「未凪?」
名前を呼ばれてハッとした。目の前には不思議そうに首を傾げる古賀の姿がある。
「このパスタ美味しいよ。少し分けてあげるから食べな」
「ありがとう。俺のピザもあげる」
取り皿に互いの食事を載せて交換をする。古賀から貰ったバジルソースのパスタは麺が少し太めで、もっちりとしていて美味しい。
「美味い?」
「最高」
「俺も」
俺達は顔を見合わせて笑い合った。
古賀が地元に戻ってきてから、今日で会うのは三度目だ。古賀と過ごす時間は楽しくて、あっという間に時間が過ぎる。まるで昔に戻ったみたいに会話を交わせることが嬉しい。
「明日には仙台に戻るんだよな。寂しくなるな」
「そうだね。次に帰ってくるのは年末年始かな。また声掛けるよ」
「うん。連絡待ってる」
パスタをフォークに巻きつけながら、古賀はそういえば、と口を開いた。
「お兄さんとはどう? 仲良くやってる?」
「……あー……」
「……もしかして聞いちゃいけない話題だった?」
苦笑いを浮かべる俺に、古賀はおろおろと困ったような表情をしている。
「まぁ兄弟だし、色々あるよな。ウチも実家いるときは一つ下の弟とよく喧嘩してたなぁ」
「そうそう、色々ね」
適当に誤魔化してから、それ以上は追及されなかったので安堵する。思い出したくなかった男の顔を思い出してしまい、俺は心の中で深いため息を吐いた。
昨日の礼の意味不明な行動。あのせいで俺はあの後食事もろくに喉を通らなければ夜もなかなか寝付くことができないほどに、頭を悩ませてしまった。
あの瞬間、気付いてしまったことがある。
俺はあの人とのキスが嫌だったわけじゃなかったということ。
もちろん誰でもいいというわけではない。それなのに二度目のキスも無意識に受け入れる気でいた。
なのに礼は急にキスをするのをやめたかと思えば変な顔をして固まっているし、俺に悪態をついてどっかに行ってしまうし──。
(あの人、マジで何考えてるかわかんねぇ……!)
無視をすればしつこく追いかけてきて、無駄に顔近づけてくるし、やたらスキンシップ激しいし、キスするかと思えばしないし、本当に行動が読めない。そんなよくわからない礼の行動にいちいち振り回されて、ドキドキしている俺のことなんて、きっと知る由もない。
いい加減に認めよう。──俺は、礼を相手にときめいている。
そりゃ、あんなに思わせぶりな行動ばかりされたら誰だって意識せざるを得ないだろう。掴めそうで掴めない雲みたいな存在のあの人は、いつになったら俺と同じ地上にまで降り立ってくれるのだろう。
(っあー、クソ、また考えてる……!)
近頃は気がつくとこうなのだから、もうそろそろ末期なのかもしれない。
「そろそろ会計しようか」
「っ、おう」
ワンテンポ遅れて返事をする俺を、古賀はおかしそうにクスクスと笑った。
*
外に出るとギラギラと眩しい太陽が俺達に照り付けた。八月の暑さは我慢ならないほどにしんどいものがある。
「どっか入る? 映画とか」
「いいね。俺、観たいのあるんだよなぁ」
「じゃあそれにしよ」
古賀の観たい映画は洋画のようだ。昔からSFっぽい作品が好きだった古賀の趣味に付き合って、俺もたくさん古賀の好きな作品を観てきた。
久しぶりに映画館の空気を味わうのが楽しみで、浮き足立ってしまう。古賀と話しながら映画への期待を高めながら、俺達は映画館に向かった。
「久しぶりにゲーセン寄る?」
「昔よくクレーンゲームしたよな。古賀めっちゃ上手くてさ」
「そう。俺得意なんだよね」
古賀と俺は、映画までの暇潰しに映画館の隣にあるゲームセンターへと足を踏み入れた。
「あ、これとかどう? これなら未凪もできるでしょ、取りやすい機械だって」
「え、じゃあやってみようかな」
俺は言いながら財布を開いた。生憎小銭を切らしている。
「両替してくるわ。待ってて」
「あいよー」
古賀に声を掛けて駆け足で両替機を探すも見つからない。ふらふらとゲーセンの中をうろついていると、ふと視界に見覚えのある色が映った。
(……まさか、な)
そう思いつつも、もう一度来た道を戻る。心臓が嫌な音を立て始める。胸がザワザワして落ち着かない。
俺は再びさっきの通路に戻って、そこを覗いた。そこには、見慣れたミルクティーベージュの髪をした身長の高い男と、その腕に自分の腕を絡ませる小柄なショートヘアの女がいた。
その横顔が見えたとき、俺は絶句した。
(礼……)
女の腕を払うこともせず、並んでクレーンゲームの中の景品を眺めていた。どこからどう見ても、お似合いのカップルである。
礼は女子の話す言葉に耳を傾けて優しく微笑んでいる。女子は嬉しそうに礼の腕に寄り添って、背伸びをするとその頬にキスをした。俺は見ていられなくなって、その場から立ち去った。
「遅かったな。大丈夫だった?」
戻ると古賀が心配そうに眉を下げて待っていてくれていた。遅くなった申し訳なさからごめんとだけ発してから、声が出なくなった。
「どうかした? 何かあった?」
ついさっき見た光景が頭から離れない。女子に触られても拒絶しない礼、自分のものと言わんばかりにベタベタとくっつく女子。あれを思い出すだけで、心臓を圧迫されているような痛みが襲う。息が苦しい。
「未凪、顔色悪いけど……」
「古賀ごめん。少し体調悪いから、帰る」
「え、あっ、未凪っ……!」
無我夢中で走り出して、ゲーセンを出て駅まで走った。電車に乗ったらようやく、少しだけ冷や汗が引いた。
はあ、はあ。
呼吸が整わずに息が切れる。苦しい。
胸が痛い。ずっと。今までのチクチク棘が刺さるような痛みなんかじゃない。もっと酷い、心臓を一突きされたような痛み。きっと致命傷だった。あれは、きっと俺が見るべきものじゃなかった。
(礼が、好きだ)
この胸の痛みが切に訴えかけてくる。気付いてしまったら、もう後には戻れない。
*
帰宅してからリビングのソファーの上で横になっていたら、いつのまにか外がオレンジ色に染まり始めていた。
(古賀に悪いことしたな。明日には帰るって言ってたのに……)
あのときは自覚したばかりの気持ちにテンパって、上手く自分の気持ちを着地させることができなかった。冷静になってみた今振り返ってみると、ずっとそれらしい兆候はあったように思う。
いつしか礼のそばにいるのが心地良いと感じるようになって、俺はそれを兄弟になったからだと思い込んでいた。けれどあの日キスをされてから、無意識に蓋をしていたはずの感情が表に引っ張り出されて、今まで通りの関係を築けなくなっていた。
遅かれ早かれ自覚させられる運命だったのだろう。問題は、気持ちが俺の一方通行でしかないということ。よりによって一番近い相手を好きになってしまったことが、俺の最大の過ちだと思った。
ピンポーン。
呼び鈴が鳴り、俺はゆっくりと身体を起こした。誰かが宅配を頼んだのだろうか。ついでに暗くなってきた部屋に明かりを灯しながら歩き、玄関の扉を開けた。
「やっほ」
「……っ! 古賀! どうして……」
「ごめん、迷惑かなって思ったんだけど気になって」
古賀はバツが悪そうに頭を掻いている。
「体調はどう? 昼より顔色良さそうだな」
「うん。本当ごめん、急に帰ったりなんかして。映画も」
「気にするなよ。まだチケット買う前だったし! 大変なときはお互い様でしょ」
ニカッと白い歯を見せて笑う古賀は、俺の頭を優しく撫でた。
「少し散歩でもしない? 帰る前に話したくてさ」
「うん」
付けたばかりの明かりを消して、履き慣れたサンダルを引っかけた俺は古賀と連れ立って外へ出た。
少しずつ広がっていく紺が、オレンジを塗り潰そうとしている。夏は日が長いから、もうすぐ十九時だというのにまだほんの少し明るい。
ジメジメとした空気が肌に纏わりつく。夏の匂いがする。どうして今日はこんなに切ない気持ちになるのだろう。
「よく歩いたよなぁ、この道。中学の帰り道にさ、毎日この時間に散歩してる犬とじいさんいたよな」
「いたいた。何故か古賀にだけ懐いてた犬だろ」
「そう。未凪はいっつも吠えられてたよな。俺には触らせてくれたのに、あれは面白かった」
「何にも面白くねえよ」
「あはは、楽しかったなって意味だよ」
二人並んで笑いながら歩くかつての通学路。今でも何度も通っているけれど、この瞬間は何故か凄く懐かしい気持ちになった。
「あったあった。俺達といえば、やっぱここでしょ」
古賀の視線の先に映るのは、古びた小さな公園。遊具も滑り台とブランコという最低限のものしかなく、気持ちばかりの広場とベンチがあるだけのこじんまりとした場所だ。
「変わってないなぁ」
「そうは言ってもまだ五ヶ月しか経ってないからね」
「はは、そっか。でも地元離れてるとさ、やっぱりすげぇ懐かしくなるもんだよ」
俺達は揃ってブランコに乗ってみた。久しぶりに乗ってみれば、確かに少しだけ窮屈になったように感じる。
古賀と同じクラスだったのは一年と三年の頃。特に仲の良かった一年の頃は、学校帰りに二人でよく寄ったものだ。進級してからはたまに田所も交えて、三人で本気で水鉄砲をしたりバドミントンをしたりした。
「田所にも会ったんだよ。未凪の言うとおり全然変わってねえんだな、アイツ。どうやったら彼女できんのかなって、ハンバーガー食いながらずっと嘆いてたよ」
「本当に変わらねえよな。でもずっとあのままでいてほしい気もする。……たまにうざいけど」
「俺も後半鬱陶しくなって、半分寝ながら聞いてたよ。そしたらめっちゃキレられた」
「っはは、想像つくかも」
キレる田所の様子を頭で描いた俺は、思わず笑いをこぼした。
「あー、よかった。やっと笑った」
そんな俺のもとに、古賀の声が届いた。
「未凪はさ、昔から辛いこととかあっても絶対弱音吐かないから」
前に田所にも言われた気がする。あのときも今も、自分をしっかり見てくれている友達がいることが、ありがたいことだと思う。
「……何かあった?」
キ、と錆び付いた音がする。足をついて、俺はブランコを止めた。隣には優しい顔で俺の言葉を待つ古賀がいる。手すりを掴む手に力が入った。
古賀は静かに俺の言葉を待っていてくれたが、躊躇う俺はなかなか言葉を発することができなかった。
「やっぱり俺には話せない?」
「……悪い。古賀だからとか、そういうことじゃなくて。俺自身の問題っていうか」
信用していないわけではない。ただ、打ち明けて誰かに自分の内面を覗かれるよりは、自分の中だけで仕舞い込んでおいた方がいいと思う。
「いいよ。わかってるから、大丈夫。未凪は優しいな」
「優しくなんかないよ」
本当に優しければ、寄り添おうとしてくれる相手にこんな風に困った顔をさせるようなことはしていないだろう。
「未凪のいいところはさ、自分を冷静に見つめられるところでしょ。でも一人で溜め込んで爆発しちゃう前に、誰かを頼りな」
「そう、かな」
「一人で頑張りすぎるなよ」
そっと背中を押された気分になった。昔から、古賀のこういう包み込むような優しさが好きだった。今も好きの種類は変わってしまったけれど、大切な友人には変わりない。
「……うん、ありがとう」
「よし、じゃあそろそろ帰る? 体調悪かったのに、無理に連れ出してごめんな」
「いや、楽しかった。むしろ連れ出してくれてありがとうな」
俺はブランコを降りると、出口に向かって歩き始めた。ふと違和感を感じて後ろを振り返ると、古賀が数歩離れたところで立ち止まっている。
「古賀?」
「……未凪、ごめん」
「どうした?」
言い切る前に、身体が温かいものに包まれた。古賀に抱き締められていると気付いたのは、数秒遅れてからだった。
「っ、え、なに」
「やっぱりあのとき、俺のものにしておけばよかった」
「え?」
驚きに思考がぐるぐる回り出した俺をよそに、古賀は悔しそうに言葉を発する。
「中学の卒業式。未凪俺に何か言おうとしただろ」
俺は瞠目した。
そして数ヶ月前の記憶が蘇る。中学最後の卒業式、古賀と二人きりになった俺は、告おうとしたことがある。しかし直前になって怖気付き、結局想いを伝えることは叶わなかったのだ。
まさか古賀が察していたなんて、思いもよらなかった。
「あの顔がずっと気になってて、離れてからも未凪の事ばっか考えてるようになって……それで、気付いたんだ」
俺の背中に回った古賀の手に、ぐっと力が困る。
「未凪のことが好きだって」
言われた言葉が信じられなくて、言葉を失った。あの頃の俺がこの言葉を聞いたら、どれほど嬉しかったことだろう。
まっすぐで優しいところが好きだった。いつだって明るくて、落ち込んでいる姿など見たことがないほどに。久しぶりに会って、やっぱり古賀は俺の好きだった古賀のままだ。だけど、俺の気持ちは変わってしまった。今俺の頭の中を占めるのは、悔しいけどたった一人だけ。
「俺は、」
「知ってるよ。誰が好きなのか」
「えっ」
「見てればわかるよ。未凪ってわかりやすいもん」
耳元で古賀が苦笑する声が聞こえる。俺はそんなに顔に出やすいのだろうか。自分でもついさっき自分の気持ちに気付いたというのに。
「……でも、悲しむ未凪を見たくないんだ。俺の方が未凪を幸せにできると思う」
ゆっくりと身体が離れて、俺の頬に古賀の手が添えられた。いつになく真剣な瞳。ついこの間の記憶が蘇り、ハッとした。古賀の顔がゆっくりと俺に寄せられる。
(キス、される)
そう認識したとき、明確に嫌だと思ってしまった。俺は咄嗟に後退りしようとした。
「……、わっ」
すると、急に身体がぐん、と後ろに物凄い勢いで引かれた。バランスを崩す俺の背中は、硬い何かにぶつかる。お腹に回る大きな手には、見覚えがあった。
「門限だから」
おそるおそる顔だけで振り返ると、今一番会いたくなかった人が後ろにいた。
「そろそろ返して」
俺のことを自分のもとに引き寄せたまま、礼はしれっとそんなことを言った。言っておくが、うちには門限など存在しない。相変わらずテキトーなことを言っているなと呆れると同時に、何故かどうしようもなく安心感を覚える自分がいた。
「あはは、見かけによらず真面目ですね」
古賀はそう言って笑うと、俺と視線を合わせた。
「未凪、返事待ってるね」
「う、うん……。またな」
爽やかに公園から出ていく古賀を見送った後、礼はようやく俺を解放してくれた。
「帰んぞ。飯できてる」
「……ん」
礼はそう言うと、さっさと歩き始めた。俺は黙ってその後をついていく。すっかり辺りは暗くなっていて、歪な形の三日月が空の真ん中にぽっかりと浮かんでいる。
さっき礼が俺に触れたとき、礼からバニラのような甘い香りがした。俺の知る限り、あれは礼の匂いではない。だとすれば、今日一緒にいたあの女子のものなのだろう。迎えにきてくれて少し浮かれてしまったが、さっきまであの子といたのだと思い知らされてやりきれない気持ちになる。
「アイツと付き合うの?」
数歩先を歩く礼が、背を向けたまま問いかけてくる。どこから見られていたのだろう。
だけど、俺の気持ちはもう決まっている。
「俺は……」
「よかったな」
礼の声が、俺の声を遮った。
「アイツのこと、好きなんだろ?」
「は? 何で……」
「願ったり叶ったりじゃん。もうおまえにキスとか血迷ったことしないから、安心しろよ」
いつもより饒舌な礼がどこか上機嫌でそんなことを喋るものだから、俺は一気に不愉快になった。
俺が古賀を好きとか、そんなこと一言だって口にした覚えはない。それより『血迷った』とは何だ? 俺にキスをしたことは、礼にとっては自分の頭がおかしくなってしたことだと捉えられているのだろうか。
(ふざけるな。何だよそれ。こっちはずっと、あんたのことばっかり考えてたのに)
呑気に前を歩く背中が無性に憎らしくなって、悪態の一つでもついてやりたくなった。
「あんたこそ、女にベタベタ絡まれてた」
「は? いつ?」
「前に言ってたよな、女はどこもかしこも柔らかくて好きだって」
礼は素っ惚けたような顔をして振り向いた。
「なのに何で俺にキスなんかしたんだよ。俺が男が好きだって言ったから、同情でもした?」
「そんなんじゃねぇよ」
「あんたにはわかんねぇよ、俺の気持ちなんて……!」
悔しさと憤りがないまぜになって、捲し立てる口が止まらない。前にもこんなことがあった。礼に初めて感情をぶつけて、苛立ちに任せてぶん殴った夜のことだ。
「あんたにとってはキスなんて大したことないかもしれないけど、俺は、っ俺は……初めてだったのに……!」
悔しい。悔しくてたまらない。一方通行な気持ちも、馬鹿にされたみたいな惨めな気分も、絶対に叶いもしない想いを抱いてしまったことも。
もしも俺が女なら、その隣に相応しい人間になれていたのだろうか。礼に触れることを許されて、甘い声で名前を呼ばれて、俺にしか見せない笑顔を見せてくれたのだろうか。
女になりたいわけではない。それなのにこんなことを考えてしまうこと自体が、屈辱的でたまらない。礼に出会わなければ知らなかった。きっと礼と家族になったあの日から、俺の頭も身体も全部この人に奪われてしまったのだ。
出会って、話して、触れて、知って、俺ばかり惹かれて、崩れて。こんなことならもういっそ、
「あんたと兄弟になんか、なりたくなかった」
独白のように吐き出した声は、シンとした夜の住宅街に消えていった。礼は表情一つ変えることなく、俺の話を聞いていた。そして、ふ、と眉を垂らして笑った。
「そうかよ、悪かったな」
礼は再び俺に背を向ける。
「もう近寄らねえから。……嫌な思いさせてごめんな」
先帰ってるわ、と言って前を歩き出す礼の背が、どんどん小さくなっていく。怒りに任せてとんでもないことを口にしてしまったと、時間が経つにつれて後悔が募る。別れ際に見た寂しそうな顔が忘れられない。たくさん与えてもらったのに、最後にあんな顔をさせてしまった。
好きになるべきじゃなかった。そうでなければ、これからもきっと正しく兄弟でいられたのに。
壊したのは俺だ。全部、もう遅い。
名前を呼ばれてハッとした。目の前には不思議そうに首を傾げる古賀の姿がある。
「このパスタ美味しいよ。少し分けてあげるから食べな」
「ありがとう。俺のピザもあげる」
取り皿に互いの食事を載せて交換をする。古賀から貰ったバジルソースのパスタは麺が少し太めで、もっちりとしていて美味しい。
「美味い?」
「最高」
「俺も」
俺達は顔を見合わせて笑い合った。
古賀が地元に戻ってきてから、今日で会うのは三度目だ。古賀と過ごす時間は楽しくて、あっという間に時間が過ぎる。まるで昔に戻ったみたいに会話を交わせることが嬉しい。
「明日には仙台に戻るんだよな。寂しくなるな」
「そうだね。次に帰ってくるのは年末年始かな。また声掛けるよ」
「うん。連絡待ってる」
パスタをフォークに巻きつけながら、古賀はそういえば、と口を開いた。
「お兄さんとはどう? 仲良くやってる?」
「……あー……」
「……もしかして聞いちゃいけない話題だった?」
苦笑いを浮かべる俺に、古賀はおろおろと困ったような表情をしている。
「まぁ兄弟だし、色々あるよな。ウチも実家いるときは一つ下の弟とよく喧嘩してたなぁ」
「そうそう、色々ね」
適当に誤魔化してから、それ以上は追及されなかったので安堵する。思い出したくなかった男の顔を思い出してしまい、俺は心の中で深いため息を吐いた。
昨日の礼の意味不明な行動。あのせいで俺はあの後食事もろくに喉を通らなければ夜もなかなか寝付くことができないほどに、頭を悩ませてしまった。
あの瞬間、気付いてしまったことがある。
俺はあの人とのキスが嫌だったわけじゃなかったということ。
もちろん誰でもいいというわけではない。それなのに二度目のキスも無意識に受け入れる気でいた。
なのに礼は急にキスをするのをやめたかと思えば変な顔をして固まっているし、俺に悪態をついてどっかに行ってしまうし──。
(あの人、マジで何考えてるかわかんねぇ……!)
無視をすればしつこく追いかけてきて、無駄に顔近づけてくるし、やたらスキンシップ激しいし、キスするかと思えばしないし、本当に行動が読めない。そんなよくわからない礼の行動にいちいち振り回されて、ドキドキしている俺のことなんて、きっと知る由もない。
いい加減に認めよう。──俺は、礼を相手にときめいている。
そりゃ、あんなに思わせぶりな行動ばかりされたら誰だって意識せざるを得ないだろう。掴めそうで掴めない雲みたいな存在のあの人は、いつになったら俺と同じ地上にまで降り立ってくれるのだろう。
(っあー、クソ、また考えてる……!)
近頃は気がつくとこうなのだから、もうそろそろ末期なのかもしれない。
「そろそろ会計しようか」
「っ、おう」
ワンテンポ遅れて返事をする俺を、古賀はおかしそうにクスクスと笑った。
*
外に出るとギラギラと眩しい太陽が俺達に照り付けた。八月の暑さは我慢ならないほどにしんどいものがある。
「どっか入る? 映画とか」
「いいね。俺、観たいのあるんだよなぁ」
「じゃあそれにしよ」
古賀の観たい映画は洋画のようだ。昔からSFっぽい作品が好きだった古賀の趣味に付き合って、俺もたくさん古賀の好きな作品を観てきた。
久しぶりに映画館の空気を味わうのが楽しみで、浮き足立ってしまう。古賀と話しながら映画への期待を高めながら、俺達は映画館に向かった。
「久しぶりにゲーセン寄る?」
「昔よくクレーンゲームしたよな。古賀めっちゃ上手くてさ」
「そう。俺得意なんだよね」
古賀と俺は、映画までの暇潰しに映画館の隣にあるゲームセンターへと足を踏み入れた。
「あ、これとかどう? これなら未凪もできるでしょ、取りやすい機械だって」
「え、じゃあやってみようかな」
俺は言いながら財布を開いた。生憎小銭を切らしている。
「両替してくるわ。待ってて」
「あいよー」
古賀に声を掛けて駆け足で両替機を探すも見つからない。ふらふらとゲーセンの中をうろついていると、ふと視界に見覚えのある色が映った。
(……まさか、な)
そう思いつつも、もう一度来た道を戻る。心臓が嫌な音を立て始める。胸がザワザワして落ち着かない。
俺は再びさっきの通路に戻って、そこを覗いた。そこには、見慣れたミルクティーベージュの髪をした身長の高い男と、その腕に自分の腕を絡ませる小柄なショートヘアの女がいた。
その横顔が見えたとき、俺は絶句した。
(礼……)
女の腕を払うこともせず、並んでクレーンゲームの中の景品を眺めていた。どこからどう見ても、お似合いのカップルである。
礼は女子の話す言葉に耳を傾けて優しく微笑んでいる。女子は嬉しそうに礼の腕に寄り添って、背伸びをするとその頬にキスをした。俺は見ていられなくなって、その場から立ち去った。
「遅かったな。大丈夫だった?」
戻ると古賀が心配そうに眉を下げて待っていてくれていた。遅くなった申し訳なさからごめんとだけ発してから、声が出なくなった。
「どうかした? 何かあった?」
ついさっき見た光景が頭から離れない。女子に触られても拒絶しない礼、自分のものと言わんばかりにベタベタとくっつく女子。あれを思い出すだけで、心臓を圧迫されているような痛みが襲う。息が苦しい。
「未凪、顔色悪いけど……」
「古賀ごめん。少し体調悪いから、帰る」
「え、あっ、未凪っ……!」
無我夢中で走り出して、ゲーセンを出て駅まで走った。電車に乗ったらようやく、少しだけ冷や汗が引いた。
はあ、はあ。
呼吸が整わずに息が切れる。苦しい。
胸が痛い。ずっと。今までのチクチク棘が刺さるような痛みなんかじゃない。もっと酷い、心臓を一突きされたような痛み。きっと致命傷だった。あれは、きっと俺が見るべきものじゃなかった。
(礼が、好きだ)
この胸の痛みが切に訴えかけてくる。気付いてしまったら、もう後には戻れない。
*
帰宅してからリビングのソファーの上で横になっていたら、いつのまにか外がオレンジ色に染まり始めていた。
(古賀に悪いことしたな。明日には帰るって言ってたのに……)
あのときは自覚したばかりの気持ちにテンパって、上手く自分の気持ちを着地させることができなかった。冷静になってみた今振り返ってみると、ずっとそれらしい兆候はあったように思う。
いつしか礼のそばにいるのが心地良いと感じるようになって、俺はそれを兄弟になったからだと思い込んでいた。けれどあの日キスをされてから、無意識に蓋をしていたはずの感情が表に引っ張り出されて、今まで通りの関係を築けなくなっていた。
遅かれ早かれ自覚させられる運命だったのだろう。問題は、気持ちが俺の一方通行でしかないということ。よりによって一番近い相手を好きになってしまったことが、俺の最大の過ちだと思った。
ピンポーン。
呼び鈴が鳴り、俺はゆっくりと身体を起こした。誰かが宅配を頼んだのだろうか。ついでに暗くなってきた部屋に明かりを灯しながら歩き、玄関の扉を開けた。
「やっほ」
「……っ! 古賀! どうして……」
「ごめん、迷惑かなって思ったんだけど気になって」
古賀はバツが悪そうに頭を掻いている。
「体調はどう? 昼より顔色良さそうだな」
「うん。本当ごめん、急に帰ったりなんかして。映画も」
「気にするなよ。まだチケット買う前だったし! 大変なときはお互い様でしょ」
ニカッと白い歯を見せて笑う古賀は、俺の頭を優しく撫でた。
「少し散歩でもしない? 帰る前に話したくてさ」
「うん」
付けたばかりの明かりを消して、履き慣れたサンダルを引っかけた俺は古賀と連れ立って外へ出た。
少しずつ広がっていく紺が、オレンジを塗り潰そうとしている。夏は日が長いから、もうすぐ十九時だというのにまだほんの少し明るい。
ジメジメとした空気が肌に纏わりつく。夏の匂いがする。どうして今日はこんなに切ない気持ちになるのだろう。
「よく歩いたよなぁ、この道。中学の帰り道にさ、毎日この時間に散歩してる犬とじいさんいたよな」
「いたいた。何故か古賀にだけ懐いてた犬だろ」
「そう。未凪はいっつも吠えられてたよな。俺には触らせてくれたのに、あれは面白かった」
「何にも面白くねえよ」
「あはは、楽しかったなって意味だよ」
二人並んで笑いながら歩くかつての通学路。今でも何度も通っているけれど、この瞬間は何故か凄く懐かしい気持ちになった。
「あったあった。俺達といえば、やっぱここでしょ」
古賀の視線の先に映るのは、古びた小さな公園。遊具も滑り台とブランコという最低限のものしかなく、気持ちばかりの広場とベンチがあるだけのこじんまりとした場所だ。
「変わってないなぁ」
「そうは言ってもまだ五ヶ月しか経ってないからね」
「はは、そっか。でも地元離れてるとさ、やっぱりすげぇ懐かしくなるもんだよ」
俺達は揃ってブランコに乗ってみた。久しぶりに乗ってみれば、確かに少しだけ窮屈になったように感じる。
古賀と同じクラスだったのは一年と三年の頃。特に仲の良かった一年の頃は、学校帰りに二人でよく寄ったものだ。進級してからはたまに田所も交えて、三人で本気で水鉄砲をしたりバドミントンをしたりした。
「田所にも会ったんだよ。未凪の言うとおり全然変わってねえんだな、アイツ。どうやったら彼女できんのかなって、ハンバーガー食いながらずっと嘆いてたよ」
「本当に変わらねえよな。でもずっとあのままでいてほしい気もする。……たまにうざいけど」
「俺も後半鬱陶しくなって、半分寝ながら聞いてたよ。そしたらめっちゃキレられた」
「っはは、想像つくかも」
キレる田所の様子を頭で描いた俺は、思わず笑いをこぼした。
「あー、よかった。やっと笑った」
そんな俺のもとに、古賀の声が届いた。
「未凪はさ、昔から辛いこととかあっても絶対弱音吐かないから」
前に田所にも言われた気がする。あのときも今も、自分をしっかり見てくれている友達がいることが、ありがたいことだと思う。
「……何かあった?」
キ、と錆び付いた音がする。足をついて、俺はブランコを止めた。隣には優しい顔で俺の言葉を待つ古賀がいる。手すりを掴む手に力が入った。
古賀は静かに俺の言葉を待っていてくれたが、躊躇う俺はなかなか言葉を発することができなかった。
「やっぱり俺には話せない?」
「……悪い。古賀だからとか、そういうことじゃなくて。俺自身の問題っていうか」
信用していないわけではない。ただ、打ち明けて誰かに自分の内面を覗かれるよりは、自分の中だけで仕舞い込んでおいた方がいいと思う。
「いいよ。わかってるから、大丈夫。未凪は優しいな」
「優しくなんかないよ」
本当に優しければ、寄り添おうとしてくれる相手にこんな風に困った顔をさせるようなことはしていないだろう。
「未凪のいいところはさ、自分を冷静に見つめられるところでしょ。でも一人で溜め込んで爆発しちゃう前に、誰かを頼りな」
「そう、かな」
「一人で頑張りすぎるなよ」
そっと背中を押された気分になった。昔から、古賀のこういう包み込むような優しさが好きだった。今も好きの種類は変わってしまったけれど、大切な友人には変わりない。
「……うん、ありがとう」
「よし、じゃあそろそろ帰る? 体調悪かったのに、無理に連れ出してごめんな」
「いや、楽しかった。むしろ連れ出してくれてありがとうな」
俺はブランコを降りると、出口に向かって歩き始めた。ふと違和感を感じて後ろを振り返ると、古賀が数歩離れたところで立ち止まっている。
「古賀?」
「……未凪、ごめん」
「どうした?」
言い切る前に、身体が温かいものに包まれた。古賀に抱き締められていると気付いたのは、数秒遅れてからだった。
「っ、え、なに」
「やっぱりあのとき、俺のものにしておけばよかった」
「え?」
驚きに思考がぐるぐる回り出した俺をよそに、古賀は悔しそうに言葉を発する。
「中学の卒業式。未凪俺に何か言おうとしただろ」
俺は瞠目した。
そして数ヶ月前の記憶が蘇る。中学最後の卒業式、古賀と二人きりになった俺は、告おうとしたことがある。しかし直前になって怖気付き、結局想いを伝えることは叶わなかったのだ。
まさか古賀が察していたなんて、思いもよらなかった。
「あの顔がずっと気になってて、離れてからも未凪の事ばっか考えてるようになって……それで、気付いたんだ」
俺の背中に回った古賀の手に、ぐっと力が困る。
「未凪のことが好きだって」
言われた言葉が信じられなくて、言葉を失った。あの頃の俺がこの言葉を聞いたら、どれほど嬉しかったことだろう。
まっすぐで優しいところが好きだった。いつだって明るくて、落ち込んでいる姿など見たことがないほどに。久しぶりに会って、やっぱり古賀は俺の好きだった古賀のままだ。だけど、俺の気持ちは変わってしまった。今俺の頭の中を占めるのは、悔しいけどたった一人だけ。
「俺は、」
「知ってるよ。誰が好きなのか」
「えっ」
「見てればわかるよ。未凪ってわかりやすいもん」
耳元で古賀が苦笑する声が聞こえる。俺はそんなに顔に出やすいのだろうか。自分でもついさっき自分の気持ちに気付いたというのに。
「……でも、悲しむ未凪を見たくないんだ。俺の方が未凪を幸せにできると思う」
ゆっくりと身体が離れて、俺の頬に古賀の手が添えられた。いつになく真剣な瞳。ついこの間の記憶が蘇り、ハッとした。古賀の顔がゆっくりと俺に寄せられる。
(キス、される)
そう認識したとき、明確に嫌だと思ってしまった。俺は咄嗟に後退りしようとした。
「……、わっ」
すると、急に身体がぐん、と後ろに物凄い勢いで引かれた。バランスを崩す俺の背中は、硬い何かにぶつかる。お腹に回る大きな手には、見覚えがあった。
「門限だから」
おそるおそる顔だけで振り返ると、今一番会いたくなかった人が後ろにいた。
「そろそろ返して」
俺のことを自分のもとに引き寄せたまま、礼はしれっとそんなことを言った。言っておくが、うちには門限など存在しない。相変わらずテキトーなことを言っているなと呆れると同時に、何故かどうしようもなく安心感を覚える自分がいた。
「あはは、見かけによらず真面目ですね」
古賀はそう言って笑うと、俺と視線を合わせた。
「未凪、返事待ってるね」
「う、うん……。またな」
爽やかに公園から出ていく古賀を見送った後、礼はようやく俺を解放してくれた。
「帰んぞ。飯できてる」
「……ん」
礼はそう言うと、さっさと歩き始めた。俺は黙ってその後をついていく。すっかり辺りは暗くなっていて、歪な形の三日月が空の真ん中にぽっかりと浮かんでいる。
さっき礼が俺に触れたとき、礼からバニラのような甘い香りがした。俺の知る限り、あれは礼の匂いではない。だとすれば、今日一緒にいたあの女子のものなのだろう。迎えにきてくれて少し浮かれてしまったが、さっきまであの子といたのだと思い知らされてやりきれない気持ちになる。
「アイツと付き合うの?」
数歩先を歩く礼が、背を向けたまま問いかけてくる。どこから見られていたのだろう。
だけど、俺の気持ちはもう決まっている。
「俺は……」
「よかったな」
礼の声が、俺の声を遮った。
「アイツのこと、好きなんだろ?」
「は? 何で……」
「願ったり叶ったりじゃん。もうおまえにキスとか血迷ったことしないから、安心しろよ」
いつもより饒舌な礼がどこか上機嫌でそんなことを喋るものだから、俺は一気に不愉快になった。
俺が古賀を好きとか、そんなこと一言だって口にした覚えはない。それより『血迷った』とは何だ? 俺にキスをしたことは、礼にとっては自分の頭がおかしくなってしたことだと捉えられているのだろうか。
(ふざけるな。何だよそれ。こっちはずっと、あんたのことばっかり考えてたのに)
呑気に前を歩く背中が無性に憎らしくなって、悪態の一つでもついてやりたくなった。
「あんたこそ、女にベタベタ絡まれてた」
「は? いつ?」
「前に言ってたよな、女はどこもかしこも柔らかくて好きだって」
礼は素っ惚けたような顔をして振り向いた。
「なのに何で俺にキスなんかしたんだよ。俺が男が好きだって言ったから、同情でもした?」
「そんなんじゃねぇよ」
「あんたにはわかんねぇよ、俺の気持ちなんて……!」
悔しさと憤りがないまぜになって、捲し立てる口が止まらない。前にもこんなことがあった。礼に初めて感情をぶつけて、苛立ちに任せてぶん殴った夜のことだ。
「あんたにとってはキスなんて大したことないかもしれないけど、俺は、っ俺は……初めてだったのに……!」
悔しい。悔しくてたまらない。一方通行な気持ちも、馬鹿にされたみたいな惨めな気分も、絶対に叶いもしない想いを抱いてしまったことも。
もしも俺が女なら、その隣に相応しい人間になれていたのだろうか。礼に触れることを許されて、甘い声で名前を呼ばれて、俺にしか見せない笑顔を見せてくれたのだろうか。
女になりたいわけではない。それなのにこんなことを考えてしまうこと自体が、屈辱的でたまらない。礼に出会わなければ知らなかった。きっと礼と家族になったあの日から、俺の頭も身体も全部この人に奪われてしまったのだ。
出会って、話して、触れて、知って、俺ばかり惹かれて、崩れて。こんなことならもういっそ、
「あんたと兄弟になんか、なりたくなかった」
独白のように吐き出した声は、シンとした夜の住宅街に消えていった。礼は表情一つ変えることなく、俺の話を聞いていた。そして、ふ、と眉を垂らして笑った。
「そうかよ、悪かったな」
礼は再び俺に背を向ける。
「もう近寄らねえから。……嫌な思いさせてごめんな」
先帰ってるわ、と言って前を歩き出す礼の背が、どんどん小さくなっていく。怒りに任せてとんでもないことを口にしてしまったと、時間が経つにつれて後悔が募る。別れ際に見た寂しそうな顔が忘れられない。たくさん与えてもらったのに、最後にあんな顔をさせてしまった。
好きになるべきじゃなかった。そうでなければ、これからもきっと正しく兄弟でいられたのに。
壊したのは俺だ。全部、もう遅い。