三章

「――すまなかった」
 唇を赤い血で濡らした時雨が、凜花を見て瞠目したのは一瞬だった。
 消え入りそうな声で謝罪した時雨は、凜花の首筋をさらりと撫でるなり逃げるようにくるりと背中を向ける。
「あっ……!」
 ハッと我に帰った凜花は、急いで寝台を抜け出しその後を追いかける。
 だが当然ながら時雨に追いつくことは、できなかった。
「時雨様っ!」
 開け放たれたままの玄関から飛び出し、彼の名前を呼ぶ。しかしすでにその姿はどこにもなく、代わりに自動車が遠ざかる音だけが聞こえたのだった。
 それすらもやがて聞こえなくなると、凜花はよろよろとその場に座り込む。
 せっかくの絹でできた寝衣が土で汚れてしまう。でも、今の凜花にはそれを気にする余裕はなかった。
(何が、起きたの……?)
  
 震える指先で首筋に触れる。しかし、先ほどまで流れていたはずの血が指を汚すことはなかった。
 ならばあれは夢だった……?
(――違う)
 去り際に時雨が触れたほんの一瞬。あのとき、彼が貴力による治療を施したのだ。 
 凜花はその夜、一睡もできないまま朝を迎えた。
 空が明るくなってから鏡で首筋を確認したところ、やはり首筋には傷跡ひとつ残っていなかった。
 それでも目に焼きついた光景は、あれが夢ではなく現実だと訴えた。
 だって、体が覚えているのだ。
 頬を包み込む大きな手のひらの感触、首筋をなぞる骨ばった指先、肌をちくんとさしたどこか甘い痛み。そして、滴る血を啜る舌の温かさ。
 ――血を吸われた。
 その事実だけを切り取ると、とてもおそろしいことをされたように聞こえる。
 しかし、あのときの凜花は驚きはしたものの、恐怖心は一切抱かなかった。
 怖がるにしては、あまりに時雨が美しすぎたから。
 雪のように真っ白な髪は、月明かりを浴びてきらきらと白銀に輝いていた。
 月光を宿したような金の瞳も、薄くて形の良い唇が真紅に染まる様も、全てが非現実的で、神秘的で、凜花は首の微かな痛みも忘れて魅入ってしまった。
 彼が、数百年にひとりの貴人たる所以をそこに見た気さえした。
 すまなかった、と彼は言ったけれど、凜花は謝る必要なんてないと思っている。
 時雨があのような行動を取ったのは何かしらの理由があるはず。
 それを知りたいと凜花は思った。
 ――それなのに。
 あの夜を境に、時雨はぴたりと屋敷に帰らなくなった。
 一度だけ、凜花が眠っている間にひっそりと帰宅し、みどりの様子を見にきたというが、そのときも「しばらくは軍の宿舎に滞在する」と伝えただけで、その理由は何も語らなかったという。
「……私が失態を犯したから、お怒りなのかもしれません」
 おかげでみどりはすっかり元気を失ってしまった。
 杏花の暴行にも涙ひとつ流さなかった彼女が、である。
(違うのに)
 時雨が帰ってこないのはまず間違いなく、凜花との一件が原因だ。
 しかし、凜花はそれをみどりには話せていない。
 あの夜のことが、時雨にとって他人に知られたくないことかもしれないと思ったからだ。そんな凜花にできることは、ただ彼を待つことだけだった。
 しかし、それも十日たってようやく諦めがついた。
 ――このままじっとしていても、何も変わらない。
 だから凜花は手紙を書くことにした。
 多くは書かない。ただ話がしたいこと、屋敷で待っていることだけを記して封をし、部屋を出る。階段を降りると、ちょうどみどりが階段の手すりを掃除しているところだった。
「……どうしましたか?」
 すっかり気落ちしてしまったみどりに、凜花は言った。
「時雨様に手紙を書いたの」
「手紙?」
 きょとんと目を瞬かせるみどりに、凜花はこれから届けに行くつもりだと告げる。多忙な時雨に直接会うことは叶わずとも、渡してくれるように頼むことくらいはできるはずだ。
 しかし、これにみどりが待ったをかけた。
「私が行きます。先日のこともありますし、またどこであの勘違い女に遭遇するかわかりません。あなたは屋敷で大人しくしていてください」
 昨日までの落ち込みぶりが嘘のようにみどりは息を吹き返す。
 まるで、凜花が行動するのを待っていたようだ。
 勘違い女とは、言わずもがな杏花のことだろう。
「みどりは、おじょ――杏花が怖くないの?」
 この問いにみどりはふんっ、と鼻息を荒くする。
「まったく。叩かれたのは痛かったですし、うるさいな、とは思いましたがそれ以上は特に何も。只人だ、異人だと蔑まれるのには慣れていますから。ああいう人たちには何を言っても伝わらないので、相手にするだけ時間も気力も無駄です」
 あんなにも酷い目に遭ったにもかかわらず、みどりはあっけらかんと言い放つ。
 ――慣れている。
 ごく自然にそう口にしたみどりに、凜花はたまらなく胸を締め付けられた。
 その言葉の裏からは、彼女の苦しい日々が透けて見えたから。
 無能な自分は蔑まれても仕方ないと諦め、姉に怯えて生きてきた凜花には、みどりがとても眩しく見える。
「あなたは……強いのね」
 自然と溢れた言葉に、みどりはふわりと顔を綻ばせる。
「私には、時雨様がいましたから」
 きっぱりとした物言いからは、彼に対する絶対的な信頼が感じ取れる。そして、みどりはそれだけでは終わらなかった。
「でも、それはあなたも同じです」
「え……?」
「今のあなたにも時雨様がいます。だから、あんな女を怖がる必要はないんですよ」
 そう言って悪戯っぽくはにかむみどりは、やはり時雨に似ていた。

 長嶺邸。
 当主の長嶺京介は、二度目となる時雨の来訪を白々しいほど手厚く出迎えた。
 京介は直々に時雨を和室の応接間に案内すると、自らは下座に座った。
 時雨は一瞬戸惑ったものの、特にそのことに言及することなく勧められるがまま上座に腰を下ろす。
 礼儀の観点で言えば「結構です」と遠慮するのが正解なのだろう。
 しかし、そんな無駄なやりとりをする気は毛頭ない。訪ねたのはこちらだが、用が済んだらさっさと帰りたい、というのが正直なところだ。
「時雨殿」
 先に切り出したのは京介の方だった。
「あまり顔色が優れないようだが、どこかお加減でも――」
「問題ありません」
 最後まで聞くことなく切り捨てる。無礼は百も承知だが、あいにくこの男に持ち合わせる礼儀を時雨は持ち合わせていない。
「な、ならいいが。それで、今日はどのような用件かな」
 落ち着きもなくそわそわとしたその姿からは、時雨に対する畏怖が明らかに見て取れる。
 長嶺家と言えば、御三家には及ばないものの貴族の中では十指に入る名家だ。
 その当主たる男が自分のような青二才を相手に怯えるなんて。
(……情けない)
 この男は、最後に会ったときもぬかるみに腰を抜かして震えていた。さらには今日まで時雨に対してなんの連絡もなく、あげく「どのような用件か」ときた。
「私がここにきた理由がわからないと本気でおっしゃっているのですか? ――あなたの娘についてに決まっているでしょう」
 きっぱりと告げると、京介は観念したのか大きくため息をつく。そして、億劫そうな様子を隠しませずに口を開いた。
「……あれのことなら、うちにはもう関係のないことだ。必要なら差し上げよう。むしろ今さら返されても困る」
「『あれ』?」
 隠しきれない怒りは冷ややかな声となってあらわれた。途端にビクッと体を震わせる京介を時雨は金の瞳でじろりと睨む。
 親なら誰しも子どもには無性の愛を注ぐ、なんて綺麗事を言うつもりはない。
 そんなことは夢物語にすぎないことは身をもって知っている。
 だがそれにしたってこれは、ない。 
「私は犬猫の話をしているのではない。あなたの娘の話をしています」
「娘?」
 京介は鼻で嗤う。
「私の娘は、杏花だけだ」
 そして、開き直ったように肩をすくめた。
「とにかく、我が家の問題に口を挟まないでいただきたい。あなたのような立場の人間があれを選ぶとは意外だが、引き取った以上はそちらの好きにすればいい」
 煮るなり焼くなり好きにしろ、と京介は吐き捨てた。
(――下衆が)
 今ほど自分が理性のある人間でよかったと思ったことはない。そうでなければこの瞬間、時雨は己の貴力を持ってこの屋敷を燃やし尽くしていただろう。
 それほどまでに頭に血が上っているのがわかる。
 しかし、それを表に出すことはしない。
 この男には、それすらもする価値はないとはっきりわかった。
「ならばそのとおりにさせていただきます。今後一切、彼女には関わらないでいただきたい」
 そう言って、時雨は用意していた小切手をテーブルの上に叩きつける。
「これはその対価です。結納金代わりだとでも考えてくれればかまいません」
「なっ……!」
 小切手を受け取った京介の顔に驚愕が浮かぶ。
 祝言前、すでに時雨は一度、長嶺側に多額の結納金を支払っている。
 まだ凜花と杏花が別人だと知る前の話だ。それはいまだに返還されていない。
 そのような状況の中、時雨は追加で杏花のときの倍額の金額を提示した。
 それはつまり、凜花には杏花の倍の価値をつけたということになる。
「どうしました? 足りないとは言わせませんよ」
 口が裂けてもそんなことは言えないだろうな、と思った。
 事実、京介はすぐさま小切手を着物の袂に仕舞い込む。
「も、もちろんそんなことは言わない。十分すぎるほどだ」
「では、この件はこれで終わりです。――それと、もうひとつ」
 予想外に多額の金を得たことで一気に上機嫌になった京介は「なにかな?」とにやにやと緩み切った顔を向ける。
 その顔面を殴りつけたい衝動をなんとか堪え、時雨は言った。
「先日、私に仕える者が長嶺杏花から酷い暴行を受けました。それについても長嶺側からは依然なんの連絡も来ていない。いったいどういうおつもりなのか、考えを聞かせていただけますか」
「は……?」
「『は?』ではない。私は説明を求めています。まさか何も聞いていないのですか」
「あ、ああ。杏花からは何も……」
 やはり一発殴りつけてやろうか。
 間の抜けた顔を前に拳を握りながら、時雨は声だけは淡々と続ける。
「――どうやら、長嶺家は朝葉に思うところがおありらしい。それなら、こちらも相応の対応を取らせていただきます」
「まっ、待ちなさい! 言いがかりだ、そんなことは誓ってありえない!」
「ならば、今回のことに関しての説明を。私としては、最低限でも長嶺杏花に同じ痛みを味わってほしいと考えています」
「同じ……?」
「両頬が腫れ上がるほど殴りつけてもよろしいか、と聞いています」
 すると京介は身を小さくしながらも、納得がいかないように眉根を寄せた。
「……今の話を聞く限り、相手は只人だろう? それも使用人相手に大袈裟な――ひいっ!」
 最後まで言わせることは、しなかった。亮介の目の前で湯呑み茶碗が割れたのだ。
「大袈裟、と今おっしゃっいましたか?」
 あと一言でも余計なことを言ったらどうなるか、亮介も悟ったのだろう。彼は「わかった!」と身を震わせ叫んだ。
「杏花には私から厳しく言い聞かせる!」
「二度目はないと肝に銘じておくように、とも伝言を」
 話は済んだ。立ち上がった時雨だが、最後にどうしても気になった疑問を口にする。
「長嶺殿」
「なっ、なんだ?」
「あなたは、私のもとにいる娘の名を覚えていますか?」
「……凜花だろう。それが、何か?」
 まるで興味なさそうに答えた京介に、時雨はもはや何も言わずに背中を向けた。
 これ以上は一秒だってこの男と言葉を交わす価値はないと、そう思ったから。

 見送り固辞した時雨は、自家用車に乗り込み軍へと戻る。
 幸いにも長嶺杏花と鉢合わせることはなかった。
 京介がそう采配したのかは定かではないが、どちらにしてもそれでよかったと心から思う。もしも直接顔を見たら、自分でも怒りを堪えられるかわからなかったから。
 宮田は杏花を「悪女」と呼んだが、時雨はそんな生やさしい言葉は到底釣り合わないと思っている。血の繋がった双子の妹を徹底的にいたぶり、みどりに暴行した女。
「――化け物が」
 吐き捨てた直後、時雨は自嘲する。
(それは、私も同じか)
 実父の朝葉道景は時雨を罵る際、「化け物」と呼ぶ。時雨はそれを否定したことは一度もなかった。
 眠る女の血を啜る自分は、化け物以外の何者でもないのだから。
 酷く疲れていたから、凜花が眠っていると思っていたから……なんて、何の理由にもなりはしない。
 それから軍本部に戻った時雨が隊長室の椅子に座って間もなく、宮田が入ってくる。彼はまっすぐ時雨のもとへやってくると、一通の手紙を差し出した。
「……なんだ、これは」
「ん? 俺からの恋文」
「そうか、燃やすか」
「って、冗談だよ馬鹿野郎、すぐに燃やそうとする奴がいるか!」
 人差し指にぽっと炎を灯した途端、宮田は慌てて手紙を天井高く上げる。
「ただでさえ最悪な顔色をしてるってのに、こんなことで貴力を無駄遣いするな!」
「顔色が悪いのはおまえが気色悪いことを言うからだ。それと、きゃんきゃんうるさい」
 注意しながらも本当のところは少しだけホッとしていた。
 やかましい男だが、長嶺家でのやりとりで精神的に疲弊していた今は、この軽薄さが少しだけありがたい。
「ったく、物騒なやつだな……。おまえ宛の手紙なのは本当だよ。朝早く、えらい顔の整った十代半ばくらいの女の子が届けに来た。『みどりと言えばわかるはずです』ってさ」
「みどりが?」
 手紙を受け取り、ハッとする。白い封筒には確かに「朝葉時雨様」と宛名が書かれているが、その筆跡は明らかにみどりのものではない。
「すごく綺麗な子だったけど、おまえの身内か何か?」
 その言葉に時雨は視線を宮田へと移す。
「……そんなところだ」
「へぇ。とにかく、確かに渡したからな」
 用は済んだとばかりに宮田は出ていく。
 余計な詮索をしないあたりもあの男の美徳だな、と思いながら時雨は再び封筒に目を落とした。
 みどりが持ってきたというのだから、差出人が凜花なのは間違いないだろう。
 最後に会ったのは十日も前。
 満月の夜、驚愕に目を見開く凜花に血に濡れた顔を晒して以来、時雨は一度も屋敷に戻っていない。
 ――いったい何が書いてあるのか。
 すぅ……と深呼吸をして気持ちを整えた時雨は、ゆっくりと封を開ける。
「どうして……」
 そして――たまらず、声を漏らした。
 手紙にはただ「話したい」「元気でいるのか、体調を崩していないか」「帰ってくるのをいつまでも待っている」という内容だけが書かれていた。
 意外なほどに短くて簡潔な文章。
 凜花の筆跡は繊細で、流麗で、控えめな彼女の性格を表しているようだ。
(なぜ私の帰りを待っている、なんて言えるんだ……)
 手紙を開ける直前まで、時雨は罵詈雑言が書かれていることも覚悟した。
 二度と顔も見たくないと、本当に怖かったのだと、説明しろと責める内容に違いないと思った。それなのに凜花はただの一言も時雨を責めなかった。
 むしろ、こちらの心配までしてくれている。
(彼女は、人を責めるということ自体したことがないのかもしれない)
 そしておそらく、怒るということも。
 幼い頃から虐げられてきた彼女は、息をするように謝罪をし、頭を下げる。
 そうすることで過酷な環境に置かれた自分の心を、体を守ってきたのだろう。
 体の内側から熱い感情が込み上げる。胸をかきむしられるようで、それでいて甘い痛みもともなう感覚の正体を時雨は知らない。 
「……そろそろ、潮時か」
(帰ろう)
 これ以上、逃げ続けても状況は変わらない。
 その夜。
 十日ぶりに屋敷に戻った時雨は、涙目で出迎えたみどりをなだめ、凜花の自室へと向かい、扉を叩いた。
「……みどり?」
 返ってきた声に時雨はすうっと呼吸を整え、そして言った。
「――私だ」
 直後、すぐにぱたぱたと駆けてくる音がする。しかし、鍵が開くより早く時雨は「開けなくていい」とそれを制する。
「……今の私が言ったところでなんの説得力もないが、この時間に女性の部屋に入るわけにはいかない」
 だから、と時雨は続けた。
「書斎で待っている。私も、あなたに話さなければならないことがあるんだ。急がなくていいから、ゆっくりおいで」
「……はい、時雨様」
 扉越しに名前を呼ばれた。ただそれだけなのに、なぜか胸がざわめいた。

 部屋の前から時雨の足音が遠ざかっていくと、凜花はふっと扉の前で座り込んだ。
 ……安心したのだ。
 昼間、みどりは確かに手紙を届けてくれた。
 しかし、この時間になっても帰宅しないことに「やはりだめだったか」と諦めかけていたからこそ、こうして帰ってきてくれたことが――凜花に話しかけてくれたことに心の底から安堵する。
(時雨様を待たせてはいけない)
 凜花は白のワンピース型の寝衣の上に上着を羽織り、時雨の書斎に向かう。
 そして、重厚な扉をノックした。
「どうぞ」
 返ってきた声に心臓が大きく跳ねる。同時に手が震えた。
 ――緊張する。
 何かはわからない。それでもこの扉を開けたが最後、今までとはなにかが大きく変わる……そんな予感がした。
 それでも凜花は迷わなかった。
 時雨と話がしたい、顔が見たい――そう心が訴えていたから。
「失礼いたします」
 凜花が扉を開けると同時に、窓の方を見ていた時雨がゆっくりと振り返る。
 十日ぶりに見る金の瞳と視線が重なった瞬間、凜花はひゅっと息を呑んだ。
 窓に背中を向けて佇む時雨が、とても疲れているように見えたのだ。
 神秘的な髪や瞳の色は最後に見たときと同じ。圧倒的な美貌も変わらない。
 それなのに酷くくたびれて見えるのはたぶん、顔色のせい。もとより透けるように白い肌はいっそ病的なまでに青白く、目の下にははっきりとした隈がある。
 月明かりを背に立つ姿は、この世のものとは思えない美しさと儚さが共存していた。
「凜花」
 ためらいがちに名前を呼んだ時雨は、慎重な足取りで凜花の方へとやってくる。
 月光を背にした彼はやはり、壮絶なまでに美しい。
 そうして凜花の前に立った彼は、戸惑いがちに口を開いた。
「……逃げないのか?」
 逃げる? 
「何から……でしょうか」
「私からだ」
「なぜ?」
 問い返すと、時雨は大きく目を見張る。
「私のことが、怖くないのか?」
 わけがわからない、と本気で思った。考える間もなく心がそれを否定する。
「ありえません」
 発した言葉は自分でも驚くほどに強かった。でも、本当にそうなのだ。
「私が時雨様を怖がるなんて――そんなこと、絶対に」 
「……あんなことをしたのに?」
 それが何を指すかは考えるまでもなかった。
 十日前。今と同じ月明かりが美しい夜、彼は凜花の血を啜ったのだから。
「はい」
「……なぜ」
 質問を重ねる時雨の瞳は、揺れていた。
 何が彼を不安にさせているのか、凜花にはわからない。
 今の彼はまるで迷子のようだと凜花は思った。
 彼に対して自分のような瑣末な人間が何ができるかはわからない。それでも、言わなければならないと思った。
「何か、事情がおありなのでしょう?」
 その問いに息を呑む時雨に、凜花は「やはり」と思った。
 時雨ならば、凜花のことなど指先ひとつでどうにでもできる。
 命を奪うなんて呼吸するよりたやすいはずだ。 
「理由もなしに時雨様があのようなことをするとは思えません。ですから……話していただけませんか?」
 何も知らず、ただ避けられているだけの状態はもう嫌だった。
「居候の身でこのようなことを申し上げるのは、生意気だと承知しております。そ
れでも……時雨様には、今までどおりこの屋敷に帰ってきていただきたいのです」
 だって。
「あなたがいないと……みどりが、とても寂しそうです」
 ――もちろん、凜花も。
 でも、心の声までは唇に乗せることはできなかった。
 みどりはともかく、凜花が寂しがっているといったところで、彼にとっては迷惑でしかないだろうから。しかし、これに対して返ってきたのは意外な言葉だった。
「あなたを居候だなんて思ったことは、一度もない」
 目を見開く凜花を、時雨は悲しげな……それでいて覚悟を決めた瞳で見返す。
「――全て、話すよ」
 でも、と続けて彼は言った。
「その前にあなたに見てほしいものがある」
 視線を凜花から外しておもむろに歩き出した彼は、暗幕の張られた壁の前で足を止めた。
(あれは確か、絵が飾ってあると……)
 初めて書斎を訪ねた際にの彼の言葉を思い出す。
『そこには絵が飾ってあるのだが、あまり私の好みではなくてね。外すのも面倒だから、そうして布で隠してあるんだ』
 その時の言葉を思い出す凜花の前で、時雨は暗幕を剥がす。
 現れたのは、肖像画だった。
 親子だろうか。一目で上流階級とわかる一家が描かれている。
 椅子に座りたおやかに微笑む女性と、彼女の肩に手を置く紳士、そして屈託のない笑顔で笑う可愛らしい男の子。皆、とても整った顔立ちをしている。
 凜花には、美術品の良し悪しはわからない。
 それでも、幸せそうな雰囲気はとても伝わってきた。
 だからこそ困惑する。
 彼は、この絵の何が気に入らないのだろう?
「これは、私が三歳の時の肖像画だ」
 静かに、時雨は切り出した。
「男は父の朝葉道景、女は母の朝葉小夜。そしてこの子どもが、私だ」
「……この子が、時雨様?」
「ああ」
 凜花はすぐにはそれ以上反応できなかった。
(だって、髪も瞳も……)
 ――色が、違う。
 両親はもとより絵の中の幼い時雨は、髪も瞳も真っ黒だった。よくよく見ると整った顔立ちには面影がある。しかし今、目の前に立つ彼とは色がまるで違う。
「幼い頃の私は、この国の多くの人間と同様に黒髪に黒い瞳を持っていた」
 遠い昔を懐かしむように、時雨は絵を見据えたまますうっと目を細めた。
「……私を産んだ母の小夜は伯爵家出身の令嬢で、貴人だった。本来なら同じく貴人の父と結ばれることはありえなかった。父には、普通の人間を伴侶に迎えて後継ぎを作る義務があったから。それでもふたりは周囲の反対を押し切って結婚した。そして……私が生まれた」
 視線を絵に向けたまま、時雨は淡々と語る。
「自分で言うのもなんだが、私が生まれた時は屋敷中が歓喜に沸いたらしい。貴人同士で結婚した両親は子どもを諦めていたから、喜びはひとしおだったんだろう。実際、小さい頃の私を両親はたいそう可愛がってくれていたようだ。もっとも、それも長くは続かなかったけれど」
「……何があったのですか?」
「両親が、純血の貴人の正体を知ったんだ」
「正体……?」
 ああ、と時雨は頷く。
「三歳を過ぎた頃から、私の髪や瞳は少しずつ色素が抜けていった。初めは何かの病気かと疑われたが、調べるうちにそうではないことがわかった。――私が貴力を使うたびに、色が変化していったんだ」
 幼い時雨は特に気にも止めなかった。でも、両親は違った。
「日に日に変化していく私を見て、両親は心配になったんだろう。方々に手を尽くして、数百年前の純血の貴人について記された書物を片っ端から収集した。そして、純血の貴人は――私には、膨大な貴力を有する代わりに他の貴人が持ち得ない特徴があることがわかった」
 そして、彼は言った。
「本来の私は、三十年と生きられない体らしい」
「っ……!」
 瞠目する凜花を振り返ることなく、彼は落ち着きの払った声で言った。
「純血の貴人は、体の中に通常の貴人の何倍もの貴力を有している。それだけで寿命は削られていくそうだ。だがそれを回避する唯一の方法がある。それが、『番』を伴侶に迎えることだ」
 ――つがい。
 反芻する凜花に、時雨は頷く。
「この世でたったひとり、番の血のみが純血の貴人を生きながらえさせることができる。番の血を定期的に接種することで寿命は伸びるんだ。――逆を言えば、番のいない純血の貴人は、例外なく三十歳を迎える前に死ぬことになる。二十代半ば頃から急速に老いていき、見た目の若さはそのままに体は老人のようになる。……そう、書物には記されていた」
 その特殊な性質ゆえに一度は純血の貴人は滅び、自然と只人の伴侶を迎えるのが主流になっていったのだろう、と時雨は語る。
「自分の子が短命だと……人の血を啜る化け物だと知った母は、心を病んで私が五歳の時に病で亡くなった。母を深く愛していた父は、母が亡くなる原因となった私を憎むようになった。それにもかかわらず父が私の正体について隠しているのは、私のためではない。母が『化け物を産んだ女』と言われるのを恐れたためだ」
 もしも番と出会わなければ、時雨は三十歳を迎えず死ぬ。そのときのために、予備が必要だと考えた道景は、子どもを作るためだけに次々と女性と関係を持った。
「その中で生まれたのが貴人の和泉と、貴力を持たないみどりだ」
 ふたりの母親は違う。
 貴人の和泉を産んだ女性は朝葉公爵夫人となり、みどりを産んだ異国の女性は誰にも愛されず、見向きもされない日々に絶望し、自ら命を絶った。
 道景は、只人のみどりには見向きもしなかった。だが時雨にとっては母は違えど可愛い妹。そのまま放っておけるはずもなく、成人と同時に彼女を引き取った。
「人外の力を持ち、人の血を飲まずには生きられない私は、父の言うとおり化け物なんだろう」
「そんなっ……!」
「いいんだ。本当のことだから」
 静かに凜花の言葉を遮り時雨は言った。
「本来なら私のような化け物は、天命に従って死ぬべきなのだと思う。でも、私にはまだ生きなければならない理由があった」
「理由……?」
「ああ。みどりが――あの子が、成人して結婚し、幸せになるのを見届けてからではないと私は死ねない」
 だから、と。
 ゆっくり時雨が振り返る。
「私は、あなたを利用した」
 今にも消えゆく雪のように儚く、時雨は言った。
「初めてあなたに会ったとき、私は喜びで震えた。……私は今年二十四歳になった。そう遠くない未来に死を待つだけだと思っていたからこそ、あなたと出会えたことを奇跡だと思った」
 ――ああ、これでみどりの将来を見届けられる。
 そう思ったのだ、と時雨は語る。
「私は、嫌がるみどりに命じてあなたの食事に睡眠薬を混ぜた。そうして眠るあなたの血を吸ったんだ。――私は、あなたを利用するためにここへ連れてきた」
 声は、かすかに震えている。
「屋敷に来た当初、あなたは酷い眠気と倦怠感に襲われていただろう。あれは、私があなたが寝ている間に血を吸っていたからだ。その後、体が軽いと感じたのは私の血にあなたの体が適応したからだと思う。番となった伴侶は、血を提供する代わりに丈夫な体を得るらしいから」
 この告白に脳裏をよぎったのは、過去のふたりの言動だった。
 屋敷に来た当初、彼らはことあるごとに凜花の体の心配をした。
 よく眠れているか、体は大丈夫か……と。
 あれは、時雨が凜花の血を吸っていることの裏返しだったのだ。 
 仕事を欲しがる凜花に『何もしなくていい』と言ったのも、すでに血をとっているからと……そういう意味だったのだ。
 ようやく腑に落ちた。散らばっていた点と点が繋がり、線になる。
「――これが、私の隠していた全てだ」
 語り終えた時雨は、いっそう白い顔をしていた。
 幽鬼のように佇む姿は、まるで判決を待つ罪人のようですらある。
 そして時雨は、おもむろにその場に両膝をつく。
「時雨様⁉︎」
 声を上げた凜花を、時雨はまっすぐ見据えた。
「眠るあなたに無体を強いたこと、何も説明せずに逃げたこと……あなたを、私の目的のために利用したこと。――本当に申し訳なかった」
「おやめください! 時雨様がそのような……!」
「いいや。どれだけ謝罪してもし足りないほどのことを私はした。それでも……どうか、私に力を貸してほしい」
「力……?」
 反芻すると「ああ」と時雨は力なく頷く。
「ずっと、とは望まない。だが、せめてあと三年――みどりの成人を見届けるまで協力してはもらえないだろうか。あなたの血を……私に分けてほしいんだ」
「時雨、様……」
「それを許してくれるのであれば、私は、私の持ちうる全てを使ってあなたの望みを叶えるよう努力する。あなたが嫌だと言うなら、血をもらう以外では一切あなたに触れないと誓う」
 だからお願いだ、と時雨は深く、深く頭を下げる。

「――私の番で、いてほしい」

 こんなにも切ない願いがあるだろうか。
 こんなにも優しい想いがあるだろうか。
 自分が生き延びるためではない。彼は今、他でもない妹のために願っている。
 その姿を前に、答えはひとつしかなかった。
「嫌です」
 ビクッと肩を震わせる時雨に凜花は言った。
「三年なんて……触れないなんて、言わないでください」
 弾かれたように顔を上げた時雨に凜花は微笑んだ。
「私なんかの血でいいのなら、十年でも、二十年でも……私の命が続く限り差し上げます」
「凜花……?」
 信じられない、とその顔は言っていた。
「私の血で時雨様が元気になってくださるなら、断る理由がありません。全部……は困りますが、あなたが必要な分だけ差し上げます。大丈夫です。私、こう見えて頑丈にできているんですよ」
 十八年間。たくさん叩かれ、虐げられ、痛い思いをしてきた。
 それを思えば多少血を吸われるくらい、なんてことはない。
「……どうしてだ?」
「え?」
「なぜ、私を前に笑えるんだ? 化け物の私に――」
「時雨様は、化け物なんかじゃありません」
 純血の貴人が実は短命であることも、彼の両親についても。
 次々と明かされた衝撃的な事実に、思考が追いついていないというのが正直なところだ。それでもひとつだけ、はっきりと思ったことがある。
 時雨は、確かに特別な人だ。
 貴人の中でも唯一の存在で、絶対的な権力を持ち、生まれも、立場も、財力も申し分ない天上人のような人。彼に比べれば凜花など地面を這いつくばる蟻でしかない。 
 出会った時も、今もその気持ちは変わらない。
 でも、それだけではないのだとようやくわかった。
 ――彼もまた、凜花と同じ人なのだ。
 父の言葉に傷つき、血を分けた妹のために生きながらえようともがく、誰よりも美しくて、愛情深い人。
「あなたは、とても優しくて……心の温かい人だと、私は思います」
「違う。私は優しくなんてない」
 まるで肯定されるのが罪であるかのように、時雨は首を横に振る。しかし、凜花は引かなかった。絨毯についていた彼の手にそっと自らの手を重ねる。
「時雨様は、私を長嶺から連れ出してくれました。安心して眠れる寝床と清潔な服を、温かい食事をくださいました」
「……私の都合であなたを連れ出したのだから、当然だ」
「お守りをくださいました。甘味処にも連れて行ってくれました」
「それも、機嫌取りをしただけだ。適当に優しく振る舞って、好印象を持たれた方が色々とやりやすいから――」
「それでもっ!」
 何を言っても否定する時雨に、凜花は初めて声を張り上げた。
「私はっ……私は、時雨様に救われました!」
 目の前で時雨が言葉を失うのがわかる。
 金の瞳は濡れていないのに、まるで涙を流しているようだと凜花は思った。
 ――ほんの一瞬。
 目の前の大人の男と、絵の中の幼い少年が重なる。
「私の血が必要なだけなら、こんなふうに手厚く迎え入れる必要はありませんでした。納屋でも地下にでも閉じ込めて、必要な時だけ血を吸えばよかった……適当に生かせばよかった」
 気まぐれに呼び出し、怒鳴り、折檻をした杏花のように。
 それが当然だった凜花は、時雨にそうされたところで黙って受け入れただろう。
「でも、時雨様はそんなことはしませんでした」
「そんなの……当然だろう?」
 その言葉に「ああ、やはり彼は優しいな」と改めて思う。
「私にとっては違います。私をひとりの人間として扱ってくれたのは、時雨様とみどりが初めてでした」
 重ねていた手をゆっくりと持ち上げ、包み込む。
 大きな手だ。柔らかくて、温かくて、凜花を救ってくれた優しい手。
「時雨様は優しいです。私は、あなた以上に優しい人を他に知りません。時雨様だけが、私自身を見てくださいました。私を……必要だと言ってくださいました」
 なんの役にも立たない出来損ないの自分を求めてくれた。
 それだけが、凜花にとって揺るぎない事実。
「私に会えて嬉しいと……そばにいてほしいと言われた時、胸が震えるほどに嬉しかったんです」
 声が震えた。重ねた手のひらも、震えている。
 それが伝わったのだろうか。金の瞳を揺らした時雨は、今宵初めて微笑んだ。
「……あなたは、優しすぎる」
 ――ありがとう。
 続くその言葉に、眩しいほどに綺麗な彼を前に、凜花は思う。
 生まれてから今日までずっと、自分のことが嫌いだった。
 取り柄は姉と同じ顔だけで、それ以外は何も持たない不出来な己を恥じていた。
 役立たずで鈍臭くてのろまな自分は、存在するだけで邪魔なのだと思っていた。
 でも、違ったのかもしれない。少なくとも今の凜花にはそう思えた。

 ――自分は、時雨に出会うために生まれてきたのだ。
 
 凜花は、今、初めてこの世に生を受けたことを感謝した。