「うっわあ、なんかすげえことになってんな」
クラスマッチの翌週。教室に入るなり俺を見つけた田所は、その様子を見て目を丸くしていた。
それもそのはずだ。俺の足には固定されてぐるぐる巻きにされた包帯が何重にも巻かれているし、両手には松葉杖を引っ掛けている。
「思ったより酷かったんだよ」
「災難だったな。俺に手伝えることあったら遠慮なく言えよ」
「ありがとう。じゃあ早速だけど、ロッカーに荷物置きたいんだけど手伝ってくれる?」
「オッケー」
俺の足の怪我の状態は思ったより酷かったらしい。病院に行ったらあれよあれよと処置をされて、当分の間松葉杖生活になってしまった。
「香月くん、怪我は大丈夫?」
「ああ、うん。見た目は派手だけどすぐ治るよ」
「ねえ、さっき伊竜先輩と登校してきたってほんと?」
突然三人組の女子に声を掛けられ、何かと思えばやはりそんな話題だった。
「え……さすがに見間違いじゃね? なあ、未凪」
「……」
キラキラとした瞳の女子達は、今か今かと俺の返事を待っている。
俺だってまだ信じられない。まさかあの礼が、俺に手を貸すだなんて。
♢
「なあ、持ち物これで全部?」
「……うん。ありがと」
朝早くに俺の部屋を訪ねてきた礼は、開口一番になんか手伝うわ、と声を掛けてきた。
「あ、服着れたんだ」
「うん。手は痛めてなくてまだよかった」
何を手伝わせたらいいかわからなくて、とりあえず荷物を纏める作業をお願いしてから数分。本当に準備を手伝ってくれたことに驚きを隠せない。
「んじゃいくか」
「え?」
「がっこ」
さらっと掛けられた言葉が理解できず、ぱちぱちと瞬きを繰り返してしまう。
「は? い、いっしょに?」
「うん。荷物もてねぇだろ」
「いやいや、あんたといると目立つし」
「はーい、つべこべ言ってっと遅刻すんぞ」
あれよあれよと言い包められ、二人揃って一階へ降りると、ちょうど出掛けるところだった父さんと、キッチンに立っていた母さんは、驚きのあまり硬直してしまった。
「コイツ送っていくんでしょ。俺も行くから」
「……あ、う、うん。わかった」
礼に声を掛けられた母さんは片言になってしまっている。
「コイツの弁当は?」
「ちょっと待ってね。……はい、これよ」
「さんきゅー。あと、別に嫌ならいいけど、俺のも明日から作ってほしいんだけど」
「………………え?」
聞き間違いだろうか、とその場にいる全員が思ったに違いない。シンと静まり返った室内に、礼の声が続く。
「今までごめん。……これからは、なるべく家にいるようにするから」
後ろにいるから礼の顔は見えないけれど、その背中はしゃんとしていて、初めて頼もしく映った。
「……もう、当たり前じゃない〜〜! いくらでも作ってあげる!」
涙を浮かべながら笑った母さんは、礼に近寄ってその髪を両手でぐしゃぐしゃに掻き混ぜた。玄関で話を聞いていた父さんも靴を脱いでやってきて、礼の肩をポンポンと叩いている。
俺は少し離れた後ろからその様子を見ながら、微笑みを浮かべざるを得なかった。
やっと、パズルのピースが揃う瞬間だった。
♢
「いつまで不貞腐れてんだよ、田所」
俺が声を掛けると、田所はむっとした表情のまま視線だけ俺に向けた。
たっぷり六時間分の授業をこなし、HRも終えて下校の時間。だというのに自分の席で頬杖をついたまま動こうとしない田所に、俺は渋々声を掛けた。
「悪かったって」
「本当に思ってんのか!?」
「思ってる思ってる」
「テキトーだよな!?」
面倒臭い彼女のような状態になってしまった田所を前に、手の打ちようがない。それもこれも全部、俺のせいではあるのだが。
「なんっっで、言ってくれなかったんだよ。おまえと伊竜先輩が一緒にす、もごもご」
「っ、ばか! 声がでけえ!」
田所のバカでかい声が教室中に響き渡る前に、俺はすんでのところでその口を手のひらで塞いでやった。田所はもごもごと口を動かしながらまだ何か言いたげな視線をこちらに寄越している。
「大体、一番はおまえがそうやってぽろっと口を滑らしそうだから言わなかったんだよ」
「そんなのさすがに俺だって言っていいことと悪いことの区別ぐらいついてるわ!」
「でもさっき俺が止めなかったらでけえ声で言ってただろ」
「ぐ……」
田所は悔しそうに言葉を詰まらせている。俺達は至近距離で睨み合った後、互いに顔を背けて、はあと息を吐いた。
「それに、色々あったんだよ。あの人のこと家族って認めたくなかったっていうか、解決するまでは誰にも言わないでおこうと思って……」
礼がようやく家族の一員になったように感じたのはまだ今朝のことである。それまでは家族という括りに礼を含めていいのかもわからず、この関係性を何と名付けていいのかわからなかった。
今朝、礼と一緒に登校したところをクラスメイトの女子に目撃されて質問攻めにあっていたところを、何も知らない田所が聞いて混乱してしまったらしい。
その後もなかなか二人になれる機会が無く、昼休みにやっと義兄弟になったのだと田所にだけ打ち明けたところ、どうして早く言ってくれなかったんだと怒り、それ以降口をきいてもらえなかったのだ。
「……まあ、女子達に質問攻めにあってたおまえが気まずそうに何かを隠してるのを見て、何か色々あったんだなとは思ってたんだよ」
頭をぐしゃぐしゃと掻きながら、田所は続ける。
「でもだからこそ、ダチが悩んでる時期に何も頼ってもらえなかったって、俺はかなーりショックだった」
「……悪い」
「だけどおまえはそういう性格だって知ってるし。自分の中で抱え込んで、誰の力も借りずに自分だけで解決しようとする奴だって」
俺はぐうの音も出ずに、肩を落とした。
田所の言うとおり、俺は他人に悩みを打ち明けることが苦手だ。自分の弱い部分を他人に見せることが怖い。余計に惨めな気分になるだろうし、決して纏まらないこの感情を上手に言語化できるかどうかわからないからだ。
田所の視線がこちらに向けられる。呆れを含みながら笑った。
「勝手に拗ねてこっちこそ悪かった。とりあえず、今後は洗いざらい話してもらうからな」
「……それはさすがに無理かも」
「おまえ、そこはうんって言うとこだろ。……はあ」
誰かの力を借りるということは、誰かの時間を奪うということ。幼い時から忙しい母さんと過ごしてきたから、大抵のことは一人で切り抜けられるようにと無意識に刷り込まれてきた。
だから今になっては、他人に頼る方が俺にとっては難しいと感じてしまう。そのせいで今回みたいに友人を傷付けることになろうとは、思いもよらなかったけど。
「あ〜、なんかスカッとしたい気分。よし未凪、カラオケ行くぞ!」
「行かねえよ。テスト前だろ」
「つれねえの。仲直り記念ってやつじゃん?」
「数学、次赤点だったらやばいんじゃなかった? 矢田セン夏休みに補修するとか言ってたし」
「未凪〜〜! このクソ真面目メガネめ〜〜!!」
「メガネは余計だろ!」
俺達が帰る支度を始めていると、不意に教室がどよめいた。ぱっと顔を向けると、教室の入口に見覚えのあるミルクティーベージュの髪が見える。
「あ、いた」
俺と目が合うと、長い足を動かしてなんの躊躇いもなく教室に入ってきた。
「帰ろ」
すぐそばまでやってきた礼は、俺の鞄を当たり前のように引っ掴んでからそう言った。
何でここに。そういえば朝下駄箱の前で別れるとき、帰りも迎えに行くって言ってたような気がする。すぐに断ったはずだけど、聞こえていなかったのだろうか。
「いや、いい。コイツと帰るから」
「えっ俺!?」
急に話題を振られた田所は驚いた声をあげる。礼はすっと目を細めて、田所に視線を移した。そして再び俺のもとに視線が返ってくる。
「ふぅん」
「……なに」
「そんなに嫌なんだ? おにーちゃんと帰るの」
「っ!」
反射的に周りを見渡すが、近くにいる女子は礼の写真を撮るのに夢中らしく聞こえていないようだった。ほっと胸を撫で下ろしてから、声を潜めながら咎める。
「……んの、バカ! 聞かれたらどうすんだよ!」
「あはは、焦っちゃってかわいそうに。で、どうする? 俺と帰る?」
「帰んねーし」
むしろなんで今ので気が変わると思ったんだよ、と呆れながらそっぽを向くと、視線の先で田所が何かを閃いたような顔をしていた。
「あ、全然どうぞ! 送ってやってください!」
「あーほんと? ありがとね。いい友達じゃん」
「おまっ……! ざっけんな田所!」
抗議しようと近づくと、田所はにんまりと人の好さそうな笑みを浮かべながら俺に耳打ちした。
「まあまあ。なんかよくわかんねえけど、そっちも仲直りしたばっかりなんだろ? 親睦を深めるチャンスだって。頑張れよ!」
そうだコイツは、昔からお人好しなんだった。こんな時に思い出した俺は、礼と連れ立って教室を出ていく羽目になってしまった。
「イヤイヤは終わった?」
「あんた目立つから嫌なんだよ」
「っくく、早く慣れろよ。おまえの足が治るまでは迎えにくるから」
「はあ? いいって。何でそんなことすんの」
「何でって……」
礼はそう言うと足を止めた。顎に手を当てて何かを思案しているようだ。
「……俺がそうしたいから?」
「何であんたも疑問形なの」
「わかんねえよ、理由とか。したいからしてるだけ」
「……前もそれ言ってたよな」
この人の行動原理はこの人でさえ理解できていないらしい。最初は掴めない人だと思っていたけど、自分の感情に素直なだけで案外わかりやすい人なのかもしれない。
「あ、ていうか、待って。俺数学で聞きたいとこあったんだ」
ハッと思い出し、少し前を歩く礼を呼び止める。
「教科担当に聞いていこうと思うけど、いい?」
「いいけど、俺が教えてやればよくない?」
「え、でもあんた授業出てないんだろ。わかんの?」
「必要ないから出てないだけ。数学得意だし、家帰って教えてやるよ」
「……」
「っふ、疑ってるだろ。お前マジでわかりやすくて、うぜ〜」
どう考えてもプロである教科担当に聞いた方がいいに決まっている。だけど礼がそこまで言うなら乗っかってみてもいいかと、なぜかこの時思ってしまったのだ。
*
「……で、ここは関数を平方完成すると、この式になるから、頂点の座標がコレな。ここまではわかる?」
「うん」
「そしたら、定義域がこれだから、両端の値の中点はなに?」
「二分の零と四を足して、えっと……二?」
「そー。できるじゃん」
礼にぐしゃぐしゃと犬みたいに頭を撫でられて、俺はやめろと頭をぶんぶん横に振った。
礼が勉強を見てくれると言ってくれた日から数日。あれから何やかんやで毎晩のように俺の部屋で勉強会が行われている。勉強会といっても、俺が教わる一方だけど。
「じゃあ今日はこんなところで平気?」
「うん、ありがとう。めっちゃ助かった」
礼の言うとおり、数学が得意だというのは本当だったらしい。礼の教え方はそれはもうわかりやすかった。何なら学校の先生よりも俺のペースに合わせて噛み砕いて教えてくれるから非常に助かっている。
「俺ばっかり見てもらってるけど、あんた勉強しなくていいの?」
「大丈夫。春休みとか暇すぎて、教科書一通り頭に入れてあるから」
「……」
天は二物を与えずというが、この人は二物どころか三物も四物も与えられているような気がする。これで運動もできるのなら一切の隙がないことになる。
「……ふ、なに? 悔しそうな顔して」
礼は新しいおもちゃを見つけたみたいな顔をしながら、俺の鼻をむぎゅっとつまんだ。
「いや、あんたが死ぬほど運動音痴だったらいいのになって考えてる」
「……おまえ、最悪」
「でもあんたの場合、マラソンの途中でへろへろになって倒れてもキャーキャー言われてそうでウザい」
「どんな想像してんだよ。てか、ウザいとか傷付くんだけど」
レンズ越しにみる礼の顔は緩んでいて、楽しそうに肩を揺らして笑っている。
この頃、礼と時間を共にすることが増えてから、礼がよく笑うようになった。あの仏頂面は何だったのかと思うほど、俺といるときはいつも楽しそうに目を細めている。
食事の時間も少しずつ食卓に家族四人が揃うことが増えた。礼は両親の前ではいつもよりも少しだけ態度が硬いが、それでも食事をとるようになってくれただけ以前に比べたら大きな進歩だろう。
別段問題はない。むしろあの冷戦を思い返せば見違えるほど生活が変わった。それなのに、俺は今、たった一つ、誰にも言えない悩みを抱えている。
「ていうか、おまえ運動苦手なんだっけ。中学の時は何部だったわけ?」
「サッカー部。万年補欠だし体力的にしんどいしもうとにかく苦痛で、ああ俺には運動は向いてないってなった」
「おまえがサッカーしてるとこ想像つかねぇわ」
「二度とすることはないしな」
「ドッジボールで松葉杖になるぐらいだもんな」
「蒸し返すなよ!」
あはは、と楽しそうに声を上げて笑う礼。遠くで見ている時は気づかなかったけど、笑うと目尻に皺ができるのだ。屈託ないくしゃっと笑う顔はなるほど女子が騒ぐわけだし、歯並びの良い白い歯も清潔感を助長している。
(……うわー、かっこいいな)
そう。最近の俺を悩ませている事象。礼がとてつもなくかっこよく見えること。
今まではこの人はどんなに整った顔立ちをしていようが色んな意味で恋愛対象外だと思っていたし、無意識に選択肢から外していた。それが最近、下手したら田所よりも一緒に過ごすようになって、どうしても意識せずにはいられない。
そもそも初めて会ったときから、正直に言うとこの綺麗な顔が好みだった。神に与えられた天賦の顔面だ。嫌いな人間がいるはずがない。それなのに最近は何となく以前よりも俺に優しいような気がするし、発光してそうな笑顔を惜しげなく俺に向けてくるから、嫌でもドキドキしてしまうのはもう仕方がない。
「なーに、俺の顔じっと見て。惚れた?」
「ばっ、ほ、そ、そんなわけねえ!」
「あははっ、ほんと揶揄い甲斐あんな〜。おもしろ」
相変わらずこの人は俺のことをバカにしている。どうせ俺なんて、この人から見たらちんちくりんのガキでしかないのだろう。
礼がノンケなのは知っている。それを引いても家族だし、どうにかなりたいとかいう気持ちはない。兄貴にドキドキするなんて馬鹿げていると自分でも思う。そもそも女が好きなこの人にとっては、俺なんて眼中にないはずだ。それでなくても、義兄弟という関係性だし……。
(いやいや、なんで落ち込んでんの!? 別にこの人に恋愛対象として見られなくたって落ち込むとこじゃねえだろ、どうしちゃったんだよ俺!)
最近本当に自分がおかしい。きっと一緒にいる頻度が増えたから、この人の魅力に充てられて頭がおかしくなっているのだ。一旦冷静にならないと。
「なあ、家ではそれ外したら?」
ぐるぐると考え込んでいた俺の思考は、そんな礼の言葉によって分断された。気付けば俺の眼前に伸ばされている長い指。咄嗟に目を閉じると、礼の指は俺のメガネのフレームを掴んで引き寄せた。
レンズの隔たりのない視界はクリアに映る。いつのまにか俺の目の前には礼の顔があった。至近距離で視線が重なり、どきんと心臓が跳ねる。
「ち、近いんだけど」
動揺していることを悟られたくなくて、なるべく平静を装いながら文句を垂れた。礼は不躾に俺の顔をじろじろと観察している。
「なんだよ。生憎おまえと違って、綺麗な顔はしてな……」
「可愛い」
「…………えっ」
思いがけず素で驚いてしまった。ぱちくりと瞬きを繰り返してしまう。至って真面目な顔をしている男の口から、ホイップクリームを載せて蜂蜜とメープルシロップを垂らして苺ジャムでも掛けたような、そんな声が発せられたからだ。
「あ、ごめん。可愛いって言われるの、嫌なんだっけ」
「……」
「どうした?」
一生の不覚だ。まさか、こんな四文字に脳を焼かれそうになるだなんて。遅れて騒ぎ出した心臓が、今にも唇を割って外に飛び出したいと言わんばかりにうるさくて仕方がない。心なしか耳が熱いし、意味もないのに視線を彷徨わせてしまって、何も考えられなくて。
言わなきゃ。嫌だって、やめろって、揶揄うなよって。それなのに考えることを放棄してしまった俺の頭はいつもみたいに虚勢を張ることすらできずに、とうとう使い物にならなくなってしまった。
「おい、怒った?」
礼が俺の肩を揺さぶる。
「……んたに、……は」
「え?」
俯いていた俺は、視線を逸らしたまま何とか声を振り絞った。
「あんたに言われるのは、……嫌じゃなかった」
それどころかむしろちょっと嬉しかったという言葉は、俺の中に留めておいた。
(だって気持ち悪いだろ、可愛いって言われて喜ぶ男なんて)
俺だってこんなはずじゃなかったのに、世界で一番嫌いな言葉だったはずなのに、どうしてこの人なら良いと思うんだろう。
「……」
返事が返ってこない。おそるおそる視線を上げるのと同時に、礼が静かに立ち上がった。
「メガネ返す」
「……どうも」
「風呂入るわ。おまえもそこそこにして寝ろよ」
「あ、うん。おやすみ」
「おやすみ〜」
返されたメガネを手に持ちながら、礼が去った後の扉をぼうっと眺めていた。心にぽっかり穴が空いたような得も言われぬ寂しさと、俺と同じ柔軟剤の匂いだけが部屋に残っていた。
クラスマッチの翌週。教室に入るなり俺を見つけた田所は、その様子を見て目を丸くしていた。
それもそのはずだ。俺の足には固定されてぐるぐる巻きにされた包帯が何重にも巻かれているし、両手には松葉杖を引っ掛けている。
「思ったより酷かったんだよ」
「災難だったな。俺に手伝えることあったら遠慮なく言えよ」
「ありがとう。じゃあ早速だけど、ロッカーに荷物置きたいんだけど手伝ってくれる?」
「オッケー」
俺の足の怪我の状態は思ったより酷かったらしい。病院に行ったらあれよあれよと処置をされて、当分の間松葉杖生活になってしまった。
「香月くん、怪我は大丈夫?」
「ああ、うん。見た目は派手だけどすぐ治るよ」
「ねえ、さっき伊竜先輩と登校してきたってほんと?」
突然三人組の女子に声を掛けられ、何かと思えばやはりそんな話題だった。
「え……さすがに見間違いじゃね? なあ、未凪」
「……」
キラキラとした瞳の女子達は、今か今かと俺の返事を待っている。
俺だってまだ信じられない。まさかあの礼が、俺に手を貸すだなんて。
♢
「なあ、持ち物これで全部?」
「……うん。ありがと」
朝早くに俺の部屋を訪ねてきた礼は、開口一番になんか手伝うわ、と声を掛けてきた。
「あ、服着れたんだ」
「うん。手は痛めてなくてまだよかった」
何を手伝わせたらいいかわからなくて、とりあえず荷物を纏める作業をお願いしてから数分。本当に準備を手伝ってくれたことに驚きを隠せない。
「んじゃいくか」
「え?」
「がっこ」
さらっと掛けられた言葉が理解できず、ぱちぱちと瞬きを繰り返してしまう。
「は? い、いっしょに?」
「うん。荷物もてねぇだろ」
「いやいや、あんたといると目立つし」
「はーい、つべこべ言ってっと遅刻すんぞ」
あれよあれよと言い包められ、二人揃って一階へ降りると、ちょうど出掛けるところだった父さんと、キッチンに立っていた母さんは、驚きのあまり硬直してしまった。
「コイツ送っていくんでしょ。俺も行くから」
「……あ、う、うん。わかった」
礼に声を掛けられた母さんは片言になってしまっている。
「コイツの弁当は?」
「ちょっと待ってね。……はい、これよ」
「さんきゅー。あと、別に嫌ならいいけど、俺のも明日から作ってほしいんだけど」
「………………え?」
聞き間違いだろうか、とその場にいる全員が思ったに違いない。シンと静まり返った室内に、礼の声が続く。
「今までごめん。……これからは、なるべく家にいるようにするから」
後ろにいるから礼の顔は見えないけれど、その背中はしゃんとしていて、初めて頼もしく映った。
「……もう、当たり前じゃない〜〜! いくらでも作ってあげる!」
涙を浮かべながら笑った母さんは、礼に近寄ってその髪を両手でぐしゃぐしゃに掻き混ぜた。玄関で話を聞いていた父さんも靴を脱いでやってきて、礼の肩をポンポンと叩いている。
俺は少し離れた後ろからその様子を見ながら、微笑みを浮かべざるを得なかった。
やっと、パズルのピースが揃う瞬間だった。
♢
「いつまで不貞腐れてんだよ、田所」
俺が声を掛けると、田所はむっとした表情のまま視線だけ俺に向けた。
たっぷり六時間分の授業をこなし、HRも終えて下校の時間。だというのに自分の席で頬杖をついたまま動こうとしない田所に、俺は渋々声を掛けた。
「悪かったって」
「本当に思ってんのか!?」
「思ってる思ってる」
「テキトーだよな!?」
面倒臭い彼女のような状態になってしまった田所を前に、手の打ちようがない。それもこれも全部、俺のせいではあるのだが。
「なんっっで、言ってくれなかったんだよ。おまえと伊竜先輩が一緒にす、もごもご」
「っ、ばか! 声がでけえ!」
田所のバカでかい声が教室中に響き渡る前に、俺はすんでのところでその口を手のひらで塞いでやった。田所はもごもごと口を動かしながらまだ何か言いたげな視線をこちらに寄越している。
「大体、一番はおまえがそうやってぽろっと口を滑らしそうだから言わなかったんだよ」
「そんなのさすがに俺だって言っていいことと悪いことの区別ぐらいついてるわ!」
「でもさっき俺が止めなかったらでけえ声で言ってただろ」
「ぐ……」
田所は悔しそうに言葉を詰まらせている。俺達は至近距離で睨み合った後、互いに顔を背けて、はあと息を吐いた。
「それに、色々あったんだよ。あの人のこと家族って認めたくなかったっていうか、解決するまでは誰にも言わないでおこうと思って……」
礼がようやく家族の一員になったように感じたのはまだ今朝のことである。それまでは家族という括りに礼を含めていいのかもわからず、この関係性を何と名付けていいのかわからなかった。
今朝、礼と一緒に登校したところをクラスメイトの女子に目撃されて質問攻めにあっていたところを、何も知らない田所が聞いて混乱してしまったらしい。
その後もなかなか二人になれる機会が無く、昼休みにやっと義兄弟になったのだと田所にだけ打ち明けたところ、どうして早く言ってくれなかったんだと怒り、それ以降口をきいてもらえなかったのだ。
「……まあ、女子達に質問攻めにあってたおまえが気まずそうに何かを隠してるのを見て、何か色々あったんだなとは思ってたんだよ」
頭をぐしゃぐしゃと掻きながら、田所は続ける。
「でもだからこそ、ダチが悩んでる時期に何も頼ってもらえなかったって、俺はかなーりショックだった」
「……悪い」
「だけどおまえはそういう性格だって知ってるし。自分の中で抱え込んで、誰の力も借りずに自分だけで解決しようとする奴だって」
俺はぐうの音も出ずに、肩を落とした。
田所の言うとおり、俺は他人に悩みを打ち明けることが苦手だ。自分の弱い部分を他人に見せることが怖い。余計に惨めな気分になるだろうし、決して纏まらないこの感情を上手に言語化できるかどうかわからないからだ。
田所の視線がこちらに向けられる。呆れを含みながら笑った。
「勝手に拗ねてこっちこそ悪かった。とりあえず、今後は洗いざらい話してもらうからな」
「……それはさすがに無理かも」
「おまえ、そこはうんって言うとこだろ。……はあ」
誰かの力を借りるということは、誰かの時間を奪うということ。幼い時から忙しい母さんと過ごしてきたから、大抵のことは一人で切り抜けられるようにと無意識に刷り込まれてきた。
だから今になっては、他人に頼る方が俺にとっては難しいと感じてしまう。そのせいで今回みたいに友人を傷付けることになろうとは、思いもよらなかったけど。
「あ〜、なんかスカッとしたい気分。よし未凪、カラオケ行くぞ!」
「行かねえよ。テスト前だろ」
「つれねえの。仲直り記念ってやつじゃん?」
「数学、次赤点だったらやばいんじゃなかった? 矢田セン夏休みに補修するとか言ってたし」
「未凪〜〜! このクソ真面目メガネめ〜〜!!」
「メガネは余計だろ!」
俺達が帰る支度を始めていると、不意に教室がどよめいた。ぱっと顔を向けると、教室の入口に見覚えのあるミルクティーベージュの髪が見える。
「あ、いた」
俺と目が合うと、長い足を動かしてなんの躊躇いもなく教室に入ってきた。
「帰ろ」
すぐそばまでやってきた礼は、俺の鞄を当たり前のように引っ掴んでからそう言った。
何でここに。そういえば朝下駄箱の前で別れるとき、帰りも迎えに行くって言ってたような気がする。すぐに断ったはずだけど、聞こえていなかったのだろうか。
「いや、いい。コイツと帰るから」
「えっ俺!?」
急に話題を振られた田所は驚いた声をあげる。礼はすっと目を細めて、田所に視線を移した。そして再び俺のもとに視線が返ってくる。
「ふぅん」
「……なに」
「そんなに嫌なんだ? おにーちゃんと帰るの」
「っ!」
反射的に周りを見渡すが、近くにいる女子は礼の写真を撮るのに夢中らしく聞こえていないようだった。ほっと胸を撫で下ろしてから、声を潜めながら咎める。
「……んの、バカ! 聞かれたらどうすんだよ!」
「あはは、焦っちゃってかわいそうに。で、どうする? 俺と帰る?」
「帰んねーし」
むしろなんで今ので気が変わると思ったんだよ、と呆れながらそっぽを向くと、視線の先で田所が何かを閃いたような顔をしていた。
「あ、全然どうぞ! 送ってやってください!」
「あーほんと? ありがとね。いい友達じゃん」
「おまっ……! ざっけんな田所!」
抗議しようと近づくと、田所はにんまりと人の好さそうな笑みを浮かべながら俺に耳打ちした。
「まあまあ。なんかよくわかんねえけど、そっちも仲直りしたばっかりなんだろ? 親睦を深めるチャンスだって。頑張れよ!」
そうだコイツは、昔からお人好しなんだった。こんな時に思い出した俺は、礼と連れ立って教室を出ていく羽目になってしまった。
「イヤイヤは終わった?」
「あんた目立つから嫌なんだよ」
「っくく、早く慣れろよ。おまえの足が治るまでは迎えにくるから」
「はあ? いいって。何でそんなことすんの」
「何でって……」
礼はそう言うと足を止めた。顎に手を当てて何かを思案しているようだ。
「……俺がそうしたいから?」
「何であんたも疑問形なの」
「わかんねえよ、理由とか。したいからしてるだけ」
「……前もそれ言ってたよな」
この人の行動原理はこの人でさえ理解できていないらしい。最初は掴めない人だと思っていたけど、自分の感情に素直なだけで案外わかりやすい人なのかもしれない。
「あ、ていうか、待って。俺数学で聞きたいとこあったんだ」
ハッと思い出し、少し前を歩く礼を呼び止める。
「教科担当に聞いていこうと思うけど、いい?」
「いいけど、俺が教えてやればよくない?」
「え、でもあんた授業出てないんだろ。わかんの?」
「必要ないから出てないだけ。数学得意だし、家帰って教えてやるよ」
「……」
「っふ、疑ってるだろ。お前マジでわかりやすくて、うぜ〜」
どう考えてもプロである教科担当に聞いた方がいいに決まっている。だけど礼がそこまで言うなら乗っかってみてもいいかと、なぜかこの時思ってしまったのだ。
*
「……で、ここは関数を平方完成すると、この式になるから、頂点の座標がコレな。ここまではわかる?」
「うん」
「そしたら、定義域がこれだから、両端の値の中点はなに?」
「二分の零と四を足して、えっと……二?」
「そー。できるじゃん」
礼にぐしゃぐしゃと犬みたいに頭を撫でられて、俺はやめろと頭をぶんぶん横に振った。
礼が勉強を見てくれると言ってくれた日から数日。あれから何やかんやで毎晩のように俺の部屋で勉強会が行われている。勉強会といっても、俺が教わる一方だけど。
「じゃあ今日はこんなところで平気?」
「うん、ありがとう。めっちゃ助かった」
礼の言うとおり、数学が得意だというのは本当だったらしい。礼の教え方はそれはもうわかりやすかった。何なら学校の先生よりも俺のペースに合わせて噛み砕いて教えてくれるから非常に助かっている。
「俺ばっかり見てもらってるけど、あんた勉強しなくていいの?」
「大丈夫。春休みとか暇すぎて、教科書一通り頭に入れてあるから」
「……」
天は二物を与えずというが、この人は二物どころか三物も四物も与えられているような気がする。これで運動もできるのなら一切の隙がないことになる。
「……ふ、なに? 悔しそうな顔して」
礼は新しいおもちゃを見つけたみたいな顔をしながら、俺の鼻をむぎゅっとつまんだ。
「いや、あんたが死ぬほど運動音痴だったらいいのになって考えてる」
「……おまえ、最悪」
「でもあんたの場合、マラソンの途中でへろへろになって倒れてもキャーキャー言われてそうでウザい」
「どんな想像してんだよ。てか、ウザいとか傷付くんだけど」
レンズ越しにみる礼の顔は緩んでいて、楽しそうに肩を揺らして笑っている。
この頃、礼と時間を共にすることが増えてから、礼がよく笑うようになった。あの仏頂面は何だったのかと思うほど、俺といるときはいつも楽しそうに目を細めている。
食事の時間も少しずつ食卓に家族四人が揃うことが増えた。礼は両親の前ではいつもよりも少しだけ態度が硬いが、それでも食事をとるようになってくれただけ以前に比べたら大きな進歩だろう。
別段問題はない。むしろあの冷戦を思い返せば見違えるほど生活が変わった。それなのに、俺は今、たった一つ、誰にも言えない悩みを抱えている。
「ていうか、おまえ運動苦手なんだっけ。中学の時は何部だったわけ?」
「サッカー部。万年補欠だし体力的にしんどいしもうとにかく苦痛で、ああ俺には運動は向いてないってなった」
「おまえがサッカーしてるとこ想像つかねぇわ」
「二度とすることはないしな」
「ドッジボールで松葉杖になるぐらいだもんな」
「蒸し返すなよ!」
あはは、と楽しそうに声を上げて笑う礼。遠くで見ている時は気づかなかったけど、笑うと目尻に皺ができるのだ。屈託ないくしゃっと笑う顔はなるほど女子が騒ぐわけだし、歯並びの良い白い歯も清潔感を助長している。
(……うわー、かっこいいな)
そう。最近の俺を悩ませている事象。礼がとてつもなくかっこよく見えること。
今まではこの人はどんなに整った顔立ちをしていようが色んな意味で恋愛対象外だと思っていたし、無意識に選択肢から外していた。それが最近、下手したら田所よりも一緒に過ごすようになって、どうしても意識せずにはいられない。
そもそも初めて会ったときから、正直に言うとこの綺麗な顔が好みだった。神に与えられた天賦の顔面だ。嫌いな人間がいるはずがない。それなのに最近は何となく以前よりも俺に優しいような気がするし、発光してそうな笑顔を惜しげなく俺に向けてくるから、嫌でもドキドキしてしまうのはもう仕方がない。
「なーに、俺の顔じっと見て。惚れた?」
「ばっ、ほ、そ、そんなわけねえ!」
「あははっ、ほんと揶揄い甲斐あんな〜。おもしろ」
相変わらずこの人は俺のことをバカにしている。どうせ俺なんて、この人から見たらちんちくりんのガキでしかないのだろう。
礼がノンケなのは知っている。それを引いても家族だし、どうにかなりたいとかいう気持ちはない。兄貴にドキドキするなんて馬鹿げていると自分でも思う。そもそも女が好きなこの人にとっては、俺なんて眼中にないはずだ。それでなくても、義兄弟という関係性だし……。
(いやいや、なんで落ち込んでんの!? 別にこの人に恋愛対象として見られなくたって落ち込むとこじゃねえだろ、どうしちゃったんだよ俺!)
最近本当に自分がおかしい。きっと一緒にいる頻度が増えたから、この人の魅力に充てられて頭がおかしくなっているのだ。一旦冷静にならないと。
「なあ、家ではそれ外したら?」
ぐるぐると考え込んでいた俺の思考は、そんな礼の言葉によって分断された。気付けば俺の眼前に伸ばされている長い指。咄嗟に目を閉じると、礼の指は俺のメガネのフレームを掴んで引き寄せた。
レンズの隔たりのない視界はクリアに映る。いつのまにか俺の目の前には礼の顔があった。至近距離で視線が重なり、どきんと心臓が跳ねる。
「ち、近いんだけど」
動揺していることを悟られたくなくて、なるべく平静を装いながら文句を垂れた。礼は不躾に俺の顔をじろじろと観察している。
「なんだよ。生憎おまえと違って、綺麗な顔はしてな……」
「可愛い」
「…………えっ」
思いがけず素で驚いてしまった。ぱちくりと瞬きを繰り返してしまう。至って真面目な顔をしている男の口から、ホイップクリームを載せて蜂蜜とメープルシロップを垂らして苺ジャムでも掛けたような、そんな声が発せられたからだ。
「あ、ごめん。可愛いって言われるの、嫌なんだっけ」
「……」
「どうした?」
一生の不覚だ。まさか、こんな四文字に脳を焼かれそうになるだなんて。遅れて騒ぎ出した心臓が、今にも唇を割って外に飛び出したいと言わんばかりにうるさくて仕方がない。心なしか耳が熱いし、意味もないのに視線を彷徨わせてしまって、何も考えられなくて。
言わなきゃ。嫌だって、やめろって、揶揄うなよって。それなのに考えることを放棄してしまった俺の頭はいつもみたいに虚勢を張ることすらできずに、とうとう使い物にならなくなってしまった。
「おい、怒った?」
礼が俺の肩を揺さぶる。
「……んたに、……は」
「え?」
俯いていた俺は、視線を逸らしたまま何とか声を振り絞った。
「あんたに言われるのは、……嫌じゃなかった」
それどころかむしろちょっと嬉しかったという言葉は、俺の中に留めておいた。
(だって気持ち悪いだろ、可愛いって言われて喜ぶ男なんて)
俺だってこんなはずじゃなかったのに、世界で一番嫌いな言葉だったはずなのに、どうしてこの人なら良いと思うんだろう。
「……」
返事が返ってこない。おそるおそる視線を上げるのと同時に、礼が静かに立ち上がった。
「メガネ返す」
「……どうも」
「風呂入るわ。おまえもそこそこにして寝ろよ」
「あ、うん。おやすみ」
「おやすみ〜」
返されたメガネを手に持ちながら、礼が去った後の扉をぼうっと眺めていた。心にぽっかり穴が空いたような得も言われぬ寂しさと、俺と同じ柔軟剤の匂いだけが部屋に残っていた。