「少し調べさせてもらったが、ずっと隔離されてきたようなものだったらしいな」
「……北白川から、遺体を出すわけにいかないそうです」
「事故を装うとか、自害に見せかけるとか、いくらでもできそうだけどな」

 悠真様が物騒な言葉を口にするけれど、それらは私に恐怖を与えるためのものではないような気がした。

「食べなければ自ら命を絶つこともできたのに、食べたい。生きるために食べたい。私は、自ら命を絶つこともできなくなりました」
「侍女たちが、食事を?」
「哀れんで、食事を差し出してくれました」

 家族から投げつけられた冷たい言葉の数々と、無慈悲な仕打ちは記憶の奥底まで深く刻まれている。
 この傷跡の治し方なんて分かるはずもなかったのに、彼が私の痛みを感じるような憂いの瞳で見つめてくるものだから勘違いしそうになる。

(悠真様なら、私を愛してくれるんじゃないか……)

 そんな浅はかな希望を抱く自分を恥じ、あらためて筒路森のご当主様に言葉を紡ぐために口を動かした。

「昨日食事を恵んでくれた人は次の日、現れなくて……そうしたら傷だらけの足を哀れんで、靴下を恵んでくださる方が現れるんです」

 紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)と言葉を交わす私が忌み嫌われていたのは事実。
 でも、まだ幼い子どもが一畳分の部屋に閉じ込められていたことに、胸を痛めてくれた人たちは少なからず存在していた。

「そういう毎日を繰り返していくと、期待というものが生まれるんです。私は、生きることを許されるのではないかと勘違いが生まれます」

 悠真様は、私に返す言葉を持ち合わせていなかった。
 言葉を紡ぐことを諦めてくれたのをいいことに、私はほんの数日前まで行われていた出来事を彼に語っていく。

「明日死ぬかもしれないという恐怖が、明日も生きられるかもしれないという希望や期待に変わっていきます」

 幼い頃の私が紫純琥珀蝶と話したことがきっかけで、北白川の未来は変わってしまった。
 私は、その日を境に、すべてを奪われた。
 人々の記憶を奪いなさいと蝶に命令しているわけでもないのに、私はすべてを失った。
 そんな私に何を言えばいいのか。何を伝えればいいのか。
 悠真様が言葉を見つけることができない、その気持ちが理解できなくもない。

「生きているのか死んでいるのか、わからない日々が続きました」

 ほぼ初対面の悠真様に、こんな気持ちをぶつけていいわけがない。
 それでも彼は私に時間を与えてくれるから、今まで抱えてきた感情に抑えが利かなくなってしまった。

「感覚が麻痺して、物事を考えることなんてどうでもいいと思い始める時機を見計らって、人が現れるんです。絶望に落とされて、そのあと救いの手を差し伸べられたら、手を離すことができなくなるんです」

 私は、私を哀れんでくれる人たちのことを神様のように思った。
 神様が、やっと私を救ってくれのだと思った。
 これでやっと、生きていける。
 これでやっと、この世界で呼吸することを許される。
 そんな実現するはずもない未来を夢を見させられて、私は今日まで生きることを選択してしまった。

「だったら、俺の手も離さないでもらえそうだな」

 悠真様は、口角を上げて笑みを浮かべた。
 楽しい話も喜ばしい話も一切していないのに、彼は穏やかな笑みを浮かべてくれた。

「結葵を救う役目を、俺にも担わせてほしい」

 筒路森悠真(つつじもりゆうま)様は、妹の婚約者。
 妹と添い遂げられるはずの、悠真様(その人)は私を救うための言葉をくれる。

「筒路森のご当主様が、そのような発言をされるのは……」
「将来の妻に優しくすることの、何がいけないんだ」
「…………それは……」
「返す言葉が見つからないのなら、優しさを素直に受け取ってくれ」

 悠真様が立ち上がる準備を整えて、この部屋を去ろうと動き出す。

「筒路森様」
「ん? 食事が終わったら、皿は適当に……」
「食事をありがとうございますと……お伝えください」

 私が生きていくために、食事の管理をしてくれている人たちがいる。
 直接お会いしたことはないけれど、その人たちがいるおかげで私は明日を生きることができる。

「あと……乱雑な言葉をぶつけてしまって、申し訳ございませんでした」
「のちに夫婦の関係になるのに、遠慮されてもな」
「それでも……さきほどは、甘えすぎたと思います」

 北白川の家にいたときも、何度も感謝の気持ちを述べようとして口を動かそうとしたことがある。
 でも、碌な生活をさせてもらえなかった私は声を発することすら難しいときが何度もあった。
 言葉を発するためには、健康に生きることがまず何よりも大事なのだと気づかされる。

「侍女に、人の心が残っていて良かったな」

 悠真様は柔らかく微笑みながら、私の頭に手を伸ばして優しく撫でてくれた。
 やっと私は彼から解放されるのだと安堵の気持ちに包まれるはずなのに、彼の熱が遠ざかることで私は冷えゆく一方。そんな初めて抱く感情に、戸惑った。

「外の世界を知ることで、いろいろと気づき始めるとは思う」

 言葉を返すことのなかった彼は、そのまま部屋を出て行くものだと思っていた。
 けれど、彼はなぜか引き返してきて、再び椅子へと座り込んだ。

「結葵」
「何……」
「口、開けられるか」

 自分で食事を進めようと思っていたら、いつの間にか主導権は彼に握られていた。

「え」
「まだ箸を使うことすら、苦労を伴うだろ?」

 悠真様は、私にお粥を食べさせようとしている。
 口を開くように促されるけど、私は逆に口を閉ざしてしまう。

「……子どもではありません」
「子どもなんて思っていない」

 口で紡ぐ言葉と、心で思っていることは違う。
 それを知っていながらも、彼が向けてくれる眼差しの真摯さに言葉を詰まらせてしまう。

「子どもと思っていないなら、自分で食べ……」
「恋仲としてなら、何も問題ないだろう」

 筒路森悠真様は、妹の美怜と添い遂げるはずだった人。
 悠真様にとっては、北白川の美しい容姿を引き継ぐ娘ならどちらでも構わないのかもしれない。だから、こんなにも私に優しさと愛情を注いでくれるのかもしれない。