ぐるぐる、ぐるぐる。
淡い薄黄色をかき混ぜるたびに、少しずつ生地がまとまっていく。反して俺の頭の中は、考えれば考えるほどにわけがわからなくなって、散り散りになってしまうのだけれど。
『あんたが兄貴なんて、家族なんて、俺は認めねえ』
──人を本気で殴ったのは、数日前のあれが初めてのことだった。
そもそもあんな風に他人に憎悪を向けることも、感情を露わにすることすら、普段の俺は避けて通ってきた傾向にある。
それなのにあのときはどうしても我慢ができなかった。大切な家族を馬鹿にされ目の前で傷つけられたら、憤慨せずにはいられないだろう。
礼を殴った日の翌日、いつもは礼の弁当も用意していた母さんが、俺の分しか用意していないのを見た。自分の分の弁当を受け取りながら、ごめんとこぼす俺の肩を、母さんは励ますようにポンポンと叩いた。
『未凪。私のことを庇ってくれたのよね、悪かったね。でも、あんまり礼くんを悪く思わないであげて』
『あんなヤツのこと、もう構う必要ないよ。……アイツには俺達と仲良くする気がない』
『でもね、気持ちもわかるの。急に家族が増えたら、ビックリして当然だもの』
『だからって人を傷付けていいことはないだろ』
母さんは困ったように笑った。
『人には人の痛みがあるのよ。誰かと親しくなるための近道は、その痛みを理解してあげることよ』
『でも……』
『許してあげて。きっと未凪なら、礼くんのことを理解できるはずだから』
──母さんはああ言っていたけれど、あの人のことを理解することなんて到底不可能だと思う。
他人を思いやる感情が致命的なまでに欠落しているし、自分のことしか見えていない人間のことを、俺がわざわざ理解してやる必要だってないはずだ。
俺のことを黙って見下ろす、冷ややかな目が忘れられない。あの眼差しを思い出すと背筋が凍りそうになる。言いたいことを全部押し殺して、気持ちを伝えることさえ諦めたみたいな、冷め切った瞳。
(あんな顔してるヤツと、どう仲良くしたらいいんだよ)
ぐるぐる、ぐるぐる。
捏ねても捏ねても、やっぱり答えは見えてこない。
無塩バターにグラニュー糖、それから全卵を加えて混ぜていた生地に、少しの塩とバニラエッセンスを加える。全ての材料を加えて混ぜていると、香月くん、と横から声を掛けられた。
「ここの引き出し開かないんだけど、ちょっと開けてもらってもいい?」
見れば、同じ班の女の子が戸棚を指差しながら苦笑いを浮かべているところだった。
「……はい、どうぞ」
「わあ、ありがとう。私じゃびくともしなかったのにすごいね」
「別に大したことないよ」
女の子は嬉しそうに手を叩いていた。
四人一組の班を作り、マフィンを作る調理実習の真っ只中。生地を捏ねながら思考を巡らせていた俺は、ここが家庭科室で今が授業中だということすら、少しの間忘れてしまっていた。
ふと何か嫌な視線を感じ廊下に顔を向けると、誰かがこちらの方をじっと見ているのに気づいた。俺の視線に気付くとサッと隠れてしまったので、それ以上気にすることをやめた。
「香月くん、全部型に入れ終わったよ」
「ありがとう。じゃあ焼いてくるから、片付け進めておいてくれる?」
「わかった」
声を掛けてから俺は、生地の乗った天板を持って、先生のもとへと向かうのであった。
*
焼き終わったマフィンを各々ラッピングし、調理実習の全工程が終了した。
「そのマフィンは自分で食べてもいいし、誰かにあげてもいいよ。例えば、……大切な人とか!」
家庭科の先生が最後にそんなことを言うので、クラスメイト、特に女子は大盛り上がりだった。
こんがりきつね色に焼けたマフィンは、外側がカリッとしていて美味そうだ。きっと中はふわふわとしているのだろう。想像しただけで涎が垂れそうになる。
職員室に用のある田所と別れて、中庭を横切って教室までの道を歩いていると、前方からガタイのいい男子生徒が二人歩いてくるのが見えた。
その横を通り過ぎようと思った俺は、突然腕を物凄い力で掴まれて、動きを封じられてしまう。咄嗟に顔を上げると、何故かその人は般若のような顔をしていた。
「おい、お前……! 俺の彼女とイチャイチャすんじゃねえよ、ぶっ殺すぞ……!」
「え? ……っ!」
意味のわからない言い掛かりをつけられた、次の瞬間。頬に鈍い痛みが走って、身体が地面に叩きつけられていた。きゃあっと近くを通りかかった女子生徒の悲鳴が聞こえる。
腰を強打して痛みが走る。どうやら俺は初対面の相手に殴られたらしい。衝撃でメガネが吹っ飛んで、草むらの上に転がっている。
ガタイのいい男は尻餅をつく俺のもとにじわじわと歩み寄ってくる。
「あの、俺何もしてませんけど……」
「とぼけるんじゃねぇ! 俺は見たんだよ、おまえがリリちゃんとイチャイチャしてんのを!」
「リリちゃん……?」
「俺の彼女の名前を呼ぶんじゃねぇ!」
思いっきり足を踏まれて、あまりの激痛に俺は顔をしかめた。全く身に覚えがないし、人違いではないだろうか。しかし反論すればきっとまた殴られるので、ここは大人しくしておいた方が良いだろう。
「そのマフィン、寄越せや」
「は……?」
男が指差したのは、俺の腕の中に収まっている作りたてのマフィンだった。
「リリちゃんと一緒に作ってただろうが! リリちゃんの手作り料理をおまえなんかに食わせるわけにはいかねぇ!」
その瞬間、俺は全てを理解した。
リリちゃんとは俺と同じ班でマフィンを作っていて、俺が戸棚の引き出しを開けてやったあの女の子のことだと。
そしてさっき廊下で見た人影。それはきっとこの人達だったのだろう。そしてリリちゃんに声を掛けられていた俺を見て、何か勘違いを膨らませ、暴行に及んだということだ。
馬鹿馬鹿しい。どうして俺が、こんなことに。
呆れてため息すら出ない。マフィンを渡したら大人しく帰ってくれるのだろうか。しかしそれも何だか癪だし、何より俺はこのマフィンを食べることを作っている段階から楽しみにしていたのだ。
「これはちょっと渡せないです」
逡巡した挙句俺がそう返すと、男の顔はみるみるうちに鬼のような形相に変わっていった。
「いい度胸、してんじゃねぇかァ。つまりは俺の彼女を奪おうって算段だな?」
「いやそんなことは一ミリも思っていなくて、そもそもマフィンはほとんど個々で作っていて焼き上げだけ一緒にしただけだから関係ないっていうか」
「あぁ!? この俺に文句言おうってんかァ!? ぶん殴られただけじゃ足りねぇようだな……!」
男は俺の襟首を掴み上げると、無理やり立たせて近くの壁に勢いよく背中を押し付けた。その道中で俺のメガネが踏み潰され、ひしゃげて転がっているのが見えて絶望する。
あの伊達メガネ結構気に入っていたのに、などとひっそり悲しみに暮れる俺は、すでに現実逃避モードに入っていた。
「リリちゃんを汚す人間はぶっ殺す……!」
男の息が荒くなり、俺を掴む手にますます力がこもる。ああ、殴られるなと察した俺は、ぎゅっと目を閉じた。
「おい」
どこかぶっきらぼうな声が近くから聞こえたかと思えば、俺を掴み上げていた男が目の前で崩れ落ちていくのがスローモーションのように映った。
その姿が視界から消えて代わりに目に映ったのは、ここ数日散々俺が脳内でこき下ろしてきた人物だった。
尻でも蹴り上げたのだろう。礼は上げていた片足を下ろすと、蹲る男の首根っこを引っ掴んで、雑に地面に転がした。
「山本になにすんだおまえ、アァ!?」
背後から、様子を窺っていたもう一人の男が礼に掴みかかろうとする。礼はそれを華麗に避けながら、鳩尾に思いっきり膝蹴りを入れた。男は唸りながら腹を抑えて地面に蹲っている。
「何をされてんだよ、おまえは」
礼の長い足が雑草を踏み締め俺の前まで来ると、腰を抜かしてへたり込む俺の前に、あろうことか片手を差し出した。
礼に助けてもらったという信じられない事実と、その手を取ることはできないという葛藤。
少し迷った挙句俺は、壁に手をつきながら何とか自力で起き上がった。
「……何で」
まだ足が僅かに震えている。俺は負けじと、礼の顔をキッと睨みつけた。
「何で俺を助けた?」
助けられる義理なんかない。そもそも、この人は俺のことを嫌っていたはずだ。
それなのに、何故。
「どうでもいいだろ、そんなの」
礼は俺から視線を逸らすと、つまらなそうに声を出した。
「助けたいから助けた。自分がしたいからそうした。そんだけ。深い意味はない」
なんだその思想は──。理解できない俺が言葉を失っていると、礼は徐ろに草むらにしゃがみ込んだ。その手にはバキバキに折れてしまった俺のメガネがぶら下がっている。
「壊れてるけど、どーすんの?」
「……これは伊達だから」
「へえ。何、高校デビューってヤツ?」
その口から、まるで馬鹿にするような嘲笑が漏れる。癪ではあるが本当のことを話すのも気が引けるから、あえて訂正はしないと決めた。
「ちょっと違うけど、まあ、そんな感じ」
言葉を濁した俺の顔を、気付けば礼はじっと見ている。ジロジロ顔を見られることが苦手な俺は、反射的に顔を逸らした。
「……なに?」
「意外と可愛い顔してんじゃん。何でクソだせぇメガネなんかしてんの?」
案の定、一番指摘してほしくないことを指摘されて、俺の機嫌は急降下した。
「……だから嫌なんだよ」
「?」
「昔から女と間違えられるから」
高校と同時にかけ始めたこの丸メガネ。物心ついた頃から俺は女らしい見た目のせいで、散々嫌な目にあってきた。初対面の相手には必ず女と間違えられるし、友人からの女いじりも定番のネタだった。中学に至っては男子の制服を着ていたので、見ず知らずの人に笑われることも多かった。
だから高校ではコンプレックスを隠して生きていこうと決めていた。だが肝心のメガネが壊れてしまっては、午後の授業に素顔で出ることになってしまう。
せっかく新しいスタートを切れていたのに、何ともやりきれない。
「っふ、そんな理由?」
辛気臭い顔をしていたのだろう。俺の言葉を聞いた礼は吹き出した。
「そんなってなんだよ……! お前には死んでもわかんねーと思うけどな、この屈辱が!」
「全くわかんねえ。自信持てばいいじゃん」
「は……?」
「悪くねえって言ってんの。他人に言われて隠すなんてもったいないし、ムカつかねぇ? んなこと気にするより、堂々としてた方がいいよ」
全く他意のなさそうな、まっすぐな瞳。まさかあの礼がそんなことを口にするとは思わなくて、俺は返す言葉を失ってしまった。
俺は今、軽く褒められたのだろうか。目の前で起きていることが信じられない。あんなに俺のことを無視していたのに今日はやけに饒舌に喋るし、なんか励ましてくれてるし、一体どういう心境の変化だ?
「まぁ、どうしても気になるんなら、これやるよ」
礼は立ち上がると、ポケットの中から何かを取り出して、俺に差し出した。
「マスク?」
「顔隠したいならそれで十分っしょ」
「……これ、未使用?」
半分に折りたたまれたそれを見てそう聞いてしまった後、俺はハッとした。せっかく貸してくれようとしているのに、俺は今だいぶ失礼なことを口にしたのではないだろうか。
「今朝使ったけど、どした?」
礼は悪びれる様子もなくしれっとそんなことを言うので、俺は、
「……有難いけど、丁重にお断りさせてほしい」
と肩を竦めながら返した。
「っ、くく……、嘘だよ、ばーか」
礼は肩を震わせながら、楽しそうに笑った。俺に対して向けられる、初めての笑顔だった。目尻を垂らしてくしゃっと顔を崩してわらう表情は、まるで今まで俺のことを邪険に扱ってきた男の顔とは思えなくて、面食らった俺は何も反応することができなかった。
「じゃ」
「……待って」
俺は咄嗟に、去ろうとする礼を呼び止めていた。
「これあげる」
そしてその胸に、丁寧にラッピングされた小袋を押し付けた。
「なにこれ」
「マフィン。実習で作った。さっきの男達にくれって絡まれてたやつ」
「は? これが原因?」
「先輩の彼女と俺が同じ班で、一緒に作ったから、らしい」
「何だそれ。クッソしょうもな」
礼は心底呆れたように顔を歪める。そういえば、と辺りを見渡すと、いつのまにか男達はいなくなっていた。
「ってか、なんで俺に? おまえ、俺のこと嫌いなんだろ」
どうしてだろう。俺にだってわからない。
今朝までずっと、人の心がわからないサイコパスみたいな人間なのだと思っていたし、絶対に分かり合えない人種だと思っていた。
だけど大して仲良くもない俺を気まぐれでも助けてくれて、顔を隠したいという俺の意図を飲み込んでマスクをくれて、見たことのない笑顔で笑う礼を見たら。
「あんたのことは嫌いだし、母さんに言ったことは許せないけど、……話してみたらそんなに悪いヤツじゃなさそうって、今日、わかったし」
胸に残るわだかまりはまだ捨て切ることはできない。だけど、少しだけ希望が見えたような気がした。
「……ありがとう」
言葉にすれば、想像以上に柔らかい響きになった。礼は少しの沈黙の末、呆れたように鼻で笑いながら背を向けた。
「おまえ、チョロすぎるから」
前みたいに突き放すみたいな言い方じゃなく、揶揄うみたいな口調でそう言う礼の手には、しっかりと俺の渡したマフィンが握られていた。
淡い薄黄色をかき混ぜるたびに、少しずつ生地がまとまっていく。反して俺の頭の中は、考えれば考えるほどにわけがわからなくなって、散り散りになってしまうのだけれど。
『あんたが兄貴なんて、家族なんて、俺は認めねえ』
──人を本気で殴ったのは、数日前のあれが初めてのことだった。
そもそもあんな風に他人に憎悪を向けることも、感情を露わにすることすら、普段の俺は避けて通ってきた傾向にある。
それなのにあのときはどうしても我慢ができなかった。大切な家族を馬鹿にされ目の前で傷つけられたら、憤慨せずにはいられないだろう。
礼を殴った日の翌日、いつもは礼の弁当も用意していた母さんが、俺の分しか用意していないのを見た。自分の分の弁当を受け取りながら、ごめんとこぼす俺の肩を、母さんは励ますようにポンポンと叩いた。
『未凪。私のことを庇ってくれたのよね、悪かったね。でも、あんまり礼くんを悪く思わないであげて』
『あんなヤツのこと、もう構う必要ないよ。……アイツには俺達と仲良くする気がない』
『でもね、気持ちもわかるの。急に家族が増えたら、ビックリして当然だもの』
『だからって人を傷付けていいことはないだろ』
母さんは困ったように笑った。
『人には人の痛みがあるのよ。誰かと親しくなるための近道は、その痛みを理解してあげることよ』
『でも……』
『許してあげて。きっと未凪なら、礼くんのことを理解できるはずだから』
──母さんはああ言っていたけれど、あの人のことを理解することなんて到底不可能だと思う。
他人を思いやる感情が致命的なまでに欠落しているし、自分のことしか見えていない人間のことを、俺がわざわざ理解してやる必要だってないはずだ。
俺のことを黙って見下ろす、冷ややかな目が忘れられない。あの眼差しを思い出すと背筋が凍りそうになる。言いたいことを全部押し殺して、気持ちを伝えることさえ諦めたみたいな、冷め切った瞳。
(あんな顔してるヤツと、どう仲良くしたらいいんだよ)
ぐるぐる、ぐるぐる。
捏ねても捏ねても、やっぱり答えは見えてこない。
無塩バターにグラニュー糖、それから全卵を加えて混ぜていた生地に、少しの塩とバニラエッセンスを加える。全ての材料を加えて混ぜていると、香月くん、と横から声を掛けられた。
「ここの引き出し開かないんだけど、ちょっと開けてもらってもいい?」
見れば、同じ班の女の子が戸棚を指差しながら苦笑いを浮かべているところだった。
「……はい、どうぞ」
「わあ、ありがとう。私じゃびくともしなかったのにすごいね」
「別に大したことないよ」
女の子は嬉しそうに手を叩いていた。
四人一組の班を作り、マフィンを作る調理実習の真っ只中。生地を捏ねながら思考を巡らせていた俺は、ここが家庭科室で今が授業中だということすら、少しの間忘れてしまっていた。
ふと何か嫌な視線を感じ廊下に顔を向けると、誰かがこちらの方をじっと見ているのに気づいた。俺の視線に気付くとサッと隠れてしまったので、それ以上気にすることをやめた。
「香月くん、全部型に入れ終わったよ」
「ありがとう。じゃあ焼いてくるから、片付け進めておいてくれる?」
「わかった」
声を掛けてから俺は、生地の乗った天板を持って、先生のもとへと向かうのであった。
*
焼き終わったマフィンを各々ラッピングし、調理実習の全工程が終了した。
「そのマフィンは自分で食べてもいいし、誰かにあげてもいいよ。例えば、……大切な人とか!」
家庭科の先生が最後にそんなことを言うので、クラスメイト、特に女子は大盛り上がりだった。
こんがりきつね色に焼けたマフィンは、外側がカリッとしていて美味そうだ。きっと中はふわふわとしているのだろう。想像しただけで涎が垂れそうになる。
職員室に用のある田所と別れて、中庭を横切って教室までの道を歩いていると、前方からガタイのいい男子生徒が二人歩いてくるのが見えた。
その横を通り過ぎようと思った俺は、突然腕を物凄い力で掴まれて、動きを封じられてしまう。咄嗟に顔を上げると、何故かその人は般若のような顔をしていた。
「おい、お前……! 俺の彼女とイチャイチャすんじゃねえよ、ぶっ殺すぞ……!」
「え? ……っ!」
意味のわからない言い掛かりをつけられた、次の瞬間。頬に鈍い痛みが走って、身体が地面に叩きつけられていた。きゃあっと近くを通りかかった女子生徒の悲鳴が聞こえる。
腰を強打して痛みが走る。どうやら俺は初対面の相手に殴られたらしい。衝撃でメガネが吹っ飛んで、草むらの上に転がっている。
ガタイのいい男は尻餅をつく俺のもとにじわじわと歩み寄ってくる。
「あの、俺何もしてませんけど……」
「とぼけるんじゃねぇ! 俺は見たんだよ、おまえがリリちゃんとイチャイチャしてんのを!」
「リリちゃん……?」
「俺の彼女の名前を呼ぶんじゃねぇ!」
思いっきり足を踏まれて、あまりの激痛に俺は顔をしかめた。全く身に覚えがないし、人違いではないだろうか。しかし反論すればきっとまた殴られるので、ここは大人しくしておいた方が良いだろう。
「そのマフィン、寄越せや」
「は……?」
男が指差したのは、俺の腕の中に収まっている作りたてのマフィンだった。
「リリちゃんと一緒に作ってただろうが! リリちゃんの手作り料理をおまえなんかに食わせるわけにはいかねぇ!」
その瞬間、俺は全てを理解した。
リリちゃんとは俺と同じ班でマフィンを作っていて、俺が戸棚の引き出しを開けてやったあの女の子のことだと。
そしてさっき廊下で見た人影。それはきっとこの人達だったのだろう。そしてリリちゃんに声を掛けられていた俺を見て、何か勘違いを膨らませ、暴行に及んだということだ。
馬鹿馬鹿しい。どうして俺が、こんなことに。
呆れてため息すら出ない。マフィンを渡したら大人しく帰ってくれるのだろうか。しかしそれも何だか癪だし、何より俺はこのマフィンを食べることを作っている段階から楽しみにしていたのだ。
「これはちょっと渡せないです」
逡巡した挙句俺がそう返すと、男の顔はみるみるうちに鬼のような形相に変わっていった。
「いい度胸、してんじゃねぇかァ。つまりは俺の彼女を奪おうって算段だな?」
「いやそんなことは一ミリも思っていなくて、そもそもマフィンはほとんど個々で作っていて焼き上げだけ一緒にしただけだから関係ないっていうか」
「あぁ!? この俺に文句言おうってんかァ!? ぶん殴られただけじゃ足りねぇようだな……!」
男は俺の襟首を掴み上げると、無理やり立たせて近くの壁に勢いよく背中を押し付けた。その道中で俺のメガネが踏み潰され、ひしゃげて転がっているのが見えて絶望する。
あの伊達メガネ結構気に入っていたのに、などとひっそり悲しみに暮れる俺は、すでに現実逃避モードに入っていた。
「リリちゃんを汚す人間はぶっ殺す……!」
男の息が荒くなり、俺を掴む手にますます力がこもる。ああ、殴られるなと察した俺は、ぎゅっと目を閉じた。
「おい」
どこかぶっきらぼうな声が近くから聞こえたかと思えば、俺を掴み上げていた男が目の前で崩れ落ちていくのがスローモーションのように映った。
その姿が視界から消えて代わりに目に映ったのは、ここ数日散々俺が脳内でこき下ろしてきた人物だった。
尻でも蹴り上げたのだろう。礼は上げていた片足を下ろすと、蹲る男の首根っこを引っ掴んで、雑に地面に転がした。
「山本になにすんだおまえ、アァ!?」
背後から、様子を窺っていたもう一人の男が礼に掴みかかろうとする。礼はそれを華麗に避けながら、鳩尾に思いっきり膝蹴りを入れた。男は唸りながら腹を抑えて地面に蹲っている。
「何をされてんだよ、おまえは」
礼の長い足が雑草を踏み締め俺の前まで来ると、腰を抜かしてへたり込む俺の前に、あろうことか片手を差し出した。
礼に助けてもらったという信じられない事実と、その手を取ることはできないという葛藤。
少し迷った挙句俺は、壁に手をつきながら何とか自力で起き上がった。
「……何で」
まだ足が僅かに震えている。俺は負けじと、礼の顔をキッと睨みつけた。
「何で俺を助けた?」
助けられる義理なんかない。そもそも、この人は俺のことを嫌っていたはずだ。
それなのに、何故。
「どうでもいいだろ、そんなの」
礼は俺から視線を逸らすと、つまらなそうに声を出した。
「助けたいから助けた。自分がしたいからそうした。そんだけ。深い意味はない」
なんだその思想は──。理解できない俺が言葉を失っていると、礼は徐ろに草むらにしゃがみ込んだ。その手にはバキバキに折れてしまった俺のメガネがぶら下がっている。
「壊れてるけど、どーすんの?」
「……これは伊達だから」
「へえ。何、高校デビューってヤツ?」
その口から、まるで馬鹿にするような嘲笑が漏れる。癪ではあるが本当のことを話すのも気が引けるから、あえて訂正はしないと決めた。
「ちょっと違うけど、まあ、そんな感じ」
言葉を濁した俺の顔を、気付けば礼はじっと見ている。ジロジロ顔を見られることが苦手な俺は、反射的に顔を逸らした。
「……なに?」
「意外と可愛い顔してんじゃん。何でクソだせぇメガネなんかしてんの?」
案の定、一番指摘してほしくないことを指摘されて、俺の機嫌は急降下した。
「……だから嫌なんだよ」
「?」
「昔から女と間違えられるから」
高校と同時にかけ始めたこの丸メガネ。物心ついた頃から俺は女らしい見た目のせいで、散々嫌な目にあってきた。初対面の相手には必ず女と間違えられるし、友人からの女いじりも定番のネタだった。中学に至っては男子の制服を着ていたので、見ず知らずの人に笑われることも多かった。
だから高校ではコンプレックスを隠して生きていこうと決めていた。だが肝心のメガネが壊れてしまっては、午後の授業に素顔で出ることになってしまう。
せっかく新しいスタートを切れていたのに、何ともやりきれない。
「っふ、そんな理由?」
辛気臭い顔をしていたのだろう。俺の言葉を聞いた礼は吹き出した。
「そんなってなんだよ……! お前には死んでもわかんねーと思うけどな、この屈辱が!」
「全くわかんねえ。自信持てばいいじゃん」
「は……?」
「悪くねえって言ってんの。他人に言われて隠すなんてもったいないし、ムカつかねぇ? んなこと気にするより、堂々としてた方がいいよ」
全く他意のなさそうな、まっすぐな瞳。まさかあの礼がそんなことを口にするとは思わなくて、俺は返す言葉を失ってしまった。
俺は今、軽く褒められたのだろうか。目の前で起きていることが信じられない。あんなに俺のことを無視していたのに今日はやけに饒舌に喋るし、なんか励ましてくれてるし、一体どういう心境の変化だ?
「まぁ、どうしても気になるんなら、これやるよ」
礼は立ち上がると、ポケットの中から何かを取り出して、俺に差し出した。
「マスク?」
「顔隠したいならそれで十分っしょ」
「……これ、未使用?」
半分に折りたたまれたそれを見てそう聞いてしまった後、俺はハッとした。せっかく貸してくれようとしているのに、俺は今だいぶ失礼なことを口にしたのではないだろうか。
「今朝使ったけど、どした?」
礼は悪びれる様子もなくしれっとそんなことを言うので、俺は、
「……有難いけど、丁重にお断りさせてほしい」
と肩を竦めながら返した。
「っ、くく……、嘘だよ、ばーか」
礼は肩を震わせながら、楽しそうに笑った。俺に対して向けられる、初めての笑顔だった。目尻を垂らしてくしゃっと顔を崩してわらう表情は、まるで今まで俺のことを邪険に扱ってきた男の顔とは思えなくて、面食らった俺は何も反応することができなかった。
「じゃ」
「……待って」
俺は咄嗟に、去ろうとする礼を呼び止めていた。
「これあげる」
そしてその胸に、丁寧にラッピングされた小袋を押し付けた。
「なにこれ」
「マフィン。実習で作った。さっきの男達にくれって絡まれてたやつ」
「は? これが原因?」
「先輩の彼女と俺が同じ班で、一緒に作ったから、らしい」
「何だそれ。クッソしょうもな」
礼は心底呆れたように顔を歪める。そういえば、と辺りを見渡すと、いつのまにか男達はいなくなっていた。
「ってか、なんで俺に? おまえ、俺のこと嫌いなんだろ」
どうしてだろう。俺にだってわからない。
今朝までずっと、人の心がわからないサイコパスみたいな人間なのだと思っていたし、絶対に分かり合えない人種だと思っていた。
だけど大して仲良くもない俺を気まぐれでも助けてくれて、顔を隠したいという俺の意図を飲み込んでマスクをくれて、見たことのない笑顔で笑う礼を見たら。
「あんたのことは嫌いだし、母さんに言ったことは許せないけど、……話してみたらそんなに悪いヤツじゃなさそうって、今日、わかったし」
胸に残るわだかまりはまだ捨て切ることはできない。だけど、少しだけ希望が見えたような気がした。
「……ありがとう」
言葉にすれば、想像以上に柔らかい響きになった。礼は少しの沈黙の末、呆れたように鼻で笑いながら背を向けた。
「おまえ、チョロすぎるから」
前みたいに突き放すみたいな言い方じゃなく、揶揄うみたいな口調でそう言う礼の手には、しっかりと俺の渡したマフィンが握られていた。