「若殿は鬼。三つ角を父とする純鬼だったのだ」
誰かが漏らした言葉が、遅れて渦中にやって来た清高の耳を打つ。
純鬼。その一言で、清高はおおよその状況を察した。
見れば、対屋の縁側で、三紅と真均が睨み合っている。足元では和香が血を流して横たわり、少し離れた場所では奈古女が神刀を抱いて震えていた。
それだけではない。辺りには食後の倦怠感を隠そうともせず横たわる大鬼や、鬼穴から這い出たばかりと思われる黒い俗鬼の姿があった。清高は抜刀し、鬼頭の郎党に向けて声を張る。
「何をぼうっと眺めておいでですか。あれは鬼穴です。西国からの清めが届き穴が塞がるまで、鬼を斬って被害を食い止めるのです!」
先陣を切って刃を振るえば、他の者らも我に返ったらしく、各々近くにいた鬼と交戦し始めた。幸い、鬼穴は小ぶりである。勇猛な東国武者らの敵ではない。
闘志を取り戻した仲間の様子を見届けて、清高は納刀し、縁側へ走った。
「東一様、なりません。どうかお心をお静めください」
清高の声を耳にして、これまで冷たく凍りついていた真均の顔に、微かな感情が戻る。大丈夫だ。角が顕現したとはいえ、若殿はまだ、弱き感情に呑まれ切ってはいない。
「東一様」
「真均」
伸ばした手はしかし、割り込んだ低い声に遮られた。主殿の方から郎党を引き連れやって来たのは、烏帽子の端から赤毛を漏らした、冷淡な目をした男。鬼頭の大殿、真均の父である。彼は抜き身の刀を手にしたまま、縁に立つ息子の顔を見上げ、額辺りに視線を遣ってから、眉間の皺を濃くした。
「真均、やはりおまえの父親は」
父の言葉に、真均の頬が強張る。息子に代わりに声を発したのは三紅だった。
「あら、殿。鬼の姿をした我が子を目の前にしたお気持ちはいかが?」
そこでやっと、頭巾を背中側に落とした三紅が己をじっと見つめていることに気づいたらしい。大殿は三紅の額にも見慣れない角があることに気づき、今度ばかりは瞠目した。
「そなた、いつから鬼だった」
「説明するとややこしくなりますわ。それよりも、真均をどうなさるおつもりです」
大殿は軽く舌打ちをしてから、氷のように冷えた顔を息子に戻し、たっぷり時間をかけて見つめた後、おもむろに刀を構えた。そして、低く、しかし明瞭な声音で郎党に命じた。
「鬼頭東一真均を討て」
鬼を斬り鬼に食われる阿鼻叫喚の中、大殿の周囲だけが、息を呑む沈黙に沈んだ。大殿は柄を握り直し、にじり寄る。足裏が砂を擦る小さな音が、妙に大きく聞こえた。
「何をしている!」
動けないでいる郎党に向け、大殿は落雷のような声を発した。
「あれは鬼ぞ! 鬼を狩る東国武者の棟梁を継ぐ者が、鬼であってよいものか。今すぐあれを討て。そうせぬならば、おぬしらはいずれ、鬼の郎党になるのだぞ」
鬼の郎党。すなわち、鬼を主君として仰ぎ、鬼に一族の命運を託し、鬼のために戦うことになる。言わずもがな、東国武者の敵は鬼である。仲間や親兄弟を鬼に食われた恨みを抱く者も多い。もちろん、一部の純鬼や俗鬼が人とそう変わらない心を持つことは皆、身をもって知っているだろう。だが、それが棟梁となれば別である。鬼と人はやはり、相容れない存在だ。なにせ全ての鬼の源である俗鬼は、誰もが目を逸らしたい人間らの負の感情から生まれるものなのだから。
かち、と鯉口を切る音が鳴る。それに促されたように、あちらこちらで同様の音がした。大殿と共に、郎党がにじり寄る。
切先の向かう先では、真均が柄に手をかけて抜刀すべきか否かと躊躇を見せており、三紅が恍惚を帯びた笑みを浮かべ、奈古女が真均の方へと一歩踏み出した。その瞬間、清高の目は、巫女の蒼白な顔に引きつけられた。
今にも卒倒しそうな様子の奈古女の瞳にはしかし、強い意志が宿っている。そのことに気づいた清高は、刀を掲げて叫んだ。
「奈古女様!」
打たれたかのように、奈古女が庭の清高を見る。
突然奇行を始めた純鬼の姿にぎょっとした様子の郎党ら。その間を縫って駆け、清高は館の裏手に向かいつつ言った。
「東一様をお連れして、こちらへ。早く!」
奈古女は目を丸くして硬直したが、再度促されて我に返り、三紅を押しのけて真均の腕を取った。
「若殿、行きましょう」
半ば放心状態にあったらしい真均は促されるまま、よろめきつつ縁側を降りる。清高は二人と合流し、対屋の裏を走り竹藪に接した築地塀の前で立ち止まった。
「東一様、ほとぼりが冷めるまで、お姿をお隠しください」
清高の言葉に、眼光を取り戻した真均が睨むような視線を投げた。
「俺に、こそこそと逃げよと言うのか」
「私とて、不本意です。ですがそれよりほかに方策はありません。大丈夫です。必ずや私が大殿を説得し、あなた様の場所を取り戻します」
清高は有無を言わさぬ口調で捲し立て、石を結びつけた荒縄を築地の向こう側へと投げた。二度三度と引いて強度を確かめてから、真均に縄を差し出す。
「さあ、築地の上へ」
「いいや、俺は……」
不意に、小さく地面が揺れた。見れば、周囲には黒い泡が立ち始めている。和香の流した負の感情をきっかけとして、大殿、郎党、そして真均ら、多くの者の失望や怒りを呑み込んだ大地から、鬼穴が生まれようとしているのだ。もはや鬼頭の館は鬼の巣となり果てた。
己の足元に纏わりつく粘性の闇に頬を強張らせて動かない真均。清高は主君の手を包むようにして握り、無理やり縄を掴ませた。
「東一様、闇に魅入られてはなりません。大丈夫、その角は、もうじき消えます。だって、あなた様は強い信念を持つお方ですから。お忘れですか? あなた様は私をお救いくださいました。鬼に馴染めず人に迫害されていた私を、周囲の目も顧みず」
背後から、追っ手が迫る気配がする。清高は真均の背を強引に押した。
「お逃げください。少なくとも、角が表れている状態で大殿の前に出るのは賢明ではありません。奈古女様、それとそこの影。若殿を頼みます。状況が落ち着きましたら、迎えを遣ります」
「えっ、か、影?」
「雀の姿をした異形の鬼です。いつも一緒にいるでしょう。さあ、話している間が惜しい。東一様、早く!」
奥歯を噛み締めたのか、真均の横顎が盛り上がった。彼は清高の瞳を真っ直ぐ捉え、それから何かを断ち切るように視線を逸らして築地を登った。
「奈古女、来い」
真均が築地の上にしゃがみ腕を伸ばす。清高は戸惑う奈古女を促し縄を頼りに登らせて、彼女の足を押し上げた。
「では、お気をつけて」
二人が板葺き屋根の上に到達したのを見届け、清高は短く別れを告げて踵を返す。残された清高のなすべきことは一つ。真均たちが逃げるための時間を稼ぐことである。
抜刀し、血腥い方へと足を進める。真均を追おうとする郎党はいたが、周囲の鬼に手いっぱいでどうにもならないようだ。ならば余計な手出しはすまい。
そう思い、傍観に徹しようとした時だった。突然、対屋の方角から慄きの声が上がった。近くで鬼と交戦していた郎党らが顔色を変え、庭へと引き返そうとする。しかし彼らの足は、対屋の角から現れた男女の姿を認めた瞬間、ばらばらと停止した。
驚愕に動作を封じられたのは、清高も同様だった。我が目を疑ったが、見間違いなどではない。悠々とした足取りで肩を並べるのは。
「大奥様、それと、大鬼?」
「うん? おまえも鬼か? しかし純鬼だな。おそらく、人を食ったことのない、人間かぶれの純鬼だ」
ひび割れたような声を発しながら、着崩した小袖の肩に大太刀を担いだ大きな鬼が向かって来る。その隣には角を露わにしたままの三紅が気心知れた様子で寄り添っている。
「大奥様、いったいこれは何事ですか」
「まあ、清高。それは私の台詞です。真均はどこへ行ったの」
清高は答えずに、左手で刀を持ち上げる。主家の女人に刃を向けるなど、少し前の自分であれば想像すらしなかった。だが、状況を見る限り、三紅はこの騒動の元凶か、その一味に属する者と見て間違いないだろう。
「あらいやだ、そのように物騒なものを。ねえ、どうにかしてちょうだい、鬼導丸」
「ああ? 軟弱な鬼の相手なんぞ面倒だな」
鬼導丸と呼ばれた大鬼が、気怠そうにのしのしと近づいて来る。
「おまえ、左利きか。武家の生まれであれば子どもの頃に右に直されるはず。大方、どっかから鬼頭に拾われてきた野良の純鬼だろ。躾がなってないなあ。野山から拾い上げてくれた主君に刃を向けるなんてよ」
「主君の奥方とはいえ、三紅様は」
「違う違う」
鬼導丸は狂気を帯びた笑みを浮かべ、長い舌でべろりと口の周りを舐めた。
「よく見ろよ。俺が、俺こそが」
ひび割れた岩のような声音は徐々に滑らかに低く変質し、幼少の頃より耳に馴染んだ声が清高を呼んだ。
「清高よ。俺はおまえの主。東国武者の棟梁だ」
「大殿……。まさか」
思わず声が震える。目の前に立っていた粗暴そうな大鬼の姿が、沈みかけた夕日の中で陽炎のように揺らぐ。やがて、上質な直垂を纏う見慣れた男の姿となった。鬼が、鬼頭の大殿に変化したのである。残酷なことに、それが意味する真実は火を見るよりも明らかだった。
「おのれ、鬼導丸とやら。大殿を食ったのか、この下郎め!」
「口を慎め、清高」
大殿そのものの抑揚で、眼前の男が窘める。冷えた端正な顔立ちも、感情の読みづらい瞳も、何ら失われていない。損なわれたのはただ二つ。大殿自身の肉体とその意思のみだ。
「おい、何をしている」
鬼導丸は凛然とした声で、上級鬼を前に様子を窺っていた大鬼たちに命じた。
「そこの純鬼を捕らえよ。しかし食うことは許さん。命令に反した者は、俺が食う」
鬼は、己よりも強き者に従順だ。鬼導丸に反する者はなく、皆がばらばらと清高の方に足を向けた。薄暗い空の下、鬼の影がゆらりと不気味に揺れる。そして、一呼吸の間の後。彼らは一斉に地を蹴った。
食われたばかりの郎党や家僕姿の鬼、本性のまま赤や黒の爛れたような肌色をした鬼、目の焦点が定まらない鬼、舌が口に収まらず涎を振り撒きながら迫る鬼。鬼、鬼、鬼、鬼……。
「大殿、いいや、大奥様。なぜですか!」
怒涛のように迫り来る鬼たちに抗う術もなく揉まれながら、清高は叫ぶ。
「大奥様、大奥様!」
しかし、返る声はない。清高は悍ましい肉の波に吞み込まれた。
誰かが漏らした言葉が、遅れて渦中にやって来た清高の耳を打つ。
純鬼。その一言で、清高はおおよその状況を察した。
見れば、対屋の縁側で、三紅と真均が睨み合っている。足元では和香が血を流して横たわり、少し離れた場所では奈古女が神刀を抱いて震えていた。
それだけではない。辺りには食後の倦怠感を隠そうともせず横たわる大鬼や、鬼穴から這い出たばかりと思われる黒い俗鬼の姿があった。清高は抜刀し、鬼頭の郎党に向けて声を張る。
「何をぼうっと眺めておいでですか。あれは鬼穴です。西国からの清めが届き穴が塞がるまで、鬼を斬って被害を食い止めるのです!」
先陣を切って刃を振るえば、他の者らも我に返ったらしく、各々近くにいた鬼と交戦し始めた。幸い、鬼穴は小ぶりである。勇猛な東国武者らの敵ではない。
闘志を取り戻した仲間の様子を見届けて、清高は納刀し、縁側へ走った。
「東一様、なりません。どうかお心をお静めください」
清高の声を耳にして、これまで冷たく凍りついていた真均の顔に、微かな感情が戻る。大丈夫だ。角が顕現したとはいえ、若殿はまだ、弱き感情に呑まれ切ってはいない。
「東一様」
「真均」
伸ばした手はしかし、割り込んだ低い声に遮られた。主殿の方から郎党を引き連れやって来たのは、烏帽子の端から赤毛を漏らした、冷淡な目をした男。鬼頭の大殿、真均の父である。彼は抜き身の刀を手にしたまま、縁に立つ息子の顔を見上げ、額辺りに視線を遣ってから、眉間の皺を濃くした。
「真均、やはりおまえの父親は」
父の言葉に、真均の頬が強張る。息子に代わりに声を発したのは三紅だった。
「あら、殿。鬼の姿をした我が子を目の前にしたお気持ちはいかが?」
そこでやっと、頭巾を背中側に落とした三紅が己をじっと見つめていることに気づいたらしい。大殿は三紅の額にも見慣れない角があることに気づき、今度ばかりは瞠目した。
「そなた、いつから鬼だった」
「説明するとややこしくなりますわ。それよりも、真均をどうなさるおつもりです」
大殿は軽く舌打ちをしてから、氷のように冷えた顔を息子に戻し、たっぷり時間をかけて見つめた後、おもむろに刀を構えた。そして、低く、しかし明瞭な声音で郎党に命じた。
「鬼頭東一真均を討て」
鬼を斬り鬼に食われる阿鼻叫喚の中、大殿の周囲だけが、息を呑む沈黙に沈んだ。大殿は柄を握り直し、にじり寄る。足裏が砂を擦る小さな音が、妙に大きく聞こえた。
「何をしている!」
動けないでいる郎党に向け、大殿は落雷のような声を発した。
「あれは鬼ぞ! 鬼を狩る東国武者の棟梁を継ぐ者が、鬼であってよいものか。今すぐあれを討て。そうせぬならば、おぬしらはいずれ、鬼の郎党になるのだぞ」
鬼の郎党。すなわち、鬼を主君として仰ぎ、鬼に一族の命運を託し、鬼のために戦うことになる。言わずもがな、東国武者の敵は鬼である。仲間や親兄弟を鬼に食われた恨みを抱く者も多い。もちろん、一部の純鬼や俗鬼が人とそう変わらない心を持つことは皆、身をもって知っているだろう。だが、それが棟梁となれば別である。鬼と人はやはり、相容れない存在だ。なにせ全ての鬼の源である俗鬼は、誰もが目を逸らしたい人間らの負の感情から生まれるものなのだから。
かち、と鯉口を切る音が鳴る。それに促されたように、あちらこちらで同様の音がした。大殿と共に、郎党がにじり寄る。
切先の向かう先では、真均が柄に手をかけて抜刀すべきか否かと躊躇を見せており、三紅が恍惚を帯びた笑みを浮かべ、奈古女が真均の方へと一歩踏み出した。その瞬間、清高の目は、巫女の蒼白な顔に引きつけられた。
今にも卒倒しそうな様子の奈古女の瞳にはしかし、強い意志が宿っている。そのことに気づいた清高は、刀を掲げて叫んだ。
「奈古女様!」
打たれたかのように、奈古女が庭の清高を見る。
突然奇行を始めた純鬼の姿にぎょっとした様子の郎党ら。その間を縫って駆け、清高は館の裏手に向かいつつ言った。
「東一様をお連れして、こちらへ。早く!」
奈古女は目を丸くして硬直したが、再度促されて我に返り、三紅を押しのけて真均の腕を取った。
「若殿、行きましょう」
半ば放心状態にあったらしい真均は促されるまま、よろめきつつ縁側を降りる。清高は二人と合流し、対屋の裏を走り竹藪に接した築地塀の前で立ち止まった。
「東一様、ほとぼりが冷めるまで、お姿をお隠しください」
清高の言葉に、眼光を取り戻した真均が睨むような視線を投げた。
「俺に、こそこそと逃げよと言うのか」
「私とて、不本意です。ですがそれよりほかに方策はありません。大丈夫です。必ずや私が大殿を説得し、あなた様の場所を取り戻します」
清高は有無を言わさぬ口調で捲し立て、石を結びつけた荒縄を築地の向こう側へと投げた。二度三度と引いて強度を確かめてから、真均に縄を差し出す。
「さあ、築地の上へ」
「いいや、俺は……」
不意に、小さく地面が揺れた。見れば、周囲には黒い泡が立ち始めている。和香の流した負の感情をきっかけとして、大殿、郎党、そして真均ら、多くの者の失望や怒りを呑み込んだ大地から、鬼穴が生まれようとしているのだ。もはや鬼頭の館は鬼の巣となり果てた。
己の足元に纏わりつく粘性の闇に頬を強張らせて動かない真均。清高は主君の手を包むようにして握り、無理やり縄を掴ませた。
「東一様、闇に魅入られてはなりません。大丈夫、その角は、もうじき消えます。だって、あなた様は強い信念を持つお方ですから。お忘れですか? あなた様は私をお救いくださいました。鬼に馴染めず人に迫害されていた私を、周囲の目も顧みず」
背後から、追っ手が迫る気配がする。清高は真均の背を強引に押した。
「お逃げください。少なくとも、角が表れている状態で大殿の前に出るのは賢明ではありません。奈古女様、それとそこの影。若殿を頼みます。状況が落ち着きましたら、迎えを遣ります」
「えっ、か、影?」
「雀の姿をした異形の鬼です。いつも一緒にいるでしょう。さあ、話している間が惜しい。東一様、早く!」
奥歯を噛み締めたのか、真均の横顎が盛り上がった。彼は清高の瞳を真っ直ぐ捉え、それから何かを断ち切るように視線を逸らして築地を登った。
「奈古女、来い」
真均が築地の上にしゃがみ腕を伸ばす。清高は戸惑う奈古女を促し縄を頼りに登らせて、彼女の足を押し上げた。
「では、お気をつけて」
二人が板葺き屋根の上に到達したのを見届け、清高は短く別れを告げて踵を返す。残された清高のなすべきことは一つ。真均たちが逃げるための時間を稼ぐことである。
抜刀し、血腥い方へと足を進める。真均を追おうとする郎党はいたが、周囲の鬼に手いっぱいでどうにもならないようだ。ならば余計な手出しはすまい。
そう思い、傍観に徹しようとした時だった。突然、対屋の方角から慄きの声が上がった。近くで鬼と交戦していた郎党らが顔色を変え、庭へと引き返そうとする。しかし彼らの足は、対屋の角から現れた男女の姿を認めた瞬間、ばらばらと停止した。
驚愕に動作を封じられたのは、清高も同様だった。我が目を疑ったが、見間違いなどではない。悠々とした足取りで肩を並べるのは。
「大奥様、それと、大鬼?」
「うん? おまえも鬼か? しかし純鬼だな。おそらく、人を食ったことのない、人間かぶれの純鬼だ」
ひび割れたような声を発しながら、着崩した小袖の肩に大太刀を担いだ大きな鬼が向かって来る。その隣には角を露わにしたままの三紅が気心知れた様子で寄り添っている。
「大奥様、いったいこれは何事ですか」
「まあ、清高。それは私の台詞です。真均はどこへ行ったの」
清高は答えずに、左手で刀を持ち上げる。主家の女人に刃を向けるなど、少し前の自分であれば想像すらしなかった。だが、状況を見る限り、三紅はこの騒動の元凶か、その一味に属する者と見て間違いないだろう。
「あらいやだ、そのように物騒なものを。ねえ、どうにかしてちょうだい、鬼導丸」
「ああ? 軟弱な鬼の相手なんぞ面倒だな」
鬼導丸と呼ばれた大鬼が、気怠そうにのしのしと近づいて来る。
「おまえ、左利きか。武家の生まれであれば子どもの頃に右に直されるはず。大方、どっかから鬼頭に拾われてきた野良の純鬼だろ。躾がなってないなあ。野山から拾い上げてくれた主君に刃を向けるなんてよ」
「主君の奥方とはいえ、三紅様は」
「違う違う」
鬼導丸は狂気を帯びた笑みを浮かべ、長い舌でべろりと口の周りを舐めた。
「よく見ろよ。俺が、俺こそが」
ひび割れた岩のような声音は徐々に滑らかに低く変質し、幼少の頃より耳に馴染んだ声が清高を呼んだ。
「清高よ。俺はおまえの主。東国武者の棟梁だ」
「大殿……。まさか」
思わず声が震える。目の前に立っていた粗暴そうな大鬼の姿が、沈みかけた夕日の中で陽炎のように揺らぐ。やがて、上質な直垂を纏う見慣れた男の姿となった。鬼が、鬼頭の大殿に変化したのである。残酷なことに、それが意味する真実は火を見るよりも明らかだった。
「おのれ、鬼導丸とやら。大殿を食ったのか、この下郎め!」
「口を慎め、清高」
大殿そのものの抑揚で、眼前の男が窘める。冷えた端正な顔立ちも、感情の読みづらい瞳も、何ら失われていない。損なわれたのはただ二つ。大殿自身の肉体とその意思のみだ。
「おい、何をしている」
鬼導丸は凛然とした声で、上級鬼を前に様子を窺っていた大鬼たちに命じた。
「そこの純鬼を捕らえよ。しかし食うことは許さん。命令に反した者は、俺が食う」
鬼は、己よりも強き者に従順だ。鬼導丸に反する者はなく、皆がばらばらと清高の方に足を向けた。薄暗い空の下、鬼の影がゆらりと不気味に揺れる。そして、一呼吸の間の後。彼らは一斉に地を蹴った。
食われたばかりの郎党や家僕姿の鬼、本性のまま赤や黒の爛れたような肌色をした鬼、目の焦点が定まらない鬼、舌が口に収まらず涎を振り撒きながら迫る鬼。鬼、鬼、鬼、鬼……。
「大殿、いいや、大奥様。なぜですか!」
怒涛のように迫り来る鬼たちに抗う術もなく揉まれながら、清高は叫ぶ。
「大奥様、大奥様!」
しかし、返る声はない。清高は悍ましい肉の波に吞み込まれた。