「なーに陰気な顔をちてるのよ!」

 騒がしい羽音と共に、宵闇に沈む藪から黒い塊が現れて、奈古女(なこめ)の肩に飛び乗った。

影雀(かげすずめ)、起きていたの」
「あんなことがあった直後だもの。奈古女があたちに会いに来るのはお見通しよ」

 おちおち寝ていられないわ、とわざとらしく溜め息らしき呼気を吐き出して、影雀はちゅんと鳴いた。

 影雀。その名の通り、影を集めて固めたかのような身体を持つ雀だ。真っ黒なその姿形は野に遊ぶ普通の雀と同様なのだが、彼女は無貌だ。目も鼻もなく、その顔には決して開くことのない嘴だけがある。唯一影の色を持たぬのは、小さな右翼の裏側だけ。そこには、鈴の形をした白い斑紋があった。

 影雀は、物心ついた頃から奈古女の側にいた。見るからに異形だが、その正体に、奈古女は言及したことはない。訊かずとも、この世で人ならざる物の怪といえば、怨霊か鬼と決まっている。

 本来ならば、側におくなど悍ましい存在であるのかもしれないが、幼少の頃からずっと、一番に心許せる友なのだ。実際、影雀が人に害をなしたことは一度もない。

「影雀、さっき取り返しのつかない失敗をしてしまったの。私のせいで、今夜は清めの波動が東国に届かない」
「あーそうね、見ていたわよ。気持ちよく転んだわねえ」
「明日の朝、巫頭(かんなぎがしら)様に呼び出されたの。もしかすると、(かんなぎ)(みや)を出ろと言われるのかも」
「たちか、何年か前にもいたわよね。ここを出て歩き巫女になった子。粗相じゃなくて素行不良が原因だったけど」

 巫の宮を出て流浪の巫女となれば、鬼が跋扈する地を一人彷徨い、神楽で鬼穴(きけつ)を塞ぎ、時には芸や色を売って生計を立てることになる。それでも、この場所で足手まといになるよりは、よっぽど世のため人のためになるのかもしれないが。

「一人で旅暮らしをするなんて、できる気がしないの」
「何言ってんの。あたちが一緒にいるわ」
「そうだけど。でも」
「ああ、うじうじと陰気な子ねえ。むしろいい機会だと思うけど。だって奈古女、大人数では舞えないけど、一人ならちゃんとできるでしょ」

 ほら、やってみなさいよと高飛車に吐き出された言葉に、奈古女は戸惑いながらも頷く。あれだけ盛大に転倒してしまった直後だが、舞は好きだ。しかしそれは、一人で舞うときに限るのだ。

 奈古女は緋袴の裾を捌いて足を滑らせた。前、後ろ、前、後ろ、斜め前、片足を軸にくるりと一回転。手には何も持っていないが、夜気を神刀に見立てて掲げ、地に向けて斬り下ろす。

「型は綺麗なのよね。ほら、清浄な気が集まり始めてる。他の巫女が呼び出す量よりは少ないけど、まあ及第点よ」

 とはいえ、遥か東国まで届けるためには、多量の清めが必要で、一人で舞えたところで何の助けにもならない。その点、歩き巫女となり現地に赴いて、清めの気を直接鬼穴に突き立てるようになれば、遠方から波動として送るよりもずっと少ない量の気で清めを行えるだろう。

 奈古女はひんやりとした夜を裂きながら舞う。神聖なものと同化するような、陶酔にも似た感覚に全身が痺れ、神楽に没頭した。その時だ。

 がさ、と藪が揺れ、奈古女は打たれたかのように全身を硬直させた。

「誰?」

 半ば上ずった誰何(すいか)の声は、草木の間の闇に吸い込まれて消える。返る声はない。

「影雀と話しているのを見られたかな」
「別に平気よ。独り言ってことにちておけば。どうせ、明日にはこの宮を出ていくんだち」

 近くの岩の上で、奈古女の舞を真似て足を動かしていた影雀がぱたぱたと翼をはためかせて言った。

「それに、多分あれは人間じゃないわ」
「じゃあ何?」
「鬼よ」

 不謹慎な冗談に、奈古女は軽く眉根を寄せる。

「何言ってるの。西国、それも巫の宮に鬼が出るはずなんてない」
「あら、世の中には皆で舞うのが苦手な巫女みたいに色んな人がいるじゃない。鬼にも変り者がいるんでしょ。……:なんて、冗談、冗談。多分雀よ」
「もし本当に雀だったら、夜更かしね。影雀と一緒で」

 鬼や雀はともかくとして、おそらく葉を揺らしたのは猫か何かだったのだろう。奈古女は薄らと浮かんだ額の汗を拭い、詰めていた息を吐き出した。