日々というものはあっという間に過ぎていく。長くジメジメとしていた梅雨も明け、気付けば期末テストまであと少し。
 
 七月某日。今日は高校に入って初めての学校全体で行われるイベント、クラスマッチが開催されることになっている。
「まだ七月ってマジ? 暑すぎるだろ……一時間でもう水なくなったんだけど?」
「俺も。買いに行こうぜ」
 更にこんがり焼けて夏仕様になった田所は、照りつける日差しを嫌そうにうげぇ、と顔を顰めている。
「未凪はバレーどうだった?」
「勝ったけど、俺ほぼ何もしてない。立ってただけ」
「? じゃあその指の包帯は何なんだよ」
「一回だけボール触ったときに突き指した」
「未凪らしいっちゃらしいな」
 神様はどうして俺に運動神経を与えてくれなかったのだろう。俺が天を仰ぎながら目を細めると、田所も合掌しながら同じように目を細めた。
「田所は? 得意のサッカーじゃん」
「おー、ボロ負けした!」
「なんでだよ」
 あまりにもドヤ顔で言うものだから、思わず吹き出してしまった。
「だってウチのクラスのサッカー部俺だけで、相手四人もいるんだぜ!? そりゃ無理だろ! いくら俺が超上手くたってさあ! 俺一人じゃ勝てません!!」
「わかったから静かにして、恥ずかしい」
 田所の長所は寛大でナルシストなところ、短所は感情が昂ると急に叫び出すところである。自販機に到着した俺達は交互にドリンクを買い、その場でゴクゴクと喉を潤した。
「あ、見ろよ未凪。伊竜先輩いるぞ」
 田所に肩を掴まれ、顎で示された先を見遣ると、中庭でベンチに座る礼の姿があった。その隣には赤い髪の先輩が腰掛けていて、近くでピンクの髪の先輩が立っている。
「ほらほら、もっと近く行こうぜ」
「何でだよ。ここでいいだろ」
「だっておまえ伊竜先輩のファンなんだろ?」
「はあ? 誰があんな人の──」
「結構前、クラスの女子に伊竜先輩の居場所聞いて走って見に行ったじゃん」
「あー……」
 まだあの人のことを何にも知らなかったあの頃。後先考えず声を掛けに行って玉砕したんだっけ。当時の必死な自分を思い出し、苦笑いを浮かべた。
「うわっ、女子が写真頼んでる! ずりぃ、俺の視界の端でモテるのやめてくれ」
「おまえさぁ……」
 見ればいつの間にかベンチの前にはちょっとした人集りができていた。どうやら皆少し離れたところからコソコソとタイミングを窺っていたらしい。一人があの、と声を掛けたら、じゃあ私も、と数人が押し寄せたのだろう。
「イベント効果ってやつ? 伊竜先輩普段は声掛けづらいもんなあ、今日はお祭りだから許されるのかねぇ」
「田所にも誰か女子が来るといいね」
「未凪、制汗シート持ってる? あとこの後トイレで髪整えてくるわ」
「それで誰も来なかったら胸が痛いからやめろよ」
 張り切る田所を白い目で見ながら、再び人集りに目を向ける。どうやらカラフルな髪の先輩二人が列を仕切る係と撮影する係に分かれてそれぞれ撮影現場を回しているらしい。
「アイドルの特典会かよ」
 大変だな、と踵を返そうとした俺は、しかし田所に襟首を掴まれそれ以上進むことを封じられてしまった。
「なあ〜、未凪も撮ってもらえば?」
「はあ!? いや、別にいらんし……」
「こんなチャンス滅多にないぞ! 俺も女の子に声掛けられるかもしれないし一石二鳥!」
「おまっ、そっちが本命だろ!」
 何度か抵抗してみるが身長差でも体格差でも敵わず、俺は呆気なく礼のもとへ連行されることになった。

 きゃあきゃあといろめき立つ女子の輪の中に入り、赤髪の人の誘導で俺達は最後尾に並ぶ。もうすでに俺は帰りたい気持ちでいっぱいなのに、田所は物珍しそうにきょろきょろと辺りを見渡して嬉しそうにしている。
「なあ、未凪、じょ……」
「女子がいっぱいとか言うなよ。おまえ気持ち悪い罪で捕まるぞ」
「……」
 やはりテンプレ通りの台詞を言おうとしていたのだろう。わかりやすく押し黙った田所を見て、俺は頭を抱えそうになった。
 列は四組ほど並んでいて、一組に一分もかからなかったのであっという間に順番が来た。
「こんちわ! 俺達一年なんすけど、コイツ伊竜先輩のファンで!」
「……」
 田所に肩を組まれながら、白目を剥きたい気持ちをぐっと堪える。目の前では驚いたように少し目を見開いた後に、明らかに笑いを噛み殺している礼の姿。田所にバレないようにキッと睨むが、ますますその肩はぷるぷると震えるばかりだ。
「写真お願いしてもいっすか!」
「うん、いいよ」
「だってさ! よかったな未凪!」
 田所の悪気のない満面の笑みが俺を苦しめる。どすどすと背中を叩かれて痛い。俺はピンク髪の先輩に促され自分のスマートフォンを彼に手渡した。
「じゃあ撮るんで、寄って〜」
「田所、真ん中いってよ」
「いや俺写らんし。おまえだけでいいよ」
「は!? いや、おかしいだろ!」
「頑張れよ、未凪!」
 グッジョブと言わんばかりに親指を突き立てる田所。きっと田所は本気で善意でやっているのだろうが、俺にとっては本気の地獄である。だってこんな展開、またあの人の玩具になるだけだ。
「なーに、照れてんの?」
 礼は完全に面白がっているようで、わざとらしく声を掛けてきた。
「はあっ!? 誰が……!」
 ぎゃん、と噛みつこうとして、すぐに頭にあの約束が過ぎる。
 『校内では、他人のふり』。
(──誰だよ、こんな面倒臭い約束作ったの!)
 そんな風に恨み言を言いたくなるけれど、実際この人と義兄弟だと知れ渡る方が色々面倒臭いんだろうということは俺にだってよくわかる。三ヶ月と少し高校生活を過ごしてみて、この人の影響力に圧倒されるばかりだ。
「……ゴホ。お願いします」
 むしゃくしゃしながら大人しく礼の隣に人一人分の間を空けて立った俺は、棒立ちのままカメラを見た。
「ちょ、後輩クン遠すぎ! ポーズかてぇし! もっと寄って寄って!」
 そんなことを言われても、と困惑しながら少しだけ礼の方に近付くと、突然身体がぐらんと揺れた。
「うわ、」
 ふわりと香る柔軟剤の香り。きゃ、と近くにいた女子達が声を上げている。肩に置かれた意外とゴツゴツとした大きな手は、こんなに炎天下の中でもひんやりと冷たい。
「はーい、撮るよ〜」
 カシャッ。
 シャッター音が鳴ると同時に、礼の身体は離れていった。無意識に顔を上げると、礼も俺を見下ろしていた。
「俺のファンなんだ?」
「……そういうことになってる」
「っくく、男のファンはおまえが初めてだよ」
 周りに聞かれないように小声で返すと、礼はクツクツと楽しそうに笑った。
「なあ、写真俺にもちょうだい」
「え? いらないだろ」
「川上ぃー、コイツのスマホ貸して」
 礼は俺の返事などそっちのけでピンク髪の先輩から勝手に俺のスマホを受け取った。
「パスワード何?」
「言うわけない」
「言っちゃおっかな、おまえと俺の関係」
「っ、あんたほんと、性格悪……!」
 精一杯の文句を垂れるが、俺に残された道はただ一つしかない。礼の手元からスマホを奪ってロックを解除すると、再びその手にそれを渡してやった。
 礼は満足そうに微笑んだ後、勝手に何やら操作をして、しばらくしてからスマホが返却された。
「ん。俺の連絡先追加したから、写真送っておいて」
 見ればメッセージアプリに『Rai』という名前の友達が追加されていて、俺は己の目を疑った。
「よろしく〜」
「……わかりました」
 よそ行きの顔に戻った礼に背を向けて、俺は田所のもとへ小走りで近付いた。俺を待ってくれていた田所は腕を組み真面目な顔をしているが、この顔は女子を眺めて内心ウハウハだということを長年付き合いのある俺は知っている。
「俺を、生贄にしやがって……」
「は? 生贄? なんでおまえキレてんの? いでっ」
 困惑する田所の足を八つ当たりに軽く踏んだ後、俺はもう一度スマホの中身を確認する。
 まだ信じられない。だって俺のスマホに礼の連絡先がある。家族なのだから本来は当然のはずなのだが、礼が最初に教えてくれなかったので、家族の中では父さんしか知らなかったのだ。
「未凪〜。おまえちょっとニヤけてんぞ」
「は!? で、出鱈目言うなって」
 よかったなあ、憧れの人と写真撮れて。そう言う田所の言葉が少しだけ的を射ていることは、誰にも言うまい。



 昼食をとった後に行われたドッジボールでは、ギリギリのところで相手チームに勝利し、俺達のクラスは準決勝に進むことになった。
 一戦休憩を挟んで次の試合だ。体育館の床はひんやりとしていて冷たく、汗ばんだ身体には気持ちがいい。少し、いやかなり硬いけれど。
「次の相手三年じゃん、最悪」
「ガンガン攻撃するしかねえべ。押されると負ける」
 近くで運動部のクラスメイト達が作戦を練る中、俺は欠伸を噛み殺しながらぼうっと別のクラスの試合を眺めていた。
「何ぼーっとしてんだよ、未凪」
「疲れた。シンプルに」
「まだまだこれからだろ」
「文化部にはキツいって……」
 俺は唸りながら、手持ち無沙汰にポケットの中のスマートフォンを取り出す。礼とのトーク画面を開くが、送った写真にはいまだに既読がつかない。
(なんだよ、送れって言ったくせに)
 モヤモヤしながらスマホをしまい、膝を抱えて顔を埋めた。

 家族が増えてからもうすぐ四ヶ月が経つ。未だに晩飯も四人で囲んだことはないし、あの人の協調性は芽生えないらしい。両親と仲良くする気はなさそうだし、あの日以来どちらとも口をきいていないようだ。
 昼も相変わらず菓子パンばかり食べているみたいだし、夜だってきっとコンビニの弁当か惣菜ばかりなのだろう。
 あの夜の喧嘩以来、礼の前で意識的に家族の話題を出すのを避けてきた。両親は相変わらず礼のことを気にかけていて時折俺に様子を伺ってはくるが、俺自身は礼を家族の一員として迎えようとするのを諦めかけていたのも事実だ。
 しかしそれでいいのだろうかと、ずっと後ろめたい気持ちは消えなかった。礼と両親を繋ぐのは、俺にしかできないことなのではないだろうか。
(進展してるようで何も変わってない。……困ったな)

「休憩終わるから三組準備して〜」
 悶々と思想を巡らせていると、いつの間にやら前のクラスが試合を終えて俺達の番が回ってきていた。
「よっしゃ、かっこいいとこ見せちゃおっかな〜」
 張り切る田所には午前中からの疲労は全く感じられない。俺はというと、突き指をした指が痛むし汗をかいて気持ち悪いし、既に筋肉痛だしでコンディションは最悪だ。
 ピピーッ。
 試合開始の笛が鳴る。少人数に分かれて行うサッカーや野球、バレーなどと違い、ドッジボールはクラス全員が参加できる唯一の競技だ。さすがにコートに全員は入り切らないので、前半と後半で二チームに分かれている。俺と田所は前半だ。
 小学生までのドッジボールとはレベルが違う高速の球が、びゅんびゅんと視界の端を飛び交っていく。運動部の奴らが作戦通り積極的に球を取り、外野とキャッチボールをしている。やはり運動神経がいい奴は、どんなスポーツでもさらっとこなしてしまうのだろう。
 俺はといえば、ドッジボールは万年避ける専門だ。
「おい未凪、サボんなよ!」
「サボってねーし。サボれねーだろこの状況で」
 どこからともなくやってきた田所はボールを軽々キャッチしながら、俺と会話をし、更に向こう側へとボールを投げる。そのボールは正確に女子と女子の間にいる男子を狙って当たり、田所はよっしゃ!とガッツポーズをした。
「おまえすげえな。何でモテねえんだ」
「俺が聞きてえよそれ!! ……いだっ!!」
 大声を上げたせいで注目を浴びた田所は相手チームから反撃され、バシンッと大きな音を立てて膝にボールを当てられてしまった。クッソ〜〜!!と叫びながら外野へと走っていく姿を見て、そういうところだなと妙に納得してしまった。
「香月、後ろ!」
 不意に大きな声が聞こえて反射的に振り返ると、すぐ近くで俺に向かってボールが投げられるのが見えた。
 あ、やばい。
 咄嗟に跳ね上がり避けようとした俺は、変な方向に足を捻らせて、尻餅をついた。尻の痛みよりもまず先に足首に電流が走ったような激痛が走り、思わず顔を顰めてしまう。とどめとばかりに頭上にボールが降ってきて、ぽよんと跳ね返ったボールは相手チームへと転がっていった。
「香月くん、大丈夫?」
「あ、うん。全然平気……っ、」
 隣に立っていた女子に返事をして立ちあがろうとした瞬間、再び電流が駆け巡る。今朝突き指をした時とは比べ物にならないほどの痛み。足を動かすのが怖いほどだ。
「ちょっと男子呼んでくる、待ってて!」
「ありがと……」
 クラスメイトの女子のおかげであれよあれよとコートから脱出した俺は結局、田所に身体を支えられながら保健室に向かうことになった。



「うーん、多分捻挫だね」
 開口一番に告げられた言葉に、やはりかと無意識に天を仰いでしまう。みるみるうちにパンパンに腫れ上がり青暗くなってきた足首を見れば一目瞭然である。
「すごい捻り方したねえ。痛かったでしょ」
「はい、めちゃくちゃ」
「毎年クラスマッチでこういう子三人はいるから、安心して!」
 何を安心しろと言うのだろう。リアクションに困る俺を見て、養護教諭はあっはっはと高らかに笑った。
「これから病院に行ってきてくれるかな? 保護者の方呼べる?」
「電話してみます」
 ポケットからスマホを取り出して、まずは母さんの番号を呼び出す。何コール経っても繋がらず、留守番電話に繋がれてしまった。
「……あ」
「どうかした?」
「いや、そういえば今日、大事な会議があるって張り切ってたなって」
「あら。お父さんは?」
「昨日から出張で、明日までいなくて」
「うーん、困ったわねえ……。他にご家族の方はいる?」
 どうやら宜しくないタイミングで怪我をしてしまったらしい。難しい顔でスマホの画面と睨めっこしていた俺だが、不意に三つ目の選択肢が頭をよぎった。
(いや、でもそれは、さすがに無理だろ)
 俺だってできればそんなことは頼みたくない。だって相手はあの人だ。頷いてもらえるかどうかもわからない。
「……」
 だけど、もしかしたら。
 思えば以前、おまえを家族なんて認めないと宣戦布告までしたような、たった一人に縋るしかない無力な自分を呪いながら、俺は受話器のマークに指を乗せた。
「もしもし、俺だけど──」



 しばらくして保健室の扉がガラガラと乱暴に開け放たれた。視界に飛び込んでくる金色の髪。顔を向ければ、珍しく息の上がった礼がそこにいた。
「……どうも」
 俺の姿を見て固まる礼に、形ばかりの会釈をする。その視線は俺の足元に注がれている。
「びっくりした。急に保健室に来いとか言うからさ。……なに、またカツアゲされたの?」
「またって何だよ。されたことねえし」
 むっとする俺を無視して、礼は俺のそばへと近寄ると、足元にしゃがみ込んだ。
「うわあ、痛そ。今度は何に巻き込まれたの?」
「ちょっと、ドッジで……」
「は? 避けようとして転んだとか?」
「う、……悪いかよ!」
 我ながら酷い開き直り様だと思う。
「ドジっ子かよ」
「うるさいな。子とか言うな」
「嫌なのそこかよ」
 呆れた様子の礼と言い合っていると、養護教諭が教室に戻ってきた。
「あれ、伊竜くん。どうしたの? 怪我?」
「いや違う、コイツに呼ばれた」
「あ、他に呼べる家族がいなくて……」
「家族?」
 俺の言葉に反応した礼は、訝しげに俺を見ている。俺は視線に気付かないふりをしながら、養護教諭のおばちゃんに察してくれ、と念を飛ばす。
「……えっと、もしかして親戚とか?」
「そ、そんな感じです」
「そうだったのね〜! じゃあ伊竜くん、もしよかったら香月くんを病院まだ送ってあげてくれる? この通り、酷い捻挫で歩けないのよ」
 礼はまだ俺の顔を見ていて、何か言いたげな顔をしていたが、やがて一息吐いた後に言葉を発した。
「わかった」
 そう言うなり、礼は突然俺の目の前に背を向けてしゃがみ込んだ。
「おら、乗れや」
「……は? ちょ、ま、待って」
「いいから早くしろ。俺の気が変わる前に」
「いや、だって、おんぶって……」
 どう考えたってそんな距離感じゃないだろ、俺達は! 頑なに首を縦に振らない俺を見て、痺れを切らした礼は呆れた顔で振り向いた。
「お姫様抱っことどっちがいい?」
 そして、ニヤリと口角を吊り上げた。
「〜〜っ、こんの、性悪……!」
「知ってる〜。で、どっち?」
「クソッ……!」
 俺は渋々礼の肩に手を掛けた。すると、あっという間に身体が浮いて目線が高くなる。
「ちょ、高い! 怖いんだけど!」
「あ? 知らんし。じゃあね、棚ちゃん」
「お大事にね、香月くん。伊竜くんよろしくね〜」
 ぐっと高くなった視界。いつもと同じ場所を通っているのにまるで違う景色のようだ。すぐ近くにある礼のサラサラとした色素の薄い髪からは甘いシャンプーの香りがしていて、なんだか癪だと思った。
「なあ、あんた身長何センチ?」
「わかんねー。俺が一番でかいんだから覚える必要ねぇもん」
 聞いた俺がバカだった。不貞腐れた俺はあっそ、とだけ返しておいた。
「おまえは何センチ? 百五十あんの?」
「さすがにあるわ。百六十四」
「へぇ。ちっちゃくて可愛いね〜」
「降ろせ」
「痛い痛い、大人しくしろよ! 落ちんぞ」
 帰る前に教室に荷物を取りに寄ってもらった。クラスマッチの真っ只中であるので、さすがに校舎の中には俺達以外の生徒はいない。
 鞄を回収し、下駄箱で靴を履き替えて校庭に出ると、視線がちらほらとこちらに集まり始めるのがわかった。ヒソヒソと何かを話したり、こちらを指差す人達の姿が見える。
 俺の下にいるこの人は、いつもこんな風に歩くだけで注目を集めているのだろうか。こんな短時間でさえ視線が痛いと感じるのに、これが毎日毎分毎秒繰り返されるとしたら、俺だったら精神的に参ってしまう。
「……ごめん、俺のせいで」
 ぽつりとこぼした言葉は、想像以上に悲しみを含んでいて、慌てて言葉を付け足した。
「その、クラスマッチ。せっかく参加してたのに、出れなくなっちゃって」
「いいよ。どうせもう帰ろうと思ってたし」
 返ってきたのは淡々とした声だった。
「疲れたしあちーし、飽きた」
 そうは言うものの、ほとんどの授業をサボっている礼が珍しく参加していたイベントである。きっとそれなりには楽しんでいただろうに。
「別におまえに気を遣って言ってるわけじゃねぇよ」
 そう考えていると、そんな言葉が降ってきて、思わず息を呑んでしまった。
「気にすんなよマジで。去年も途中で帰ったし。むしろ合法的にサボれてラッキーって感じ」
「……」
「どうした? まだうじうじ悩んでんの?」
 礼の視線が俺に向けられる。俺は少し迷って、口を開いた。
「……電話かけるの、ちょっと悩んだんだ」
「うん?」
「家族を呼んでって言われて、俺はおまえに対して家族って言葉を使っていいのかわからなくて」
 礼が足を止めた。すぐ横の車道を車が通り過ぎていく。両手が汗ばむのは、気温のせいなのか、この人に触れているせいなのか、どちらなのだろう。

「俺は、おまえのこと、何て思ったらいい?」
 
 家族でもない。友人でもない。名付けようのないこの関係が酷く居心地が悪い。突然そこはかとない不安に襲われて、縋るように問い掛けるが、返ってきた言葉は素っ気ないものだった。
「……俺に聞くなよ」
 礼は俺をおぶったまま、再びゆっくりと歩き始めた。
「俺はさあ、最低なことしかしてないの」
 呑気な口調で、礼は語り出した。
「用意してもらった飯も弁当もゴミ箱に捨てさせて、親から掛けられる声を全部無視して、家族っていうものから逃げて、挙げ句の果てに傷付けて」
 おんぶという体勢じゃなければ、今この人がどんな顔をしているのか見えただろうに。突然の独白に、俺は返す言葉もわからずに黙り込んだまま、続きを待った。
「いい子ちゃんに生きてるおまえと、俺は根本的に違うんだよ。無理に家族なんて思わなくていいし、むしろやめてほしい」
「……なんで、あんたは」
 最後まで聞いて、俺は悔しさからギリギリと歯軋りをした。
「何でそういう気持ちがあるのに、そこまでして拒絶するんだよ」
 疑問だった。傷付けたと思う心があるのに、どうして反発するのだろう。家族三人が礼の帰りを待っているのに、どうして礼は突っぱねるのだろう。
「……俺ね、誰かの手料理を食った記憶が人生で一度もねーの」
 知らず知らずのうちに肩を掴んでいた手に力がこもっていたことに気付き、慌てて力を緩めた。
「みんなで揃ってご飯とか、そういうのもしたことない。いつも一人でレトルトとか、コンビニ弁当とかばっかりだったから」
 礼が自分のことを語るのはこれが初めてだった。父さんは仕事人間だし、きっと礼はたくさん我慢してきたのだろう。想像すると少し胸が痛くなった。
「なんかむず痒いし、よくわかんねーけど、無理」
「……それだけ?」
「うん」
 カッと頭に血が上った。
「そんな理由で、母さん傷付けたのかよ……っ!」
「うん、ごめん」
 そんな風にあっけらかんと謝られては、それ以上責める気力も失せてしまう。もっと重大な理由があると思っていたのに。力が抜けてしまった俺は、放心しながら言葉を紡いだ。
「……母さんは、仕事人間なんだ。本当は俺がいなければ、バリバリ海外で活躍してるような人なんだ。毎日フルタイムで働いて、残業もして帰ってくる。だけど弁当だけは、一日も欠かしたことはないんだ」
 再び手に力が籠る。しかし礼は、それを咎めることはしなかった。
「うまいんだよ、母さんの卵焼き。俺も練習してるけどなかなかうまくならなくて」
 高校に進学するときに弁当作るの自分でやるよ、と申し出たことがある。だけど母さんは困ったように笑って、『私がやりたいからやらせて。未凪が楽しく高校生活を過ごせるようにって、祈りみたいなものだから』と言っていた。
「だから、俺達のために作ってくれた弁当を、あんな風にいらないって言ったおまえを、一切食わなかったおまえを、許すことができなかった」
 あの夜のことを思い出すと、再び怒りが込み上げてきそうになる。けれど、いつまでも過去をほじくり返していては、前に進めない。
「もう過去のことはどうにもならないけどさ、ごめんって気持ちが少しでもあるなら、いつか母さんに直接伝えてよ」
 礼は無言のままだった。しばらく歩いた後に、空気に乗って声が届いた。
「俺の母親は、俺を置いて夜逃げしたんだ」
 蝉の鳴き声が、車の走る音が、街の雑踏が、一瞬消えた気がした。
「その夜のこと、最悪なのに死ぬほど覚えてる。行かないでって泣き喚く俺を、まるでゴミでも見るかのような目で振り払って出ていくんだよ」
 一体どれほどの思いを背負って生きてきたのだろう。愛する人に捨てられる絶望は、俺なんかには計り知れない。
「母親は今、別の家庭で幸せに暮らしてるらしい。自分の欲望のままに、俺と親父を捨てたんだ」
 点と点が線で繋がった気がした。いつかの雨の日に聞いた言葉。女性を憎むようなあの言葉は、きっとここからきているのだろう。
「俺はおまえが憎かった。羨ましかったんだよ。俺と同じ片親の境遇なのに、満たされてるみたいな顔して。どうしても受け入れられなかった。なんで俺だけなんだって」
「……」
「でも、あの日おまえを助けてから、何かすっきりしたっつーか。ずっと俺は、おまえを憎まなきゃいけないって勝手に自分自身を縛り続けてたんだよ」
 ふ、と礼が笑ったような息が漏れた。知らない先輩にマフィンを寄越せと絡まれたあの日、礼が俺を助けてくれたから、俺も礼への見方を変えるきっかけになった。
「それにおまえは確かにいい子ちゃんだけど、完璧超人でもなんでもないもんな。メガネ壊すし、足捻るし、ドジっ子だし」
「う、うるさいな!」
「っふは、……本当、目が離せねーってこと」
 今度ははっきりと、礼が笑う声が聞こえた。たったそれだけなのに、ほっと安堵する自分がいる。

「……悪かった」

 ぽつり。雑踏の中で、礼の声だけがまっすぐに耳に届いた。
「色々。迷惑掛けた」
 礼がこんなことを言うなんて、出会ってから初めてのことだった。思わず言葉を失った俺をよそに、礼は言葉を続けていく。
「家族が急に増えたのは、正直まだ受け入れらんねーけど、……まあでも」
「?」
「兄弟になるのがおまえで、よかったよ」
 俺は只々瞠目した。言われた言葉が自分に向けられたものじゃないみたいな、変な感覚だった。遅れて心臓が壊れた時計みたいな音を立て始める。何かが変わるような、そんな気がした。
「……変なもんでも食った?」
「おまえここで置いてくわ」
「うわっ、やめろ! おろすな!」
 なんだか気恥ずかしくて、柄にもなく茶化してしまった。顔が火照っているのがわかる。今はこの人にだけは顔を見られたくない。
「でももう着くぞ、すぐそこだから」
「あれ、本当だ」
「重すぎてそろそろキレそう」
「ありがとう、お兄ちゃん」
「うげえ、鳥肌たった。二度と言うな」
「安心しろよ死んでも言わねえから」
 バラバラになったパズルのピースは少しずつ形をなし、沈黙していた砂時計は逆さまに直り時を刻み始める。 
 何度だってやり直せる。きっと、あともう少し。