蝉の鳴き声が耳をつんざく。きっと短い人生を少しでも謳歌しようと一生懸命なのだろう。朝一番だというのにもうフルパワーで活動している様子は、無邪気な子どもの頃の自分を想起させる。
「昨日も言ったけど、お父さんとお母さん、今日と明日は出張だからね。お弁当箱だけ洗っておいてね」
「わかってるよ」
「夕飯代はここに置いておくから。礼くんにも渡して、二人で分けてね」
「はいはい」
 一学期最後の行事である期末テストが終わり、あっという間に夏休み前最後の登校日。苦手な数学は礼のおかげでぐんと点数が伸びて、全体の平均点を押し上げることができた。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫だって。心配しないで。ほら遅刻するよ」
「うん……ちゃんと戸締りするのよ?」
 母さんの出張は今までも何度かあったが、以前は県外の祖父母のところに預けられていたので、一人で家に残るのは初めてのことだ。母さんを玄関に押しやるが、心配そうに何度も念押しをしてくる。
「……はよ」
 掠れた声と足音がして目を向けると、今起きましたみたいな状態の礼が階段を降りてくるところだった。
「ほら、この人もいるしさ」
「そうよね。……礼くん、今日私達いないから、未凪のことよろしくね」
「うん」
 低血圧の代表みたいな人間の礼は、それだけ言って頷いた。それでも何とか母さんを安心させることはできたみたいで、母さんはホッとしたような顔をしてじゃあね、と出て行った。
「なあ、もう八時過ぎてるけど。間に合う?」
「……無理。眠い」
「無理じゃねえし、俺が困んの! ほら、早く顔洗ってこいって!」
 ボサボサの頭と今にも閉じてしまいそうな瞼の礼を洗面所に押し込むと、礼の水筒と弁当の用意をしてやるために俺は洗面所に向かった。



 今日は終業式。退屈な校長の話の後に、生活指導の教師から夏休みの素行についてのあれこれを耳が痛くなるほどに言い聞かせられる。俺は欠伸を一つ噛み殺した。
 何とかHRに間に合ったからよかったものの、朝はかなりギリギリだった。松葉杖は外れたがまだ完全には足が治っていないために俺は早く歩けないし、礼はのんびり準備してのんびり歩くしで、久しぶりにかなり焦った。
 礼がとんでもない低血圧だと知ったのは一緒に登校するようになってからだ。最初の日こそ俺の部屋に迎えに来てくれたり一緒に朝の支度を手伝ってくれたりとテキパキ動いていたように見えた礼だったが、二日目は部屋に訪れるどころか時間になっても降りてこなかったため、部屋まで見に行ったらまだ寝ていたのだ。
 それ以降も時間に間に合うことはほとんどなく、いつも決まって寝坊をしてボサボサのヨレヨレの状態で一階に降りてくる。天下の伊竜礼の寝起きがあんな感じだなんて、学校の女子が知ったら卒倒するのではないだろうか。
 
「っあーー! やっっと夏休みだな〜」
 終業式も無事に終え、クラス全員に通知表が手渡されて、一学期の全行程が終了した。成績は初回にしてはまずまずの結果で、とりあえずは一安心といったところだ。
「夏休みまでに彼女作って花火大会に行く予定だったのにできなかったことだけが心残りだわ……」
 さっきまで夏休みにはしゃいでいた田所は、あっという間に背中を丸めて落ち込んでいる。
「感情の起伏ジェットコースターかよ」
「悔しいから一緒に行こう、未凪」
「えー……人混み嫌い」
「頼む。一緒に行った方が二人で来てる女子ナンパできそうだろ」
「おまえにそんな勇気があったらもう彼女できてるだろ」
「未凪おまえ〜〜!!」
 俺の胸ぐらを掴んでぐらぐらと揺らす田所に、抵抗せずにされるがままになってやると、すぐに満足したらしい。
「とりあえず期末と一学期お疲れ様ってことで、今度こそカラオケ行こうぜ!」
「今から? いいけど、ちょっと待って」
 連絡しておかないときっと礼がいつものように校門の前で待っているかもしれない。松葉杖も外れて荷物も自分で持てるというのに、足が完治するまでは、と帰りも未だに一緒に帰ってくれるからだ。
 俺はスマホを取り出してメッセージアプリを立ち上げると、『友達とカラオケ行くから先帰ってて』とだけ送信しておいた。
「俺サッカー部の集まりあるから、三十分ぐらい待っててくれよ」
「わかった。じゃあ終わったら連絡して」
「おー」
 去っていく田所を見送った後、俺も荷物を持って教室を出た。図書室で時間でも潰そうと決め、廊下を歩く。
 夏休みは何をして過ごそうか。家庭部の活動は全体の登校日に一度あるだけだし、毎日家でゴロゴロ過ごすのももったいないような気がする。
(とりあえず山積みの課題を終わらせてから考えるか……)
 図書室は別棟にあるので、渡り廊下を歩いて渡る。渡り廊下のすぐそばには、礼とあの暖色系の先輩達がよく授業をサボっている中庭がある。俺は何気なく視線を向けてから、思わず足を止めた。
 中庭の植木の緑色に隠れて、よく目立つミルクティーベージュが見えた。
 スマホを確認するが、十分前に俺が送信したメッセージにはまだ既読がついていない。ここまで来たら直接伝えようかと、俺は渡り廊下を横切って中庭に足を踏み入れた。
「礼!」
 近付こうとしたところで、弾んだ高い声が向こう側から聞こえた。咄嗟に木の影に身を隠す。こっそり覗き見ると、茶髪のショートヘアの女子が礼に駆け寄っていくところだった。
 ベンチに座って読書をしていたらしい礼は、女子の声にゆっくりと顔を上げる。
「こんなとこにいたんだ、探したんだよ。何してるの?」
「担任から分厚い生活指導の本貰ったから読んでる」
「え〜ウケる! あたしにも見せて〜」
 当たり前のように礼の隣に腰掛けた女子は、頬が触れそうな距離まだ顔を近付けて、礼の持っている本を見ている。
「てかなんかあった?」
「あ、そう! この前みんなでごはん行ったとき、今度は二人で行こって話してたでしょ。今から行かない?」
 ぱっちりとした瞳に、くるんと上を向いた睫毛。性格も明るくて可愛らしい女子だ。礼の隣に悩んでも遜色ない。誰がどう見たってお似合いだと言えるだろう。
 ズキン。
 不意に心臓に魚の骨が刺さったような痛みを覚えて顔を顰めた。チクチクとした棘は刺さったまま、痛みを増していく。
「俺用事ある」
「え〜。いっつもそれじゃん。前はもっとフッ軽だったのに」
「忙しいんだよ。他の奴あたって」
「でもあたしは礼がいいのに〜」
 女子はむぅ、と頬を膨らませながら礼の腕に絡みついている。わざとなのか無自覚なのか胸を押し当てているようにも見えて、ぎょっとした。
(さっきからあの子、やけに距離近いんだよな)
 会話を聞く感じ、付き合っているというわけでもないのだろう。俺が知らないだけで、高校生の付き合っていない男女の距離感はあれが普通なのだろうか。
 何だか胃の底からもやもやとしたものが押し寄せてきて、無意識に自分が眉根を寄せていたことに気付いた。
「マジで無理。時間ないから、じゃあね」
 礼は言葉とは裏腹に優しく振り解くと、すっと立ち上がった。俺のいる方とは反対側に向かって歩いて行く礼の後ろ姿を呆気に取られて見ていると、突然俺のスマホがポケットの中で震え始めたので、ビクッと肩を震わせてしまった。
「はい」
『どこ?』
「えっと……メッセ見た?」
『見てない』
 野球部の集団が中庭を横断していく。植木の陰に隠れている俺に気付き、誰かがうわっと声をあげた。すみませんと口パクで会釈をしておく。
「今日友達と遊んで帰るから。先帰ってていいよ」
『……』
「なあ、聞こえてる?」
 電話の向こう側からは礼の声は聞こえない。電波が悪いのだろうか。不審に思って一旦スマホを耳から離して、通話画面を確認してみた。
「みっけ」
 後ろからクリアな声がして反射的に振り向くと、スマホを耳に当てたままの礼が立っていた。
「うわ、びっくりした」
「俺の台詞な。こんなとこで何してんの?」
「なにって……」
 まさかあなたと女子の会話の一部始終を盗み聞きしていました、だなんて口が裂けても言うことはできない。
「靴紐結んでた」
「上履きなのにすげぇな」
「……」
 否、やはりこの人を欺くことはできない。俺は腹を括って、息を吐きながら立ち上がった。
「あんた見かけたから声掛けようとしたら、先客がいたから……別に好きで盗み聞きしてたわけじゃねぇよ」
「悪趣味だな〜意外と」
「う、うるさいな」
「普通に声掛けてくれればよかったのに」
 礼は真面目な顔をしてそんなことを言うので、俺は反応に困ってしまった。
「彼女だったらどうしようって思ったんだよ。邪魔しちゃ悪いし」
「まぁおまえ探しに行こうとしてたから、ちょうどよかった」
「え? でも用事あるんじゃないの?」
 さっき、女子との会話でそんなことを言っていたような。俺が首を傾げると、礼もきょとんとしたように瞬きをした。
「おまえと帰る。以上」
「……は!? そんなことのためだけに、誘い断ったのかよ」
 信じられない。しかもその俺は田所と遊ぶことになっているから、別に断る必要なんてなかったのに。何だか申し訳なくなってきた俺とは対照的に、礼は何故か不機嫌そうに眉をしかめた。
「……そんなことって、なに」
「だって、俺と帰るなんて別にいつでもできるんだし、強制でも何でもないしさ。それよりあの子、おまえのこと好きそうだったし、優先してあげた方がいいんじゃないかなって」
「俺がおまえと嫌々一緒に帰ってるとでも思ってる?」
 礼の顔が曇る。思いがけず俺は口を噤んだ。
「おまえと帰ることより、他を優先するとかありえないから」
「……」
「わかった?」
 礼が腰を屈めて、ずいっと俺に顔を近づける。俺はというと、思いがけない言葉に胸を打たれ、一瞬言葉を失ってしまっていた。
「なんか、あんたがそんなに俺の足のこと心配してくれてるとは思わなかったから、正直びっくりした。でも、ありがとう」
「……」
「気にかけてくれんの嬉しいよ。早く治さなきゃ」
 俺は気を遣わせないようにへらりと笑ってみせるが、礼は何故かますます眉間の皺を濃くするばかりだ。
「っあー、もう! ……おまえ腹立つ、マジで!」
 礼は突然そう叫ぶと、あろうことか俺の髪をぐしゃぐしゃに乱してきた。
「ちょ、ばっ……! なにすんだよ!」
「遊ぶダチって、よく一緒にいるあの男?」
「へ? ……あ、うん。田所っていうんだけど」
「へー。スマホ貸して」
「は?」
 話の流れに一貫性がなさすぎて、全く理解が追いつかない。とりあえず言われるがままにスマホを渡すと、鍵外せと理不尽に怒られ、大人しくロックを解除した後に再び手渡した。
「……ん」
「え、なにした?」
 暫くしてからスマホは返ってきて、画面を開くと、田所とのメッセージ画面が表示されていた。

『今日お兄ちゃんと遊ぶから遊べなくなった、ごめん(泣)また遊んでね(ハート)』

「…………はあ!?!? あ、あんた何して……!?」
 あまりの衝撃に一瞬頭が真っ白になって言葉を失ってしまった。しかも最悪なことにすでに既読がついてしまっている。
『オッケー!めっちゃ仲良しじゃん(笑)ただし俺とも夏休みに遊べよ!また日にち決めようぜ〜』
「あああ……!!」
 純粋な田所からの悪意のない返事が逆に胸を抉る。頭を抱えてしゃがみ込んだ俺を、こんなことをしでかした張本人は高い位置でゲラゲラと笑っている。
「っはは、あー、さいっこー……」
「何がだよ! さいっっあくだよ! あんたのせいで! このドクズ野郎!」
「っくく、褒め言葉をどーも。……とまあ、時間なくなっちゃうし行こうぜ」
「は? 家に帰るだけだろ。時間なんて……」
「遊んで帰るんだろ?」
 さも当然かのような顔で確認されたので、俺はもう断るという簡単な行動すら、する気を失ってしまった。



「足痛くねえ?」
「大丈夫」
「いざとなったらおんぶしてやるから言えよ」
「絶対やだよ」
 駅前に向かう道は、平日の昼間だというのに高校生が多く見られる。きっと他の学校も今日が終業式なのだろう。家がある方角とは真逆の方へ進むのは新鮮でワクワクする。
 何より、隣にこの人がいるということが信じられない。礼は俺のペースに合わせてか、いつもゆっくりと歩いてくれる。何にも考えていないように見えて、こういう優しさをたまに感じる。
「てか、どこ行く?」
「俺の行きたいとこ。あ、そこの交差点右ね」
「?」
 どうやら教えてはもらえないらしい。言われるがままに道を進んで行くと、五分程度で赤い屋根のお店が見えてきた。
 連れてこられた場所は、駅前の有名な甘味処だった。列には三、四組並んでいて、俺達はその最後尾に並んだ。
「ここダチに聞いて、一回来てみたかったんだよね。パフェがうまいらしいの」
「へえ、気になる」
「だろ? おまえ家庭部とか入るぐらいだし、好きかなって思ったんだよね」
「よくわかるじゃん」
 途中で空いたパイプ椅子に即座に座らされ、十分ほど待ったところで順番が来た。俺達は看板メニューのパフェを二つ頼むことにした。
 店内は爽やかなウッド調に統一されていて、木の香りが鼻を擽る。端に置かれた観葉植物もインテリアに馴染んでいて、温かな雰囲気を感じさせる。
「いい雰囲気だね。こういう店好きだな」
 俺は何気なく呟きながら、礼に視線を向けた。背もたれにもたれながら、長い足を優雅に組んでいる様子は、さながらドラマから出てきた俳優のようだ。窓を背に座っているのでキラキラと日が差し込んで、後光のようになっている。スマホを触っていた礼は、俺の視線に気付いてか視線を上げた。
「なあおまえさ、なんでアプリのアイコンこれなの?」
 礼はスマホの画面を俺の眼前に差し出すと、細長い指でトントン、とその画面を指し示した。見れば、そこには俺のメッセージアプリのアイコンであるキャラクターの絵がアップになって写されている。
「これっておまえの着てるあのくそだせぇ部屋着のキャラクターだろ?」
「くそだせぇってなに。心外なんだけど」
「顔はウサギで身体は人間だぜ?」
「犬走先生の作品なんだよ。かわいいだろ?」
 俺がSNSを漁っていた時にたまたま見つけて一目惚れしたキャラクターだ。自慢ではないが何着も服を持っているほどお気に入りである。
「このウサギ、絶妙に人を煽る顔してるよな」
「天然キャラなんだよ。実は何にも考えてないんだこれ。で、周りのみんなも最初はこいつにイラつくんだけど、次第に絆されていくんだ」
「っは、何だそれ。気になってきたし」
 礼が顔をくしゃっとして笑った。俺の好きな笑顔だ、と無意識に見惚れてしまいそうになり、慌てて水を飲む。
「お待たせしました、絶品ストロベリーパフェです」
 そうこうしているうちにパフェが届き、俺は感嘆の声を上げた。
 大きな苺がふんだんに載せられ、その周りには山盛りのホイップクリーム。その下には苺のムースやスポンジ、プリンなどがぎゅっと詰まっている。
「すごいなこれ。うまそー……!」
 スマホを取り出して、色んな角度からパフェをパシャパシャと撮っていると、不意に正面からクスクスと笑う声が聞こえた。
「なに笑ってんの」
「いや、真顔でクソ撮るなって。何用?」
「いつか自分でも再現できるかなって、甘いもの食べる時は癖で撮影しちゃうんだよ」
 菓子作りに目覚めたのは中学のときだ。忙しい母さんを喜ばせたくてお小遣いを貯めてレシピ本と材料を買って、少しずつ作るようになった。
「へえ〜かっけぇ。俺にもいつか作ってよ」
「……いいけど」
「やった」
 この人に食べさせるのは何だか緊張する。こんな口約束にも嬉しそうに口角をあげながら、礼は大きな苺を頬張っている。俺もスマホを置いてスプーンを持つと、苺を二つ掬って口いっぱいに入れた。
「おまえって食べ方変わってるよな」
「ほふひはへふ」
「っふ、飲み込んでから喋れよ」
 俺はごくんと苺を喉に通した。甘酸っぱさがたまらない。
「よく言われる」
「やっぱ? なんか小動物みてぇ。頬袋にためて食う感じが」
「変?」
「いや、むしろ逆。可愛いよ」 
「……っ!」
 もう一つ苺を口に運ぼうとした俺は、つい苺を皿の上に落としてしまった。動揺を隠そうと無駄に咳払いをして、水を口に含む。顔が熱いし、恥ずかしくて礼の顔が見れない。
(……何でそんなこと、さらっと言うんだよ)
 わかっている。礼の言葉に深い意味はないってことは。だからこそ言われてこんなに困惑する自分が惨めだし、なんだか息苦しい。
 とりあえず話題を変えようと俺は、でも、と声をあげた。
「あんたが甘いもの好きなの、意外だった」
「俺好きって言ったっけ?」
「言われてないけど、そりゃあんなに菓子パンとか食べてれば……」
 言いながら、待てよと思った。一度も校内で昼食を共にしたことはないのに不自然だろうか。
「なーに、俺のストーカー?」
 案の定、ニヤニヤとした顔で礼が揶揄うので、俺は即座に言い訳をした。
「ち、ちがっ、最初の頃に敵情視察で……っ!」
「あー、なるほど。だから一時期俺に付き纏ってたんだ?」
「……っ、気付いてたんなら言えよ!」
「どこまでついてくるのか気になって放っておいたんだよ。どこに行っても現れるからビビったわ」
「あのときは必死だったんだよ。……おまえの反抗期のせいで」
「悪かったよ。ほら、苺やるから機嫌なおせって」
「ガキ扱いすんな! ……貰うけど」
「貰うんかよ」
 あの時はまるで想像ができなかった。礼とこんな風に二人で出かけて、軽口を叩いて笑い合うなんて。
 これが『兄弟』というものなのだろうか。この人といると、田所といるときとはまた違う心地よさがある。
 一見クールに見えるけど、本当はよく笑うし、よく喋る。意地悪に見えるけど、実は優しくて、温かい面もある。そんな礼のそばにいるから俺は自分らしくいられるのだと、はたと気づいた。
「どうした?」
 礼は突然黙り込んだ俺を見て小首を傾げた。
「いや、なんかさ。俺ずっと一人っ子だったから、兄弟ってこんな感じなのかーって思ってさ」
 自然と頬が緩む。とにかくこの時間が楽しくて仕方がない。
「おまえといると楽しいなって思うんだ、最近。だから、俺もおまえが兄弟でよかったなって思うよ」
 学校や家ではない、非日常にいるからだろうか。リラックスして、珍しく素直に言葉を吐き出すことができた。
 そんな俺の言葉を聞いて礼は静かに微笑んだ後、スプーンを机に置いてから、ゆっくりと口を開いた。

「……未凪」

 柔らかなテノールがを鼓膜を震わせる。名前を呼ばれたのは、これが初めてのことだった。心臓がドクンと大きく音を鳴らした。
「俺はさ、これ、デートのつもりだったんだけど」
「…………は!?」
「おまえは違うの?」
 いつもとは違う、真剣な顔の礼。突然与えられたたくさんの情報に、思考が追いつかない。

「おまえは、俺のことを兄貴だって思う?」

(──それは、どういう意味なんだよ)
 もしも額面通りの意味なのであれば、俺はもうとっくに礼のことを家族だと認めている。だけど、もしもその言葉が他の意味を含んでいるのであれば。
 そばにいると心地良くて、もっと一緒にいたいと思うし、もっと色んな表情を見たいと思う。果たしてそれは、本当に『兄』に向けるはずの感情なのか?
 当たり前に捉えていたはずの世界が、突如としてぐらつき始める。だって考えてみれば、普通兄貴にドキドキなんかするのだろうか。いくらこの人の顔が好きだからって、家族に対して抱くべき感情ではないはずだ。
 だとしたら、これは──。
「……なーんちゃって。ジョーダン」
 ぱっと思考を引き戻すような明るい声。はっと視線を上げれば、礼はわざとらしく微笑んでいた。
「真っ赤ですよ未凪くん」
「……」
「未凪?」
 放心状態だった俺は、慌てて思考を放棄した。
「……馬鹿野郎。人がせっかく素直になったのに」
「っくく、悪い。可愛くていじめたくなった」
 すっと手が伸びてきて、俺の頭をぽんぽんと撫でていく。まるで子どもをあやすみたいにするそれが気に食わなくて、ムッとしてしまう。
「可愛いって言っとけば何でも許されると思ってんだろ」
「ふふ、どうかな」
 結局その一言で舞い上がってしまう自分がいるのだが。──それよりさっき、なにか核心のようなものに触れそうだった気がする。胸の中にモヤモヤが残って、喉に何かが引っかかっているような気がする。
「ムカつくから苺もう一個ちょうだい」
「うわ、ドロボー」
 答えはもうすぐそこなのかもしれない。礼の皿から奪い取った苺ごと、喉に詰まったままの何かも全部飲み込んだ。



 その後、結局帰るにはまだ惜しいということでカラオケ店に寄った。三時間たっぷり交代で歌い続けて喉を痛めた俺は、最後の方はガラガラ声になっていた。
「あんた、歌まで上手いとかスペック盛りすぎだろ」
「実はギターも弾けるって言ったら、どうする?」
「マジでキモい」
「っふは、ひでぇ」
 二人揃って家に帰る頃には時刻は七時を過ぎていた。真っ暗な室内に向かって、ただいまと声をかける。
「あれ、今日いないんだった」
「あー、そっか。朝言ってたな」
 出張のことなどすっかり忘れて帰ってきてしまった。予定では帰りにスーパーで惣菜を買ってくるつもりだったのだが。
「飯食ってくればよかったな」
「そうだね。ごめん、忘れてた」
「いや俺も。なんか作るわ、テキトーでいい?」
「え、作れんの?」
「切って炒めるだけだけどな」
 さらっと作ると告げた礼は、冷蔵庫の中を物色している。野菜室にある野菜を見て、まあなんとかなるっしょ、と満足そうに頷いた。
「先シャワー浴びてこいよ」
「うん。ありがと」
「おー」

 シャワーから戻ると、豚肉のいい匂いがダイニングに充満していた。髪を拭きながらキッチンに向かい、礼の後ろに回り込んでフライパンの中を覗き見る。
 どうやら野菜炒めを作っているところらしい。具材は少し大きめに切られていて、いい炒め具合だ。
「なんか手伝うことある?」
「んー、味噌汁とか作れたりする?」
「うん。じゃあこっちのコンロ使うね」
「よろ〜」
 引き出しから小鍋を取り出して、水を入れてコンロに火をかける。戸棚を開けて出汁パックを探していると、ふと後ろからわしゃわしゃとタオルで髪を拭かれた。
「先に髪乾かしてくれば? 風邪ひいたらどうすんの」
 近い距離で声を掛けられて、咄嗟に身体を引いて距離をとってしまった。そのはずみで冷蔵庫の扉にゴンと頭をぶつけてしまう。
「……ってえ」
「ふ、なにしてんの」
「び、ビックリしたんだよ。出汁だけ入れたら髪乾かしてくるから、火見てて」
「はいはい」
 逃げるようにその場を去ってから、急いでドライヤーの電源を付けた。この程度で意識するとか、俺はやっぱり頭がおかしくなってしまったのだろうか。



「いただきます」
 目の前の食事にむかって両手を合わせる。ツヤツヤとした白米、豆腐と油揚げのシンプルな味噌汁、豚肉と人参とピーマンの醤油炒め。帰宅後に二人で作った飯は、男子高校生が作ったにしては豪華なものとなった。
「味噌汁うんま。結構作ってたん?」
「よかった。たまーに母さんの手伝いしてただけだよ。それよりあんたの炒め物も美味いし、味付け凄い好み」
「あーマジ? 食えるならよかった」
 ピーマンのシャキシャキ具合が絶妙だし、少し甘辛の味付けは白米が進む。それに何よりあの礼が作ったというのだから、特別な気がしてならない。
「普段自炊とかしないけど、たまーに気が向いた日に作ったりしてたんだよな」
「俺もそうだった。基本は母さんの作り置き食べてたけど、早く帰ってこれた日は簡単なもの作ったりとか」
「作り置きとか羨ましいわ。俺なんか金が置いてあって好きなモン買えって感じだった」
「父さん料理とかできないもんね」
 
 飯を食べ終わると、礼にシャワーを浴びるように提案した。俺はその間、洗い物などの後片付けを進めておく。予洗いをして食洗機に突っ込み終わったところで、ちょうど礼が脱衣所から出てきた。
「おかえりー……」
 声を掛けた俺は、思いがけず言葉を詰まらせた。シャワーを終えた礼は、いつかのように上半身裸だったのだ。
「ちょ、服! 着ろって!」
 黒いタオルを肩にかけた状態で水を飲みに来る礼を、なるべくその身体を見ないようにしながら咎める。
「別にいいじゃん、家なんだし」
 礼はあっけらかんとしたようにそう言って、ペットボトルの水でごくごくと喉を潤していく。俺は焦っていた。
「そうじゃなくて、マナーとして」
「女がいるならまだしも、男同士なんだからよくない?」
「だからそういう問題じゃ……」
 水を片手に俺の様子をじっと観察していた礼は、突然ニヤニヤと笑い始めた。
「えーなに。さっきから全然目合わせてくんないし、もしかして意識してんの?」
 服を纏っていない礼に肩を組まれて顔を覗き込まれた俺は、カッと顔が熱くなった。

「やめろよ!」

 つい、大きな声が出た。図星をつかれて、心の底から不快だと思った。
「……そういうノリ、嫌だ」
 振り払ってしまった手がジンジンと痛い。礼の顔もろくに見れぬまま、俺は何も言わずに部屋に戻った。

 ──やってしまった。

 せっかく仲良くなれたと思ったのに、とんでもなく気まずい雰囲気にしてしまった。
 礼の言うことは正しい。意識してまともに身体を見れなかったし、完全に動揺して不審だったはずだ。
 でも、揶揄われたくなかった。その通りだからこそ、どう反応していいのかわからなかった。
 だからといってあれは強く言いすぎた。いつもの冗談の延長線みたいなものだし、軽く流せばよかったものを。私情を挟みすぎたのだろう。
 ベッドに仰向けに転がった俺は、何もかもが嫌になって、目を閉じた。




 ザアア、と降り頻る雨の音で目が覚めた。クーラーも入れずに寝てしまったので、随分と汗をかいてしまった。もう一度シャワーでも浴びてこようか。
 時刻は深夜二時。どうやら結構がっつりと眠ってしまったらしい。久しぶりに放課後にあんなに遊んだから、疲れていたのだろう。
 静かに一階へ降りて、シャワーを浴びた。次第に脳が覚醒していって、眠る前にあった出来事を想起する。楽しい一日だったのに、台無しにしてしまった。
 謝りたい。自分の気持ちがいっぱいいっぱいになって、強く言いすぎてしまったこと。こんな時間だし、礼ももう寝てしまっただろう。明日の朝、起きたら一番に部屋を訪ねてみよう。

 シャワーを浴び終えてキッチンに立つと、食洗機の中が空っぽだった。あの後、ひとりで片付けをしてくれたのだろうか。机の上もピカピカになっている。
 真っ暗なダイニングはシンと静まり返っていて、つい数時間前は二人で作った飯を一緒に食べていたはずなのにと、そう考えると胸がぎゅっと痛くなる。
 水を飲みながら手持ち無沙汰にスマホを開くと、新しいメッセージの通知が入っていた。何気なく開いた後に宛先を見て、思いがけず生唾を呑み込んだ。

『ごめん』

 たった三文字に、胸が締め付けられた。送信時間はほんの十分前だ。もしかしたらまだ、起きているだろうか。いてもたってもいられず、俺は慌ててコップをシンクの上に置くと、階段を早足で駆け上がった。

──コンコン。
 意を決して部屋の扉をノックする。返事は返ってこない。やはり眠ってしまったのだろうか。そわそわしながら部屋の前でうろうろしていると、部屋の中から微かに物音がした。
「……」
 もしも寝ているのであれば起こしてしまうかもしれない。けれどどうしても一目顔が見たくて、俺は覚悟を決めてドアノブを握った。ゆっくりと扉を開く。
 部屋の中は真っ暗でよく見えない。奥にある小窓から外の明かりが差し込んでいるため、ベッドがそこにあることだけはわかった。転ばないようにゆっくりとその場所に向かって足を進めていく。ベッドのそばまで来ると、微かに明るい髪が動くのが見えた。

「……(らい)

 息を呑む音が近くで聞こえた。
 初めて名前を口にした。本当はずっと、そう呼んでみたかった。時間が経てば経つほど何となく気恥ずかしくて、声に出すのに臆病になっていた。
 でも昨日礼が初めて俺の名前を呼んでくれたとき、驚いたけど同時に凄く温かい気持ちになった。何度も呼ばれ慣れた名前なのに、礼が呼ぶとこういう響きになるんだとわかって、何だかむず痒いけど嬉しかった。
 どうしてあのタイミングで俺の名前を呼んでくれたのかわからない。でも、だから俺も、勇気を出してみたくなった。
「俺こそごめん、ムキになって」
 ぽつりと呟いた俺の声は、真っ暗な部屋に溶けていく。段々と暗闇に目が馴染んでくる。礼の顔がぼんやりと見えた。仰向けになっている礼は額に手の甲を乗せていて、その視線は俺に向けられている。
「図星だったんだ、全部」
 俺と兄弟になれてよかったと言ってもらえて、本当に嬉しかった。だけど後ろめたさもあった。礼のことを知るたびに、俺とは住む世界が違うのだと感じてしまうからだ。

「俺、ゲイなんだ」

 ずっと嘘を吐いていたみたいで、息が苦しかった。どんどん俺に心を開いてくれている礼を見るたびに、嬉しい反面、複雑な感情を覚えた。
 いつか俺の秘密を知ったら、軽蔑されてしまうのではないかという不安が、胸の中から消えなかった。
 衣擦れの音がする。礼が身体を起こしたのが、徐々にハッキリとしてきた視界に映った。
「みんなと違って女の裸じゃなくて、男の裸に興奮するんだ。だから家の中でああいう格好でいられると、正直目のやり場に困る」
 自分のことを話すことがこんなに恐ろしくて不安なことなのだと、俺はこの瞬間に初めて知った。
「ごめん、せっかく家族になったのに。兄弟でよかったって言ってくれたのに。俺がこんなんで、ごめん。嫌ならもう、近寄らないから」
 気を遣わせないように気丈に振る舞おうとしたのに、後半は少し声が震えてしまった。俺はそれだけ言うと、俯いたまま礼からの返事を待った。まるで判決を待つ被告人の気分だ。本当は今すぐに逃げ出してしまいたい。俺はぎゅっと瞼を閉じて、腰の横で拳を握った。
 しばらくの沈黙の後、ベッドが軋む音がした。心臓が止まってしまいそうなほどに苦しくて、呼吸をするので精一杯だ。
「ここ、きて」
 声がして目を開くと、ベッドサイドに腰を掛けた礼が、ぽんと自分の隣を示しながら俺のことを見ていた。
「隣に座るのは平気?」
「……うん」
 むしろこっちがそれを聞きたいなどと思いながら、俺はおそるおそる礼の隣に少し間を空けて腰掛けた。
「まず、俺の方がごめん。揶揄ったりなんかして」
 礼の顔が見れない。だけどその声を聞いて、少しだけ息がしやすくなった。
「嫌だったよな。悪かった。知らなかったとはいえ、デリカシーなかった」
「いや、俺が勝手にムキになっただけで」
「おまえは悪くないよ」
 少しの優しさを含んだ力強い声。強い緊張を解くようなそれに、肩の力が抜けていく。
「俺は今までそういう人と出会ったことがないから、正直おまえの考えてることがよくわかんない」
「……」
「だから何が嫌で、何なら良くて、そういうの、これからもっと知りたい」
 ぱっと顔を上げると、まっすぐな瞳と目が合った。ずっと俺のことを見て話してくれていたのだろうか。じわじわと、目頭が熱くなった。
「き、気持ち悪いとか、思わないの」
「思うわけない。そんなことでおまえを邪険にしたりするほど、俺は馬鹿じゃねぇよ」
「そ、っか……」
 緊張が緩むと、一気に身体の力が抜けていく。そこで初めて、自分の手が小刻みに震えていたことに気がついた。
「手に触れるのは?」
「へ? ……手?」
「おまえの手。……今、触りたいんだけど」
「……いい、けど」
 断る理由が見つからなかったから頷いたが、正直今触れられたら自分がどうなってしまうかわからない。礼は視線を落とすと、膝の上で上を向いている俺の手のひらの上に、そっと自分の手を重ねた。
 俺のよりも少しだけ大きな手は、ひんやりとしている。礼は慈しむように目を細めると、ぎゅっとその手に力を込めてきた。
「今日、てか昨日か。パフェ食ってカラオケ行って二人で飯食って、楽しかったんだよ、凄く。おまえは?」
「うん、俺も楽しかった」
 俺が素直に答えると、礼は嬉しそうに目尻を垂らした。
「おまえのさ、無表情に見えて意外と顔に出やすいところとか、美味い飯を噛み締めながら食うところとか、歌がヘッタクソなところとか」
「おい、ヘッタクソって言うな」
「たまに突然意味わかんねえこと言うところとか、服のセンスが皆無なところとか、素直じゃないところとか。おまえって本当わけわかんないし、俺にとっては宇宙人みたいな存在なの」
「なあ、さっきからディスってんの?」
 別に本気で怒ってなんかいないが、わざとむすっと口を尖らせてみれば、礼はあはは、と声を出して笑った。
「なのにさ、そういうの全部可愛いって思っちゃうんだよ、最近。おまえと一緒にいると居心地がよくてさ。多分おまえがありのままで俺のそばにいてくれるから、俺も何にも気負わずに素でいられるんだよね」
 優しい顔をしていた。出会ってから初めて見る顔だった。まっすぐな言葉が次々と胸の真ん中に降ってきて、言葉を失ってしまう。

「ありがとう、未凪」

 ぎゅっと心臓を手で握られたみたいな感覚になった。目の前には俺の好きな笑顔があって、握られた手は俺の熱のせいで汗が滲んでしまっている。咄嗟に手を緩めるが、礼は手を離してくれる気はないみたいだ。それどころか、ますます強く握り込んでくる。
「は、離せ」
「なんで逃げようとすんの」
「だ、だって……」
 悔しさに唇を噛んでしまう。
「今たぶん、顔……出てるから」
 この人に出会ってから何度も経験したからわかる。顔から火を噴きそうなほど熱い。おそらく真っ赤になっているであろう俺の顔。
 そこにはきっと間違いなく、『嬉しい』と刻まれていることだろう。
 そして俺の顔から俺の感情をいとも容易く読み取ってしまう礼には、俺の考えていることがすぐにわかってしまうはずだ。だから、見られたくなかった。
 視界の端で、瞠目する礼の姿が見えた。
「……やば」
 徐ろにそう呟いた礼が手を解いて立ち上がったので、俺は不思議に思ってその顔を見上げた。そっぽを向いているのでその表情は見えない。
「どうかした?」
「……」
 返事は返ってこない。なす術のない俺は気持ちを整えながら礼を静かに待った。やがて礼が唐突に振り向いた。
「なあ、何でメガネしてねぇの」
「え、だってさっきまでシャワー浴びてたし」
「反則だって、それ」
「え?」
 聞き返す前に、唇に柔らかいものが触れた。ふわりと香るのは俺と同じシャンプーの匂いで、額にさらりと落ちるのは俺のではない前髪。射抜くように俺を見つめる瞳とゼロ距離で視線が絡まった瞬間、思考が止まった。

「……言っただろ、全部可愛く見えるって」

 やけに顔の良い男が拗ねたようにそんなことを言うのを耳にしたところまでが、その夜の俺の最後の記憶である。