そして花火大会当日になった。
 同じ教室で同じ空間にいるけれど、あれから橘と顔を突き合わせてはいない。タイミングもなかったし、そもそも俺たちはまったく違うテリトリーで生活をしていた。
 けれど休日の橘に会えるとあって、俺はずっとそわそわしていた。なんといっても私服姿の橘に会うのは初めてなのだ。
 花火デート、なんてひとり浮かれてしまうのは先走りすぎだろうか。

 集合の約束は、最寄りの駅に16時。
 10分ほど前に着くと、駅前にその姿はあった。
 オーバーサイズのシャツに細身の黒のパンツ。無駄なものが一切ないシンプルな出で立ちなのに、それが余計に制服姿よりもさらにスタイルの良さが際立たせている。
 柱に寄りかかりスマホをいじる橘は、立っているだけでもその場の視線を独り占めしている。

 そんな橘が俺を待っている。
 そう思うと気持ちが逸り、橘に駆け寄ろうとしたとき。それより一足先に女性ふたり組が橘に声をかけた。

「あの、お兄さん、ひとりですか?」
「私たち今から花火大会に行くんですけど、もしよかったら一緒に行きましょうよ」
「え……」

 逆ナンされた橘が戸惑っている。
 俺はすかさずずいっと橘の前に立つと、愛想のいい笑顔をふたりに向かって浮かべた。

「すいません、俺の連れなんで」

 そしてふたりがなにかを言う前に、橘の腕を掴んだ。

「行こう、橘」

 橘の腕を引き、女性たちから離れて人ごみに紛れる。

「ごめん、助かった」
「ほんと、無防備すぎ」

 そう言って掴んでいた手を離す。もう少し、現実離れした自分の容姿を自覚してほしい。

 駅から徒歩5分ほどの距離にある大きな川沿いに、花火大会の屋台が並んでいる。木々の間には提灯が下げられ、街はお祭り一色だ。
 花火までまだ時間があるというのに、川沿いはすでに人で溢れていた。

「すごい人だな」
「毎年賑わうよね」
「あんまり来たことないから、こんなに人が多いとは知らなかったな」
「へえ、いつぶり?」
「小学生のときぶり、くらいだと思う」

 そんな会話を交わしながら、屋台に挟まれた通路をふたり並んで歩く。

「たしかに橘って、人ごみとか苦手そうだよね」
「なんでそう思ってて誘ったんだよ」
「だって橘と行きたかったから」
「ふーん……」

 ……あ、照れてる。
 耳の縁が赤くなっている。橘はいつだってわかりやすくて可愛い。まっすぐぶつかれば、それを真正面から受け止めてくれる。

 そのとき、小さな男の子が駆けてきて、走ってきた勢いそのままに橘にぶつかっていった。
 ぶつかった衝撃で軽くよろめいた橘の肩を抱き寄せる。

「こっち」
「う、うん……」

 動揺を表すように瞬きを繰り返す橘。
 そしてロボットのようにぎこちない平仮名を発し、肩をきゅうっと強張らせた。

「もう、大丈夫だから」

 これ以上がつがつしては、きっと嫌がる。あくまで橘のペースに合わせなければ。
 ぱっと手を離し、空気を切り替えるようにできるだけ軽い感じで問いかける。

「なにか食べる? りんごあめとかわたあめとか、チョコバナナとか」
「見事に甘いものばっかりだな」
「甘いの苦手?」
「苦手って言うほどじゃないけど、あんまり進んでは食べないかな……」
「じゃあたこ焼きとかどう?」
「ああ、食べたい」

 話がまとまったところで、ちょうど目の前にたこ焼きの屋台を見つけた。
 さっそく8個入りのたこ焼きを買うと、ほかほかのたこ焼きが乗った舟皿が渡される。

「毎度あり」
「どうも」

 店員から受け取ったまま、橘にそれを差し出す。

「橘、ほら」 
「ありがとう」

 橘との初めての買い食いだ。俺がわくわくとその様子を見守っていると、橘はじゃっかん居心地悪そうにしながらも、爪楊枝が刺さった大きな丸いたこ焼きを口に運ぶ。
 と、口を押さえ、はふっと熱い息を吐き出して眉根を寄せた。

「熱っ……」
「もしかして橘って猫舌?」
「うん……」

 それだったら、まだ食べないって言ってくれてもいいのに。

「でもうまい」
「そっか、よかった。じゃあ俺にもちょうだい」

 爪楊枝を刺したたこ焼きを、橘の手ごと口元に引き寄せ、たこ焼きを口に含む。

「うん、熱々だけどおいしい」

 すると橘が苦い表情を作る。

「無自覚たらしめ……」
「それは褒め言葉?」
「さあな」
「じゃあ誉め言葉として受け取っておこうかな」
「勝手にしろ」

 やばい、にやけてしまう。
 何気ない会話や新たに見つける橘の一面、そのすべてが新鮮で愛おしくて、心が豊かになっていく気がする。

「こういうところで食べるたこ焼きって、お店で食べるより何倍もおいしく感じたりしない?」
「たしかに。お祭りって久々だけど、たまにはこういうのもいいな」

 それから俺たちは、射的や金魚すくいをしたりして、お祭りならではの時間を楽しんだ。
 そして18時を過ぎ、空は粛々と夜の支度を進めていった。
 花火はこのあと18時半からの予定だ。

「そろそろ花火かな」
「もうそんな時間?」

 スマホで時間を確認しようとしたとき、ディスプレイに表示される着信履歴に気づいたらしい。あ、と橘が小さく呟く。

「笑那から電話だ」
「笑那さんから?」
「うん、ちょっと掛け直してきてもいいか?」
「もちろん」
「ごめん、すぐ戻るから」

 そう言い残し、橘が喧噪から離れるように駆けていく。
 ひとり手持ち無沙汰になった俺は、神社に先に向かっていることにした。花火を見るにはそこが穴場であることを、予め橘には話していた。人ごみの中で待ち合わせるより、神社の方が待ち合わせしやすいだろう。
 その旨を橘にメッセージで送り、神社に向かう。

 神社は人がまばらでひっそりとしていた。屋台がないため、人ごみに疲れて休憩に訪れる人がほとんどのようだ。お囃子の音が遠くに聞こえる。

 人の邪魔にならないように玉垣のそばに寄り、夕焼け空を見上げながら橘の姿を待っていると。

「叶芽先輩!」

 不意に俺に向かって声が飛んできた。けれどそれは橘のものではない。
 視線を落とした俺は、視界に紫の浴衣姿の女の子の姿を捉える。

「あ、ココナちゃん」
「まさかこんなところで会えるなんて……!」

 下駄の音をかたかたとたてて、ココナちゃんが駆け寄ってくる。
 長い髪をアップにし、しとやかに浴衣を着こなすココナちゃんは、美人な顔立ちも相まって妖艶な雰囲気を纏っている。

「叶芽先輩、おひとりですか?」
「いや、友達とだよ」

 すると長い前髪を耳にかけながら、ココナちゃんが上目づかいで笑む。

「私も友達と来たんです。でも少し退屈で……。もしよかったら私と抜け出しませんか?」
「え?」
「叶芽先輩といたいんです」

 思いがけない誘いに、その裏に潜んだ彼女の思いを察してしまった。そしてそのあとに続くであろう言葉も。
 受け身を取ろうとする前に、ココナちゃんがこぼれんばかりに大きな瞳で俺を見つめ、一息で告げた。

「私、叶芽先輩のことが好きです」

 ……ああ、やっぱり。
 数か月前までの俺ならきっと来るもの拒まずすべての愛を受け取り、見かけだけの愛をみんなに分け与えてきた。けれど今は違う。身勝手で空っぽな愛は、相手にとっても自分にとっても不誠実であることを悟ったのだ。

「叶芽先輩の彼女の基準はハードル高いって聞いてるけど、私頑張ります。料理だってするし、趣味だってなんだって叶芽先輩に合わせます!」
「ごめん。ココナちゃんの気持ちには応えられない。好きな人がいるんだ」

 ごまかさずに心の内を正直に伝えることが、せめてもの責任であり償いだと思った。
 すると俺の答えに、おとなしそうな彼女は一変、声を張り上げ食い下がった。

「待ってください! 本当に好きなんです! 二番目でもいいんです……!」
「申し訳ないけど、そういうことだから」

 ここで安易に優しい言葉をかければ、より残酷な思いをさせることは経験則から分かっていた。
 だから不用意な言葉は使わずそれだけ伝えて彼女のそばを通り過ぎようとした、その時だった。

「叶芽先輩……っ!」

 後ろから勢いよく手を引かれ、隙を突かれた俺の体は反転し、そしてその瞬間下から掬うように唇を塞がれた。
 つぶさにはなにが起こったのか分からず、キスをされたのだと頭が状況を把握したのと、〝それ〟は同時だった。
 遠くから聞こえてきた、ざざっと靴底が砂を擦る音。
 反射的にそちらに顔を向けた俺は、思わず目を見開いていた。そこには視線をそらした橘が立っていたのだから。

 橘は、ふっと踵を返して来た道を駆けていく。

「私のこと、考えてくれる気になりました……?」

 俺の胸に頬をそっと当て、恥じらうような声音で聞いてくるココナちゃん。
 けれど俺は答える余裕もなく彼女を突き放し、「橘!」そう叫ぶと考えるよりも先に駆け出していた。

 なんて言う? 追いかけてどうする? ──わからない。なにひとつ答えには至っていない。
 けれど、犯した間違いを取り消すみたいに、俺はその姿を追う。
 原因は俺だ。俺がふらふらと好意を弄び曖昧にしてきたから。そのつけがまわってきたのだ。

 橘は境内を抜けて川沿いに出る。花火の時間が近づき、通りはさっきよりもっと人であふれていた。
 人混みをかき分け、橘を追う。

「橘!」

 呼びかけるけれど、橘は立ち止まらない。
 逃がしたくない。今逃がしたら、きっと永遠にわかり合えない気がする。
 祭りの色に染まった人々にぶつかり、何度もよろめきながら、俺は咄嗟にその名を呼んでいた。

「希純……!」

 俺の声に、橘がふと立ち止まった。その隙に橘の腕を掴む。

「待って……」

 橘の腕を掴んで、乱れた呼吸を繰り返す。
 けれど橘は俺の手を振り払った。ぱしん、と乾いた音が鳴る。そしてこちらを振り返った顔には、傷ついたような表情が浮かんでいた。

「あんなこと言って人の心かき乱しておいて、結局お前は女が好きなんだな」
「え?」

 押し殺したような声に目を見張る。
 橘の瞳には怒りと、そして見間違いでなけれ深い哀しみが滲んでいる。

「馬鹿にして笑ってたんだろ……っ。おもちゃにして楽しかったか。お前はやっぱり俺とは違うんだよ」

 そう言い捨てると、橘が再び俺に背を向け、その場を後にしようとする。
 そのとき、しゅるしゅると花火が空に昇る音が聞こえた。
 そして濃紺の空に大輪の花が咲いたのと、俺が声を発したのは同時だった。

「――橘が好きだ」

 その声はきっと、橘にしか聞こえなかった。
 人々が頭上の花火に釘づけになり歓声があがる中、橘だけがこちらを振り返る。

「え……?」
「男とか女とかそういうのじゃなくて、橘のことが好きなんだ」

 ずっと胸の内に秘めていた想いの丈が泉から溢れる。
 かっこつけようがない。生身の俺は、こんなに不格好で無様だ。だけど自分の体裁を取り繕うより、ただ目の前にいるひとりだけを想い、向き合いたかった。

「奥山先生のことが忘れられなくてもいい。その想いごと俺のところに来い。丸ごと全部抱きしめてやるから」

 橘の瞳が大きく揺らぐ。震える唇がわずかに開く。
 すると、そのときだった。
 ぽつ、と頬に雫が落ちてきたかと思うと、それは次から次へと地上に続いた。

「雨だ!」

 だれかの声が聞こえて、あちこちからざわめきがあがる。
 やがて雨足は激しくなり、瞬く間にばけつをひっくり返したかのような大雨に変わった。
 突然の雨に、人混みが慌てふためき津波のように押し寄せる。

 俺は橘の腕を掴み、声を張る。

「行こう、橘」