海の見える教室の、後ろから二番目の窓側の席。
 カーテンの白いレースが攫われて、波目みたいな模様が光で透かされたあの瞬間。
 教師の話も聞かずに珍しく眠っていた周が不意に目を覚まして、ちょっと垂れそうになった涎に気がついて慌てて手の甲で拭って、そしてそれを誰かに見られてやしないかとさりげなく周囲を見渡した時、目が合った。
 大きな目をまあるく開いて、その後鼻先に皺を寄せるみたいに笑った周を見たとき、心臓が大きく脈打った。
 絶望なんて言葉はあまり好きではないけれど、この胸の高鳴りを形容する言葉があるとするならばそれは絶望しかないと、そう思った。
 どうしてそう思ったのか。それは“叶わない恋”をしたからだと、その時は判断した。
 
 咲良がどれだけ周のことを好きでも、笑顔が誰よりも可愛いと思っていても、この世の誰よりも周のことを好きでいる自信があったとしても、きっと手に入らないと思ったからだ。
 咲良と周は同性だし、何より周は咲良のことを手のかかる弟くらいにしか思っていない。勢い余って告白してしまったけれどあれからも普通に部屋にあげられて二人きりになるし、一緒に帰る時も普通だし、まるで意識されていないのがわかる。

 それが当然だと理解していた。咲良がどれだけ周のことを好きでいようと、それは咲良の問題であって周には一切関係が無い。だからどれだけ好きでも恋人にはなれないのだと絶望したのだ。
 だけど違ったのだと、今になって咲良は理解した。あの絶望はそんな独り善がりのものじゃなかった。自分一人の気持ちであんな心臓が滅多刺しにされるような痛みを感じたんじゃない。

「……普通じゃない、からだ」

 地面に落ちたアイスにどこからが蟻が一匹やってきた。大きくて甘い水溜りに飛び付くその様子が、咲良は自分と重なって見えた。
 咲良は周のことが好きだ。自分でもどうしようもなくなるくらいに周のことが好きでたまらない。はじめはきっと友人として、家族みたいなものとしての好きだった。幼い頃の自分はよく懐いていたと、そう自覚しているくらいには咲良は周にべったりだった。
 けれどそれが違ってきたのは間違いなくあの夜の海からだ。
 父の次に母がいなくなって、祖母のフミから「もう両親は帰ってこない」と言われて、自分で自分の感情が何も分からなくなった時、ただただ一人になりたくて隠れたあの日。

「さっくん」

 今よりも随分高くて柔らかな声で名前を呼ばれたあの一瞬で、咲良は自分が絶望しているのを理解した。意味無く隠れた訳ではなかった。心配されたかったのだ。もう帰って来ないと分かりきっている母に会いたくて「心配したじゃん」と言って欲しくて、あの日咲良はずっと隠れていたのだ。
 でも咲良を見つけたのは周だった。あの日の自分を救い出してくれたのは母親でも祖母でもなく、周だった。周だけが咲良のことを純粋な気持ちで探してくれていた。
 あの日から、周のそばだけが咲良が心から安らげる場所になった。

 周は咲良の不安に敏感だった。否、敏感にならざるを得なかったのだろうなと、のちに咲良は思う。家族の話題になった時、漠然とした恐怖と不安に駆られた時、周はいつだって咲良の手を引いてくれた。あの夜の海の時みたいに抱き締めてくれた。
 周が特別になるのに時間は掛からなかった。けれどその特別が友愛だとか家族愛ではないと気が付いたのは中学生の頃だ。よくある話、好きな人が夢に出てきて翌日下着が汚れているあれだ。あれで咲良は否が応でも周への気持ちを理解した。
 深くは考えずなんとなく「伝えてはいけないもの」だと思っていた。けれど咲良のなんとなく、というのは周の些細な一言で簡単に瓦解してしまった。

 けれど咲良は周に想いを伝えたことを一切後悔していなかった。なぜなら周の反応が思っていたものと違ったからだ。
 きっと気味悪がられると思っていたのだ。同性からの告白、それも幼馴染からなんてもし自分がされた側なら困惑するし理解も出来なかったと思う。けれど周は受け入れるとまではいかないけれど、それでも咲良を拒絶なんてしなかった。むしろ可愛い反応をしてくれた。
 確かに告白してからしばらくは意識すらしてくれなかったけれど、体育祭の後からはそうじゃなくなった。咲良のことを真面目に考えてくれるようになった。

 だからデートだって誘ってくれた。手も繋いだし、頬にだけどキスだって許してくれた。咲良が触れることを「嫌じゃない」と言ってくれた。だからきっとこのまま進めば、周は咲良を好きになってくれる。恋人になれる。夢にまで見た関係になれる。
 ──だけど。

『先輩達が普通じゃねえってうるさくて』

 吐き気がした。
 容赦の無い純粋な悪意に目の前が暗くなる。
 これが咲良にだけ向けられる中傷ならなんてことはなかった。鼻で笑って跳ね返せる程の自信がある。けれど、周は違う。
 周にこんな悪意を向けさせる訳にはいかない。こんな下らない、でも殺傷能力の高い攻撃を周に受けさせる訳にはいかない。
 普通じゃないというのはこんなにも残酷に簡単に人を傷つける。だからあの時絶望したのだと咲良は思い知った。感覚としてこう(・・)なると理解していたから。

「…ああ、くそ」

 両膝を立てて項垂れる。魚と潮の匂い、海と人の声と蝉の声がわんわんと耳の奥でうるさいくらいに反響している。
 項垂れた視線の先には蟻がいた。大きくて甘い水溜りに浸かるようにしているのが見えた。その姿はまるで幼い頃周から与えられた愛に溺れている自分のように見えて酷く虚しくて、そして悲しくなった。

 頭の中ではたった三日前のデートの日が思い越される。手を繋いで真っ赤になったこと、襲いたくなるくらい可愛い顔でラーメンを食べていたこと、抱き締めても嫌がらなかったこと、そして唇で触れた頬が思っていたよりも全然柔らかかったこと。
 自分でも引く程鮮明に思い出せる。どうしようもないくらい好きだと思う。でも、今のままだと周は触れる必要のない悪意に晒されてしまう。
 それだけは避けなくてはと思った。

「……手繋いでたくらいで、馬鹿にしてんじゃねえよ。クソが」

 恨み言が出る。それくらい許してほしかった。
 きっと良雄の先輩からしたら話のネタが出来たくらいの感覚なのだと思う。けれど言われる側の受け取り方は全く違うのだ。
 咲良は息を吐いた。少し震えていた。

「……なんでほっといてくれねえんだよ」

 ただ好きになった人が男だっただけなのに。一番大切にしたいと思った人が、たまたま同性だったというだけなのに。ただそれだけのことなのに。
 それでも“普通”はその想いを許してくれはしないのだ。

「くそ、クソ」

 咲良はその日から周に連絡を取るのをやめた。これが最善なのだと、そう思った。