静謐な夜の空気を切り裂いて、神楽笛の音が境内を揺らす。神楽殿の周囲には煌々と篝火が焚かれ、並び座す巫女の装束を宵闇に赤く浮かび上がらせていた。

 しゃん、と鈴が揺れ、赤い人影がゆらりと腰を上げた。一糸乱れぬはずの巫女らの動き。しかし最も端で影のように舞う奈古女(なこめ)だけは、半拍遅れたような調子である。

 袖の先からたおやかに前方へと伸ばされた両腕。彼女らが掲げ持つのは、およそ神事に使用するには剣呑すぎる、鋭利な刀。

 闇の漆黒と篝火の赤が混ざり合い、鮮血のような色でぬらぬらと照らし出される刀身からは、戦場を想起させられる。それはまるで、彼女らの性質と、この国の不条理を示唆しているかのようだ。

 この国には、人食いの鬼が出る。鬼の湧く鬼穴(きけつ)が現れては消え、現れては消えを繰り返す。近頃では鬼穴は、決まって東国に生じるものだ。それゆえ、国の東方には鬼を退ける任を受けた武者らが暮らし、鬼頭(きとう)という一族が棟梁として彼らを束ね、国を守護している。

 そして西国には朝廷があり、貴族がいて、安穏とした生活を送っている。

 そんな中、巫女は安全な西国に在りながら鬼と戦う存在だ。彼女らが舞えば、途切れなく続く大地を通じて清めの波動が東へ向かい、鬼穴を歪め、それを塞ぐ。

 塞ぎきれなかった鬼穴から溢れ出た鬼を、武者らが斬る。

 この国の人々はそうして、東西それぞれの地で鬼と戦うのだ。

 しかし、鬼穴から離れた西国、(かんなぎ)(みや)で暮らす巫女、奈古女(なこめ)にとって、それはまったく実感の伴わないことである。いいや、巫女の誰もが、東国の鬼など縁遠い存在として感じていることだろう。それも無理ないと思われるほど、西国は平和で緩んだ空気に満たされている。

 煌めくような音で、鈴が鳴る。

 刀の鍔に、たわわに実る果実のごとくつけられた大きな鈴が、奈古女の舞に合わせて清めの音を響かせた。奈古女の前と右には複数の巫女がいて同様に神楽を舞っている。規則正しく、神楽殿のいたるところから清涼な音が波動となって発せられる中、奈古女のそれは、どこかたどたどしく、微かに全体の拍子を乱しているようだ。

 緋袴(ひばかま)の裾から右足を斜め前方に伸ばす。奈古女以外の巫女らは一糸乱れぬ動きを見せる。半拍といわず、大きく調子外れに遅れた奈古女。横目に、軽蔑の視線が突き刺さる。毎日、鬼穴が活発化する夜間に繰り返される神楽だが、年何経てども奈古女は他の巫女と同じようには舞うことができなかった。一人でならば人並みに動けるのだが、誰かと動きを合わせるとなると、途端に困難になるのである。

 ——私はどうして不器用なのだろう。
 しゃん。鈴が鳴る。

 ——役立たずなのに、どうしてこの巫の宮にいるのだろう。
 しゃん。清浄な気が、神楽殿の中央に集結する。

 ——私のような落ちこぼれは。
 しゃん。波動は淡く発光しながら緩やかな球体を形作り。そして。

 ——存在するだけ迷惑なのでは……。
 がしゃんっ。

 鼓膜が麻痺するほどの不快音が奈古女の耳を打った。続いて、身体の前面に鈍い痛みが走り、呼吸が詰まる。拳一つ分ほどの距離に、板敷きの床がある。どうやら奈古女は、己の緋袴の裾を踏みつけてしまい、神刀を放り投げて前のめりに転倒したらしい。先ほどの不快音は、神刀の鈴が落下の衝撃で響かせたものだった。

 痛みを堪え、腕を突いて上体を起こす。視界の先で、青白い光が急激に膨張して、破裂したのを見る。光は、まるで最初から存在しなかったかのように霧散して、宵闇に溶けて消えた。

「そんな……」

 しんと静まり返った空気を割り、誰かが呟く。

「せっかく神楽で気を練り上げたのに」

 神楽は完全に停止していた。

 今宵の舞で巫女らが生み出した清めの光は弾けて消え、鬼の生じる東国に届くことはない。

 あまりの心理的衝撃に誰一人動けずにいる。その凍りついた空気を裂くように、ひた、と足音が近づいた。

「奈古女」

 穏やかだが凛とした声に弾かれて、巫女らが敬意の礼をとる。奈古女は呆然と床に這いつくばったまま、足音の人物を見上げた。

「奈古女、話がある。明日早朝、私の部屋までお越しなさい」
巫頭(かんなぎがしら)様」

 数人の巫女を引き連れてそこに立っていたのは、この巫の宮の長であり、この国の全巫女を束ねる巫頭。老境が近いながら、しゃんと伸びた身体に白小袖を纏い、深い海のような静かな瞳で奈古女を見下ろしている。そこには嘲りも嫌悪もないことが、むしろ空恐ろしい。

 巫頭は言葉の出ない奈古女に軽く顎を引き釘を打ってから、緋袴の裾を翻して去った。

 巫頭の花簪(はなかんざし)に刺さった二本の枝。鬼の角を模したそれが、篝火に照らされて神楽殿の床に鬼の頭部のような影を落とした。