周の家に着いたのが十六時過ぎで唐揚げが出来上がったのが十八時前だった。
 帰り道に言った通りタッパーに詰められた唐揚げとエトセトラを入れたパンパンのビニール袋を自転車のカゴに入れた咲良と周は今海沿いを歩いていた。家が近いというのもあって周は徒歩だし、咲良も自転車を押して歩いている。
 十八時にもなれば外はもう薄暗く日中には感じなかった肌寒さにたまに身震いするが歩いているうちに気にならなくなった。

「相変わらずおばさん元気」
「ねー、多分おれより元気だよ」
「俺のばあちゃんと一緒じゃん」

 波の音と虫の鳴き声、たまに遠くから人の声がする道をゆっくりと進みながら思い出すのは家を出るまでの明子とのやりとり。

「さっくん唐揚げ出来たよ! 勢い余ってトンカツも作ったけど持ってく⁉︎」
「や、唐揚げでだけで大丈夫」
「遠慮しないでいいから持ってって! フミさんだってこれくらいぺろりでしょー? それとそら豆の塩茹でしたやつと、あ、朝取れたアスパラも持っていきな! お義母さんいいよねー?」
「うんうん、いっぱい持っておいき」
「いやこれはさすがに貰いすぎ」
「大丈夫大丈夫大丈夫!」

 女性二人の圧に咲良は勝てずに結果言われるがまま沢山のお土産を持たされることになった。ちなみにそういう場合周は助けに入らない。なぜなら入ったところで無駄だからである。
 見守り役に徹している周を最後に恨めしげな目で見るまでがこの流れのパターンだ。

「今度なんかお礼持ってく」
「気にしなくてもいいけどフミさんの漬物食べたい。梅干しとか」
「……ばあちゃんの梅干し欲しがるのマジであまねくらいだぞ。なんで平気な顔してあれ食えんの。この世の酸っぱいの全部集めたみたいな味してんじゃん」
「なんだろ、昔から好きなんだよねフミさんの梅干し」

 フミが漬ける梅干しは一言でいえば酸っぱいとしょっぱいの極地だ。あの梅干しが一つあれば白米が冗談ではなく一合は食べられる気がする、と周は本気で思っていた。つまり最高のご飯のお供なのである。

「まだまだ高校生になりたてのさっくんにはあの味の奥深さがわからないんだなー」
「あれに至ってはあまねの味覚がバグってるだけだろ」
「うわ生意気だ!」
「いって」

 ノーガードの脇腹に周の緩い手刀が決まった。大して痛くもない筈なのに大袈裟なリアクションをする咲良にからからと楽しげに笑う。
 一緒に学校から帰ってどちらかの家に寄ってどちらかが送る。中学生の頃は当たり前だったルーチンがふと懐かしく感じたのは、確かにこの状況が久しぶりだと感じたからだろうなと周は隣を見た。
 その視線に気がついた咲良が不思議そうな顔で見てくるのに周は自然と頬を緩めた。

「なに?」

 今朝教室で寂しそうにしていた咲良を思い出す。「もっと話せると思ってた」とこぼした言葉にはきっと嘘は無いし、本心からの言葉だったのだろう。保育園から中学まで全員が幼馴染といっても全員と仲良くなれる訳ではない。
 特に咲良は元々人付き合いが苦手で喋るのも得意な方ではなかったなと、今更ながらに周は思い出した。

「んー、なんだろうなぁ」

 周はじわりと自分の心の中に浸透していく感情にどう名前を付けようかと思案していた。周にとって咲良は幼馴染であり、家族でもある。それにきっと一番自分に近い友人だ。そんな人が一年自分がいない学校で過ごしたことを、言葉には出していないが全身で“寂しい”と表してくれた。
 それは、うん。ちょっと、だいぶ、嬉しいかもしれない。

「…なんでニヤついてんだよ」
「いやぁ、へへへ」

 これをこのまま言葉にするのはまずいなと、周は思った。だって多分単純に気持ち悪い。
 だけど咲良の感じを見るにここで何か言わないとまた拗ねてしまうかもなぁ、と長年の経験から予測されるパターンを導き出すと周は緩んだ顔のまま口を開いた。

「おれは咲良に好かれてるんだなぁって思ったんだよ」

 からかい半分、自意識過剰な本音半分で呟いた言葉は咲良の失笑によって吹き飛ばされるはずだった。
 けれど代わりに訪れたのは静寂。
 咲良の足が止まり、車輪の音も止んだ。三歩程先に進んでいた周はそれに気がついて足を止めて後ろを見る。薄暗いのと、咲良が俯いているせいで表情はわからなかった。

「咲良どうしたの?」

 声を掛けても返事はない。それに瞬きをして一歩咲良の方に向かおうとした時顔を上げた。やっぱり薄暗くて表情はよくわからなかったけれど、強い目力で見られていることはわかった。
 縋るような視線の強さだと思った。

「好きだよ」

 始終聞こえている波の音が一瞬止んだ気がした。

「俺はあまねのことが好きだ。幼馴染とか、友達とか、家族だからじゃない」

 退路を断つように続いた言葉に周はゆっくりと瞬きをした。まだ理解が追い付いていないからどんな言葉も発することが出来ない。

「あまねが好きだ」

 肌寒い風が背中から吹いた。
 木々の揺れる音と、波の音が戻ってきた。ハッとして咲良を見るけれど途端に今までどうやって咲良を見てきたのかがわからなくなってしまって視線を彷徨わせる。どんな言葉を掛けたらいいのか、どんな顔をしたらいいのかわからない。ああ、混乱しているんだと思った。
 混乱するのは咲良がこんな嘘を付かないと周は多分、誰よりも良く知っているから。
 咲良は嘘をついていない。冗談でこんなことは言わない。
 それなら、この言葉は真実なのだ。
 自分を落ち着かせようと吸った息がやけに大きく響いた気がした。

「あまね」
「!」

 いつの間にか視界に咲良の靴と自転車が入ってきていた。
 歩数にして一歩分の距離に、咲良がいる。
 周は自分の体が妙に強張っているのを感じた。何か言わないといけない。せめて目くらい合わせないといけない。緊張すらしている周に降ってきたのは思いの外あっけらかんとした声だった。

「別に答えようとしなくてもいい」
「え」
「だって今だと俺確実に振られるじゃん。だから何も言うな」
「えぇー…」

 困惑に眉を下げ心なしか猫背になって申し訳なさそうにしている周とは対照的に咲良はいつも通り、という感じだった。
 先程まで感じていた視線の強さもなくなり、いつもの少し気怠げな目が周を見下ろしている。何なら周の反応を見て楽しんでいる風でもあるのだから、周の困惑はさらに強まった。

「あまねは俺のこと考えて悶々としてればいーんだよ」
「ええっ⁉︎」

 思ってもみなかった言葉に仰天して目を見開く。そんな姿を見て悪役みたいに口の片方だけ上げて笑った咲良は徐に自転車に跨った。

「じゃあ帰るわ、また明日な。おばさんたちによろしく伝えといて」
「え? あ、うん」
「おやすみ」
「おやすみ…」

 まさに風の如く自転車に乗って去っていった背中を見送って周は少しの間その場でぼんやりと立ちすくんでいた。
 予想もしていなかった事態にまだ混乱が抜け切っていないのだと、頭の中の変に冷静な部分が自分に伝えてくる。そう、まだ自分は混乱しているなと思うのに体は自然と自分の家の方向に向かって進み始める。
 でもその足取りはひどくゆっくりとしたものだった。
 まるで地面が本当にそこにあるのかと確かめるかのようなスピードと慎重さで歩を進めるけれど、家から引っ掛けてきたクロックスの靴底がしっかりと目の荒いコンクリートを踏み締める。
 あ、夢じゃない。
 そう思ったと同時に周の中に浮かんだのはたくさんの情報だったが、一番強いものは咲良の顔。そして。

「……告白、初めてされた」

 そんな気の抜けた感想だった。