その人を初めて見たのは、都内では珍しく雪の降った日だった。父親の隣で気怠げにポケットに手を突っ込んで突っ立っているその人を見た瞬間、俺は世界が反転するような衝撃を受けた。
 高校生にしては派手なミルクティーベージュの髪、垂れ目がちでくっきりとした二重が印象的な瞳、鼻筋の通った鼻は小鼻が小さく、血色の良い唇は整った形をしている。すらりと長い手足に、俺よりも遥かに高い身長。
 何一つ勝てっこない。どうして神様は不平等に人間を作ったのだろうと、恨み節さえ吐き出したくなるほどの美丈夫。こんなにも神に愛されたと言わんばかりの容姿を持つ男を、俺はこの時初めて目にした。
 母親に促されて、俺はたどたどしく自身の名を告げた。

香月未凪(こうづきみなぎ)です」

 俺の名前を聞いてもその人の眉はぴくりとも動かなかったし、目が合うこともなかった。ああ俺には一切興味がないのだと、すぐにわかった。

伊竜礼(いりゅうらい)

 その人は淡々と自分の名前を告げると、それっきり口を閉ざしてしまった。俺はその後、会話に花を咲かせる大人達の声を話半分に聞きながら、適当に相槌を打っていた。そんな俺達の話なんてまるで聞こえていないみたいに、その人は俺の正面で頬杖をついてずっと窓の外を眺めていた。  
 つまらなそうに外の景色を見遣るその横顔を、数ヶ月経った今でも鮮明に覚えている。



「──未凪、俺思うんだけどさ」
「なに?」
 首を傾げる俺の前で、友人は食べかけの惣菜パンを机の上に置き、難しい表情を浮かべていた。

 春の麗らかな陽気が優しく頬を撫でる、風の涼しい午後。入学当時、窓一面を染めていたピンク色は次第に葉桜へと様相を変え、少し大きめの制服はようやく少しだけ身体に馴染んできた。
 昼時の教室内は活気で満ちている。俺の手元にある曲げわっぱの弁当箱の中には、色とりどりの食材が詰め込まれていた。俺はその中から玉子焼きを箸で掴み、丸ごと口に放り入れる。咀嚼したまま、続く友人の言葉を待った。
「高校生活、案外普通じゃね?」
「珍しく真面目な顔するから何かと思ったら……。普通って?」
「平凡っていうかさあ〜〜! ほら、ドラマとか映画では入学してすぐ運命の出会いがあるもんだろ?」
 中学からの同級生兼、数少ない友人である田所(たどころ)は、至って真剣な表情でそんなことを言うものだから、俺は思わず吹き出しそうになった。
「おまえ、そんなにロマンチックな奴だっけ」
「うるせ〜、妹の影響で恋愛ドラマ見すぎたせいだよ」
「あーね。それにしても運命の出会いって」
 クツクツと肩を震わせる俺の頭に、ぺしんと平手打ちが降ってくる。
「未凪ぃ〜ばかにすんなぁ。その眼鏡外すぞ」
「やめろって、……わりぃ、ツボった……っふは」
 叩かれながら一頻り笑い、笑いを消化し尽くしたところで曲げわっぱに視線を落とす。今度はミートボールを箸で掴み、ひょいひょいと口の中に放り入れていった。
「出た、おまえのその癖。口ん中いっぱいに詰め込んでから食うやつ」
「ほほふ、はへはふひほ」
「わかったから飲み込んでから喋れって」
 もぐもぐとゆっくり咀嚼し、ごくんと一気に嚥下する。幼い頃から口いっぱいに詰め込むなと何度も注意を受けてきたが、習慣化してしまったものはなかなか治らない。
「未凪はさ、欲しくねーの。彼女」
「いやいらない」
「即答かよ」
 迷う余地もなく反射的に答えると、つまんねえの、と田所は頭の後ろで手を組んだ。
「ま〜高校に入学したと思ったら急に変な眼鏡掛けてるぐらいぶっ飛んでんだから、当たり前っちゃ当たり前か」
「変なって言うな。これは自分を守るための特殊防具みたいなもんだから」
「ちょっとかっこよく言うなよ、十分だせえよ」
 黒縁のフレームの大きな丸い眼鏡。いわゆる伊達眼鏡というものを、高校に入学してからの俺は心機一転で身に付けている。優等生がよくやる眼鏡をクイッと持ち上げる仕草をしてやれば、田所はうぜ〜!とケラケラ笑った。
「俺はさ、彼女欲しいんだよ〜。中学ん時はサッカーばっかしてて非モテだったし、今度こそはって、ココに賭けてんの!」
「へー」
「正直スタートダッシュが肝心だろ! ここでミスるとお先真っ暗、高校生活三年間非リアまっしぐらだから」
「ほぉ」
「おい話聞いてんのか未凪ぃ」
 熱く語っていた田所をよそに、俺はひたすら曲げわっぱの中の食材達と仲良くしていた。呼び掛けられたので仕方なく顔を上げる。
「だって別にどうでもよくない? 非リアだとか非モテだとか、別にそうならそうでいいし、俺には関係ない」
「おまえマジで冷めてんな……本当に男か?」
「……見る?」
「いらんわ」
 股間に目線を送った俺の言葉は、あっさりと一蹴された。
 ふと、俺達の周りが何やら騒がしくなっていることに気が付いた。隣の通路をバタバタとクラスの女子達が駆けていく。
「やばい、さっき三組の子がすぐそこで伊竜先輩見かけたって!」
「うそ! じゃあまだ近くにいるかな!? 見に行こ!」
 あっという間に教室を出て行くクラスメイトの背中を何の気なしに見送った後、正面の田所が深いため息を吐いた。
「まぁた"伊竜先輩"かよ。毎日毎日同じ男の名前ばっか聞いてうんざりだわ」
 田所の口から出てきた名前に、僅かに手元が反応してしまう。平然を装い、白米を口に入れる。
「まぁでも比較的進学校なのにあんなにギラギラした見た目してたら目立つよなぁ〜。金髪に高身長って、百人いてもすぐに居場所がわかりそうだもんな」
「……そうだね」
「あ、噂をすれば」

 今度こそ取り繕うことはできず、手元から白米がこぼれ落ちていった。教室内の空気が一瞬にして変わるのが分かる。水を打ったような静けさ。その場にいた誰もが、その存在に視線を奪われる。

 ぱっと目を惹くハイトーンマッシュ、印象的なシルバーのフープピアス、モデルのようにすらりとした背丈、芸能人顔負けの整った顔立ち。ポケットに手を突っ込んで気怠げに歩く姿は、何人も寄せ付けない、何か威圧感に似たものを周りに植え付ける。声を掛けようと意気込んでいたクラスメイトが後ろの方で頬を染めて固まっているのが見えた。

 彼の姿が見えなくなってからやっと、すぅ、と息を吸う声が周りから聞こえてきた。静まり返っていた教室に活気が戻る。
「すげ〜、レベチで発光してんな。あとなんかこえぇ。俺ちょっとちびりそうだった」
「アホ」
「いでっ」
 むしゃくしゃして田所にデコピンしてしまった。特に気にしてなさそうだが、心の中でごめんと謝っておく。
「俺もあんな顔面に生まれてたら今頃彼女できてたんかな? なあ、未凪」
「田所はそのうるさい口数を減らしたらすぐ彼女できるんじゃない?」
「……おまえってたまに辛辣だよな」
 どちらかというとこれも八つ当たりの一つだ。



 その人──伊竜礼と義兄弟になったのは、今年の三月のことだ。偶然同じ高校に進学することになっていたこと、年頃だし周りの目が気になるだろうという両親の配慮から苗字は統一せず、両親は籍を入れない事実婚という選択をとった。

「いただきます」

 手を合わせてから、湯気の立ち上がる煮物に手をつける。隣の席は今日も空っぽで、皆と同じように用意された食事にはラップが乗せられている。
「今日も礼はいないのか?」
「毎日日付が変わるまで帰ってこないみたいなの」
「何を考えてるんだ、あいつは」
 頭を抱えて、はぁ、と深いため息を吐く父さんと、心配そうに眉を垂らして箸を止める母さん。母さんの恋人であった礼の父さんと礼と、一緒に暮らし始めてから早いものでもう一ヶ月が経つが、未だに食卓に四人が並んだことはない。
 礼は俺達と関わることを徹底的に避けている。そもそも初めから、この結婚に賛成していたとはいえない態度ばかりとっていたから、然程驚きはしなかった。
「やっぱり私のことが気に入らないのかしら。ごはんも手をつけてないみたいだし、渡したお弁当も朝のまま返ってくるし……」
「そんなことはないよ。昔からああなんだ。俺が仕事にかまけて放ったらかしにしていたから……すまないね、未凪くんも」
「あ、いえ……」
 困ったような顔の父さんに、悲しそうな顔の母さん。毎日こんな表情ばかりさせていて、俺としても居心地が悪い。そもそも文句があるなら最初から反対すればいいものを、こんな風に子どもじみた反抗ばかりする礼の考えていることが、俺には正直よくわからない。
 このままではよくない。二人とも礼のことで疲弊しきっているし、ただでさえ仕事で忙しい二人なのに、これ以上心労をかけては。

「……俺がなんとかするよ」

 俺が、あいつを説得しなければ。ぽつりと呟いた言葉は少し低い音に聞こえてしまって、ハッとして顔を上げた。
「だから心配しないで。二人は仕事にだけ集中していいから」
 慌ててにこやかに声を掛け直すと、二人の顔に僅かに安堵の色が見えた。
「ごめんね、未凪。無理しないでいいからね」
「迷惑かけてすまない。何かあったらぶん殴っていいから!」
「大丈夫、うまくやるよ」
 実現不可能なことを安易に口にするのは嫌いだ。だからこの時は、本当に何とかしようと思っていたのだ。直接話してみれば、もしかしたら何か彼の一部でも掴めるんじゃないかって。



 カタン。
 音がしたので洗面所から出て階段を見上げると、ジャージ姿で降りてくる礼の姿があった。歯磨きをしていた俺は慌てて歯ブラシを口から離す。

「おはよ」

 礼はまだ眠そうな様子で、いつもはサラサラの金髪がぐしゃぐしゃに乱れている。ちらっと俺の顔を見た礼は、俺の隣を素通りして便所へと消えていった。
 無視。こんなに鮮やかな無視があってもいいのだろうか。仮にも家族。こんな十センチにも満たない距離を通り過ぎて無視だとは舐められたものである。
 しかしこんな光景もいつものことなので、別段俺も何かを感じることもない。むしろ返事が返ってこないことを前提として声をかけているようなものだ。
 
 だけど。このままではいけない。
 俺は昨日の夜約束してしまったのだ。俺が何とかする、と。今朝も忙しく、既に家を出ていった二人に明るい報告をしてやらねばならない。

 暫くして便所から礼が出てきたのを見計らって、俺は礼の前に立ちはだかった。便所は廊下の奥にあるので、俺が前に立てば進路も退路も塞がってしまう。
 礼は俺の姿を捉えると、静かにその場に立ち止まった。改めて間近で見るとマジででかいなと、関係のない感想が頭に過る。身長が高いとはいえない俺は、その表情を見るのに結構な角度で見上げなければいけない。何とも屈辱的である。
「何?」
 とてつもなく面倒臭そうな声が頭上に降ってくる。今にも舌打ちでもしそうな顔だ。
「夜、帰ってくるの遅いから父さんも母さんも心配してる。食事の時間に間に合うように帰ってきてほしい」
 聞き取りやすいように努めてハキハキとそう告げるが、礼の表情は変わらない。
「あと作ってもらった食事や弁当を残すのはどうかと思う。母さん悲しむし、ちゃんと食べてほしい」
 こちらの希望は全て吐き出したので、とりあえずそっと安堵する。礼はというと、暫くの間無表情で俺のことをじっと見下ろしていたが、やがてハッと鼻で笑った。
「……終わり?」
 退けと言わんばかりに長い足を壁と俺の隙間に捩じ込まれて、呆気なく身体が押される。偉そうに去って行く背中を呆然と見つめていた俺は、ハッと我に返り悔しさに歯軋りをした。

 ──何なんだあいつは!

 話せば分かるかも、だなんていうのは甘すぎる幻想だった。何か理由があって捻くれているのか、そんなことは知らないけれど、とにかく癪な男だ。言葉で伝えて分からない人間は、この世で最も苦手な人種だ。
 ましてや馬鹿にしたように笑うなんて、綺麗なのは見た目だけで中身はとんでもなく腐っているのではないか。俺はぐっと唇を噛んで、持っていた歯ブラシをぎゅっと力を込めて握った。



「なあ、今日どーしたん未凪」
「気にしないでほしい」
「おう……?」
 朝からあんな出来事があり、午前中はむしゃくしゃして授業に集中できなかった。ぐったりと項垂れる俺を見て、田所が不思議そうに頭の上にクエスチョンマークを浮かべている。
「はあ……なあ、死ぬほど苦手な奴と仲良くなるにはどうしたらいいと思う」
「究極の質問すぎね?」
「いいから教えて」
「うーん、そもそも苦手な奴とは仲良くなれんだろ」
「……そりゃそうだよな……」
 がっくりと肩を落とし、俺は再び机に突っ伏す。人間なんだから得手不得手はあるし、好き嫌いはあるし、人類全員と仲良くなれるわけではない。
 きっと俺とあの男は真逆なのだ。生き方も、価値観も、性格も、全部。だから仲良くなれるはずがない。最初からあの男と家族になるなんて、不可能だったのかもしれない。

 ──だけど。

「ねえ、さっき伊竜先輩見ちゃった」
「っ」
 本日一番頭の中に出現している名前が聞こえてきて、俺は咄嗟に顔を上げた。
「どこで?」
「えっ!?」
 すぐそばでクラスメイトと会話をしていた女子に声を掛けると、俺の勢いに驚いたように目を丸くしている。
「あっ、えっと、購買の近くの渡り廊下……」
「わかった、ありがとう」
 それだけ告げると、俺は勢いよく立ち上がり教室を出た。おい、と田所が俺を呼ぶ声が背中越しに聞こえていた。

 件の渡り廊下に辿り着くと、礼の後ろ姿を見つけた。壁を背に、頭の色がカラフルな先輩達と談笑しているようだ。
 俺は覚悟を決めてその集団に近寄った。
「──あ?」
 近づく俺を警戒してか、複数の目が一斉にこちらに向けられる。一番近くのピンク色の髪の先輩が、ジロジロと値踏みするように俺を見た。
「一年? 俺らに何か用〜?」
 俺は先輩達の視線を見ないふりをして、たった一人に視線を向けた。俺の視線の先の礼は、静かにじっと俺を見ている。一見無表情にも見えるが、その中に微かに苛立ちが潜んでいることを、今朝も会話したせいか感じ取ることができた。
 俺達は義兄弟になるにあたって、両親の助言のもとに一つだけ約束を交わした。
『校舎内では、他人のふりをすること』。
 多感な年頃だし、特に礼は目立つので、義兄弟だなんて関係性が知れ渡ればどれだけ好奇の目に晒されるかわからない。だからこそ、そんな口約束をしていた。
「伊竜先輩」
 俺が声を掛けても礼は動じることはなかった。むしろ周りの派手な髪の人達の方が、ぎょっとしたように礼に視線を向けている。
「話があるのでちょっと来てくれませんか」
「告白かよ」
 壁に寄りかかっていた礼は怠そうに身体を起こして、俺を一瞥した。
「生憎そっち(・・・)の趣味はないんで」
「いや、告白とかじゃなくて」
「うん、サヨナラ」
 取り付く島もない。周囲を置いてきぼりにして、校舎の方へ歩き出していく背中を呆気に取られて見つめることしかできなかった。まるで朝のデジャヴ。気づいた頃には礼の姿を見失っていた。
「なんかごめんな、アイツとっつきにくくて」
「友達少ないんだよ、許してやって?」
「あ、いえ……」
 派手な髪色の友人達に何故か励まされた俺は、別れ際にビスケットやら飴やらを両手いっぱいに手渡された。勇気を出したのにかわいそうな一年だと思われたのだろう。



 作戦変更。
 あの男相手には正攻法は無意味だとはっきり分からされてしまったからだ。
 敵を倒すにはまず敵を知ること。俺はその翌日から、義兄弟のストーカー、もとい、情報収集を行うことにした。
 
 情報収集を始めてから一週間、ようやく謎に満ちていた伊竜礼のことを、断片的に知ることが出来始めた。
 まずは授業。ほとんどサボり、教室で大人しく授業を受けているなんてことは滅多にない。あるとしてもその直前に担任に指導されたか何かで、しかもその授業すらも一時間丸々寝ていたらしい。
 昼は母さんが作った弁当は食わずに、購買でパンを買って済ませている。しかもそのパンが惣菜パンだったことは俺が知る限り一度もなく、全てメロンパンやチョコデニッシュなどの菓子パンオンリーなのだ。他にも校内で見かけるとやたら棒付きの飴を舐めていたり、グミの小袋を持って咀嚼していたりと、どうやら見かけによらず究極の甘党らしい。
 放課後は大抵派手な髪の先輩達と連れ立って駅前でカラオケをしているか、ゲーセンにいるか、ファストフード店に居座っているかのどれかだ。仲間内では楽しそうに白い歯を見せて笑っている様子が確認できたので、ポーカーフェイスというわけではないらしい。家ではいつも死んだ魚のような目をしているし、学校では大体すかしているし、礼の笑った顔を初めて見たので、その時は少しだけ面食らってしまった。
 この日は放課後ファストフード店で駄弁っていた後、カラオケ店へと移動していたのを見た。俺は夕食の時間に間に合わせるために、そこまでは追わずに自宅へと戻った。
「おかえり」
 帰宅すると、母さんが穏やかに微笑みながらダイニングから顔を出した。
「夕飯できてるよ。食べる?」
「うん。父さんもいる?」
「帰ってるぞ〜」
 奥の方から父さんの声がしたので、母さんと笑った。

 軽く着替えて一階に戻る。今日の献立は好物の唐揚げだ。いただきます、と手を合わせた後、一気に五つも小皿に乗せる俺を見て、母さんはクスクスと笑った。
「高校生活はどう?」
「うん、まあ普通に楽しいよ。さすがに進学校だし周り頭いいヤツばっかで自信なくすけど」
「侑太くんは元気? 一昨日だったかな、スーパーで侑太くんのお母さんに会ったのよ」
「毎日うるさいぐらいだよ」
 中学の時から何度も互いの家を行き来していたので、田所とは家族ぐるみで仲が良い。彼女が欲しい、モテたいと喚く教室での田所を思い出し、思わず苦笑がこぼれた。
「……礼は元気にやってるかな?」
 ふと、父さんの声に顔を向ければ、少し困ったように笑う姿があった。ここのところ日付を超えた後に帰ってくる生活が続いていたし、朝も遅刻ギリギリまだ家にいるので、父さんとはもう何日も顔を合わせていないのだろう。
「元気だよ。すんごいモテるの」
「ええっ、そうなの? あんな不良みたいな頭してるのに?」
「うん」
「どうしてだろう……」
「かっこいいからじゃない? 顔が」
 中身は性格捻じ曲がった性悪男だけど、という言葉は、沢庵と共に胃の中に流し込んだ。

 ガタン。
 音がして振り向く。まさかと思う間もなく、ダイニングに続く扉が開けられた。
「礼!」
 父さんの嬉しそうな声が背後から聞こえる。三人の視線の先には、鞄を肩に引っ掛けてこちらを見据える礼の姿があった。
「礼くん! おかえりなさい、夕飯食べる?」
 母さんが声を掛けて立ち上がるが、礼はその場を動く様子はない。暗い廊下に立ち尽くしたまま、煌々と電気の照明に照らされた俺達を見て、眩しそうに目を細めた。
「……いらない」
 吐き出された声は、少しかさついていた。
「あと、これもいらない。毎日渡してくるけど、食べないから。無駄なことしないでくれる?」
 そう言いながら取り出したのは、俺のものと色違いの巾着。中に入っているのは弁当箱だ。
「飯もつくんなくていいから。用意されてるとプレッシャーになってキツいんだよね。好きなもん食うし、食べたい人達だけで食べてもらえれば」
 どうぞどうぞとヒラヒラと片手を振り、鼻にかけたような笑い方をする。いつかの朝、俺に対してしてきたものと似たものだった。
 目の前が怒りで真っ赤に滲んでいくのがわかる。コイツの放つ一言一句が、怒りのメーターを押し上げていく。

「ハッキリ言って、お節介っていうか、迷惑」

 母さんが絶句するのが気配でわかった。
「礼、おまえ──っ」
 父さんの声が後ろから聞こえたような気がする。俺は静かに箸を置いて立ち上がり、そしてそいつの目の前までツカツカと歩み寄って、それから。
 その神から愛された美しい顔に、思いっきり拳を打ち込んだ。
 こんなに全身の力を入れてぶん殴ったのに、礼は少し体勢を崩しただけだ。
 憎い。身体中の細胞が今、コイツのことを憎いと言っている。一発殴ったぐらいで怒りが収まるはずがない。
 理性を呼び起こし、怒りを鎮める。自分を抑えようと噛み締めた唇から、抑えきれない荒い息が漏れる。
「……んたなんて、大っ嫌いだ」
 心の底から、地を這うような声が出た。

「あんたが兄貴なんて、家族なんて、俺は認めねえ」

 憎しみを込めて睨み付ける。視界に入ってきた礼の頬は少し赤くなっていて、口端は血が滲んでいた。
「……ごめん。頭冷やしてくる」
 俺は礼に背を向けると、父さんと母さんに向かってそう伝えてから、自室へと戻った。
 大事な人を傷つけた。言ってはいけないことを言った。『家族だから』なんて言葉は通用しない。アイツはさっき、一線を超えた。
 許せない。俺は何をされたって、何を言われたって気にしないが、家族が傷付けられるのは看過できない。
 遠慮がちに礼の様子を窺ってきた父さん。忙しいのに毎日食事を用意してくれる母さん。
『うまくやるよ』
 俺に任せろとでかい口を叩いておきながら、何もできない自分が憎い。
 嫌いだ。
 何もできない無力な自分も、あの男も、全部。