僕の自宅は、都内の一戸建て。
 僕が生まれる前から建っている家で、あまり大きくはないけれど、玄関横には季節ごとの花を育てている母さん自慢の花壇がある。
 
 思えばここに来るのも久しぶりだな。
 一応、今の僕は毎日帰ってきているだろうけれど。

 大学に進学してからは一人暮らしをしていて、まだ就職が決まらない僕は小言を言われないために家に帰るのを避けていた。
 夏休みくらい帰って来なさいという母さんの連絡を断り、ずっとアパートでいるつもりだった。

 なんだか、今もそんな気持ちを引きずっている。

 とはいえ眠るところはここしかない。
 重たい体を動かして玄関の扉を開ける。

 たまたま廊下を歩いていた母さんと目が合った。

「都希、おかえり。始業式だからもっと早いと思ってたけど、遅かったわね」

 記憶よりも少し若い。四年前だから当たり前だけれど。

「ただいま。友達と、駅前のカフェに行ってたんだ」

 ほんの少しだけぎこちなく返して、そのまま洗面所に行き手を洗う。
 戻ってくると母さんがきょとんとしていた。

「どうしたの?」
「いや、手洗うのなんて珍しいなって」

 そういえば高校時代はすぐに自分の部屋に行って、手なんて洗ってなかったな。
 風邪をひいてしまうかもとか気にしたことなかったし。
 むしろ休めたら嬉しいぐらいだったかも。
 大学でバイトを始めてからは体調不良なんて最悪だ。もちろん、そうじゃなくても気を付けたほうがいいのは当たり前だけれど。

「洗ったほうがいいと思って」
「そうね。ちゃんと続けなさいね」

 それから鞄を片付けたり、脱いだ服と靴下を洗濯機に入れたりとしていたら驚かれた。
 昔の僕って、そんなズボラだったっけ……?

 部屋に入るといっきに気が抜けた。
 懐かしいポスターに机、捨てたはずの本がたくさん並べられている。

 てか、散らかってるな……。

 片付けをしながら日向の事を考えていた。
 一周目でも水族館は一緒に行った。どれほどの症状かはわからないが、出かけることはできるのだろう。

 しかし気がかりなのは――学園祭だ。

『え、嘘でしょ? 三城さん、来てないの!?』

 女子生徒の叫び声を今でも思い出す。

 一周目、学園祭で演劇をすることになった僕たちはくじで役柄を決めることになった。
 日向はヒロインとなり、前日まで一生懸命練習していた。クラスメイトたちも日向のヒロインに期待していた。

 しかし当日、彼女は来なかった。
 思えば来られなかったのだろう。

 寝坊してしまったと言っていたが、彼女はそんなことはしないと今ならわかる。
 ごめんなさい、と必死に頭を下げていた日向が脳裏に浮かぶ。 
 けれど、その日を境に日向に対するクラスメイトの目が厳しくなった。
 いつも明るく笑っていた日向もあまり笑わなくなっていった。
 僕や園田、颯太はいつも通り接していたが、彼女は苦しそうな表情を浮かべるばかりだった。

 ヒロイン不在で中止になったうちのクラスの演目。
 当日まで全員で力を合わせ、準備して、練習して、いいものを作り上げてきた。
 みんなの気持ちもわかる。
 でも、日向が悪いわけじゃない。誰も、悪くない。

 また、同じことを繰り返したくはない。

 学園祭はまだ先だけれど、きっと何かできることがあるはずだ。

「……にしても、やっぱり日向が笑っていると気持ちが和むな」

 変わらない笑顔。
 僕が日向を好きだと自覚したきっかけも、また学園祭だった――。

 ◇

『小野寺くん、もうみんな帰ってるよ? まだ、帰らないの?』
『うん。明日までにこれを完成させたいんだ』

 一周目の学園祭、僕は大道具を担当していた。
 学園祭まではまだ時間があるけれど、早くセットを完成させたかった。

『どうして? まだ大丈夫だよね?』
『うん。でも、これがあった方がイメージが湧いて演技がしやすいって王子役が言ってたから』
『お願いされたの?』
『いや、直接言われたわけじゃないよ。言っているのが聞こえてきて』
『そっか……。私も手伝う』
『え? いいよ。三城さん練習で疲れてるでしょ? それにこれは僕が勝手にやってることだから』
『私も、これがあった方が演技しやすくなるから。だから、自分のためだよ』

 断る僕をお構いなしに彼女は筆を握り、色を塗り始める。

『三城さん、ありがとう』
『こちらこそありがとう。小野寺くはいつもみんなのために頑張ってくれるよね』
『そうかな? ただ自分の仕事をやってるだけだけど』
『私知ってるよ。これだってもともと、他の大道具係の子が担当だよね?』
『そうだけど、そいつ塾があるから』
『小野寺くんは本当にすごいね。みんなのことを考えて自然と行動できるところ、私も見習わなくちゃ』

 こんなに褒められたのは初めてだった。
 僕は表立って、何か率先してするタイプではない。それをわかっているから、自分に出来ることはやっておこうと思っていた。
 そんな僕を、彼女だけは見てくれていた。
 すごいね、と言って笑ってくれた。

 それから、彼女のことを好きだと自覚するのに時間はかからなかった。

 ◇


 日向のことを考えるほど、あの頃の気持ちが、日向への想いが甦ってくる。
 
 カフェ、楽しかったな。行って良かった。

 それからベッドに寝ころび、これからの事を考えていたらすぐに時間が経過した。

 夜ご飯何にしようと悩んでいたら、「できたよー」と母さんが僕を呼んでくれる。

「え? 何が?」
「ご飯よ。ご飯。もしかしてまたゲームしてるから後で、なんて言わないでしょうね?」

 一階に降りると、香ばしい味噌汁の香りが鼻孔をくすぐる。
 から揚げにサラダ、お漬物まで並んでいた。

 実家って、すごい……。

 もっと、親に感謝しよう。

「ありがとう母さん」
「え? な、なに急に」
「これからはちゃんとお礼を言おうと思って」
「……本当に都希?」
「そうだけど」

 久しぶりの手作りから揚げは、本当に美味しかった。

「それで、明日からお弁当はいるの?」
「弁当……」

 食べながら、母さんが聞いてくる。
 昼ご飯はたいてい、購買でパンを買ったり時々学食へ行ったりして食べていた。
 でも、これからは少し控えよう。

「うん、いる」

 そのとき、ピコンっとスマホが鳴った。
 四人のグループラインだ。

 颯太:『明日の昼休み、四人でご飯食べようぜ! 水族館の話しも兼ねて』
 園田:『水族館再来週よね? ちょっと気が早くない? 別にいいけど』
 日向:『いいね。どこで食べる?』