。

 突如として御仏に縋り始めた鬼の姿を目にし、周りを囲んでいた武者らの間に、戸惑いが流れる。騒めく空気を制したのは、意外なことに少年の声だった。

「おい、待て。刀を下せ。……おまえが、麓の里を騒がせた鬼なのか?」

 瞼を上げるのも億劫だ。無視を決め込もうとしたが、声の主は動かずに、じっと待っている気配がする。仕方なく顔を上げれば木漏れ日の下、身なりのいい童水干(わらわすいかん)姿の少年が、物珍しさを隠そうともせず、こちらを見下ろしていた。どうやら年齢的に同世代らしい。

 名無しの鬼はぼんやりと靄がかかったかのような意識の中、反射的に言葉を返していた。

「俺がその鬼だとしたら、君も石を投げ、刀を振るうのか?」

 少年は意外そうに少し眉を持ち上げて、じっと名無し鬼の瞳を見つめた後、迷いのない動作で手を差し伸べた。

「悪い鬼ならばそうする。だが、御仏に願う心のある者を、話も聞かずに斬るのは人の行いではない」
「だが、俺は鬼だ」
「この俺も、実は鬼の子じゃないかと陰口を叩かれているのだから、おまえと大して変わりない」
「鬼? 角もないのに」

 少年の形のよい額は滑らかで、できものの痕一つもない。鬼の証を持たないというのに、いったい何をぬかすのか。小さく鼻を鳴らした名無しの鬼に、少年は少し物言いたげな表情を向けてから、促すようにして更に手を伸ばした。

「とにかく、俺の館に来い。家僕の鬼ならたくさんいるから、きっと受け入れてもらえる。おまえ、名は?」

 答えたくないわけではないが名などない。少年は、沈黙する名無し鬼の腕を無遠慮に掴んで引いて、至近距離で瞳を覗き込んだ。

「じゃあ清高と呼ぶ。今日から俺の従者になれ。拒否することは許さない。……なあおまえ、本当に鬼なのか。これほど綺麗な目は見たことがないぞ」

 言いたいだけ言い、行くぞと強引に立たされる。不遜に感じるほど堂々とした立ち居振る舞いに眉をひそめてもよかったが、彼の言葉を耳にした途端、無音の世界がもう一度音を取り戻したかのような心地がして、抗うことはできなかった。

 呆然として少年に腕を引かれながら、屈強そうな武者らの間を抜ける。一呼吸おいて、背後から当惑混じりの苛立ちを帯びた男の声が追ってきた。

「お、お待ちください若。この鬼は、盗人なのですよ」

 若、と呼ばれた少年は、松明を掲げた男が横に並ぶとちらりと見上げただけで足を止める様子はない。少年はただ、淡々と答える。

「盗人ならば裁きにかけて、相応の罰を与えろ。それにこいつは純鬼らしい。仲間に引き入れれば、鬼に対する戦力になるかもしれない」
「しかし、殿が何とおっしゃるか」
「父上は、俺の行いになど興味をお示しにならない。これは全て俺の独断だ。おまえたちに非はない。いつも通り、手に余る小僧が無理を言って聞かなかったのだとでも報告し、保身に走れ」

 子どもとは思えないほど辛辣な啖呵を切り、若君はすたすたと進む。怒りに顔を赤くした男は舌打ちと同時に歩調を緩め、背後の武者らと合流したようだ。

 二人の少年から少し距離を空けて武者たちが従い歩く。

「鬼は鬼を庇いたがるものなのだろう」

 誰かが忌々しげに呟いたのが聞こえたが、若君は意に介した様子もなく、前を見据えたまま山道を下った。その横顔は頼もしく、どこか寂しげにも見える。

 若君は、仲間の批判にも応じず、盗人の鬼を救ってくれた。名をくれ、貴人の従者という役割を命じ、生きる意味をもたらしてくれた。

 清高は、微かに強張る少年の頬を見つめ、生涯この若君を支えていこうと誓ったのだった。