「やっと来られたー」
週末、すずなは蛍を連れて会社の前の公園にやってきた。休みの日に会社の近くに行くのは避けたかったが、あのスペイン料理のためならそうも言ってられなかった。
すずなと蛍の手には、それぞれ入ったビニールの手提げ袋が握られている。もちんろん中味はランチボックスだ。
「へーこんな公園が会社の前にあるのね」
「結構いいでしょ。あ、あそこのベンチが空いてる!」
すずなはたまたま一つ空いていたベンチに向かって走り出した。
「蛍、はやくはやく!」
ベンチに腰を下ろして、手招きする。
「すずな、ベンチは逃げないから」
「そうだけど、無くなる可能性はあるでしょ」
「そういうときのために、敷物持ってきてるから」
蛍が肩にかけていたトートバッグからさっとレジャーシートを取り出した。
「やだ、惚れちゃう」
すずなは、わざと口を両手で隠した。
「さぁ、食べよ食べよ」
蛍が腰掛けると、二人は膝にランチボックスを置いた。蓋を開くと、スペイン国旗のついた爪楊枝が目についた。今日のメニューはイカリングを挟んだボカディージョ、定番のトルティージャとアンチョビ入りオリーブ、ガスパチョの代わりはチョリソと豆の煮込み。
「いただきます!」
手を合わせて、二人で声を揃える。
スペイン国旗でオリーブを突き刺し、口に運んだすずなは片手を頬に当てた。
「本当に美味しい」
蛍がボカディージョを一口分胃袋へ送り込んだあと感想を漏らした。誰かに伝えようとしたわけでもなく、心の声が自然と出てきたようで、すずなは胸の内でガッツポーズを繰り出した。
「この豆とチョリソーも食べてみて」
すずなが蛍に煮込みを勧めたとき、蛍の前で女性が歩みを止めた。蛍の隣にある一人分程度のスペースが気になっているようだった。周りを見ると、どこもベンチは完売御礼。蛍の右側だけが微妙に空いている。
「……あの、ここに座らせて頂いてもいいですか?」
女性がおずおずと話しかけてきた。蛍がどうぞどうぞと手で示した。女性が笑みをこぼした瞬間、すずなと目が合った。お互いに、あっという顔をする。
この間の和服の女性だ!
「あら、前に……」
女性が口に手をやった。すずなは女性をまじまじと見た。よくぞ彼女が例の女性と同一人物だと気がついたものだと自分で感心する。それくらい女性の雰囲気は以前とは違っていた。まず、前回は和服に後ろで黒髪をまとめた古風なスタイル。それが、今日は黒のタートルネックに白のパンツという洋風スタイル。おまけに髪は顎のラインに合わせて短く切られており、髪色は茶色だった。
「知り合い?」
蛍がすずなに問いかけてきた。
「そう、前に私が初めてこのランチボックスを食べたときに、向かいのベンチに座ってた方なの」
あぁと蛍が手を打った。
「あなたが食べてらしたお弁当が気になってどうしても食べたくなっちゃって。ようやく買いに来られたの」
女性が顔にかかった髪を払いながら、ベンチに腰を下ろした。無駄のない動きでランチボックスを膝の上に乗せると、両手を合わせる。粗方食べ終えたすずなは、女性をじっと観察することにした。
目を大きくしたり、閉じてみたり、頬に手を当てたり。
女性は、くるくる表情を変えながら料理を平らげいく。お重をつついていたときと同様見事な食べっぷりだ。
ふうと女性が一息ついた。すずなの視線に気がついたのか、
「これは何度でも買いたくなるわね」
と、微笑んだ。
「あの……ものすごく気になってたんですけど、あの日、私に向かって乾杯ってしませんでした?」
一瞬間が開いたあと、そうそう、そうだったわねと言って女性が頷く。
「その理由をお伺いしても?」
すずなはおずおずと尋ねた。
「……あの日はね、私が自分の進む道を決めた日だったの」
女性は空を見上げた。しばらくの間誰も話さなかった。女性が再び口を開いた。
「恥ずかしながら夫との関係があまり良くなくてね。夫は口を開けば嫌味ばかり。私もそれを聞くのが嫌だから夫と極力関わらないようにして。ここ数年は娘からは早く離婚したらいいのにって言われるくらい。だけど、決定打も勇気もなかったの」
女性と視線が重なった。目尻は下がり、口角は上がっているのにどこか哀しげだった。
「でもね、最近夫が久しぶりに女遊びをし始めたみたいなの。分かりやすいのよ、携帯を肌身離さず持ってたり、帰宅時間が遅くなったりね」
女性が口に手を当て、くすくすと笑う。とても一緒に笑う気にはなれなかった。気丈な振る舞いの裏に女性の悲痛な思いが感じられて、胸が苦しくなる。
「そのうち休日出勤なんて言い出すんじゃないかと思っていたら、まさにドンピシャ。本当に休日出勤が増え始めたの。色々探りつつ様子を窺っていたら、ついに土曜日の朝から月曜日まで出張だって。だから重い腰を上げて私は動くことにしたの」
「動くとは?」
すずなが聞くよりも先に蛍が合いの手を入れた。
「月曜日に夫の会社に行ったの。本当に出張なのかどうか確かめに」
「教えてくれるものですか?」
「だからね、受付でお弁当を届けに来たんですって言ったの」
「お弁当っていうのはもしかして?」
ピンときて、すずなは人差し指を上に上げた。
「そう。例のお重」
「どうしてお重にしたんですか?」
「それにはまた別の理由があるんだけれど、とにかく生物、食べ物であることが大事だったの。もしあなたたちが受付で、ある男性社員が休みのときに妻が来たらどうする?」
すずなと蛍は顔を見合わせた。先に口を開いたのは蛍だった。
「旦那の有休を知らない妻ってことですよね。不穏な感じしかしませんね。極力、休みってことは伝えずに済む対応を取ると思います」
そうそう、私も同意見———と頷いていたら、頭の中の引き出しが勝手に開いて、総務の官能評価室での結愛の発言が再生された。
———佐田さんが有休のときに、奥さんが会社に来たらしいんですよ。お弁当を届けに来たんですけどって。
ちょっと待って。目の前の女性がお重を食べていたのは、佐田さんが有休のとき。その日、会社にはお弁当を持った佐田さんの奥さんが来ていた。ということは、普通に考えたら……この女性は佐田さんの奥さん?!
「でしょう? 優秀な受付だったらそうすると思うの。仮に私が書類を持ってきたって言えば、お預かりしておきますねって対応をするかもしれない。夫が休みということは告げずにね。でも、お弁当だったらどう?」
目の前の女性が佐田の妻ではないかと思い始めた途端、もうなにも答えることができなくなった。幸い蛍がいるので、すずなは自分の発言権を全部放棄した。
「さすがにお弁当を預かるわけにはいかない。つまり、夫は会社に来ていないという事実を告げるしかない!」
「ご名答! それで、私は夫が有休で会社にいないことを確認して、お重をここで食べたの」
「お重にした理由はなんだったんですか?」
蛍が質問を繰り出す。すずなの口は真一文字に閉じたままだった。
「あの日はね、ちょうど私たちがお見合いした日だったの。三十年以上前ね。振袖を着て、どういうわけか分からないけど公園で親に持たされたお重を二人で食べたりして。だから、同じようにして見たの。振袖を着るわけにはいかないから留袖で」
かつてお重を共につついた関係も、三十年後には一人で味わうことになろうとは……。だけど、あの日見た女性に悲壮感はなかった。乾杯を繰り出すくらいだから、すでに吹っ切れていたのだろう。悩みに悩み抜いた末に、会社にお重を持って乗り込んだと思うと、賛辞や労いの言葉を贈りたくなった。
「お疲れ様でした、佐田さん」
すずなはあっと口を両手で抑えた。まだ女性が佐田の妻かどうかは不明なのに、うっかり口が滑った。だけどその直感は正しかったらしい。女性の瞳が一瞬見開かれたあと、すぐに元に戻った。
「ありがとう。やっぱり夫と同じ会社の方だったのね」
え、そうなの?! と蛍が両隣に向けて首を忙しそうに振った。
「ご存じだったんですか? 私が同じ会社だって」
「確証があったわけではないんだけれど、あの日、私が会社を出ようとしたときに、あなたともう一人の女性が出ていかれたと思うの」
「私、春山すずなと言います。佐田課長の直属の部下でお世話になっておりますが、決して課長の味方というわけではありませんので」
立ち上がって頭を下げた。おべんちゃらではなく本心を伝えたものの、信じてもらえるかは分からない。ただ、信じてもらえたらいいなと強く願った。
「ありがとう、すずなさん。私は佐田恭子です。よかったらこれからは恭子と呼んでください。それに……」
恭子が突然口籠り、視線を落とした。
「恭子さん?」
すずなと蛍の声が揃う。恭子がぱっと顔を上げた。
「直に佐田ではなくなると思います」
秋晴れにふさわしい、爽快感のあるすっきりとした笑顔がそこにはあった。
週末、すずなは蛍を連れて会社の前の公園にやってきた。休みの日に会社の近くに行くのは避けたかったが、あのスペイン料理のためならそうも言ってられなかった。
すずなと蛍の手には、それぞれ入ったビニールの手提げ袋が握られている。もちんろん中味はランチボックスだ。
「へーこんな公園が会社の前にあるのね」
「結構いいでしょ。あ、あそこのベンチが空いてる!」
すずなはたまたま一つ空いていたベンチに向かって走り出した。
「蛍、はやくはやく!」
ベンチに腰を下ろして、手招きする。
「すずな、ベンチは逃げないから」
「そうだけど、無くなる可能性はあるでしょ」
「そういうときのために、敷物持ってきてるから」
蛍が肩にかけていたトートバッグからさっとレジャーシートを取り出した。
「やだ、惚れちゃう」
すずなは、わざと口を両手で隠した。
「さぁ、食べよ食べよ」
蛍が腰掛けると、二人は膝にランチボックスを置いた。蓋を開くと、スペイン国旗のついた爪楊枝が目についた。今日のメニューはイカリングを挟んだボカディージョ、定番のトルティージャとアンチョビ入りオリーブ、ガスパチョの代わりはチョリソと豆の煮込み。
「いただきます!」
手を合わせて、二人で声を揃える。
スペイン国旗でオリーブを突き刺し、口に運んだすずなは片手を頬に当てた。
「本当に美味しい」
蛍がボカディージョを一口分胃袋へ送り込んだあと感想を漏らした。誰かに伝えようとしたわけでもなく、心の声が自然と出てきたようで、すずなは胸の内でガッツポーズを繰り出した。
「この豆とチョリソーも食べてみて」
すずなが蛍に煮込みを勧めたとき、蛍の前で女性が歩みを止めた。蛍の隣にある一人分程度のスペースが気になっているようだった。周りを見ると、どこもベンチは完売御礼。蛍の右側だけが微妙に空いている。
「……あの、ここに座らせて頂いてもいいですか?」
女性がおずおずと話しかけてきた。蛍がどうぞどうぞと手で示した。女性が笑みをこぼした瞬間、すずなと目が合った。お互いに、あっという顔をする。
この間の和服の女性だ!
「あら、前に……」
女性が口に手をやった。すずなは女性をまじまじと見た。よくぞ彼女が例の女性と同一人物だと気がついたものだと自分で感心する。それくらい女性の雰囲気は以前とは違っていた。まず、前回は和服に後ろで黒髪をまとめた古風なスタイル。それが、今日は黒のタートルネックに白のパンツという洋風スタイル。おまけに髪は顎のラインに合わせて短く切られており、髪色は茶色だった。
「知り合い?」
蛍がすずなに問いかけてきた。
「そう、前に私が初めてこのランチボックスを食べたときに、向かいのベンチに座ってた方なの」
あぁと蛍が手を打った。
「あなたが食べてらしたお弁当が気になってどうしても食べたくなっちゃって。ようやく買いに来られたの」
女性が顔にかかった髪を払いながら、ベンチに腰を下ろした。無駄のない動きでランチボックスを膝の上に乗せると、両手を合わせる。粗方食べ終えたすずなは、女性をじっと観察することにした。
目を大きくしたり、閉じてみたり、頬に手を当てたり。
女性は、くるくる表情を変えながら料理を平らげいく。お重をつついていたときと同様見事な食べっぷりだ。
ふうと女性が一息ついた。すずなの視線に気がついたのか、
「これは何度でも買いたくなるわね」
と、微笑んだ。
「あの……ものすごく気になってたんですけど、あの日、私に向かって乾杯ってしませんでした?」
一瞬間が開いたあと、そうそう、そうだったわねと言って女性が頷く。
「その理由をお伺いしても?」
すずなはおずおずと尋ねた。
「……あの日はね、私が自分の進む道を決めた日だったの」
女性は空を見上げた。しばらくの間誰も話さなかった。女性が再び口を開いた。
「恥ずかしながら夫との関係があまり良くなくてね。夫は口を開けば嫌味ばかり。私もそれを聞くのが嫌だから夫と極力関わらないようにして。ここ数年は娘からは早く離婚したらいいのにって言われるくらい。だけど、決定打も勇気もなかったの」
女性と視線が重なった。目尻は下がり、口角は上がっているのにどこか哀しげだった。
「でもね、最近夫が久しぶりに女遊びをし始めたみたいなの。分かりやすいのよ、携帯を肌身離さず持ってたり、帰宅時間が遅くなったりね」
女性が口に手を当て、くすくすと笑う。とても一緒に笑う気にはなれなかった。気丈な振る舞いの裏に女性の悲痛な思いが感じられて、胸が苦しくなる。
「そのうち休日出勤なんて言い出すんじゃないかと思っていたら、まさにドンピシャ。本当に休日出勤が増え始めたの。色々探りつつ様子を窺っていたら、ついに土曜日の朝から月曜日まで出張だって。だから重い腰を上げて私は動くことにしたの」
「動くとは?」
すずなが聞くよりも先に蛍が合いの手を入れた。
「月曜日に夫の会社に行ったの。本当に出張なのかどうか確かめに」
「教えてくれるものですか?」
「だからね、受付でお弁当を届けに来たんですって言ったの」
「お弁当っていうのはもしかして?」
ピンときて、すずなは人差し指を上に上げた。
「そう。例のお重」
「どうしてお重にしたんですか?」
「それにはまた別の理由があるんだけれど、とにかく生物、食べ物であることが大事だったの。もしあなたたちが受付で、ある男性社員が休みのときに妻が来たらどうする?」
すずなと蛍は顔を見合わせた。先に口を開いたのは蛍だった。
「旦那の有休を知らない妻ってことですよね。不穏な感じしかしませんね。極力、休みってことは伝えずに済む対応を取ると思います」
そうそう、私も同意見———と頷いていたら、頭の中の引き出しが勝手に開いて、総務の官能評価室での結愛の発言が再生された。
———佐田さんが有休のときに、奥さんが会社に来たらしいんですよ。お弁当を届けに来たんですけどって。
ちょっと待って。目の前の女性がお重を食べていたのは、佐田さんが有休のとき。その日、会社にはお弁当を持った佐田さんの奥さんが来ていた。ということは、普通に考えたら……この女性は佐田さんの奥さん?!
「でしょう? 優秀な受付だったらそうすると思うの。仮に私が書類を持ってきたって言えば、お預かりしておきますねって対応をするかもしれない。夫が休みということは告げずにね。でも、お弁当だったらどう?」
目の前の女性が佐田の妻ではないかと思い始めた途端、もうなにも答えることができなくなった。幸い蛍がいるので、すずなは自分の発言権を全部放棄した。
「さすがにお弁当を預かるわけにはいかない。つまり、夫は会社に来ていないという事実を告げるしかない!」
「ご名答! それで、私は夫が有休で会社にいないことを確認して、お重をここで食べたの」
「お重にした理由はなんだったんですか?」
蛍が質問を繰り出す。すずなの口は真一文字に閉じたままだった。
「あの日はね、ちょうど私たちがお見合いした日だったの。三十年以上前ね。振袖を着て、どういうわけか分からないけど公園で親に持たされたお重を二人で食べたりして。だから、同じようにして見たの。振袖を着るわけにはいかないから留袖で」
かつてお重を共につついた関係も、三十年後には一人で味わうことになろうとは……。だけど、あの日見た女性に悲壮感はなかった。乾杯を繰り出すくらいだから、すでに吹っ切れていたのだろう。悩みに悩み抜いた末に、会社にお重を持って乗り込んだと思うと、賛辞や労いの言葉を贈りたくなった。
「お疲れ様でした、佐田さん」
すずなはあっと口を両手で抑えた。まだ女性が佐田の妻かどうかは不明なのに、うっかり口が滑った。だけどその直感は正しかったらしい。女性の瞳が一瞬見開かれたあと、すぐに元に戻った。
「ありがとう。やっぱり夫と同じ会社の方だったのね」
え、そうなの?! と蛍が両隣に向けて首を忙しそうに振った。
「ご存じだったんですか? 私が同じ会社だって」
「確証があったわけではないんだけれど、あの日、私が会社を出ようとしたときに、あなたともう一人の女性が出ていかれたと思うの」
「私、春山すずなと言います。佐田課長の直属の部下でお世話になっておりますが、決して課長の味方というわけではありませんので」
立ち上がって頭を下げた。おべんちゃらではなく本心を伝えたものの、信じてもらえるかは分からない。ただ、信じてもらえたらいいなと強く願った。
「ありがとう、すずなさん。私は佐田恭子です。よかったらこれからは恭子と呼んでください。それに……」
恭子が突然口籠り、視線を落とした。
「恭子さん?」
すずなと蛍の声が揃う。恭子がぱっと顔を上げた。
「直に佐田ではなくなると思います」
秋晴れにふさわしい、爽快感のあるすっきりとした笑顔がそこにはあった。