「ああ、和香(わか)様、可哀想に」

 三紅の白い頬を、澄んだ色の涙が流れていく。それらは、顎先からはらはらと滴り落ち、胸元の合掌を素通りして、突いた膝辺りの地面に染み込んだ。

 崖の斜面に掘られたやぐらと呼ばれる岩窟墓の中。三紅の正面には、真新しい五輪塔がある。約一月前に鬼に食われて亡くなった和香を弔う墓碑だ。

 鬼頭(きとう)東一(とういち)真均(まさひと)の許婚であった和香は、かねてより抱えていた許婚への不信と孤独を爆発させて、鬼穴(きけつ)を呼んだ。最終的に、自らが生み出した穴から這い出た俗鬼(ぞっき)に髄液まで食われ、彼女自身の肉体はほとんど残らなかった。辛うじて原型を留めていた骨を拾い集めてやっと、和香は生家のやぐらに葬られたのであった。

「何て哀れなことでしょう。わかるわ。私もあなたと同じ境遇だから」

 五輪塔の下に眠る和香に死を導いた張本人である三紅は洟をすすり、何をなし遂げるでもなく若い命を散らした女の生涯に思いを馳せた。

 西国の朝廷から東国を守護する任を与えられた鬼頭家は、東国統治の一切を任されている。もっとも、東国と呼ばれる地は西国の三分の一ほどの規模しかなく、鬼頭家の実態は地方豪族の一つにすぎないのだが、鬼が湧く地という特殊性から、ここ東国には朝廷の直接支配が及ばないため、鬼頭家は所領の全てを概ね自由に統治してきた。

 鬼頭家は東国において絶大な権威を振るっている。その嫡男の許婚となれば、幼少の頃より棟梁の妻となるべく言い聞かされ、そのためだけに全身全霊を捧げるようにと育てられるのだ。三紅自身がそうであったのだから、和香がたどってきた道は、容易に想像できる。

 そして、信じてきた未来が霞のように手のひらをすり抜けていくのだと悟った時の絶望は、言わずもがなだ。三紅はふと合掌を解き、己の過去を反芻した。






「そなたの夫は、己の妻ごと鬼穴を封じるつもりらしいぞ。なんと薄情な男よのう」

 この世に蔓延(はびこ)る欲望や憎しみを全て食らい尽くしたかのように醜悪な顔をした大鬼(たいき)が、腿の上に抱えた三紅の首筋を舐めた。ねっとりと生温かいものが肌を這っても、もはや嫌悪も怯えも抱かない。

 ()(つの)と呼ばれる非道な鬼に囚われて数日が経つ。三紅の感情は、どうやら麻痺したらしい。もっとも、まともな情緒を維持していたならば、とうに心を壊していたことだろう。

「おい、聞いているのか、女」

 猫撫で声から一転、黒ずんだ長い爪の生えた手が、三紅の髪を掴んで強引に引き寄せた。ぼんやりと靄がかかったかのような意識の中、微かな痛みが遅れてやってきて、小さな呻き声を漏らす。憎い男の妻をせっかく攫ったものの、恐怖に震えすらしなくなったことに張り合いのなさを感じたのか、三つ角は牙を剥き出し凶暴な笑みを浮かべた。

「そうか、ひ弱な人間の分際で、俺を無視するというか」

 三つ角の太い腕が三紅の首を締め、ごつごつとした筋肉に覆われた脚が胴を蹴る。繰り返される衝撃に、無意識に腹を抱いて身を守る。

 まだほんの数人にしか告げていないことだが、攫われる直前、三紅は己の胎に、夫の子を宿していることを知った。今やこの身体は自分だけのものではない。そう思えたからこそ、心を殺して傀儡のようになってでも、生きながらえる道を選んだのだ。

「くそ、苦労してそなたを攫ったが、無駄だったか。憎き侵略者の鬼頭から、譲歩の一つすら引き出せぬとは」

 三つ角は、鬼頭の棟梁への苛立ちを発散するために、三紅を嬲り犯した。まるで、三紅をいたぶることで、鬼頭の勢力が削れていくとでもいうように、何度も何度も何度も。

 後から聞いたことによれば、囚われていた期間は、五日ほどであったという。しかし、昼も夜もない暗闇に満たされた鬼穴の中で、三つ角の恐ろしげな顔ばかりを眺めて過ごしていた三紅には、季節が一つ過ぎ去ったかのような長い期間に感じられた。

「うん……?」

 五日目のその日、三つ角の漏らした呟きの意味を三紅が理解するまでに、さほど時間はかからなかった。

 突如として仄暗い闇が小刻みに振動し、細く開いていた地上への出入り口に、刀が数本ねじ込まれた。剣呑な鈍い光が地を抉り、やがて鬼穴はこじ開けられる。

 三つ角は地上を見上げ、何が起こっているのかを理解するや否や、三紅を放り出して一目散に浮上した。

「来たか、鬼頭! いざ、積年の恨みを晴らす時」

 その後、姿を現した三つ角と、地上で待ち構えていた鬼頭の軍勢が衝突し、激しい戦いが繰り広げられたという。だが、闇の底で物のように蹲っていた三紅には、具体的なことは何もわからない。三つ角の気配が消えて、張り詰めていた気が緩んだのか、三紅は失神するように、深い眠りに落ちていった。

 次に気づいたのは、馴染んだ鬼頭の館の自室だった。はらはらと涙を流す侍女からこれまでの経緯を聞いたところによると、三紅は、戦いの隙を縫い鬼穴に降りた実兄により助け出されたのだという。妹の目覚めを知った兄は、本拠地である板ヶ谷(いたがやつ)の館から飛んで来て、三紅を労ってくれた。その間、同じ敷地で暮らすはずの夫は一度もやって来なかった。

 やがて、消耗し切った体力が戻り、館が平常時の穏やかさを取り戻した頃、三紅は夫の前に平伏し、此度、手間をかけてしまった詫びと救い出してくれた礼を述べた。それから最も伝えたかった喜ばしい事実を口にした。

「殿、実は私の胎には今……」

 しかし、それを耳にした夫は表情を凍りつかせて言ったのだ。「それは、はたして人の子か」と。