窓を叩く雨の音が一層激しくなる。部活動のない生徒は丁度帰宅する頃だろう。この天気じゃ傘を差してもびしょ濡れになってしまうに違いない。

 梅雨がやってきて、校内はなんとなく毎日ジメジメとした空気に包まれている。気分も上がらないし、体育の授業は専ら体育館でできる種目ばかりだし、飽き飽きしてくる今日この頃。
 高校に入学して早二ヶ月半。一ヶ月前に新しくした二台目伊達メガネもようやく馴染んできた。
 変わり映えのない毎日だ。相変わらず学校では田所が彼女が欲しい、モテたい、せめておっぱいを揉みたいと喚いているし、家に帰れば一人分の席だけぽっかり空いている。義兄の帰りが早くなることもなく、食事に手を付けてくれることもない。
 だが、一つだけ変わったことがある。

「……あ」

 その人を見つけた俺は、思わず足を止めた。視線の先、廊下の向こう。階段を降りてくるのは、誰よりも目立つミルクティーベージュの髪。しっかり周りにピンクや赤の髪のいつもの友人も携えて、こちらに向かってくるのが見える。
「あ、伊竜先輩だ」
「わあ、ラッキー。目の保養すぎる」
「拝んでから帰ろ」
 近くにいる女子達が端に寄り、スマホを取り出して前髪を確認し始める。ひとり取り残された俺は、廊下のど真ん中に突っ立っていた。
 ──位置取り、ミスった……!
 これでは悪目立ちである。しかし端に寄ろうにも女子の隣にいったら気味が悪いだろう。そうこう考えているうちに、背の高い影が近くまで伸びていた。
 ぱっと顔を上げれば、高い位置から見下ろされる形で視線が交わる。
「……おはよう、ございます」
 若干の気まずさを抱えながらそう声を掛けると、頭上からふっと息が漏れる音がした。
「もう夕方だけど」
「今日初めて会ったので」
「相変わらずバグってんな、思考回路」
 礼は楽しそうにクツクツと笑うと、俺の隣をするりと抜けていった。
「よお、後輩クン。今日も飴ちゃんやるよ。イチゴかリンゴどっちがいい?」
「えっ……イチゴで」
「よおよお後輩クン。ミルクチョコかホワイトチョコどっちがいい?」
「ホワイトチョコ……」
 ピンクの髪の先輩と赤の髪の先輩はそれぞれ俺に飴とチョコレートを手渡し、ひらひらと手を振って去っていった。その背中を見送ったあと、両の手のひらいっぱいに乗せられたお菓子に視線を落とす。あとで部活の人達に配ろうと決心し、俺は家庭科室へと歩を進めた。



 調理実習でクラスの女子とマフィンを作り、そのマフィンをその女子の彼氏である三年の先輩に寄越せと詰められ、それを義兄に助けられるという、何とも情報量の多い事件から一ヶ月と少し。あれ以降、あの完全スルー野郎が俺の挨拶に返事をしてくれるようになった。
 
「香月くん、チョコレート割るのお願いできる?」
「うん」

 今日は週に一度の部活動の日。所属している家庭部は九割が女子生徒。つまり、男子は俺しかいない。
 頼まれた通りに板チョコの包装紙を破り、ひたすらに板チョコをパキパキと割っていく。作業をしている間は無心になれるから好きだ。難しいことを考えなくて済む。
「ねえそういえば、さっきのお菓子ありがとね」
「いや、俺も貰った物だから」
「へ〜。あんなにたくさん誰から?」
 隣で生地を捏ねている菅山さんが、キョトンとした顔で尋ねる。
「ピンクの髪の先輩と、赤い髪の先輩」
「えっそれって、川上先輩と市木先輩!?」
 驚いたように張り上げた菅山さんの声は意外と大きく、別の卓で作業をしていた部員が一切に振り向くほどであった。
「あの二人、伊竜先輩と唯一対等にお話しできる人達なんだよ! すごいよねぇ……」
「なになに!? 伊竜先輩の話!?」
「伊竜先輩がどうしたの!?」
 案の定違う卓からわらわらと部員が集まってきてしまった。家庭部は緩いので、菓子作りを放棄して話すことに没頭してしまうことも珍しくはない。
 特に女子はこういう話題が好きな傾向にある。俺はといえば、こうなってしまったらさりげなく端っこに移動して、目立たぬように作業を進めていくようにしている。
「ねえてか、去年の文化祭の伊竜先輩のバンドの動画回ってたの、見た!?」
「見た見た! 周りの演奏はちょっとお粗末だったけど、伊竜先輩の歌声がやばかった。あの顔で甘い歌声、反則でしょ〜!!」
「あれ練習期間一ヶ月とかだったらしいよ。全部伊竜先輩の歌声が掻っ攫っていって、画面越しに泣いてたわ。今年も出ないのかなぁ。生で見たいんだけど!」
 女子達の会話をBGMに、俺はせっせとチョコレートを割っていく。
「てかさあ、伊竜先輩、また彼女と別れたらしいよ!」
「えっマジ? うちらが入学してからもう三人目じゃない?」
「ゆーてまだ一ヶ月とかだよね。まじで早すぎ。噂によると彼女、教室で泣いてたって」
 チョコレートを割り終わった俺は、そっとチョコレートの入ったボウルを菅山さんの近くに置いた。菅山さんの手元で放置されているボウルをこっそり引き寄せ、代わりに生地を練っていく。
「伊竜先輩と付き合うだけでもすごいけど、やっぱ冷たい人なのかなぁ。ウチも一回付き合ってみたいわ」
「やめときな。泣かされるだけだって」
「でもいい思い出になるかも。一瞬だけでも伊竜礼の彼女ですって名乗ってみたくない?」
 生地を捏ねながら、さすがの俺も呆れを感じ始める。家族だけでなく女性まで泣かせているとは、一体どんな神経をしているのだろう、あの人は。
 しかし確かに誰かに一途になる礼は想像つかない。来るもの拒まず、去るもの追わずなスタイルがこれほどまでに似合う男がいるだろうか。

「──ねえ、香月くんは?」
「え?」

 考え事をしていたら突然俺に話題がふっかけられ困惑する。いつのまにか女子のキラキラとした視線が一斉に俺に降り注がれていた。
「何で俺?」
「前に伊竜先輩のこと聞いてきたじゃん〜! 憧れてるの?」
「ああ、まあ……」
 正しい返答がわからずに言葉を濁す。以前、礼の情報を知るのに俺一人では限界があったために、家庭部の部員達に教えてもらったことがあった。授業中の様子や、休み時間はどこにいるかなど、ある程度の情報は集まったので、やはり女子の情報網はすごいなと感動したものだ。
「そうなんだ! 男子から見てもやっぱかっこいいよねぇ」
「後輩を可愛がる伊竜先輩とか見てみたくない? 絶対ありえないけど」
「わかる、全然想像できない! だがそこがいい……ってヤツ?」
「それ!」
 あれよあれよと話が進み、否定するタイミングを完全に失ってしまった。あんな奴に憧れていると思われるのは癪だが、説明するのも面倒臭いのでとりあえずはそういうことにしておこう。
「てか香月くんって彼女とかいるの?」
「いや、いない」
「えー意外。中学の頃から付き合ってる彼女とかいそう」
「どんなイメージ? それ」
 思わず苦笑するが、周りは「それめっちゃわかる」「一途そう」などと好き勝手言っている。
「わたし香月くんってよく見ると結構かわいい顔してるなって思うんだよね。……ねえ、一回メガネ外してみてくれないかな?」
「は?」
「ぜっったいかわいいって。ほら……!」
 青木さんの手がずいっと俺の顔に伸びてくる。咄嗟にのけぞって触れられるのを防いだ。
「ほらほら一年、手ぇ止まってるよ〜。お喋りもいいけど作業進めてね」
「「「はーい」」」
 間一髪。二年の先輩からの注意を受けて、俺達の卓に集まっていた女子達はそそくさと散っていった。青木さんは残念そうに口を尖らせていた。
 恐るべし女子の観察眼。危うく素顔を晒して話のネタにされるところだった。
 


 家庭部の活動が終わり、帰路に着く。運良く雨は止んでいて、どんよりとした雲が空を覆っている。六月にもなれば日は長く、部活終わりのこの時間でもまだ割と明るい。曇っていなければ、きっと綺麗なオレンジ色が見えただろう。
 帰る途中、脇道で抱き締め合う男女を見た。うちの学校の制服だったから、何だか気まずくて早足で通り過ぎた。

『香月くんって彼女とかいるの?』
『中学の頃から付き合ってる彼女とかいそう』

 女子の恋愛話は聞く分には構わないが、自分に振られると大分キツい。語れることが何もないから。それと、もう一つ。

 俺の恋愛対象は、女性じゃないから。

 すぐ隣を車が通り過ぎていく。その反動でびしゃっと水飛沫が飛んできた。さっきまでの大雨であちこちに水溜まりがあるせいだ。全身に水が掛かり、気分が一気に萎える。
 最悪だ、と一つ息を吐く。すぐ後ろからもきゃあ、と声がした。どうやら俺と同じように水を浴びたらしい。あはは、と笑い合う男女の声が聞こえてくる。居た堪れなさを感じて、俺は更に歩く速度を上げた。

 自分のセクシュアリティを自覚したのは中学のときだった。入学して半年経つ頃、周りの同級生が雑誌の女性の胸や尻に興味を持つようになる中、俺は同級生の男子の裸を直視することができなくなった。気まずい気持ちになるから、着替えの時間はいつも苦手だった。当時はそれがどうしてなのか理解できず、たくさん悩んだし苦しんだ。
 中学三年の時、初めて好きな人ができた。もちろん相手は男だった。よく笑う奴で、爽やかを絵に描いたような男だった。やけに気が合うところも、白い歯を見せて笑う顔も、部活動で焦げた肌も、ふわりと香る石鹸の香りも好きだった。
 しかし気持ちを伝えることはできなかった。卒業と同時に高校が離れ離れになってしまったからだ。
 連絡先を知っているし、今でも連絡しようと思えばいつだってできるはずだ。だが、相手はノンケだ。男から好意を寄せられても気持ちが悪いだけだろうと尻込んでしまった。気持ちを伝えたい欲求よりも、嫌われたくない、いい思い出でいたいという願いが勝る。
 自身の恋愛の話など、万人に受け入れられるわけではないとわかっている。自分のセクシュアリティは田所にすら打ち明けていない。だから今日の部活のときみたいな恋愛トークは少し身構えてしまうし、正直苦手だ。女子は観察眼が鋭いから、いつか見抜かれてしまいそうなのが恐ろしい。
 最近は世の中のリアクションも少しずつ変わってきて、昔よりもマイノリティに寛容になってきているらしい。確かにテレビや雑誌などでもLGBTに関わる議題はたくさん見かけるし、実際に当事者が出演していたりもする。
 しかし俺は自分がゲイだということを打ち明ける勇気はない。友人や両親にさえ。いつまでも隠し続けることは不可能だと頭ではわかってはいるものの、やはり今は覚悟が持てずにひた隠しにし続けている。

 水飛沫がかかり水分を含んでずっしりと重いズボンの裾。胸の中にどんよりと仄暗い秘密を抱えている俺の心も相まって、身体が鉛のように重い。
 鍵を開けて玄関の扉を開けると、誰もいないはずの部屋に明かりが灯っていた。両親の帰りは十九時頃なので、いつもは俺が一番最初に帰宅するのだ。珍しく父さんか母さん、どちらかの帰りが早かったのだろうか。
「ただいまー……」
 靴を脱いで揃えた後、ダイニングに続く扉を開けた。がらんとしていて誰もいないそこを不審に思っていると、「うっわ、ビショビショじゃん」と笑いを含んだ声が近くから聞こえた。
「水浴びでもしてきたの?」
「……っ」
 冷蔵庫の影からひょっこりと顔を出したのは礼だった。その姿を目にした俺は、咄嗟に顔ごと視線を逸らした。
(しまった。少し大袈裟だっただろうか)
 思いがけない出来事に、心臓がバクバクと跳ねている。動揺を悟られないように平然を装った。
 礼は服を着ていなかったのだ。いわゆるパンイチというやつである。一瞬見えた上半身は細身に見えて意外と鍛えられていて、腹筋が綺麗に割れていた。もしもあの身体に抱かれたら──。
(いやいや! 待て!)
 俺は首をぶんぶんと横に振った。家族(だとまだ認めてはいないけど)相手に何を考えてるんだ俺は! 
 しかも相手はよりによってこの人だぞ。世界で一番ありえない。女の子を取っ替え引っ替えしているような奴は俺のタイプとは正反対だし、そもそも珠玉のようなルックスに俺が釣り合うわけがないのに。
「なあ、なに百面相してんの」
「……っ!」
 頭の中に浮かぶ邪念と戦っていると、礼はいつのまにか俺の正面に立っていた。楽しそうに俺の顔を覗き込んでいる。
「こ、こんな時間に帰るの、珍しくない?」
「夜また土砂降りになるって聞いたから、早めに帰ってきたんだよね」
「そう、なんだ……」
 礼の髪は濡れていた。おそらくシャワーを浴びたのだろう。前髪はオールバックに掻き上げられていて、いつもは隠された毛穴ひとつない額と形の良い眉が強調されている。毛先から雫が滴り落ちて、まるで雑誌のワンカットのような色気を演出している。
 あれもこれも、この人の顔面がとにかく強いせいだ。恥も外聞も捨ててぼうっと見つめてしまいそうになり、ハッとした俺は自分の頬をぺちんと叩いた。
「マジでウケる。今日どうした?」
 その行動のせいで、俺を面白がった礼がずいっと顔を近づけてきた。
「ふ、服着ろよ! 風邪引いて父さんと母さんに移したら許さないから」
 焦ってよくわからないことを口にしてしまうほどに、俺は動揺していた。
「大丈夫だよ。そもそも顔合わせないだろ。……まあでも、移すとしたらおまえはありえるな」
 礼はクツクツと笑いながら、びしょ濡れになった俺の前髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。すぐにその手をぱしんと払い除ける。
「シャワー浴びるから……っ!」
 何とか振り絞って声を出してから、小走りで脱衣所に駆け込んで勢いよく扉を閉めた。ぽいぽいと服を脱ぎ、冷水を頭から浴びせる。
 どうかしてる。あの人相手に意識するなんて。
 男なら誰でもいいのだろうか、俺は。いや、仕方ないじゃないか。だって、あの人が綺麗すぎるから。
 自問自答を繰り返す。結局、きっと突然のことに頭がショートしてしまっただけだと結論付けることで、何とか自分自身を納得させることができた。冷たい水と共に、邪な気持ちも全部洗い流してしまいたかった。



 そんなことがあってから数時間後。相変わらず礼が降りて来ないので家族三人で食事をした後、自室に引きこもり課題を進めていると、突然扉が開かれた。
「なあ」
「うわっ」
 振り向けば何故か礼が扉の前に立っていた。困惑しつつも無意識に全身を確認してしまうのは、さっきあんなことがあったから。
 ……よかった、今度はちゃんとジャージを着ている。
「そんな驚く? ……なに? シコってたとか?」
「んなわけねーだろ!」
 まるで近所のおばさんがヒソヒソ話をするかのように、口元に手を当ててニヤついた顔をする礼。
「ノックぐらいしろよ」
「いや、ワンチャンなんかやましいことしてないかなって思ってさ」
「趣味悪すぎだろ」
「へ〜、結構あっさりした部屋だな」
「おい、勝手に入ってくんな!」
 ノックをしないどころか許可もしてないのにずかずかと部屋に入ってきた礼は、あろうことか我が物顔で俺のベッドに腰掛けた。
「何の用?」
「あー、そうそう。おまえさ、もしかして今日も実習あったりした?」
「実習? 別にないけど」
 礼の言葉の意図が読めずに眉根を寄せるが、礼はえー?と不満そうに首を傾げている。
「だっておまえ帰ってきたときいい匂いしたもん。焼き菓子系の」
「……ああ。もしかして、」
 思い当たる節があり、屈み込んでそばにある鞄の中をゴソゴソと探る。
「──あった。これのこと?」
 俺は夕方作ったばかりのチョコチップスコーンを取り出すと、礼に見せてやった。
「あー絶対それだわ。うまそ〜」
「食べる?」
「マジ?」
「焼き直した方がうまいけど。下で温めてくるよ」
「さんきゅ〜」
 礼がクシャッと嬉しそうに笑う。その顔を視界に入れながら部屋を出た俺は、時間差でその破壊力にやられた。
(最近本当によく笑うんだよな。なんか調子狂うっていうか)
 もともと親しい友人の前ではよく笑う人間なのだと、ストーカーまがいのことをしていたときに頭に入れてはいたけれど、俺は別に親しいわけでもなければ、あの人の友人でもない。
 しかし俺への態度が軟化したことも、笑うようになったことも、あの人の中で俺に対する何かが変わったということなのだろう。まだ両親への態度など煮え切らない部分もあるけれど、少しは心を開いてくれたのだろうかと思うと、どこか満更でもない自分がいる。
 現にあの人のためにキッチンに降りてきてスコーンを温めているだなんて、少し前までは思いもしなかった。
「おまたせ」
「お〜」
 皿に乗せたスコーンと共に部屋に戻れば、礼はベッドに転がっていた。仰向けになって俺の本棚にあるはずの漫画を読んでいる。これではどちらが部屋の主なのかわからない。
「こぼれるから机の上で食べて。薄い座布団しかないけど」
「えー、足痛くなるからやだ」
「じゃあ食べなくていい」
「嘘だよ。冗談。……っとにおまえ、からかい甲斐があって飽きねえな」
 肩を震わせて笑う礼。からかわれたのがわかってむっとすると、それにすらケラケラと笑われた。
「いただきます」
 礼は座布団の上に胡座をかいて、両手をぱんっと合わせた。狐色の生地にナイフを入れて、フォークで掬って口に運ぶ。その一連の所作は丁寧で、普段の振る舞いからは想像も付かないほど優美だった。
「どうですか」
「うめー」
「……ふ、よかった」
 もぐもぐと咀嚼する姿が子どものようで、やはり普段の礼からは考えられないほどに可愛らしい。思わず頬が緩むと、礼の視線が俺に向けられた。
「……」
「なに?」
「笑うんだ、って思って」
「……笑うよ、そりゃ。人間だし」
「俺の前では一生笑ってくれないと思ってたから」
「っ、何だそれ」
 それではまるで、あんたが俺に笑ってほしかったみたいに聞こえると、そう考えてしまって少し言葉を詰まらせた。
「あんたこそ、最近よく笑ってる」
「そー? したいようにしてるだけだから、わかんねぇや」
 目に見えて笑顔が増えたように感じるのは、俺の前で少しずつ笑ってくれるようになったからなのだろうか。相変わらず家族には馴染もうとしない礼だが、両親にも近頃の俺にするみたいに自然に接すればいいのにと思う。でもこれはきっとこの人にとって地雷だし、口にすればきっとまた喧嘩になるような気がするので、今はまだ腹の中に閉まっておくことにする。
「てかこれ、実習じゃないならどこで作ったの?」
「部活。俺、家庭部だから」
「え、家庭部って男も入れんの?」
「うん。男は俺一人だけど」
「マジ! おまえ意外と女好きだったん?」
「はあ!? ちげーよ!」
 あらぬ方向に話が進んでしまい間髪入れずに否定する俺に、礼はそんな照れんなってとニヤついている。本当に意地が悪い。
「運動苦手だし、菓子作ったり料理したりする方が好きだから選んだだけだよ」
「へー」
「まだ疑ってんだろ」
「んで、本当のところは?」
「本当だってば!」
「……っくく、あはは!」
 前言撤回。心を開かれたわけではなく、きっと俺を揶揄う愉しさでも覚えてしまったのだろう。さしずめ使い勝手のいい玩具だとでも思われているに違いない。
「それに、女好きなのはそっちだろ」
 散々揶揄われたので、少しだけ仕返ししてやりたい気持ちになった。俺の言葉を聞いた礼は、キョトンとしたように目を丸くした。
「何でそう思う?」
「なんか女の子取っ替え引っ替えしてるって、聞いたけど」
「ふーん、そんな風に言われてるんだ。俺って」
「違うの?」
「間違ってはない。女の子ってどこもかしこも柔らかいし、気持ちいいから。好きだよ」
 どんな理由だよ、とつっこんでしまいたくなるような浅はかな理由に、真面目に聞こうとした自分が阿呆らしくなってしまった。
「でもそう思う一方で、気持ち悪いなって思う自分もいる」
「え?」
 まるで呟くような細い声。思わず聞き返すが、礼はじっと手元を見たままで、俺の方を向くことなく言った。
「性に従順で流されやすくて、頭の弱い女が俺は嫌い」
 ひやりと、冷気が吹き込んだみたいにゾッと心臓が冷えた。礼の瞳からは光が消えていた。ナイフのような鋭さを持った声。はっきりとした拒絶を感じた。
「……お菓子、さんきゅー。戻るわ」
「あ、うん。おやすみ」
「おやすみ〜」
 ぱたりとドアが閉まる。礼のいなくなった部屋で、俺はしばらくぼうっと礼のことを考えていた。
(あんたは一体、何を抱えているんだよ)
 心の中が読めない。近付いたと思っても、きっとそれは礼が被った何十枚もの皮の外側に触れているだけで、一番大事な部分はそう簡単には見せてくれないんだ。
 俺になんか見せる資格もなければ、見せたいとも思わないのだろう。それでもいつか誰かがあの人の心に寄り添うことができたならと、柄にもなくそんなことを祈ってしまうほどには、俺はあの男に感化され始めているのかもしれない。