「せんせ、もうすぐ時間じゃないの?」
「え? わ、本当だ!?」
「気をつけてね、せんせー」
「う、うん。いつも言ってるけど、僕は先生じゃないからね」
「はい、せんせー」
約束の時間が差し迫っていた。
あらかじめ伝えていたので、退勤カードを押して服を着替える。
ロッカーの小さな鏡に映る自分は、かつて想像していた未来よりもしっかりしているように見える。
日向を思い出し、自然と笑みが浮かぶ。
彼女ならなんと言ってくれるだろうか。頑張ったねと喜んでくれるだろうか。
「もしかして試合ですか?」
後ろから話しかけてきたのは、職場の同僚の男性だった。
「そうなんですよ。急いで行ってきます」
「いいですねえ。楽しんできてくださいね」
「ありがとうございます。申し訳ないですが、後はお願いします」
病院を後にして、僕は駅へ向う。
理学療法士になって数年が経過した。きっかけは日向とのリハビリの日々だった。
誰かの役に立つ仕事、誰かを支えることができる仕事、それが僕の夢となり、現実のものとなった。
電車を乗り継ぎ、やってきたのはスタジアムだった。既に歓声が外まで聞こえる。
入口へ向かう人の波に紛れて前へ進む。
外にはたくさんのチームの旗が並んでいて、グッズ販売をしているテントも出ていた。
観客席へと続く廊下を突き進み、次第に見えてきたのは視界いっぱいに広がる賑やかな光景だった。
大勢の人が席に座って今かと待ちわびている。
グラウンドに視線を向けると、ウォーミングアップしている選手たちの姿があった。
「小野寺、遅かったわね」
名前を呼ばれて振り返ると、艶のある赤髪が目に入った。
「園田、久しぶり。前より髪、赤くなったんじゃない?」
「前より? 赤に染めたのは最近よ? 誰と間違えてるの?」
「……ごめん」
一周目、最後に会った赤髪の園田と重なり、つい口にしてまった。
「まあいいけど。飲み物、買っておいたわよ」
あきれながらも、園田はやっぱり優しい。空席をひとつだけ挟んで、席に座る。
関係者席ということもあって、随分と視界が開けていて見やすい。
「仕事は順調?」
「そうだね。なかなか大変なこともあるけど」
「でしょうね。日向を見ていたからわかるわ。――それより、あなたが理学療法士になりたいって聞いた時は驚いたわ」
「日向のおかげだよ。日向がいたから今の僕がいる」
「日向が今のあなたを見たらすごく喜ぶんじゃないかしら」
「そうだといいけどね」
ふたたびグラウンドに視線を向けると、人一倍元気な選手がこっちに手を振っていた。
「颯太は変わらないな」
「ああ見えてけっこう緊張してるのよ」
「へえ、さすがよくわかってるね」
手を振り返すと満足気に笑い、ウォーミングアップに戻っていく。
颯太は高校卒業後、無事に大学に合格した。そしてなんとプロチームにも入団したのだ。
大学で勉強しながらプロでも活躍するという、想像以上の才能を発揮してすぐに話題になった。
今は大学を卒業して、プロ選手としてさらに成果をあげている。
「颯太も凄いけど、それを支えてる園田も凄いよ。この前、雑誌に載ってるのを見たよ」
「あら、ありがとう。でも、まだまだよ。もっと頑張らないとね」
「その向上心が一番おそろしいよ」
園田は美容師をする傍ら、颯太を支えるためにアスリートフードマイスターという資格を取った。
端的にいうと、美味しくて栄養満点の食事を作れるのだ。
『ずっとそばでサポートする』高校時代、園田が颯太に言っていた言葉を思い出す。
それを聞いた颯太は、一生園田についていくなんて泣いていたな。
有言実行をしていて、本当に凄い。
「さあ、始まるわよ。――日向も、見ていてくれるかしら」
「もちろん。絶対にいるよ」
空席に視線を向ける。この席は、颯太がわざわざ用意してくれたのだ。三城さんは俺たちといつも一緒だろ。それに応援してほしいからな、と笑いながら。
試合が始まると、すぐにスタジアムは観客の声援で熱気が高まる。
一進一退の攻防を繰り返しながら、試合は延長戦に持ち込まれた。
「……お願い」
か細い園田の声が隣から聞こえた。
後半残り八分、颯太が味方からのパスを受け、足元のボールを素早く前方に出す。
僕は思わず拳を握り、立ち上がって声を上げた。同じように園田も続く。
「颯太、いけー!」
「颯太、がんばって!」
ゴール前までボールを持ち込んだ颯太だが、次の瞬間、相手チームの選手が横からスライディングを仕掛けてきた。だが、颯太は巧みな足捌きでそれを避け、一気にゴール前まで攻め込む。
ゴール前で混戦状態になるが、一瞬の隙をつき、思い切り蹴り上る。
ボールは大きく浮かび上がり、吸い込まれるようにゴールへと入っていった。
試合終了のホイッスルと同時にスタジアムが大きな歓声と拍手で揺れる。
颯太はチームメイトたちに囲まれ歓喜の雄叫びをあげていた。
「はあ、凄いなあやっぱり颯太は」
「……そうね。ほんと凄いわ」
僕と園田も拍手を送りながら歓喜に湧くグラウンドを眺めた。
その後、選手たちが全員ベンチに戻っていく中、インタビューとして颯太が残っていた。
マイクを手に取り、試合のことを話した後、僕たちに視線を向ける。
「今日は、俺のかけがえのない友人たちが来ています。そのおかげで、ゴールを決めることができました」
颯太らしかぬ丁寧な物言いに、思わずクスリと笑ってしまう。と思いきや、急に「個人的なこと一つだけいいですか?」と言った。
「瀬里―!」
「「……え?」」
僕と園田は同じ声をあげた。
そしてなんと颯太は、その場で片膝を付き、ポケットから小さな箱を取り出す。
「誰よりも努力家で優しくて俺のことを一番理解してくれる瀬里が大好きだ! これからも一生そばにいてほしい。だから、俺と、結婚してくだい!」
「プロポーズだ……」
「颯太……」
突然のことでスタジアムが揺れる。でもそれは、いい意味でだった。
隣の園田を見ると、あっけに取られながらも、恥ずかしそうに頬を染めている。
「園田、行っておいでよ」
僕は園田の背中をそっと押した。
彼女は小さく頷き、観客席からグラウンドの颯太ところへ駆けていく。
少し手前で立ち止まり、真っ直ぐ颯太を見て何か言っている。
何と返事をしたのかは聞こえなかったが、颯太は嬉しそうに立ち上がり、園田を抱きしめた。
「おおー! おめでとう」
「お幸せに!」
「おめでとー!!!」
スタジアムはまた大きな拍手と歓声に包まれ、観客たちも口々にお祝いの言葉をかける。
僕も客席から立ち上がり、拍手を送る。
僕は、その場で一人呟く。
「颯太、園田、おめでとう」
今ここに日向がいれば、どんな笑顔を浮かべているのだろう。
きっと誰よりも優しい目で、大きな拍手をしているに違いない。
『瀬里ちゃん、萩原くん、本当におめでとう』
そのとき、隣から声が聞こえた気がした。慌てて隣の空席に顔を向ける。
僕は静かに目を閉じた。
彼女の姿がすぐに浮かんだ。艶やかな黒髪、少し照れた笑顔、透き通るような声。どれだけの時間が過ぎても、色あせることはない。
明るくて、前向きで、太陽みたいな人。
日向のことを思うだけで強くなれる。勇気をもらえる。
これからも僕たちの人生の中で大切な存在として生き続ける。
日向、本当にありがとう。
大好きだよ。