日向が死んだ。

 連絡が来たのは、大学四年生の夏だった。
 会えなくなって四年が経つ。
 それでも、一度も忘れたことのない大切な人の名前。

 僕はただ、悲しみに打ちひしがれていた――。
 

 彼女と初めて会話をしたのは、高校三年生に上がってからだった。
 親友の荻原颯太に、園田瀬里という彼女ができた。その友達として紹介されたのが、三城日向だ。
 三年生になり、全員同じクラスになったことがきっかけだった。
 
 第一印象は、丁寧で大人しそうな子、だった。

 顔は知っていたし、真面目そうだなとは何となく思っていた。
 でも、実際に話してみると真逆だとすぐにわかった。
 明るくてハキハキしていて、愚痴なんて一切零さない。

 部活にも入らず、勉強もほどほどに学校生活を送っていた僕にとって太陽みたいな存在だった。
 僕たちは四人で過ごすようになった。
 昼休みは一緒にご飯を食べて、休日もよく遊んだ。
 お金はなかったけれどショッピングモールや公園、カフェでおしゃべりをした。

 僕は、自然と彼女に惹かれていった。

 これが恋なんだと気づいた頃には夏になっていた。
 もっと仲良くなりたい。

 そう思っていた矢先、彼女は消えた。

 行方不明というわけじゃない。ただ引っ越しをしただけだ。
 でも、本当に突然だった。
 親友の園田でさえ聞いていなかったと知ったときは、本当にびっくりした。

 けれど、いなくなったのは直前にあった学園祭がきっかけだったのではないかと思っている。

 落ち込んで落ち込んで、でもどうすることもできなかった。

 その後、日向がいなくなったことで関係性も少しずつ変わり、颯太と園田は夏休み前に別れてしまった。
 
 毎日のように話していたグループラインも動かなくなり、僕は都内から少し離れた大学に進学した。

「都希、久しぶりだな」
「もしかして……颯太?」
 
 久しぶりに会った颯太は、僕が知っている颯太と随分変わっていた。
 高校生の時には想像もつかなかったスーツ姿に思わず本人か確認してしまう。
 短く切りそろえていた髪は少し長くなり、けれどきっちりと整えられている。すっかり就活モードになっていた。
 サッカー部だったころの面影はどこにもなく、真面目で落ち着いた大学生に見えた。
 
「何だよ。そんな確かめるほど変わったか?」
「全然違うよ。まるで会社員みたい」
「まだただの就活生だよ。都希は就職決まったのか?」
「これからかな。颯太、サッカーはまだ続けてるの?」

 颯太はサッカー部のエースだった。将来有望な選手だったが、プロになるか大学へ行くか悩んだ末、大学へ行った。

「まったくしてない。大学入って少しだけやってたけどすぐ辞めた。続けてても意味ないしな」

 ショックだった。あれだけ夢中でサッカーを頑張っていた颯太が、別人になったようだった。
 けれど僕以上に、颯太はつらそうな顔をしていることに気付く。

「そっか……。サッカーしてるときの颯太、すごく楽しそうだったけどな」
「サッカーのことは好きだ。でも、続けることが正しいのかわからなくなったんだ。今でもサッカーを続けてたらどうなってたんだろうとは考えたりもする。まあ今さらそんなこと考えたって遅いんだけどな」
 
 サッカーを辞めたこと、後悔しているのだろうか。
 あれだけ努力して、ちゃんと才能もあって、サッカーのことが本当に好きだったんだ。
 きっと辞めるときもたくさん悩んで、今も心残りがあるのかもしれない。
 そう思うとかける言葉が見つからなかった。

「小野寺、颯太」

 その時、誰かに呼ばれた。
 後ろを振り返ると、艶のある赤髪をなびかせた女性が立っている。
 なんで僕の名前を知っているんだ……?

「なに? なんで二人してそんな見つめてくるの?」
「……その声、瀬里!?」
「そうだけど。もしかしてわからなかったの? それでも元カレ?」
「いや、髪赤すぎるだろ! 就活は!?」
「美容系だから別に普通だけど。逆に颯太は黒すぎ」
「いや日本人だから普通だろ!?」

 颯太と園田のやり取りが懐かしかった。
 そういえばいつもこんな感じだったな。

 そして――。

『ほんと、二人は仲良しだね。小野寺くん、こうなったらとまらないし、私たちで先に行く?』

 颯太と園田のやり取りに微笑みながら、僕に声をかけてくれる彼女を思い出す。
 
 あの頃は、そこに日向がいた。

「小野寺」
「ん、あ、ああ久しぶり」
「あなた大丈夫?」
「何が?」
「……わかるでしょ」

 日向の事を考えていたら、園田が僕に声をかけてきた。
 意味はわかる。けれど、気にしていないふりをした。

「大丈夫だよ。園田は?」
「私は大丈夫。連絡をもらったときにいっぱい泣いたから」

 日向の事を教えてくれたのは園田だった。

 久しぶりに鳴ったグループラインの通知。
 引っ越したあとすぐに日向の名前は消えていた。
 それでもずっと残っていたグループラインに、日向が亡くなったという知らせだけが届いた。
 それが無性に悲しかった。

 園田は大丈夫だと言うけれど、目は赤く、少し腫れていて表情もぎこちない。

「園田、本当に大丈夫?」
「大丈夫じゃないように見える?」
「……うん」
「まあ、そうかもね」

 はじめは強がっていたが、次第に本心を溢しはじめる。

「私、日向と出会ってから、日向がいてくれればそれでいいと思ってた。会えなくても、どこかで日向が私のこと考えてくれてるならそれでいいって」

 園田は涙こそ流さないものの、肩を震わせ、必死に耐えている。
 僕が知っている高校三年のときも園田は日向以外に仲の良い友人はいなかった。
 あまり他人となれ合わない園田に、周りも距離を置いている感じだった。
 唯一、心を許せる日向が亡くなった。
 その悲しみは計り知れないものがあるだろう。

 そんな時、颯太が園田の肩にそっと手を置き、明るい声で言った。

「さて、三城さんに会いに行こうぜ」

 颯太は少しだけ高校生に戻ったみたいに元気よく笑い、歩き出した。

 ◇

「こんなところまで来てもらってありがとうね」

 日向のお母さんが穏やかな笑みで、冷たい麦茶と和菓子を出してくれた。
 都内郊外にある小さなアパート。
 こんなに近くにいたなんて知らなかった。

 何度か電車で通ったこともある。

 日向はずっと入院生活を送っていたが、亡くなる五日前は、この部屋で過ごしたという。

 シンプルで、整理整頓された綺麗な部屋。
 それでいて、手作りらしい小さなマスコットやパッチワークのコースターなどが飾られていて、彼女らしいなと思った。
 
 そして壁の中心、そこに日向の写真が飾ってあった。

 あの頃よく見た、明るい笑みを浮かべている。

「こちらこそご連絡ありがとうございます。ご愁傷様です」

 すると園田が鞄から袋を取り出した。何かと思ったら御香典と書かれている。
 よく考えたら当たり前だ。お葬式は既に終わっているとはいえ、常識を考えたら持参するべきだった。
 動揺していたのだろうか。そこまで思い至らなかった自分が恥ずかしい。
 しかし、日向のお母さんは受け取ることはなかった。

「お気持ちだけいただいておくわ。来てもらっただけで、日向も喜んでるから」
「……わかりました」

 赤髪になっても、園田は何も変わっていない。
 優しくて、しっかりしている。日向の事が本当に好きだったあの頃のまま。


 日向は幼い頃から、筋ジストロフィーという重い病気を抱えていたらしい。

 それを知ったのも園田から連絡をもらったときだ。
 すぐに調べてみた。それはとても、とてもつらい病気だった。

 身体の筋力が低下していき、やがて死に至る。
 日によって体調の差があったり、過度な運動ができないこともあるらしく、過去を思い返せばすべてが繋がっていく。

 真面目だった彼女がたまに遅刻したり、早退したり、学園祭に何の連絡もなく、欠席したこと。

 ……何もかも。

『ねえ小野寺くん。私って将来、どんな人になってるかな』

 彼女の最後の言葉が、僕の心臓の鼓動を強めた。

 見せたいものがあると、日向のお母さんは席を外した。
 僕は終始無言で、日向の写真に何度も目を向けた。

「なんで、言ってくれなかったんだろうな」
「……日向は優しい子だからね。私たちにつらい思いをさせたくなかったのよ」

 颯太と園田もわかっているようだった。
 日向は底抜けに優しかった。言えなかったのではなく、言わなかった。
 悲しませたくなかったのだろう。僕たちに負担をかけたくなかったんだ。

「小野寺、大丈夫か?」
「え、何が?」
「……無理しないでね」

 二人が僕の顔を心配そうに見ていた。訳が分からなかったが、すぐに気づく。
 頬を伝う涙が、あまりにも自然すぎた。

 いつかまた、どこかで会えるかもしれないと思っていた。
 突然やってきて、ごめんね、何て言って。
 何してたんだよって。

 でも、もう会えない。

 日向は死んだ。

 僕は、日向のお母さんが戻ってからも延々と泣いていた。声もなくただ泣き続けた。
 そんな僕に遠慮してか、見せたい、というものを渡されることはなかった。

「ありがとうございました。また日向さんに会いに来ます!」

 帰り際、颯太の言葉に日向のお母さんは嬉しそうだった。
 受け答えもしっかりしていて、ずっと大人になっている。
 もちろん園田もだ。
 僕だけは……変わっていない。

 ここに日向がいればと、何度も頭に浮かぶ。

「都希、それじゃあまた連絡するよ。三城さんの話で盛り上がろうぜ」
「そうね。小野寺、それまでにその目、何とかしてきなさいよ」
「お互いにね。……二人とも、ごめんな」
「なんで謝ってんだ? 三城さんはお前が来てくれて一番喜んでるはずだぜ」
「そうよ。あんなに泣いてくれるなんて、私が日向だったら嬉しいよ。でも、うぅっ……あんまり、ヒック、……落ち込まない、で……うぅ、うぅ……ヒックッ」

 園田は急に糸が切れたかのように泣きはじめ、大粒の涙を溢す。
 ずっと、気丈に振る舞っていた。でも、それは必死に耐えていたからなんだ。
 
 高校時代の落ち着いていてしっかりしている園田からは想像もつかない姿に、僕は何も言えなかった。
 その時、颯太がそっと、園田の背中を擦る。何も言わず、優しく抱き留めトントンと頭を撫でた。
 園田はさらに声をあげ、颯太の腕の中でわんわん泣いた。

 僕はただ、立ちつくしていた。

 少しの時間が経った後、颯太が「行こうか」と僕に視線を向ける。
 小さく頷いて、それじゃあと別れた。
 園田も颯太に支えられ歩いて行った。
 
 駅に着いたとき、後ろから大きな声で呼び止められた。

「日向のお母さん? どうしたんですか?」

 随分と急いで走ってきてくれたらしく、息が切れている。

「……ごめんなさい。これを、やっぱり渡したくて」
「これは……?」
「日向が……ずっと書いていた日記なのよ。その、最後に……あなたの名前があった。日向は見てほしくないのかもしれない。でも……私は見てほしくて」

 一見何の変哲もない日記、中を確認しようとしたが、今ここで開くことはできなかった。
 躊躇している僕に、返さなくてもいいから読めるときに読んであげてと言ってくれた。

 誰にも邪魔されない場所でゆっくり読みたいと思っていとき、ふと思い出す。

「……夏祭り」

 電車を乗り継いで向かった先は、高校の近くにある山の上の神社だった。
 長い階段を上り、山から街を見下ろす。そして空を見上げる。

「変わってないな、ここは」
 
 視界を遮るものはなにもない。
 ここから見える花火は凄く綺麗で、夏祭りの日、日向と一緒に来ようと約束していた。

 でも、叶わなかった。
 彼女が、突然消えたからだ。

 景色を眺めながら、本殿の濡縁に座って深呼吸する。

 ゆっくり日記を開いた。

 そこには、日向のすべてが詰まっていた。
 日付は三年生の始業式の日から始まっている。

 学校のこと、勉強のこと、そして、病気の事が書いてある。
 僕の知らない日向の世界がそこにあった。

 
 毎日飲む薬、日に日に動かなくなる身体。
 授業に行けなかったこと、行事に参加できなかったこと。

 そして、僕と出会った日の事も書かれていた。

「……ボーっとしてる人って何だよ」

 ちょっとだけ期待したが、どうも初めの印象は良くなかったらしい。
 確かにあの頃は何かにつけて面倒がっていた。いや、今も変わらないか。

 しかし徐々に様子が変わっていく。
 颯太や園田、僕の名前が増えていった。

「……あれ、欲しかったのか」

 四人で水族館に行った。その時、でかいオオサンショウウオのぬいぐるみを日向は手に取っていた。
 あの時は確か手にとっただけといっていたが、本当は欲しかったらしい。

 読み進めるにつれ、だんだんと日向の気持ちがわかってきた。彼女は欲がないように思えたが、実はそうじゃなかった。
 できないことがたくさんあった。遠慮していることがたくさんあった。
 言えない事がたくさんあった。

 それがすべて日記に詰まっていた。

 ……なんで、なんで僕は何もできなかったのだろうか。

 もっとできることがあったはずなのに。

 そして最後になりにつれ、文字がブレていく。
 手に力が入らないと書いていた。

 病気の症状が重い日は、一日中動けない。

 楽しみにしていた学園祭に行けなかった。
 クラスメイトたちに申し訳ない事をしたと書いていた。

 死にたい、死にたい、でも死にたくないと。

 そして、日向がいなくなった日――

八月XX日

 今日は引っ越しをした。
 郊外にある小さなアパート。お母さんの職場と私が通っている病院に近くて家賃の安いところ。
 来週からしばらくの間入院する。
 しばらくといってもいつ退院できるかわからないし、退院したとしてもきっと入退院を繰り返す。
 だから学校も辞めた。
 瀬里ちゃんにも誰にも言わなかった。
 あと半年で卒業なのに辞めるなんて言ったら絶対理由を聞かれるし、もしかしたら引き止められるかもしれない。
 今までずっと病気のことを隠してきた。
 でも、これ以上一緒にいるときっとばれてしまうし、日に日に弱っていく私を見られたくない。
 それに、心配をかけたくない。長くは生きられない私を思って悲しい思いをしてほしくない。
 このまま何も言わずにいなくなった方がきっとみんなにとってもいいはずだ。
 なんて自分に言い聞かせてる。
 本当はもっとみんなと一緒にいたかったし、みんなと卒業したかった。
 今日の花火大会もすごく行きたかった。
 いつも控え目な小野寺くんが花火に誘ってくれたときは嬉しかった。思わず行くって言ってしまった。守れない約束をしてしまった。
 体調だっていつ悪くなるかわからないし、花火が上がるころには私はもうあの街にいない。
 それでも花火楽しみだねって笑ってくれる小野寺くんに、やっぱり行けないなんて言えなかった。
 
 小野寺くんごめんなさい。花火大会には行けません。
 でも、私は本当に――

『小野寺くんと一緒に花火を見たかった』
 
 気づけばまた涙を流していた。

 会いたい。日向に会いたい。

 会って話したい。

 もっと、もっと話したい。

 日向の本当の気持ちを聞きたい。

 そのとき、ふっと空が暗くなった。

 何が起きたのかわからず、あたりを見渡す。

 するとそのとき、ひゅーと音が響いた。

「……花火?」

 乾いた音が空気を切り裂き、光が空を登っていく。

 そして弾けた瞬間、世界がまばゆいばかりの光に包まれた。