瞬きを忘れるほど、何かに陶酔したのは初めてだった。 
 天から授かった舞台映えするルックスは圧倒的な存在感を放ち、ステージに上がっただけで熱狂的な歓声が響き渡る。そしてひとたびマイクを握れば、騒がしかった観客を一瞬で静めさせるほどの威圧感をも合わせ持つ。人から注目を浴びることに慣れている彼にとって、体育館を隙間なく埋めるほどの観客の視線など、痛くも痒くもないのだろう。
 まだ何も発していないのに、その一挙手一投足を逃すまいと、その場にいる誰もが彼に視線を集めているのが伝わってくる。粛然とスタンドマイクの前に立っていた彼が、すぅ、と息を吐く音が聞こえた。
 僅かに開いた唇から、音が漏れ出す。

 次の瞬間、俺は思わず息を呑んだ。

 空気を切り裂くようなハイトーンボイスが降り注ぎ、心臓を貫く。自由自在に音を操り気持ちがいいほどに伸びやかな歌声に、鳥肌が立つほどに圧倒されて、息をすることすら忘れて立ち尽くす。力強くて、感情に直接訴えかけるような歌声は、どこかほんの少しの甘さを含んで、全身を震わせる。
 切なげな眼差しはこれまでに見たことのない表情で、舞台袖から見ていた俺は、心臓を鷲掴みにされたかのような衝撃を浴びた。
 
(……この曲、あのとき俺が歌った曲だ)
 
 たった一度二人でカラオケに行ったあの日、礼の前でいくつか歌を歌ったけれど、どの曲もヘタクソだと俺を馬鹿にして笑っていた礼が、唯一笑わなかった曲がある。お世辞にも上手いとは言えない俺の歌を、俺のことをじっと見つめながら大人しく聞いていたから、やけに印象的だった。

(あんたが歌うと、こんな響きになるんだな)

 礼の細長い指から掻き鳴らされる表現力豊かなギターの音。市木先輩の音が太くて存在感のあるベースに、川上先輩の繊細で音に溶け込むようなドラム。全てが重なり合って織り成されるメロディーは完全にこの場を支配していて、言葉を発する者など一人もいない。
 
 音が鳴り止み、曲が終わる。礼が一歩下がると、割れんばかりの歓声と拍手が鳴りはためいた。寄ってきた市木先輩と川上先輩に肩を組まれて、少し照れ臭そうに俯く礼に向かって、俺は惜しみなく拍手を送り続けた。



「出店とか回れた?」
「いや、登校してすぐにクラスメイトに捕まって拘束されてたから何も。ってか今気付いたけど俺、朝から何にも食べてないや」
「マジで何やってんだよ、バカじゃん」
「俺は焼肉のために生贄にされた被害者なんだよ」
「っは、くだらねえ」
 夜の学校は昼間と違う印象を抱かせる。辺りは真っ暗闇に包まれて、空には星が瞬いている。
 校内は至る所がイルミネーションで飾られていて、俺達が足を踏み入れた中庭も例外ではなかった。ベンチの周りにはランタンが並べられていて、幻想的な雰囲気を演出している。
「てか、いつまでその格好してんの」
 ベンチに腰掛けてすぐに、礼が眉間に皺を寄せて俺の服を指差した。
「着替えるタイミング逃した」
「……ガチで勘弁して」
 礼は露骨に不快そうな顔をしながら項垂れている。
「あんた俺の格好見るたびに嫌そうな顔するけど、そんなに変?」
 廊下で会ったときも、舞台袖に現れたときも。僅かに眉根を寄せていたのを俺は見逃していない。
 他の人にはあんなに好評だったのにな、と残念に思いながら制服のリボンを弄っていると、礼が突然俺の両頬を片手で潰した。
「……っはひ、ふんの」
 間抜けな顔になっているであろう俺の顔に、真面目な表情をした礼が顔を寄せる。
「クソ可愛いに決まってんだろ、何回も言わせんな」
「は、初めて聞いたし……」
「目立つから嫌なんだよ。川上に至っては未だにおまえのこと女だって思ってるし……」
 礼は俺の頬を解放すると、どこか不貞腐れたように顔を背けた。
「おまえが可愛いの知ってんの、俺だけで十分なのに」
「……」
「照れてる?」
「うっさ、ちげえし」
「っふは、おまえってほんと強情」
 楽しそうにくしゃりと笑う礼を見て、胸にじんわりと温かいものが広がった。ずっと、またこの笑顔を俺に向けてほしかった。もう二度と見られないと思っていただけに、グッとくるものがある。
 ぼうっと見惚れていると、突如ヒュー、という笛のような音がした。そして息つく暇もなく、ドンっという大きな音と共に満開の花が夜空に咲き誇る。
「うわあ、すげえ。ビックリした」
「綺麗だな」
 次々に夜の空に咲いていく色とりどりの花。校舎の隙間から眺めるそれは、今までに見た花火の中で一番綺麗に映った。
 それはきっと、隣にいる人物のおかげだろう。
「……うまかったよ、歌。感動した」
「そりゃどーも。夏休み返上して練習した甲斐あったわ」
 礼の手が俺の手を捕まえて、いつかのように握り締めた。俺もその手を握り返す。
「俺が歌ってたのと同じ曲だとは思えなかった。難しい曲なのにすげえよ」
 男性にしては高めのキーなのに、礼はものの見事に歌いこなしていた。
「歌決めるときから、ずっとおまえのこと考えてた」
「……え?」
「めちゃくちゃな高音に苦しむおまえが面白かったなって」
「それで正解を見せつけようって? やっぱあんた性格歪んでんな」
 一瞬だけ期待した俺がバカだった。じとりと睨みつけると、礼はクツクツと肩を揺らして笑った。
「うそうそ。そうやってムキになるから揶揄いたくなるんだよ、おまえは」
 大好きな笑顔を向けられて頭を優しく撫でられてしまえば、もう俺は何も言い返すことができなくなった。
「あの歌詞をおまえが一生懸命歌ってるのが、なんかグッときた」
「へえ。俺もあの曲の歌詞すきだよ。別れた恋人に向けた歌なんだろ?」
「らしいな」
 何かの映画の主題歌でたまたま耳に残っていたのを歌っただけだから、一番しかわからなかったけれど。礼がそう言ってくれるなら、俺の歌も少しは役に立てたのだろうか。
「選んだときは、歌詞みたいに俺もおまえに幸せでいてほしいって思ってた。おまえに対する独占欲は一生封じ込めて、兄としておまえの幸せを願おうって、本気で思ってた」
 礼はどこか懐かしむような目をしながら、言葉を続けた。
「……はずだったんだけど、今は少し違うんだよな」
 握られた手に、さらに力が込められる。その視線がまっすぐに俺に向けられた。
「おまえを幸せにするのは俺がいい。おまえを笑顔にするのも、怒らせるのも、おまえのそばにいるのも──全部俺じゃなきゃ、嫌だ」
 力強い眼差しが俺を射抜く。

「好きだよ、未凪」

 心臓が止まってしまうかと思った。呼吸をすることすらままならない。こんなに胸が満たされる感覚は、生まれて初めてだった。
「……俺は、欲張りなんだよ」
 ごくりと息を呑んでから、震える声を絞り出す。
「礼とこれからも兄弟でいたいんだ。だけどそれだけじゃもう、全然足りなくて」
 礼を好きになるたびにどんどん貪欲になる自分がいて、そんな自分に嫌気がさしたこともあった。
「もっと触れたいし、ずっと一緒にいたいし、俺だけのものになってほしい」
 だけど一度芽生えたこの気持ちは、消そうと思ったって消せやしないから。

「俺も、礼が好き」

 声に出せば、すとんと胸に落ちた。まるで世界が百八十度変わったみたいに、色鮮やかにこの目に映る。
 礼の顔がゆっくりと近付く。その瞳が俺を映していることを確認してから、瞼を閉じた。
 柔らかな感触が、唇に落ちた。
 目を開けると、穏やかに微笑む大好きな人の顔が視界いっぱいに映し出されて、頬が緩んだ。
「……言っとくけどさ」
「うん?」
「俺の方が先に、あんたのこと好きになったんだからな」
 礼はパチクリと瞬きをした。
「それに多分、……俺の方が礼のこと、好きだよ」
 恥ずかしさから視線を逸らしながら言った俺は、何の反応もないのが気になって再び視線を元に戻す。
 するとそこには、ほんのり耳を赤く染めながら手のひらで顔を覆っている礼の姿があった。
「……おまえ、それはずるいって」
 礼はそう言うと、急に俺の手を引いて立ち上がった。
「帰ろう」
「は?」
「我慢できなくなった」
 そう言ったや否や、俺の身体はふわっと宙に浮いた。礼の腕が俺の腰と両膝の下に回り、俺の身体を持ち上げたのだ。
「お、降ろせ! せめてお姫様抱っこはやめろ!」
「着替えどこに置いてきた?」
「話聞けよばか!」
 相変わらずマイペースな礼に悪態をつきながらも、そんな礼に振り回されるのも悪くないと思ってしまう俺は、どうしようもないほどにこの人のことを好いている。

「けどまあ、悪いけど俺の方が未凪のこと好きだよ」

 俺を運びながら、さも当然かのようにさらっとそんなことを口にするので、俺の顔は火を吹きそうなほどに熱くなってしまって仕方がなかった。
 多分、一生この人に敵うことはないのだろう。そんな人生も悪くないなんて、やっぱり思ってしまうのであった。