「少し早いけど、今日はここまでにしよう。みんな、明日に備えてゆっくりして」
学園祭前日、いつもより早めに練習を終わった。
一周目では、実行委員が明日に備えて追い込みをかけようと遅くまで練習をした。
今思い返せば、みんな少し疲れが出ていたような気がする。
それは日向の身体にも負担をかけていたということだ。
今回はそんなことをしなくても劇の完成度は完璧に近いし、一周目よりもみんな高い意識をもって練習に取り組んでいたと思う。
「明日楽しみだな」
「私はすごく緊張する」
「今日は気合いいれてパックして寝よー」
口々に話をしながら教室を出ていく。
「俺たちも帰ろうぜ」
「そうね。明日に備えてゆっくりしないと、だものね」
颯太と園田が声をかけてきた。
学園祭の準備や練習、二人は部活もあって、四人揃って帰るのは久しぶりだ。
「ああ。日向も帰ろう」
「うん。みんなで帰るの久しぶりだね」
日向も同じことを思っていたようだ。
それに少し嬉しそう。
「颯太、早く帰ったらちゃんと早く寝なよ」
「わかってるよ」
「興奮して寝られなかったとか言いそうね」
「俺は寝るときは寝るんだ!」
「萩原くん、寝坊したらだめだよ」
いつものようにふざけ合いながら帰り道を歩く。
日向は楽しそうだし、どこか不調があるようにも見えない。
やはり、一周目とは違い体調がいいのかもしれない。
明日も普通に学校へ来て、練習通り素晴らしい演技をして、劇は何事もなく成功するのではないか。そんなふうに思うほど。
僕は家に帰った後、日向の日記を読み返す。
七月×日
朝、目が覚めたとき泣きそうになるくらい体が重くてつらくて起き上がることができなかった。
でも、今日は学園祭当日だった。
絶対に休めない。行かなければ。
でも、体が言うことをきかない。
無理やり体を動かしてベッドから落ちた。
体の痛みなんかより心の方がずっと痛い。
そのまま動けずに時間だけが過ぎていった。
次に目が覚めたときは、病院のベッドの上だった。
窓から見える空はもう赤く染まっていて、夕方なんだということに気づいた。
劇はどうなっただろう。
ずっと、みんで一生懸命練習してきたのに。
謝っても許してもらえないかもしれない。
私のせいでみんなの努力が水の泡になってしまった。
本当に申し訳ないことをしてしまった。
どうして今日に限ってこんな
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
みんなに迷惑しかかけないこんな体いらない
死にたい、死にたい、でも死にたくなんてない
私だって本当は舞台に立ちたかったよ。
僕は日記を閉じる。
やっぱり、直前まで何が起こるかわからない。
急に体調が悪くなることもある。
日向は一周目、こんなにもつらい思いをしていたんだ。
もう、絶対に同じことを繰り返してはいけない。
いろいろと考えて、それとなく日向にメッセージを送った。
『明日の本番、緊張してない?』
『少ししてるけど、楽しみなほうが大きいかな』
『僕は緊張し過ぎてお腹が痛いよ。日向は体調大丈夫?』
『ええ?! お腹大丈夫? 私は変わりないよ』
今は大丈夫みたいだ。とりあえず安心して、更にメッセージを返す。
『明日の朝、一緒に学校行こうよ。マンションまで迎えに行く』
『うん。ありがとう。 じゃあ、エントランスで待ってるね』
このまま、何もなければいい。
一緒に学校へ行って、劇は成功して、みんなで笑い合うんだ。
そう願いながら眠りについた。
朝、いつも通り身支度を整え、日向のマンションへ迎えに行った。
エントランスを見渡すが、日向はまだ来ていないみたいだ。
連絡して部屋の前まで迎えに行こうかと思っていたとき、周りが騒がしいことに気付く。
「日向ちゃん、大丈夫かしら」
「大事ないといいけど……」
「だれか三城さんに連絡した方がいいんじゃない?」
日向の話? 大事ないといいって……何かあったのか?!
「あのすみません、日向に何が――」
◇
「はあ、はあ、はあ、」
息を切らし、汗を拭いながら必死に走る。
『日向ちゃんね、さっきそこのエレベーターの前で倒れたのよ』
居合わせたマンションの住人が救急車を呼んで、すぐに病院に運ばれたらしい。
やっぱり、運命は変えられないのか、どうすることもできないのか、そんな憤りを感じながらひたすら走る。
住人から聞いた病院に着き、受付で教えてもらって日向がいる病室に来た。
「本当はだめなんだけど、まだご家族も来ていないし、日向ちゃんも心細いだろうから。彼氏さんなら特別に」
何やら誤解があるみたいだが、中に入れてもらえた。
日向は眠っていて、看護師さんが点滴を付け替えている。
「日向は、大丈夫なんですか?」
「命にかかわるってわけではないけれど、ちょっと無理し過ぎてたみたいね。しばらく安静にしていれば大丈夫よ」
まだお母さんは来ておらず、僕はベッド横の椅子に座り、日向の顔を覗く。
「日向……」
その時、日向がゆっくりと目を開けた。
一瞬、天井を見た後、僕と目が合う。
「っ! 都希くんっ。今何時?! 劇はどうなってる? 行かないと」
日向は起き上がり、ベッドから出ようとする。
よろける体を支え「大丈夫だから」ともう一度ベッドへ寝かせる。
そして僕はポケットからスマホを取り出し、テレビ電話が繋がった状態の画面を日向に見せた。
「どうして、瀬里ちゃんが……」
そこにはステージで白雪姫を演じる園田が映っていた。
園田には少し丈の短い白雪姫の衣装を着て、セリフも完璧にこなしている。
時折、王子様の衣装を着た颯太が画面を覗き込んでいる。
クラスメイトたちも練習通り一生懸命演じていた。
「実は、もしもの時のために園田に頼んでおいたんだ――」
◇
『珍しいね。小野寺が呼び出すなんて。なんかあった?』
『園田、ちょっと相談があるんだけど。日向のことで気になることがあって』
『実行委員と白雪姫のこと?』
『やっぱり園田も気になる?』
『時々体調が悪くなるみたいだし、無理しないといいんだけど』
日向は時々学校を休んでいたし、つらくても隠して明るく振舞ったりすることもある。
園田もそれに気づいて、日向の体調を心配していたのだろう。
『もし当日、日向の体調が悪くなった時のために内緒で代役を立てておきたいんだ』
『その代役を私がするわけね』
『話が早いね。園田も実行委員で大変だろうけど、お願いできるかな』
『何かあったとき、日向が責任を感じてしまうのは私も嫌だから。それに実行委員をしてて台本は大体頭に入ってるから大丈夫よ』
『さすが。頼りになるね』
そして、周到な園田は“何か”あったときのために、颯太に王子様の役をお願いしていたらしい。
◇
「どうして、そんなことを……?」
「日向、本当は僕、日向の病気のこと知ってるんだ」
「えっ? なんで――」
「日向っ」
その時、日向のお母さんが慌てた様子で病室に入ってきた。
「お母さん……」
「日向、大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ」
「調子が悪いならちゃんと言わないと」
「ごめんなさい。でも私、今日はどうしても学校に行きたくて」
「どうして? いつもは無理せず休んでるじゃない」
その様子から、日向のお母さんは学園祭の事を知らないとわかった。
「今日は、学園祭で日向は演劇で主役の白雪姫を演じるんです」
「学園祭?! 白雪姫?! そんな話聞いてないわ」
「だって! お母さんに言ったら反対されると思ったから……」
「反対するわよ。日向、あなたは無理できる体じゃないのよ?」
お母さんが日向のことをすごく心配していることはわかる。
だから日向も言い出せなかったのだろう。
それでも日向は真っ直ぐにお母さんを見ている。
「私、行きたい。今からでも舞台に立ちたい」
「何言ってるの。だめよ。また倒れたらどうするの」
「でも、朝よりはましになってるし、どうしても白雪姫をやりたいの」
日向の眼差しは真剣で、心の底から舞台に立ちたいと訴えかけている。
もちろん、僕も日向の身体は心配だ。
けれど、日向が本当に求めていることを、願っていることを叶えたい。
そのために日向を支えると決めたんだ。
「日向のお母さん、日向は本当に演じることが好きで、真剣で、誰よりも一生懸命です。日向にしか演じることのできない白雪姫があって、クラスメイトもみんな日向の白雪姫が好きで、日向にしか伝えられないものがあります。それは、日向が観ている人を感動させたい、だれかの記憶に、心に残るものを届けたい、そういう想いを強くもっているからです。だから僕も日向が舞台に立ちたいという意思を尊重したいです」
「あなたっ、日向はね」
「もちろん、絶対に無理はさせません。少しでも調子が悪そうに感じたらすぐに止めます。なので、どうかお願いします。日向を舞台に立たせてはもらえないでしょうか」
この白雪姫の劇は日向にとっても、人生の記憶に、心に刻まれる大切な出来事になるはずだ。
悲しい出来事になってほしくない。後悔してほしくない。
僕は必死に頭を下げた。
「私からもお願い! ずっと、必死に練習してきたの。後悔したくないの。私にはもう、これしかないの!」
『もう、これしかない』その言葉に日向のお母さんは眉をひそめた。
日向はいったいどんな気持ちで言ったのだろう。
僕にはとうてい想像もつかないような想いだということだけはわかる。
日向のお母さんもそれを感じたのか、小さくため息をつき「わかった」と呟いた。
それから主治医の先生とも相談し、舞台に上がっているとき以外は車椅子で移動すること、絶対に無理はしないこと、劇が終わったあとは病院に戻ってくることを約束して学校へ向かうことになった。
病院で車椅子を借りて、日向のお母さんも一緒にタクシーに乗り込む。
日向は窓の外をじっと眺め何度も深呼吸をしている。
緊張しているのだろうか。やはり、不安なのだろうか。
僕も窓の外を眺めながら、そっと日向の手を握った。
握り返してくれた彼女の手は少し震えていた。
学校へ着き、車椅子に日向を乗せて、そのまま体育館の舞台袖へと向かう。
お母さんには観客席の方で見ていてもらうことにした。
場面はちょうど、白雪姫が毒りんごを食べて倒れたところだった。
いったん幕が閉じ、棺などのセットの準備をしている。
「日向?! 大丈夫なの?」
舞台から下りてきた園田が日向に気づき駆け寄る。
他のクラスメイトたちも心配そうに声をかけてくる。
「三城さん、怪我したって聞いたけど大丈夫?」
「最後のシーン出られるの?」
「急いで着替えないと」
クラスメイトたちには日向は学校へ行っている途中で怪我をしたから、病院に行ってから向かうと園田に伝えてもらっていた。
「大丈夫。みんなありがとね」
「日向、さあ早く」
園田が白雪姫の衣装を脱ぎ、日向の着替えを手伝う。
「都希もほらこれ!」
「ああ、ありがとう颯太」
僕も颯太から衣装を受け取り、急いで着替える。
「瀬里ちゃん、ごめんね。瀬里ちゃんがいなかったらみんなの努力を台無しにするところだった」
「こんなのたいしたことないわ。日向のほうがよっぽど頑張ってる。それに私、セリフは覚えられるけど、演技のセンスはないみたい。みんな、日向の白雪姫を待ってるわよ」
「うん。ありがとう、瀬里ちゃん」
着替え終わり、僕は日向を支えながら舞台に上がる。
そっと棺に日向を寝かせ、目をつむった日向を確認してから、照明係に合図する。
幕が上り、眠ってしまった白雪姫を王子様が見つけた場面になる。
七人の小人が棺を囲み、悲しみに暮れ、泣いている。
「白雪姫、ずっと、君を探していた。君に会いたかった。君がどんな姿になっても、君が眠り続けていても、僕はずっと君を愛し続けるよ」
僕は棺で眠る日向の頭をそっと撫でた。そしてゆっくり手を滑らせ、頬にふれる。
練習では触れることなんてせず、ただ顔を近づけるだけだった。
けれど、なぜか無性に触れたいと思った。
頭を撫でて、日向はすごいね、頑張ってるねって伝えたくなった。
そんな日向が愛しくて頬に触れたくなった。
断りもなく勝手に触れたこと、日向は怒るだろうか。
笑って許してくれるだろうか。
僕は頬に触れたまま顔を近づけていった。
そこで練習通り、舞台は暗転した。
一瞬で照明はつき、白雪姫が目を覚まし、起き上がる。
「王子様、あなたが私を助けてくれたのですね」
「真実の愛だ!」
「愛のキスだ!」
「愛する人のキスで白雪姫が目を覚ました!」
小人たちが大喜びで踊っている。
王子様は白雪姫の手を取り、ゆっくりと立ち上がらせる。
日向の身体に気を付けながら、支えるように立つ。
「王子様、ありがとうございます」
「白雪姫、目が覚めて本当によかった」
ここで、音楽が流れる。
小人や、動物たち、女王と狩人、大道具と小道具係の人たち全員が舞台にあがり、王子と白雪姫を囲むように並ぶ。
「私はこの森で素敵な仲間と出会いました。喜びや楽しみ、悲しみや怒り、恐怖、たくさんの感情を知りました。そして、真実の愛を知りました。この全ての感情こそが私の生きる意味で、私が生きた証です。そして私はこれからも生き続けます。大切な仲間と愛する人と共に」
全員で手を繋ぎ、手をあげ、三方礼をした。
そして、大きな歓声と拍手に包まれた。みんなで客席に手を振る。
顔を見合わせ笑い合う。少し涙ぐんでいるクラスメイトもいる。
日向に目を向けると、彼女も僕を見ていて目が合った。
目を細め、にこりと微笑みながら「ありがとう」と呟く。
僕は小さく頷き「お疲れ様」と返した。
最後にもう一度全員で深くお辞儀をして、ゆっくりと幕が下りた。
学園祭前日、いつもより早めに練習を終わった。
一周目では、実行委員が明日に備えて追い込みをかけようと遅くまで練習をした。
今思い返せば、みんな少し疲れが出ていたような気がする。
それは日向の身体にも負担をかけていたということだ。
今回はそんなことをしなくても劇の完成度は完璧に近いし、一周目よりもみんな高い意識をもって練習に取り組んでいたと思う。
「明日楽しみだな」
「私はすごく緊張する」
「今日は気合いいれてパックして寝よー」
口々に話をしながら教室を出ていく。
「俺たちも帰ろうぜ」
「そうね。明日に備えてゆっくりしないと、だものね」
颯太と園田が声をかけてきた。
学園祭の準備や練習、二人は部活もあって、四人揃って帰るのは久しぶりだ。
「ああ。日向も帰ろう」
「うん。みんなで帰るの久しぶりだね」
日向も同じことを思っていたようだ。
それに少し嬉しそう。
「颯太、早く帰ったらちゃんと早く寝なよ」
「わかってるよ」
「興奮して寝られなかったとか言いそうね」
「俺は寝るときは寝るんだ!」
「萩原くん、寝坊したらだめだよ」
いつものようにふざけ合いながら帰り道を歩く。
日向は楽しそうだし、どこか不調があるようにも見えない。
やはり、一周目とは違い体調がいいのかもしれない。
明日も普通に学校へ来て、練習通り素晴らしい演技をして、劇は何事もなく成功するのではないか。そんなふうに思うほど。
僕は家に帰った後、日向の日記を読み返す。
七月×日
朝、目が覚めたとき泣きそうになるくらい体が重くてつらくて起き上がることができなかった。
でも、今日は学園祭当日だった。
絶対に休めない。行かなければ。
でも、体が言うことをきかない。
無理やり体を動かしてベッドから落ちた。
体の痛みなんかより心の方がずっと痛い。
そのまま動けずに時間だけが過ぎていった。
次に目が覚めたときは、病院のベッドの上だった。
窓から見える空はもう赤く染まっていて、夕方なんだということに気づいた。
劇はどうなっただろう。
ずっと、みんで一生懸命練習してきたのに。
謝っても許してもらえないかもしれない。
私のせいでみんなの努力が水の泡になってしまった。
本当に申し訳ないことをしてしまった。
どうして今日に限ってこんな
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
みんなに迷惑しかかけないこんな体いらない
死にたい、死にたい、でも死にたくなんてない
私だって本当は舞台に立ちたかったよ。
僕は日記を閉じる。
やっぱり、直前まで何が起こるかわからない。
急に体調が悪くなることもある。
日向は一周目、こんなにもつらい思いをしていたんだ。
もう、絶対に同じことを繰り返してはいけない。
いろいろと考えて、それとなく日向にメッセージを送った。
『明日の本番、緊張してない?』
『少ししてるけど、楽しみなほうが大きいかな』
『僕は緊張し過ぎてお腹が痛いよ。日向は体調大丈夫?』
『ええ?! お腹大丈夫? 私は変わりないよ』
今は大丈夫みたいだ。とりあえず安心して、更にメッセージを返す。
『明日の朝、一緒に学校行こうよ。マンションまで迎えに行く』
『うん。ありがとう。 じゃあ、エントランスで待ってるね』
このまま、何もなければいい。
一緒に学校へ行って、劇は成功して、みんなで笑い合うんだ。
そう願いながら眠りについた。
朝、いつも通り身支度を整え、日向のマンションへ迎えに行った。
エントランスを見渡すが、日向はまだ来ていないみたいだ。
連絡して部屋の前まで迎えに行こうかと思っていたとき、周りが騒がしいことに気付く。
「日向ちゃん、大丈夫かしら」
「大事ないといいけど……」
「だれか三城さんに連絡した方がいいんじゃない?」
日向の話? 大事ないといいって……何かあったのか?!
「あのすみません、日向に何が――」
◇
「はあ、はあ、はあ、」
息を切らし、汗を拭いながら必死に走る。
『日向ちゃんね、さっきそこのエレベーターの前で倒れたのよ』
居合わせたマンションの住人が救急車を呼んで、すぐに病院に運ばれたらしい。
やっぱり、運命は変えられないのか、どうすることもできないのか、そんな憤りを感じながらひたすら走る。
住人から聞いた病院に着き、受付で教えてもらって日向がいる病室に来た。
「本当はだめなんだけど、まだご家族も来ていないし、日向ちゃんも心細いだろうから。彼氏さんなら特別に」
何やら誤解があるみたいだが、中に入れてもらえた。
日向は眠っていて、看護師さんが点滴を付け替えている。
「日向は、大丈夫なんですか?」
「命にかかわるってわけではないけれど、ちょっと無理し過ぎてたみたいね。しばらく安静にしていれば大丈夫よ」
まだお母さんは来ておらず、僕はベッド横の椅子に座り、日向の顔を覗く。
「日向……」
その時、日向がゆっくりと目を開けた。
一瞬、天井を見た後、僕と目が合う。
「っ! 都希くんっ。今何時?! 劇はどうなってる? 行かないと」
日向は起き上がり、ベッドから出ようとする。
よろける体を支え「大丈夫だから」ともう一度ベッドへ寝かせる。
そして僕はポケットからスマホを取り出し、テレビ電話が繋がった状態の画面を日向に見せた。
「どうして、瀬里ちゃんが……」
そこにはステージで白雪姫を演じる園田が映っていた。
園田には少し丈の短い白雪姫の衣装を着て、セリフも完璧にこなしている。
時折、王子様の衣装を着た颯太が画面を覗き込んでいる。
クラスメイトたちも練習通り一生懸命演じていた。
「実は、もしもの時のために園田に頼んでおいたんだ――」
◇
『珍しいね。小野寺が呼び出すなんて。なんかあった?』
『園田、ちょっと相談があるんだけど。日向のことで気になることがあって』
『実行委員と白雪姫のこと?』
『やっぱり園田も気になる?』
『時々体調が悪くなるみたいだし、無理しないといいんだけど』
日向は時々学校を休んでいたし、つらくても隠して明るく振舞ったりすることもある。
園田もそれに気づいて、日向の体調を心配していたのだろう。
『もし当日、日向の体調が悪くなった時のために内緒で代役を立てておきたいんだ』
『その代役を私がするわけね』
『話が早いね。園田も実行委員で大変だろうけど、お願いできるかな』
『何かあったとき、日向が責任を感じてしまうのは私も嫌だから。それに実行委員をしてて台本は大体頭に入ってるから大丈夫よ』
『さすが。頼りになるね』
そして、周到な園田は“何か”あったときのために、颯太に王子様の役をお願いしていたらしい。
◇
「どうして、そんなことを……?」
「日向、本当は僕、日向の病気のこと知ってるんだ」
「えっ? なんで――」
「日向っ」
その時、日向のお母さんが慌てた様子で病室に入ってきた。
「お母さん……」
「日向、大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ」
「調子が悪いならちゃんと言わないと」
「ごめんなさい。でも私、今日はどうしても学校に行きたくて」
「どうして? いつもは無理せず休んでるじゃない」
その様子から、日向のお母さんは学園祭の事を知らないとわかった。
「今日は、学園祭で日向は演劇で主役の白雪姫を演じるんです」
「学園祭?! 白雪姫?! そんな話聞いてないわ」
「だって! お母さんに言ったら反対されると思ったから……」
「反対するわよ。日向、あなたは無理できる体じゃないのよ?」
お母さんが日向のことをすごく心配していることはわかる。
だから日向も言い出せなかったのだろう。
それでも日向は真っ直ぐにお母さんを見ている。
「私、行きたい。今からでも舞台に立ちたい」
「何言ってるの。だめよ。また倒れたらどうするの」
「でも、朝よりはましになってるし、どうしても白雪姫をやりたいの」
日向の眼差しは真剣で、心の底から舞台に立ちたいと訴えかけている。
もちろん、僕も日向の身体は心配だ。
けれど、日向が本当に求めていることを、願っていることを叶えたい。
そのために日向を支えると決めたんだ。
「日向のお母さん、日向は本当に演じることが好きで、真剣で、誰よりも一生懸命です。日向にしか演じることのできない白雪姫があって、クラスメイトもみんな日向の白雪姫が好きで、日向にしか伝えられないものがあります。それは、日向が観ている人を感動させたい、だれかの記憶に、心に残るものを届けたい、そういう想いを強くもっているからです。だから僕も日向が舞台に立ちたいという意思を尊重したいです」
「あなたっ、日向はね」
「もちろん、絶対に無理はさせません。少しでも調子が悪そうに感じたらすぐに止めます。なので、どうかお願いします。日向を舞台に立たせてはもらえないでしょうか」
この白雪姫の劇は日向にとっても、人生の記憶に、心に刻まれる大切な出来事になるはずだ。
悲しい出来事になってほしくない。後悔してほしくない。
僕は必死に頭を下げた。
「私からもお願い! ずっと、必死に練習してきたの。後悔したくないの。私にはもう、これしかないの!」
『もう、これしかない』その言葉に日向のお母さんは眉をひそめた。
日向はいったいどんな気持ちで言ったのだろう。
僕にはとうてい想像もつかないような想いだということだけはわかる。
日向のお母さんもそれを感じたのか、小さくため息をつき「わかった」と呟いた。
それから主治医の先生とも相談し、舞台に上がっているとき以外は車椅子で移動すること、絶対に無理はしないこと、劇が終わったあとは病院に戻ってくることを約束して学校へ向かうことになった。
病院で車椅子を借りて、日向のお母さんも一緒にタクシーに乗り込む。
日向は窓の外をじっと眺め何度も深呼吸をしている。
緊張しているのだろうか。やはり、不安なのだろうか。
僕も窓の外を眺めながら、そっと日向の手を握った。
握り返してくれた彼女の手は少し震えていた。
学校へ着き、車椅子に日向を乗せて、そのまま体育館の舞台袖へと向かう。
お母さんには観客席の方で見ていてもらうことにした。
場面はちょうど、白雪姫が毒りんごを食べて倒れたところだった。
いったん幕が閉じ、棺などのセットの準備をしている。
「日向?! 大丈夫なの?」
舞台から下りてきた園田が日向に気づき駆け寄る。
他のクラスメイトたちも心配そうに声をかけてくる。
「三城さん、怪我したって聞いたけど大丈夫?」
「最後のシーン出られるの?」
「急いで着替えないと」
クラスメイトたちには日向は学校へ行っている途中で怪我をしたから、病院に行ってから向かうと園田に伝えてもらっていた。
「大丈夫。みんなありがとね」
「日向、さあ早く」
園田が白雪姫の衣装を脱ぎ、日向の着替えを手伝う。
「都希もほらこれ!」
「ああ、ありがとう颯太」
僕も颯太から衣装を受け取り、急いで着替える。
「瀬里ちゃん、ごめんね。瀬里ちゃんがいなかったらみんなの努力を台無しにするところだった」
「こんなのたいしたことないわ。日向のほうがよっぽど頑張ってる。それに私、セリフは覚えられるけど、演技のセンスはないみたい。みんな、日向の白雪姫を待ってるわよ」
「うん。ありがとう、瀬里ちゃん」
着替え終わり、僕は日向を支えながら舞台に上がる。
そっと棺に日向を寝かせ、目をつむった日向を確認してから、照明係に合図する。
幕が上り、眠ってしまった白雪姫を王子様が見つけた場面になる。
七人の小人が棺を囲み、悲しみに暮れ、泣いている。
「白雪姫、ずっと、君を探していた。君に会いたかった。君がどんな姿になっても、君が眠り続けていても、僕はずっと君を愛し続けるよ」
僕は棺で眠る日向の頭をそっと撫でた。そしてゆっくり手を滑らせ、頬にふれる。
練習では触れることなんてせず、ただ顔を近づけるだけだった。
けれど、なぜか無性に触れたいと思った。
頭を撫でて、日向はすごいね、頑張ってるねって伝えたくなった。
そんな日向が愛しくて頬に触れたくなった。
断りもなく勝手に触れたこと、日向は怒るだろうか。
笑って許してくれるだろうか。
僕は頬に触れたまま顔を近づけていった。
そこで練習通り、舞台は暗転した。
一瞬で照明はつき、白雪姫が目を覚まし、起き上がる。
「王子様、あなたが私を助けてくれたのですね」
「真実の愛だ!」
「愛のキスだ!」
「愛する人のキスで白雪姫が目を覚ました!」
小人たちが大喜びで踊っている。
王子様は白雪姫の手を取り、ゆっくりと立ち上がらせる。
日向の身体に気を付けながら、支えるように立つ。
「王子様、ありがとうございます」
「白雪姫、目が覚めて本当によかった」
ここで、音楽が流れる。
小人や、動物たち、女王と狩人、大道具と小道具係の人たち全員が舞台にあがり、王子と白雪姫を囲むように並ぶ。
「私はこの森で素敵な仲間と出会いました。喜びや楽しみ、悲しみや怒り、恐怖、たくさんの感情を知りました。そして、真実の愛を知りました。この全ての感情こそが私の生きる意味で、私が生きた証です。そして私はこれからも生き続けます。大切な仲間と愛する人と共に」
全員で手を繋ぎ、手をあげ、三方礼をした。
そして、大きな歓声と拍手に包まれた。みんなで客席に手を振る。
顔を見合わせ笑い合う。少し涙ぐんでいるクラスメイトもいる。
日向に目を向けると、彼女も僕を見ていて目が合った。
目を細め、にこりと微笑みながら「ありがとう」と呟く。
僕は小さく頷き「お疲れ様」と返した。
最後にもう一度全員で深くお辞儀をして、ゆっくりと幕が下りた。