夏は日が長い。午後七時といえどまだ辺りはうっすら明るくて、身を隠そうと思っても隠しきれない。
抜き足、差し足、忍び足。まるで泥棒のように静かに家の敷地内に侵入した俺は、そっと鍵穴に鍵を差し込んだ。なるべく静かに鍵を回し、音を立てないように扉をゆっくりと開く。
廊下は真っ暗だった。靴もないし、どうやらまだあの人は帰宅していないらしい。
ほっとした俺はいそいそと靴を脱いでからしっかりと揃え、スリッパに履き替えて廊下を進むと、突き当たりにあるダイニングの扉を開けた。
「おかえり」
「……っ!」
危なかった。思わず悲鳴をあげてしまうところだった。
ダイニングには部屋着に着替えた礼がいて、ソファーに腰掛けてゲームをしていたようだった。
「どうした? そんなに驚いた顔して」
「靴……」
「ああ、帰ってくるときに雨に濡れたから、外で干してんだよ」
──何でこのタイミングで!
すんでのところでそう叫ぶのを我慢した俺を褒めてほしい。俺は焦りを悟られないように押し殺すと、自分の部屋に戻ろうと早足で階段へと向かった。
しかし一段目に足をかけようとしたところで、背後から腕を掴まれて逃亡は阻止されてしまう。
「おい、何で避けんの」
礼の気配がする。俺は振り返ることもなく答えた。
「……別に、避けてねぇし」
「へぇ?」
「ち、近いんだけど」
顔を覗き込まれてふいっと逸らす。礼はそれでも俺の腕を離す気はないらしく、その場を動かない。
「どこ行ってた?」
「関係ないだろ」
「また田所とかいう男?」
「そうだとしても、あんたには言わない」
我ながらツンとした態度をとった俺は、相変わらず礼に顔を向けることができずにいる。それもこれも、全部この男のせいなわけだが。
数日前、礼が突然俺にキスをした。
あの日から俺はどういうわけか、礼の顔をまともにみることができない。それどころか、以前のように普通に会話を交わすことすらできなくなってしまった。
(俺だって、わけわかんねえよ!)
礼にキスをされた直後、頭が真っ白になって気付いたら部屋に戻っていた。一睡もできずに朝を迎え、何も手につかないまま夏休み初日を棒に振ったことは今でも根に持っている。
礼は彼女を取っ替え引っ替えしていたぐらいだし、キスの一つや二つ、きっとどうってことないのだろう。しかし俺にとっては大問題である。
何故なら俺は、あれが初めてのキスだったから。
それをあろうことか『兄』に奪われ、しかもその張本人はつゆほども気にしてなさそうなところを見ると、さすがの俺も傷付く。どうして俺にキスをしたのかと、問いただしたいがそんな女々しいことが聞けるはずもない。
(大体、あの人はノンケだったはずだろ。なのに何で、男の俺に?)
いくらキスという行為に慣れていたって、簡単に男にもできるものなのだろうか。考えれば考えるほど迷宮入りしてしまう。一人になれば嫌でも思考を巡らせてしまうし、あのときのことを思い出してしまって、いてもたってもいられなくなるのだ。
だから俺は礼を避けることにした。もちろんあからさまに避け始めた俺を、礼は不審に思ったらしく事あるごとにこうして詰め寄ってくる。心臓に悪いし、上手く話せないし、本当に勘弁してほしい。
「そろそろ離してよ、痛いんだけど」
「……」
ほら、まただ。礼は俺が痛いといえば、こうして結局呆気なく拘束を解いてくれる。俺はそんな礼の優しさに甘えて、今日も礼から逃れるのだ。
ピンポーン。
階段を上っていると、不意に呼び鈴が鳴った。俺出るわ、と廊下に出て行った礼の背を見送ったが、なんとなく気になって上ったばかりの階段を降りる。
廊下に繋がる扉を少し開いて聞き耳を立てると、若い男性の声が聞こえてきた。
「──……あれ? ここ香月さんの家ですよね? 未凪いますか?」
自分の名前が聞こえて咄嗟に扉を開けて廊下に出てみれば、見覚えのある青年が玄関にいた。
「古賀?」
俺が呼び掛けると、青年はぱあっと顔を明るくした。
「未凪! 久しぶり」
「どうしたんだよ、引っ越したんじゃ……」
「帰省中でさ。未凪に会いにきた」
困惑と驚きがないまぜになりながら玄関までやってくると、相変わらずの爽やかな笑顔が俺を迎えてくれた。もう会う機会はないと思っていたので、またこの笑顔を見られるなんて思いもよらなかった。
「俺スマホ変えたんだけど、また連絡先教えてくれない?」
「あ、うん」
俺はポケットからスマホを取り出すと、古賀に近づいた。メッセージアプリを立ち上げて、自分の連絡先を古賀に教える。
「あ。アイコン、相変わらずこのキャラなんだ」
「うん。今でも好きだよ」
「未凪といえばやっぱりコイツだよな。懐かし〜」
俺の好きなキャラクター、犬走先生作のウサギマン。礼には以前馬鹿にされたが、古賀は一度も馬鹿にすることなくいつも一緒に作品を楽しんでくれた。
「今度飯行こうよ。明日とか空いてたりしない?」
「空いてるよ」
「よっしゃ。じゃあ時間とかまた連絡するな」
古賀は白い歯を見せて爽やかに笑うと、そばで黙っている礼に会釈をした後、俺に手を振って去っていった。
「……ダレ?」
ずっと無言だった礼が、何故か少し不機嫌そうに眉根を寄せている。
「中学の同級生」
「へー」
「県外の高校に行ったんだよ。まさかまた会えると思わなかったな」
俺はスマホの画面を見た。新しく追加された古賀とのトーク画面には、帰り道で押しているのだろうか、よろしくと頭を下げる犬のスタンプが送られてきている。俺もウサギマンのスタンプを返してやると、更に犬が尻尾を振っているスタンプが送られてきた。
ほっこりするやり取りに知らぬ間に俺は頬を緩めていたのだろう。不意に礼からの視線を感じて顔を上げた。
「なあ、もしかして、アイツのこと好きとか?」
俺はみるみるうちに目を見開いた。
「……は!? な、なんで」
「いやなんとなく。仲良さそうだったし、なんかおまえいつもより猫被ってたし」
「被ってねえし!」
あたふたしながらぎゃんっと噛み付くように否定すれば、「否定するとこそこなんだ」とつまらなそうな声が返ってくる。
礼の言うことは半分正解で、半分間違っている。古賀に再会して嬉しい反面、俺は内心で動揺していた。
古賀は中学のときの同級生で、俺の初恋の相手だからだ。
卒業式のときに告白をしようとしてタイミングを逃した俺は、県外に行ってしまった古賀とは音信不通になっていた。それなのに、今またこのタイミングで再会するとは。
「なんか胡散臭そうじゃん、アイツ。あんな奴のどこがいいわけ?」
「何も知らねえくせに、俺の友達を悪く言うなよ」
「……友達、ねぇ」
礼はどこか疑わしいと言わんばかりの視線を俺に向けてくる。やましいことなんて何一つないはずなのに、俺は何だか後ろめたい気持ちになった。
「ムカつく」
「ぅわっ、何すんだよ!」
「バイバイ」
何が機嫌を損ねてしまったのだろう。俺の頬を片手一つでむにゅっと潰して言った礼は、背を向けてさっさと自室に戻ってしまった。
*
次の日、俺は古賀と近くの駅で待ち合わせをしていた。柱の前に立っている古賀のもとへ小走りで駆け寄ると、俺に気付いた古賀が朗らかに笑って片手を上げる。
「どこ行く?」
「あそこ行かない? 中学のときよく行ってたカレーの店」
「あーいいね。最近行ってなかったんだよ」
俺達はぽつぽつと雑談をしながら、目的の場所まで並んで歩いた。
店に着くとランチタイムの店内はそこそこ混んでいて、五分ほど待った後に順番が来た。席に案内されて即決でメニューを頼んだ俺達は、やっと一息つくことができた。
「最近どう? そっちの生活には慣れた?」
「それなりだよ。部活がめっちゃ忙しいから、今回の帰省もほとんど無理やりもぎ取ったんだよね」
「強豪校だもんな。練習キツかったりすんの?」
「んー、まぁハードだけど楽しいよ。前より筋肉もついたし。見てみ?」
古賀がシャツの袖を捲ると、逞しい上腕二頭筋が露わになった。得意げにドヤ顔をする古賀を見て、俺は思わず吹き出してしまう。
「あはは、すげえ。短期間でこんなに変わるんだな」
「身長も伸びたんだぜ。百八十六センチ」
「うわ、マジか。俺とちょうど三十センチ差じゃん」
運動部の高校生の伸び代は恐ろしい。己の貧弱な身体が恥ずかしくなるほどだ。
「未凪こそどう?」
「俺はまあ普通だよ。田所と同じクラスでさ、ずっとうるせえのアイツ」
「うわ、そうなんだ。いいな〜。俺も二人と同じ高校に通いたかったよ」
古賀がいたらどんな高校生活だっただろう。モテたいとうるさい田所を宥めてくれただろうし、爽やかな笑顔で少し毒のあるツッコミを入れていたことだろう。
容易に楽しい生活が想像できて、穏やかな気持ちになった。
「気になってたんだけど、未凪って目悪かったっけ?」
「え?悪くないけど……。あー、これ?」
不思議そうに古賀が聞くので何かと思えば、その視線は俺のメガネに向けられていた。
「これは女に間違えられたくなくてかけてんの」
「っあはは、そうなんだ。伊達メガネってことね。ずっとかけてるの?」
「うん。高校入ってからはもうずっとかな。家ん中でもちょっと前まではずっとつけっぱなしだったんだけど……」
途中で言葉を詰まらせ、思い出すのは一度だけ礼が気まぐれに発したあの四文字。
可愛いと言われて、たったそれだけで心臓が爆発してしまうかと思ったあの瞬間。
あれから言われた言葉を真に受けて家の中でもメガネを外すようになっただなんて、口が裂けても言うことはできまい。
「でもさ、俺の前では外してよ」
自然と礼のことを考えていた俺は、古賀の声によって現実に引き戻される。
「俺は女とか思わないし。未凪は未凪だって、ちゃんとわかってるから」
純粋でまっすぐな言葉と、柔らかく温かい表情。こうやってストレートに言葉を届けてくれるところとか、俺のことを受け入れて包み込んでくれるところが好きだったのだと、今になって思い出す。
「……わかった」
俺は自らメガネを外すと、畳んで机の上にそっと置いた。少し照れ臭い気持ちで顔を上げると、正面に嬉しそうな古賀の笑顔があった。
「やっと未凪と目が合った」
「さっきから合ってただろ」
「レンズ越しだったから寂しかったんだよ」
「ふふ、なんだよそれ」
今の俺には眩しすぎる古賀の笑顔は、以前だったら胸が熱くなっていたはずなのに、不思議と今は心臓がうるさく騒ぎ出すこともなかった。
「そういえば、昨日家にいた男の人は誰?」
「ああ、あれは……」
県外に行ってしまった古賀には再婚したことをまだ話していない。かいつまんで事情を説明すると、古賀の表情がじわじわと驚きに変わっていった。
「へえ、お兄さん! 未凪と歳近いよね?」
「うん、一個上で同じ高校に通ってる」
「だから仲が良いんだね」
「? 俺仲良いなんて言ったっけ?」
そもそも礼の話すら今初めてしたはずだが。首を傾げる俺に、古賀は意味深な笑顔を浮かべるだけだった。
「ふふ、俺が勝手にそう思っただけだよ」
*
「おかえり」
「……ただいま」
昨日とは違って家の明かりがついていたから覚悟はしていたが、二階に上がるとちょうど礼が部屋から出てきた。
さすがに正面に立たれては避けられないので渋々返事をかえしてから、その身体を避けて自室に入ろうとしたところで、
「デート、楽しかった?」
と声が投げかけられた。
ぱっと振り向くと、礼は壁にもたれてこちらを見ていた。
「オシャレして、あんなに嫌がってたメガネまで外して、健気だな〜。好きな人に会うから?」
やけに口調が刺々しい。馬鹿にされているような気分になって、むっとせずにはいられなかった。
「……うっさ。あんたに関係ない」
イライラして今度こそ自室に入ろうとすると、その腕を引っ張られて、ドアに背中を押し付けられた。逃げられないように腕を縫い止められて身動きが取れない。
「っ、なにすんだよ! 離せよっ」
「やだ。だっておまえ、放っておいたらすぐ逃げるだろ」
何も、俺だって本当は逃げたいわけではない。ただ、身体が勝手に反応してしまうのだ。目を合わせることも、触れることも、あの日から意識してしまって仕方がない。
「なあ」
「……なんだよ」
「この前の、もう一回していい?」
今だって至近距離にいる礼の顔が見れなくて困っているというのに、礼がいきなりそんなことを言うもんだから、俺は瞠目しながら顔を上げた。
「……っ」
あの時みたいに少し屈んだ礼が、俺の顔に自分の顔をそっと寄せる。
俺ははくはくと僅かに唇を動かす。色素の薄いブラウンの瞳には、俺だけが映し出されている。今にもキスをされそうだとわかっていても尚、俺は動くことができなかった。
(逃げなきゃ、キスされる……)
でも、それもいいかと受け入れる自分がいる。
ずっと礼を避け続けながら、あんなことをしておいて飄々としている礼を見て、心のどこかで『もう一度』を期待する自分がいた。
でもそんなはしたない自分を受け入れることができずに、礼から逃げるのと同時に俺は自分の気持ちからも逃げ続けていたのだ。
鼻と鼻がくっつく。あと数ミリで唇が触れそうになった、そのとき。
礼は突然、離れていった。
「……?」
不思議に思って礼を見上げると、礼は初めて見るような狼狽えた表情をしていた。動揺と困惑の色を浮かべて、視線を彷徨わせている。
「礼?」
俺が声を掛けると、やっとその瞳に俺が映った。
「……おまえ、抵抗しろよ。バカ」
礼はそれだけ言うと、俺の頭をぽんと叩いて一階へ降りていってしまった。俺は、ぽかんとしたまましばらくその場に立ち尽くしていた。
抜き足、差し足、忍び足。まるで泥棒のように静かに家の敷地内に侵入した俺は、そっと鍵穴に鍵を差し込んだ。なるべく静かに鍵を回し、音を立てないように扉をゆっくりと開く。
廊下は真っ暗だった。靴もないし、どうやらまだあの人は帰宅していないらしい。
ほっとした俺はいそいそと靴を脱いでからしっかりと揃え、スリッパに履き替えて廊下を進むと、突き当たりにあるダイニングの扉を開けた。
「おかえり」
「……っ!」
危なかった。思わず悲鳴をあげてしまうところだった。
ダイニングには部屋着に着替えた礼がいて、ソファーに腰掛けてゲームをしていたようだった。
「どうした? そんなに驚いた顔して」
「靴……」
「ああ、帰ってくるときに雨に濡れたから、外で干してんだよ」
──何でこのタイミングで!
すんでのところでそう叫ぶのを我慢した俺を褒めてほしい。俺は焦りを悟られないように押し殺すと、自分の部屋に戻ろうと早足で階段へと向かった。
しかし一段目に足をかけようとしたところで、背後から腕を掴まれて逃亡は阻止されてしまう。
「おい、何で避けんの」
礼の気配がする。俺は振り返ることもなく答えた。
「……別に、避けてねぇし」
「へぇ?」
「ち、近いんだけど」
顔を覗き込まれてふいっと逸らす。礼はそれでも俺の腕を離す気はないらしく、その場を動かない。
「どこ行ってた?」
「関係ないだろ」
「また田所とかいう男?」
「そうだとしても、あんたには言わない」
我ながらツンとした態度をとった俺は、相変わらず礼に顔を向けることができずにいる。それもこれも、全部この男のせいなわけだが。
数日前、礼が突然俺にキスをした。
あの日から俺はどういうわけか、礼の顔をまともにみることができない。それどころか、以前のように普通に会話を交わすことすらできなくなってしまった。
(俺だって、わけわかんねえよ!)
礼にキスをされた直後、頭が真っ白になって気付いたら部屋に戻っていた。一睡もできずに朝を迎え、何も手につかないまま夏休み初日を棒に振ったことは今でも根に持っている。
礼は彼女を取っ替え引っ替えしていたぐらいだし、キスの一つや二つ、きっとどうってことないのだろう。しかし俺にとっては大問題である。
何故なら俺は、あれが初めてのキスだったから。
それをあろうことか『兄』に奪われ、しかもその張本人はつゆほども気にしてなさそうなところを見ると、さすがの俺も傷付く。どうして俺にキスをしたのかと、問いただしたいがそんな女々しいことが聞けるはずもない。
(大体、あの人はノンケだったはずだろ。なのに何で、男の俺に?)
いくらキスという行為に慣れていたって、簡単に男にもできるものなのだろうか。考えれば考えるほど迷宮入りしてしまう。一人になれば嫌でも思考を巡らせてしまうし、あのときのことを思い出してしまって、いてもたってもいられなくなるのだ。
だから俺は礼を避けることにした。もちろんあからさまに避け始めた俺を、礼は不審に思ったらしく事あるごとにこうして詰め寄ってくる。心臓に悪いし、上手く話せないし、本当に勘弁してほしい。
「そろそろ離してよ、痛いんだけど」
「……」
ほら、まただ。礼は俺が痛いといえば、こうして結局呆気なく拘束を解いてくれる。俺はそんな礼の優しさに甘えて、今日も礼から逃れるのだ。
ピンポーン。
階段を上っていると、不意に呼び鈴が鳴った。俺出るわ、と廊下に出て行った礼の背を見送ったが、なんとなく気になって上ったばかりの階段を降りる。
廊下に繋がる扉を少し開いて聞き耳を立てると、若い男性の声が聞こえてきた。
「──……あれ? ここ香月さんの家ですよね? 未凪いますか?」
自分の名前が聞こえて咄嗟に扉を開けて廊下に出てみれば、見覚えのある青年が玄関にいた。
「古賀?」
俺が呼び掛けると、青年はぱあっと顔を明るくした。
「未凪! 久しぶり」
「どうしたんだよ、引っ越したんじゃ……」
「帰省中でさ。未凪に会いにきた」
困惑と驚きがないまぜになりながら玄関までやってくると、相変わらずの爽やかな笑顔が俺を迎えてくれた。もう会う機会はないと思っていたので、またこの笑顔を見られるなんて思いもよらなかった。
「俺スマホ変えたんだけど、また連絡先教えてくれない?」
「あ、うん」
俺はポケットからスマホを取り出すと、古賀に近づいた。メッセージアプリを立ち上げて、自分の連絡先を古賀に教える。
「あ。アイコン、相変わらずこのキャラなんだ」
「うん。今でも好きだよ」
「未凪といえばやっぱりコイツだよな。懐かし〜」
俺の好きなキャラクター、犬走先生作のウサギマン。礼には以前馬鹿にされたが、古賀は一度も馬鹿にすることなくいつも一緒に作品を楽しんでくれた。
「今度飯行こうよ。明日とか空いてたりしない?」
「空いてるよ」
「よっしゃ。じゃあ時間とかまた連絡するな」
古賀は白い歯を見せて爽やかに笑うと、そばで黙っている礼に会釈をした後、俺に手を振って去っていった。
「……ダレ?」
ずっと無言だった礼が、何故か少し不機嫌そうに眉根を寄せている。
「中学の同級生」
「へー」
「県外の高校に行ったんだよ。まさかまた会えると思わなかったな」
俺はスマホの画面を見た。新しく追加された古賀とのトーク画面には、帰り道で押しているのだろうか、よろしくと頭を下げる犬のスタンプが送られてきている。俺もウサギマンのスタンプを返してやると、更に犬が尻尾を振っているスタンプが送られてきた。
ほっこりするやり取りに知らぬ間に俺は頬を緩めていたのだろう。不意に礼からの視線を感じて顔を上げた。
「なあ、もしかして、アイツのこと好きとか?」
俺はみるみるうちに目を見開いた。
「……は!? な、なんで」
「いやなんとなく。仲良さそうだったし、なんかおまえいつもより猫被ってたし」
「被ってねえし!」
あたふたしながらぎゃんっと噛み付くように否定すれば、「否定するとこそこなんだ」とつまらなそうな声が返ってくる。
礼の言うことは半分正解で、半分間違っている。古賀に再会して嬉しい反面、俺は内心で動揺していた。
古賀は中学のときの同級生で、俺の初恋の相手だからだ。
卒業式のときに告白をしようとしてタイミングを逃した俺は、県外に行ってしまった古賀とは音信不通になっていた。それなのに、今またこのタイミングで再会するとは。
「なんか胡散臭そうじゃん、アイツ。あんな奴のどこがいいわけ?」
「何も知らねえくせに、俺の友達を悪く言うなよ」
「……友達、ねぇ」
礼はどこか疑わしいと言わんばかりの視線を俺に向けてくる。やましいことなんて何一つないはずなのに、俺は何だか後ろめたい気持ちになった。
「ムカつく」
「ぅわっ、何すんだよ!」
「バイバイ」
何が機嫌を損ねてしまったのだろう。俺の頬を片手一つでむにゅっと潰して言った礼は、背を向けてさっさと自室に戻ってしまった。
*
次の日、俺は古賀と近くの駅で待ち合わせをしていた。柱の前に立っている古賀のもとへ小走りで駆け寄ると、俺に気付いた古賀が朗らかに笑って片手を上げる。
「どこ行く?」
「あそこ行かない? 中学のときよく行ってたカレーの店」
「あーいいね。最近行ってなかったんだよ」
俺達はぽつぽつと雑談をしながら、目的の場所まで並んで歩いた。
店に着くとランチタイムの店内はそこそこ混んでいて、五分ほど待った後に順番が来た。席に案内されて即決でメニューを頼んだ俺達は、やっと一息つくことができた。
「最近どう? そっちの生活には慣れた?」
「それなりだよ。部活がめっちゃ忙しいから、今回の帰省もほとんど無理やりもぎ取ったんだよね」
「強豪校だもんな。練習キツかったりすんの?」
「んー、まぁハードだけど楽しいよ。前より筋肉もついたし。見てみ?」
古賀がシャツの袖を捲ると、逞しい上腕二頭筋が露わになった。得意げにドヤ顔をする古賀を見て、俺は思わず吹き出してしまう。
「あはは、すげえ。短期間でこんなに変わるんだな」
「身長も伸びたんだぜ。百八十六センチ」
「うわ、マジか。俺とちょうど三十センチ差じゃん」
運動部の高校生の伸び代は恐ろしい。己の貧弱な身体が恥ずかしくなるほどだ。
「未凪こそどう?」
「俺はまあ普通だよ。田所と同じクラスでさ、ずっとうるせえのアイツ」
「うわ、そうなんだ。いいな〜。俺も二人と同じ高校に通いたかったよ」
古賀がいたらどんな高校生活だっただろう。モテたいとうるさい田所を宥めてくれただろうし、爽やかな笑顔で少し毒のあるツッコミを入れていたことだろう。
容易に楽しい生活が想像できて、穏やかな気持ちになった。
「気になってたんだけど、未凪って目悪かったっけ?」
「え?悪くないけど……。あー、これ?」
不思議そうに古賀が聞くので何かと思えば、その視線は俺のメガネに向けられていた。
「これは女に間違えられたくなくてかけてんの」
「っあはは、そうなんだ。伊達メガネってことね。ずっとかけてるの?」
「うん。高校入ってからはもうずっとかな。家ん中でもちょっと前まではずっとつけっぱなしだったんだけど……」
途中で言葉を詰まらせ、思い出すのは一度だけ礼が気まぐれに発したあの四文字。
可愛いと言われて、たったそれだけで心臓が爆発してしまうかと思ったあの瞬間。
あれから言われた言葉を真に受けて家の中でもメガネを外すようになっただなんて、口が裂けても言うことはできまい。
「でもさ、俺の前では外してよ」
自然と礼のことを考えていた俺は、古賀の声によって現実に引き戻される。
「俺は女とか思わないし。未凪は未凪だって、ちゃんとわかってるから」
純粋でまっすぐな言葉と、柔らかく温かい表情。こうやってストレートに言葉を届けてくれるところとか、俺のことを受け入れて包み込んでくれるところが好きだったのだと、今になって思い出す。
「……わかった」
俺は自らメガネを外すと、畳んで机の上にそっと置いた。少し照れ臭い気持ちで顔を上げると、正面に嬉しそうな古賀の笑顔があった。
「やっと未凪と目が合った」
「さっきから合ってただろ」
「レンズ越しだったから寂しかったんだよ」
「ふふ、なんだよそれ」
今の俺には眩しすぎる古賀の笑顔は、以前だったら胸が熱くなっていたはずなのに、不思議と今は心臓がうるさく騒ぎ出すこともなかった。
「そういえば、昨日家にいた男の人は誰?」
「ああ、あれは……」
県外に行ってしまった古賀には再婚したことをまだ話していない。かいつまんで事情を説明すると、古賀の表情がじわじわと驚きに変わっていった。
「へえ、お兄さん! 未凪と歳近いよね?」
「うん、一個上で同じ高校に通ってる」
「だから仲が良いんだね」
「? 俺仲良いなんて言ったっけ?」
そもそも礼の話すら今初めてしたはずだが。首を傾げる俺に、古賀は意味深な笑顔を浮かべるだけだった。
「ふふ、俺が勝手にそう思っただけだよ」
*
「おかえり」
「……ただいま」
昨日とは違って家の明かりがついていたから覚悟はしていたが、二階に上がるとちょうど礼が部屋から出てきた。
さすがに正面に立たれては避けられないので渋々返事をかえしてから、その身体を避けて自室に入ろうとしたところで、
「デート、楽しかった?」
と声が投げかけられた。
ぱっと振り向くと、礼は壁にもたれてこちらを見ていた。
「オシャレして、あんなに嫌がってたメガネまで外して、健気だな〜。好きな人に会うから?」
やけに口調が刺々しい。馬鹿にされているような気分になって、むっとせずにはいられなかった。
「……うっさ。あんたに関係ない」
イライラして今度こそ自室に入ろうとすると、その腕を引っ張られて、ドアに背中を押し付けられた。逃げられないように腕を縫い止められて身動きが取れない。
「っ、なにすんだよ! 離せよっ」
「やだ。だっておまえ、放っておいたらすぐ逃げるだろ」
何も、俺だって本当は逃げたいわけではない。ただ、身体が勝手に反応してしまうのだ。目を合わせることも、触れることも、あの日から意識してしまって仕方がない。
「なあ」
「……なんだよ」
「この前の、もう一回していい?」
今だって至近距離にいる礼の顔が見れなくて困っているというのに、礼がいきなりそんなことを言うもんだから、俺は瞠目しながら顔を上げた。
「……っ」
あの時みたいに少し屈んだ礼が、俺の顔に自分の顔をそっと寄せる。
俺ははくはくと僅かに唇を動かす。色素の薄いブラウンの瞳には、俺だけが映し出されている。今にもキスをされそうだとわかっていても尚、俺は動くことができなかった。
(逃げなきゃ、キスされる……)
でも、それもいいかと受け入れる自分がいる。
ずっと礼を避け続けながら、あんなことをしておいて飄々としている礼を見て、心のどこかで『もう一度』を期待する自分がいた。
でもそんなはしたない自分を受け入れることができずに、礼から逃げるのと同時に俺は自分の気持ちからも逃げ続けていたのだ。
鼻と鼻がくっつく。あと数ミリで唇が触れそうになった、そのとき。
礼は突然、離れていった。
「……?」
不思議に思って礼を見上げると、礼は初めて見るような狼狽えた表情をしていた。動揺と困惑の色を浮かべて、視線を彷徨わせている。
「礼?」
俺が声を掛けると、やっとその瞳に俺が映った。
「……おまえ、抵抗しろよ。バカ」
礼はそれだけ言うと、俺の頭をぽんと叩いて一階へ降りていってしまった。俺は、ぽかんとしたまましばらくその場に立ち尽くしていた。