三つのお題「ふくろう・木の棒・マント」を見たとき、危うく有名魔法学校をテーマにしそうになったりもしたが、流石に、と思い時間内にファンタジー要素のかけらもない重たい文章を書いていた。
そして二十分後、ショートショートを書き終え、僕は机に突っ伏した。
動画サブスクアプリを開き、犬尾三郷の名前を検索マークの横に打ち込む。何十個もの作品の中、一番上に出てきた映画をクリックする。
それは彼女のデビュー作である映画『夢のかけらを数える』であり、評価は☆四・七/五で多くの人々から絶賛されているようだった。
ざっと口コミを眺めたが、そちらも温かい言葉で溢れている。
『なんか分からない、言葉にできないけどけどめちゃくちゃ引き込まれた』
『主演の犬尾三郷って子可愛すぎる』
『犬尾三郷のデビュー作だから観にきたけど、デビューの時から完成度高すぎる……演技うますぎるだろ』
ネタバレがあったら嫌なのである程度で切り上げ、再生ボタンをタップする。ここまで絶賛されている作品だと、ほんの少しだが挑戦的な目線で観てしまう。
でも。
観始めた途端、言い表すことのできない引力で、集中力と精神が引き込まれるのが分かった。
彼女の動きと声に全神経が注ぎ込まれ、気づいた時には、映画が終わっていた。
息が浅くなっていたことに気づき、小さく咳き込む。この感覚だ。本当に面白い作品に触れた時に湧き上がる高揚感。飯塚さんが言っていたのはこれだ。忘れていた。
気持ちを高揚させてくれる作品を観た後は、自分もこんな作品を作りたいと思わせてくれる。創作へのモチベーションをそれだけで上げてくれる。
続けておすすめ欄に出てきた『サマーナイト』という映画を再生する。続きもののアニメで我慢できず次の話を観てしまうことは多々あるが、映画で時間を考えず連続で観てしまうのは初めてだ。相当、心を動かされた。
その映画で、彼女は都会の喧騒から離れた島に住んでいる少女を演じていた。夏休みの間だけ島に滞在することになった主人公と仲良くなり、主人公が夜に彼女を外に連れ出してサプライズをする時のシーンが流れた時もまた、僕は彼女の演技に心酔させられた。
夜の高架下、徐々に明かりが少なくなる道。主人公が一番暗い場所で立ち止まり彼女の方を振り向いた瞬間、微かに彼女の表情の中から不安がこぼれる。彼女のほっぺの僅かな引き攣りと、瞳の奥のゆらめきがそれを表現する。
そして、しばらく二人が対峙している間に、足がほんの少し動く。おそらく主人公が目的地を言わないままその場まで連れてきたことに対する疑念が本能的に行動として現れた、と、観ている僕に理解させる。そして主人公が微笑んだ瞬間、辺りに光が灯り、これが彼女へのサプライズだったと知る。光がさした彼女の表情には、安堵とそれを超える驚きが広がっており、眉の形が穏やかさと目の開き具合によってそれが表現される。そして、徐々に口角が上がり、目尻が下がり、喜びへと感情が移動していくのが伝わってくる。
彼女の動きを実際に真横で見ているように感じるほど真剣に見ていた僕は、映像の中の世界に取り込まれ、無意識のうちに口が半開きになってしまっていた。無様にも涎が垂れそうになる瞬間まで、僕は食い入るように画面を凝視していた。
観終わった後、ネットで題名を調べさらに度肝を抜かれる。今観た『サマーナイト』という作品は、三郷さんが演じた二作目の作品だった。
二作目でここまでできるものなのか。
一作目だって演技のレベルは十分すぎるほど高かった。初作品だとは思えないレベルだ。けど、そこからこんなにも上手くなるのだろうか。
内容にも左右されるとはいえ、彼女の出ている場面、決め台詞のあるカット、その全てで心に直接映像を彫り込まれるみたいな、直接頭を殴られるような、そんな衝撃があった。一作目の比じゃなかった。
なるほど、一作目で圧倒的な評価を受けた場合、次以降の作品への評価が厳しくなることはよくある。だが、この作品であれば文句を言う人は一人もいないだろう。そう思わせてくれる作品だった。実際、二作目の口コミも、優しい言葉で溢れていた。
もう一度、高架下での彼女の表情を思い出す。
テレビに出ている人は、笑い方や表情の作り方を鏡の前で練習している。そんなことはいろんなところで言われていることだろうし、何度も聞いたことがある。
ただ、だからと言って、ここまで顔全体のパーツを自在に操ることができるのだろうか。
彼女は何を考えて、表情や筋肉を動かしているのだろうか。その映画の原作となった小説を読み、台本を読み込んだ後、そこからどんな要素を自分の中へと取り込んで、それをどんな思考で体の動きへと昇華しているのだろうか。
そんな思いを心に抱えながらアプリを閉じ、そのままの流れで今回は躊躇うこともなく三郷さんに連絡していた。
久しぶりの大学構内、食堂に向かいながら僕は心が落ち着かなかった。
集合場所をここに指定された時、三郷さんが大学にいたら、気づいた人に騒がれるのではないかと聞いたが、彼女によると問題ないとのことだった。
とはいえ感度の高い人間の多い学校だ。本当に大丈夫かとハラハラしていた。だが僕の些細な心配は杞憂だったらしく。
「大丈夫、っぽさを消すのも演技のうちなので」
そんな彼女の心強い言葉通り、三郷さんが先に来ているという学食に行っても彼女の姿はすぐに見つけられなかった。なるほどこれは、事前に三郷さんがいるという情報と、窓際に座っているというメッセージがなければ気づけない。
「お待たせ」
声をかけると、周りの大学生に上手く溶け込んでいた彼女が顔を上げる。前髪を下ろし、眼鏡をかけた彼女は確かに、女優っぽさがなかった。普段のオーラを消している。
「久しぶりにF食来た」
この大学には二つの食堂があり、それぞれA食、F食と食堂が入っている棟の名前をつけて呼ばれていた。彼女が食堂の名前を把握していたことで、大学に通っていることを再確認させられる。
「本当にここの学生なんだ」
「そうよ」
「全然知らなかった」
噂さえも流れていなかった。
「まあ、人数も多いし、私基本的に出席必要ない授業だけ受けさせてもらってるから」
「そのあたり緩いもんね、この大学」
「そうなの、助かってる……って言っても単位足りてないけど」
僕だって、この大学を選んだ一つの理由として、執筆作業が捗るということがあった。
「僕も同じ――あ、ちょっと待ってて」
彼女の前にコップが置いてあるのに気づき、僕もお茶を汲みに行く。学食のいいところだ。飲み物は無限にある。
戻り、座ると彼女は黙って僕を見つめる。そこには言葉を待つような雰囲気があった。その空気に押されるように、声を出す。
「先に謝らないといけないことがあります」
「お、なんだ」
「友達にエッセイの話をしてしまいました」
三郷さんは僕の言葉を受け、くく、と首をかしげる。
「ん? 私がカオリくんに依頼したことくらい、別に言ってはいけないとかないよ……? そりゃ、世間に伝わって勝手にニュースとかになっちゃったら困るけど」
「いや、違うんだ」
「どう違う?」
「その友達に、僕の代わりにエッセイを書いてほしいって言ったんだ」
僕の告白に三郷さんは特にプラスもマイナスの感情も見せず、しばらく黙った後「そうなんだ」と呟く。
「勝手にごめんなさい。寿命、の話とかはしてないけど、でも三郷さんに確認もせずにごめん」
「誰に話したの?」
「日留賀ユタカって知ってる? 『紅いカラス』とかの作者」
「知ってる」
その相槌を受け、心の奥で何かが滑落した気持ちになる。けど、この落胆は意味のないものだし、そもそもこんなところで落胆しているからだめなんだと思い、僕はそっかと笑う。僕のことを知っているなら、ユタカのことも知っていて当然だ。
「信用してるんだ、その人のこと」
「うん、同じ新人賞でデビューして、僕の唯一の作家仲間」
「それで? なんて言ってた? そのお友達」
「できないって」
それだけ聞くとちょっと失礼にも聞こえかねないから「ユタカめっちゃ忙しいから」なんてフォローになってるのかよく分からないことを言う。
三郷さんは、少しの間何かを考えるそぶりをし、口を開いた。
「カオリくん、何か勘違いしてない?」
ほんの少し、声に苛立ちのような感情が混じっているように感じた。
「して……ないとは言えないけど、勘違いって?」
「私が、どうしてエッセイを書いてほしいってカオリくんに依頼してるのか」
僕は首を振る。分かっていない。僕に書いて欲しい理由なんて思いつかない。
直接聞ける状況を彼女が作ってくれているとはいえ、やっぱり怖いので、遠いところから聞いていく。
「そもそも、どうしてエッセイ書こうと思ったの」
答えのある問いだと思っていたから、すぐに返答があると予想していたのに、聞くと、彼女はなぜかしばらく口を噤んで考えていた。そして数秒後。
「……やっぱり、この世の中まで残るのって、エンタメだと思うの。歴史だって、神話だってエンタメ的な物語があるから受け継がれる。映画、ドラマ、アニメ、本、ファッション、写真集、画集いろいろあるけど、私はその中に私の存在を残したいの。エンタメが一番人の感情を動かすと思うから。人は、心を動かされた作品のことをを忘れないでしょ。忘れられないことが私の夢だから、残したいの」
三郷さんは湯気の出ているお茶を一口飲む。
エンタメ作品が一番人の感情を動かすという考えには、大いに賛同する。小説家になろうと僕に思わせてくたのも、面白い小説に出会ったからだ。
犬尾三郷は、映画、ドラマ、アニメの声優、写真集など、数えきれないほどの作品を出している。確か、なにかのイベントの時に絵を描いていた記憶もある。多才で羨ましいことこの上ないが、それは置いておくとして、だから次は、本ということだろうか。
「あとこれはシンプルだけど、私が本を好きだから、というのもある。本に支えられてきた人生だから。最期はやっぱり、好きなものに囲まれて締めたいじゃない」
和食料理店で彼女が口にした言葉と同じことなのだろうか。あれにそんな意図が隠されていたとは思いたくないけど。
ユタカとの会話を思い出す。三郷さんが本当の意味で小説を好きだという話。あれはどういう意味だったのだろうか。ユタカには何か分かっているのだろうか。
残された時間を彼女の生業である演技に使うのではなく、エッセイのためにつぎ込むという価値観が正しいのかは分からないが、三郷さんが言うと、やはり納得してしまう。
「世間から見てもう十分夢が叶っていると言われてしまうのは理解できる」
言われてしまう――つまり、彼女はそう言われるのは心外だと思っているということだ。その評価に彼女は満足していない。犬尾三郷にとって、人気の女優でいることは、忘れられない、の過程でしかないのだろう。
「確かに人気になれた。いっぱい評価もされたよ。でも、『忘れられない』ためには私には時間が足りないの。だから、できるだけ私を残したい。私自身を、この世界に残しておきたいの。もし時間があるなら、もっともっと作品に出演して、いろんなことを経験できる。露出回数が増えて、みんなの記憶に私が刷り込まれていく」
でもね、もうそんな時間はもう残されていないの。もどかしそうにそう言う彼女は、儚く、でもやはり美しく微笑む。
危うく、心が持っていかれるところだった。何も考えず彼女からの依頼を受け入れてしまいそうになる。けど、ちゃんと考えなくてはならない。彼女の覚悟と渡り合うには、流された決断ではいけない。彼女が覚悟を持っているからこそ、きちんと考えなくてはならない。
「だからね、私を文章の中に残してよ。私の思考を、エッセイの中に閉じ込めてほしいの」
ユタカの声が再び頭の中に流れる。
――実写化する時、絶対主演犬尾三郷だろ
ユタカ、そうじゃないんだ。三郷さんはいなくなる。死ぬんだ。
僕が彼女をエッセイの中で描いたとして、それで終わりなんだ。
彼女は死ぬ。だから最後にエッセイを残すのだ。
「でも」
最後の作品だからこそ、僕が書いてしまったら。
その先のことを想像し、やっぱり怖いと思ってしまう。
非難する言葉、低評価がたくさんついた作品レビューが頭から離れてくれない。
何者でもない僕が彼女の作品を作ったら、彼女の魅力を殺すことになってしまう。
そんなプレッシャー、耐えられるわけがない。
「やっぱり分かってない」
彼女は細い指でコップの淵をなぞりながら、呆れたようにため息をつく。それを見て、胸の奥に嫌な靄が広がる。
「私はさ、有名な小説家に書いて欲しいんじゃない」
そして彼女が、コップから手を離し、僕の顔を指差す。その小さな動きでさえ、映画のワンシーンようだった。
「私は、水間カオリくん――君に書いて欲しいの」
「なんで」
どうして。
どうして三郷さんは僕にこだわるのだろうか。真っ直ぐ言われ、ずっと聞けなかった疑問が口をつく。
僕の言葉に、彼女がは何かを慈しむような表情になる。
「感情を動かされた作品があるの」
その語り口に僕は耳を傾ける。
「スカウトされて事務所に所属した後しばらく、私は名前のある役を任せてもらえなかったの。そりゃそうだよね、演技も上手くない私に重要な役なんか回ってこない。そんなことは初めから分かってたんだけど、毎週のようにレッスンを受けて、オーディションに落とされ続けるのは本当に苦しかった。オーディションに落とされるたびに、私の人格が否定された気になって、しかも、そんなこと思ってはいけないっていう自分の気持ちにも押しつぶされそうになって」
その気持ちは痛いほどよく分かった。
小説の賞に応募して、選考結果の一覧に自分のペンネームが載っていなかった時の絶望を思い出す。
「正しい演技が分からなくなって、台本を読んでも体をどう動かしたらいいのか、どんな表情で歩けばいいのかが分からなくなるの。そんな状態で演技しても上手くいくはずもなくて、悪循環に陥っていた」
書きたいのに何も浮かばない時に身体中に広がる苦さみたいなものを想像する。あの時の吐き気を想像する。
「諦めようかと思った。スカウトされたと言っても、私に演技は向いてないんじゃないかってずっと悩んでいた。でもそんな時、一つの小説に出会ったの。オーディションの帰り、ふと立ち寄った本屋で、たまたま手に取った本、それがこの本」
なぜか彼女がカバンから取り出した小説は、僕がこの世で一番良く知っている小説だった。
「私の苦しさとか思考を全部理解してくれたように感じたの。その本を読んだ瞬間、犬尾三郷という人間が認められた気がした。オーディションに落ちたとしても、その本を持っているだけで安心できて、その結果レッスンにも、オーディションにも集中できた」
彼女の手の中で、その言葉に呼応するみたいにうさぎのイラストが光る。
「そのおかげで、映画の主役をもらえたの。だから、本当に私の人生を変えてくれた小説だと言っても過言じゃない。だから、エッセイを書くことを決めた時、私の中でお願いしたいと思えるのは一人しかいなかった。決まってたの」
三郷さんの色素の薄い双眸が目の前にある。透き通った彼女の声が、ゆっくりと僕の耳へと届く。
「だから君に頼んだんだよ、水間カオリくん」
その瞬間、体の中にぶわっと風が吹く。温かい春の風。まただ。天日干しした羽毛布団に全身を包まれたみたいな満足感。
そうだったのか。
そして、三郷さんの瞳が揺れていることに気づく。
「ほんとは怖いんだ。君のおかげでもう、私という存在に対する不安はない。大丈夫だって思てる。でも……だけど、もし死んでしまったとしたら、全てがなくなる気がして……」
僕は勘違いしていた。ストレスがないわけない。ずっと強いわけじゃない。犬尾三郷は、テレビや映画に映る才能に恵まれた大女優だと思っていた。
知っていたはずなのに。新人賞の最終選考発表直前、緊張で食べたもの全てを吐いてしまった人間を知っている。処女作の発売前夜ストレスで倒れ、目の前にある本を抱えたまま病院に運ばれた人間を知っている。その時の感情は忘れられない。
彼女も僕達と同じだ。
夢のような世界とは言われるが、人気がなくなったら終わりの芸能界で、何年もの間君臨し続けている彼女が感じるプレッシャーを思うと、こちらまで胃が痛くなる。
そんな彼女が、涙を浮かべながら、それでも前を向いて。
「余った時間を、すべて忘れられないことのために使うって決めたの。一回私の人生を救ってくれてるのに図々しいお願いだとは分かってる。だけど、お願い」
潤んだ目に強さを湛えて、とんでもないほど有名な彼女が、大したことのない小説家である僕に頭を下げる。
「だから……忘れられるのが怖い私をもう一度だけ助けてほしい」
天秤が動き出す音がする。
キャラが、とんでもなく確立している。どこかから、羽の音も聞こえる。いや、ずっと聞こえていた。聞こえないふりをしていた。
もう、彼女がどういう行動をするか、想像し始めてしまっている。
一生で一度のお願いだからじゃない。彼女が好きな女優だからじゃない。
こんなに僕のことを評価してくれて、人生が変わったと言ってくれて。
どうしようもなく、嬉しい。
上手く書けるのかどうか。低評価で溢れるかもしれない可能性。彼女の魅力を表現できなかった時のリスク。
それらは一旦全部置いておく。
少しの間、僕のために留まってくれていた天使の髪に触れる感覚があった。
「やるよ。書く」
彼女の気持ちを掴む。
大きく開かれた彼女の双眸が僕を捉える。その瞳に映る僕の目が、ほんの少し、光を持っているような気がした。
「ううん、書かせてほしい」
三郷さんのために、僕は。
書きたいものが見つかったかもしれない。
「ありがとう」
僕の回答を聞き、彼女は頬に一筋涙を流しながら微笑んだ。
その日僕は、もうすぐ死ぬ彼女に、今度はちゃんと心を持っていかれた。