会場に向かう長蛇の列が幾重にも折れ曲がっている。

 あの後三郷さんは、メッセージに続けてあるイベントのチケットを送ってきた。

 そのチケットは、本日開催されるガールズコレクションの招待券だった。

 最寄駅から会場へと向かう道は多くの人がごった返しており、歩いている人々は炎天下だというのに一様に幸せの籠った表情で会話している。

 会場へと入ると、さらに観客の熱気が加速し、落ち着きのないざわつきとなってあたりを包み込んでいた。

 正直、彼女から連絡が来たのにはおどろいたし、メッセージに書かれていた三郷さんの頼みというものがどういうものなのかは分からない。ただ、ガールズコレクションに招待してもらえるのは貴重な体験で、小説の勉強にもなるだろうと思ったので、純粋に楽しむつもりで来ていた。

 チケット記載の席にたどり着きしばらく待っていると、コレクションが始まる。

 観客の一体となった歓声の中、モデル、インフルエンサーたちがランウェイ上を闊歩する。たくさんの視線と光を集めた彼女たちの表情が、会場内に設置された大きなスクリーンに映し出される。

 目尻を下げて笑う女優に、真剣な表情でカメラに映るインフルエンサー、あえて観客を煽るような表情で微笑むモデル。

 さまざまな表情の連続の中、僕は共通点を見つける。みんな、目の中に強い光がある。

 純粋に、かっこいい、と思う。

 単純な感想だが、人の気持ちはやはり瞳に現れるのだと認識する。

 裏にどんな想いがこもっているかは知らない。知ることなんかできない。
 と、一際大きな歓声が響く。叫び声とも取れる観客の歓声の中、三郷さんがランウェイに現れる。彼女もまた、瞳の中に光を湛えていた。

 観客の中には、彼女が現れた瞬間泣き出す人もいた。多くの人の夢が詰まった会場で、彼女は、何を思って歩いているのだろう。僕に連絡し、この場所へと招待した彼女の意図が僕には分からない。

 いつか、分かる時が来るのだろうか。いつか僕も、あんなふうに目に光が灯るのだろうか。

 多くの人が憧れる、自分の夢まで到達できるだろうか。
 できていないから、飯塚さんを困らせている。できてないから、僕の小説は一刷で止まっている。そんな僕に対する彼女の頼みとはなんなのだろうか。





 コレクションが終わった後、観客とは逆方向に進んでいくと、そこには警備員が立っていた。

 不審者だと思われないか不安になりながら、事前に三郷さんから送られていた電子コードを見せると、警備員の女性は、慇懃とも思えるほど丁寧にお辞儀をしてくれる。どういう意味のあるコードなのだろうか。ひとまずよかった。

「ここに来るように指示されたのですが」

 むしろ普通にしている方がいいだろう、そう思い、早まる鼓動を抑えながらある部屋の名前を伝えると「それなら突き当たりを右に曲がって、階段を下りたたところにありますよ」とこれまた丁寧に教えてくれた。

 三郷さんからは心配しなくて大丈夫と言われていたが、いざ関係者以外立ち入り禁止のエリアへ足を踏み入れると心音が不協和音を奏で始める。

 それでも指示通り階段を下りていくと、その場所には一つの部屋があった。上の階の廊下を歩いている途中、モデルさんたちの名前が書かれたプレートのついた扉がいくつかあったが、この扉には何のプレートも付いていない。

 間違っていないだろうか。完全なアウェーで正解の分からない場所に来ている事実に、不安が募る。

 扉の横に電子キーの認証機があったため、三郷さんの指示通り『200331』と打ち込んで行く。解錠ボタンを押すと、ウィーという音とともに、鍵が開くのがわかった。

 後ろ手に鍵を閉めて中に入る。室内は電気がついていたが、地下だから少し薄暗く、静けさが満ちていた。ひとまず人目のつかないところまで来て、僕は大きく息を吐く。ホラー映画の主人公もこんな気持ちなのだろうか。

 部屋の中は片付いており、いくつかの木箱とマネキン、そして会議室にあるような長机と椅子が三脚並んでいた。

 机には、ヘッドホンとお茶のペットボトル、そしてケトルが乗っている。

 本当に入ってよかったんだろうか。あまりにも静かなせいで、胸の奥が不安定に揺れる。おそらく待合室のような場所なのだろう。だけど、先ほど通ってきた部屋と比べて、静謐さが段違いだった。

 三郷さんからの連絡がない限りどうしようもないので、僕は一つの椅子に座る。しばらくランウェイの余韻に浸っていると、鍵が開く音がして一瞬ヒヤッとしたが、ちゃんと三郷さんが現れる。笑顔と共に部屋に入ってきた彼女は、ニット素材のワンピースに着替えていた。ランウェイ用メイクの影響か、少し暗い部屋でも一層輝いて見える。

 直前までランウェイを歩いていた人に対する適切な出迎え方を持ち合わせていなかった僕は、ひとまず彼女に労いの言葉を送る。

「お疲れ様」
「ありがとう」

 心なしか彼女の顔が火照っている気がする。

 そりゃそうか、あれだけの人の前で歩いたのだ。いくら彼女とはいえ、重圧は計り知れないだろう。それに、ずっと照明に追われていたわけだ。

 何か感想を言った方がいいだろうか、僕が口を開こうとした時、誰かが三郷さんを呼ぶ声がした。

「三郷先輩?」

 その声に、背中が凍る。

 三郷さんに、隠れた方がいいか声を出さず顔で問おうとするが間に合わない。

 彼女はここに入ってから鍵を閉めていない。その扉から、一人の女性が現れた。その顔を見て、僕はちゃんと声を失う。

 ぴょこっと扉から顔を出したのは、本田陽(ほんだよう)だった。彼女も先ほどランウェイで歩いていた女性で、三郷さんと同じくらいの歓声と拍手を浴びていた。

 彼女のことは、モデル業界に疎い僕だって知っていた。新進気鋭のモデルで、本屋に行くと様々な雑誌の表紙で見かける。会場でモニターに映る本田陽を見た時も思ったが、実際彼女を見て最初に抱いた感想は、小さい、だった。顔が。何頭身なんだ。

 本田陽が甘えたような顔で入ってきたのも束の間、僕の姿を視界に捉えた瞬間、表情の警戒レベルが一気に引き上がったのが分かった。

「え、先輩が男といる」

 三郷さんはこの状況をどう捉えたのか。まずいんじゃないのか。僕は助けを求め、時に反応のない三郷さんの顔を見るが、彼女は落ち着き払っていた。その様子に、本田陽は少しトーンを落として三郷さんに聞く。

「え、これ私来たらだめなやつでした……?」

 その質問に、三郷さんは首を振る。

「ううん、大丈夫」
「あ、もしかして昨日の……?」
「そう。だから大丈夫」
「この人が!」
「そうなの、せっかくだし会ってもらおうと思ってたの」

 僕には理解できない会話が目の前で繰り広げられる。

 会ってもらおうと? 僕と本田陽が? 昨日どういう話をしてたんだ。

「そういうことか……びっくりした……」

 彼女の言葉を受け、本田陽は、目を細めて僕の方を見る。

 何を言われていたのかも気になるが、なぜか僕に向けられた彼女の視線の方が気になった。

「そうか、この人が……」

 そう言って本田陽は僕の方を睨んでいる。猫に睨まれたネズミの気分で僕は三郷さんに視線を戻す。気持ちを配慮してか、三郷さんは口を開いてくれた。

「紹介するね。こちら、本田陽ちゃん。さっきのランウェイにも出てたトップモデル」

 どんだけかっこいい紹介だ。その後に紹介してもらう身にもなってほしい。

「はじめ……まして」

 僕の会釈に、陽は不服そうに頭を下げる。

「それで、こちらが」

 三郷さんが僕の方を手で示す。本田陽の紹介の後、僕はどう紹介されるんだろうか。そう思って断罪される人のような気持ちで待っていたら「私のビジネスパートナー」と意味の分からないことを三郷さんが口にした。

「は?」

 僕の声と本田陽の声が重なる。

「水間カオリくん、彼に私の本を執筆してもらおうと思うの。いいアイデアでしょ?」

 その言葉を聞いた途端、本田陽は何かを理解したのか、頭を抱える。

「……また先輩、そうやって思いつきで」

 また僕だけついていけていない。

「だって時間は有限じゃない」
「いや……もう……その理論で全て片付けるのずるいですって」
「えへへ」

 なんの話だ。僕の話のはずなのに、なぜか僕のことだけ置いて話が進む。

「まあ。三郷さんのそういうところが尊敬できるし好きなんですけど……」
「ありがと。そう言ってくれると思った」

 本田陽の呆れが混じった褒め言葉に対し、三郷さんは気まぐれな猫をあやすようにお礼を言う。

「……けど」

 本田陽の警戒しているような視線がまた僕を貫く。耐えられなくなった僕は、一旦話に追いつこうと、訊く。

「えっと、まず訊きたいんだけど……本を執筆ってどういうこと」
「カオリくんに私の本を書いてもらおうかと思って」
「どういうこと?」

 決まりきったことのように言い切る彼女。僕は首を曲げる。美里さんは、私の本を書いてもらうと言った。小説のゴーストライターかなんかだろうか。

 二人で合作でもするということだろうか、それとも、三郷さんも小説を書き、僕も小説を書いてアンソロジー的にまとめるということだろうか。そもそも三郷さんは本を書けるのか。

「私を題材とした……エッセイ? を書いてほしいの」

 エッセイか。その言葉を聞き、ひとまず状況を理解する。エッセイか。僕の小説の出版社からも、有名人のエッセイは出ているし、文章を書くのは実際の作家に頼むことがある、というのも聞いたことがある。とはいえ。

「テーマ:私で、作:水間カオリのエッセイを出すの。素敵じゃない?」

 ということは、三郷さんの日常やその時思考していることを、僕の言葉で綴るということだろうか。

 さらに質問しようと思ったが、横に立っている本田陽の顔がどんどん険しくなっているのを見て我に返る。今はこの場の空気を対処するほうが重要だ。

 余裕そうに見えた三郷さんも同じことを思ったらしい。

「まあ、細かいことは後で説明するから」

 僕が気負いすることなく三郷さんに話しているのが気に食わないのか、本田陽が苛立ちを含んだ声で呟く。

「なんで」

 続く言葉は、三郷さんと親しそうに……だろうか。

「それよりも、陽ちゃん、お疲れ様、めちゃくちゃかっこよかった」
「三郷先輩もめちゃくちゃ可愛かったです!」

 三郷さんの言葉に、本田陽はぱあっと顔を明るくさせる。その表情のみを切り取ると、さっきランウェイでカメラに写った瞬間の笑顔そのものだったが、彼女は僕の方を再度見て、毛が逆立った猫のようになる。

「仲良くしてね」

 その様子を見た三郷さんは何食わぬ顔で僕達にそう言う。いや、絶対無理だろ。
 それになんだ、犬尾三郷のエッセイ執筆って。





「うああぁあ」

 足のツボを強い力で押され、思わず情けない声が出る。
 柑橘系の香りが漂う部屋で、僕はなぜかマッサージを受けていた。足ツボを押してくれている女性は、無表情で手に力をこめている。

「あはははは」

 横から愉快そうに笑う声が聞こえてくる。

 小さな個室の中、カーテンを一枚挟んだ隣には犬尾三郷がいる。彼女は笑い声さえも透き通っていた。その声を聞いて、ほんの少し足の痛みが和らいだ気さえする。

 エッセイの話を聞きたかったが、二日目もあるコレクションのコンディションのため、三郷さんがボディーメンテナンスをしたいと言ってマッサージに連れて来られた。そして気づけばなぜか僕も一緒に施術されることになっていた。

 これじゃ、落ち着いてさっきの話なんかできない。

「いつもパソコンに向かってるから体凝ってるんじゃないの。運動とかしてないんじゃない?」

 そういえば、高校を卒業して以来、運動という運動をしていない。強いて言えば、洗濯物を積んでコインランドリーに自転車を走らせる時くらい。

「いつもこんなマッサージ受けてるの?」

 歯を食いしばりながら彼女に質問する。

「いつもじゃないけど、筋肉酷使した日は、こうやってほぐすことにしてるの」

 マッサージチェアの横に置かれたサイドテーブルには高級そうなアロマが焚かれている。月額料金をすでに払っているからお金は必要ないと言われたが、単発で施術してもらったら一体どのくらいの値段なのだろうか。

「後は、撮影とかで忙しかったら毎日のストレッチじゃ身体ほぐしきれないから、休みの日とかもたまに、ね」

 それを聞きながら思う。彼女に本当の休日なんてものは存在しないのかもしれない。高校在学中に芸能活動をスタートし、今ではテレビやCM、映画、雑誌撮影に引っ張りだこの彼女だ。年に休みが何日あるのかも分からない。その休日でさえ、身体のメンテナンスに時間を使っているだなんて。

「メンテナンスは他になにがあるの」
「水泳とピラティス、ジム、溶岩ヨガとかかな」
「そんなにやってたら気が休まらないんじゃないの」

 その言葉を、口に出してから後悔する。

「まあ、私には休んでる時間なんてないしね」

 僕と同い年で、芸能人生を考えると後何十年もあるはずなのに、彼女は至極当然のようにそう言う。その世界で生き残るためにはそれくらいの気持ちでいないといけないのだろうか。

 いずれにせよ、僕とは覚悟が違う。

 三郷さんが放った言葉は彼女にとって当たり前のことなのだろう。少しも迷いがなかった。だからこそ、それを聞いてる僕の心が不安定に揺れた。

 そんなつもりはないかもしれない。けど、彼女のその言葉はまるで「あなたには休んでいる時間があるのか?」という問いかけのように感じられた。「大した成功も収めていないのに、なんでいつまでも時間があるみたいな余裕をこいてるんだ」と言われたように感じ、正直、少しこたえた。

 彼女の覚悟に、本屋で考えないようにしたはずの、まだ自分が何者でもないという事実を突きつけられる。

 だから話を変えたかったのだけど、思いつく話題もなかったので、僕は会う前から気になっていた疑問をそのまま投げた。正直話を変えられているのかは分からない。

「コインランドリーで会った時の質問覚えてる?」
「悪魔と夢の話?」
「そう。三郷さん、夢の方を見せるって言って、僕を撮影現場に呼んだでしょ? あれは、どういうことだったのかなって」
「そっか、そろそろ話そうかさっきの話の続き。そろそろマッサージ終わるし」

 その言葉を合図にしたのか、力がおさまり、しばらくするとハーブティーが運ばれてくる。

 部屋にあった重厚な革製ソファにお互い座り、僕たちは対面する。

 ガウンに着替えた彼女は髪の毛をお団子にしていて、その無防備な姿は僕に余計な想像をさせた。その思考を断ち切るためにも、僕はコップの中にあるオーガニックな香りがする液体を飲んで精神を落ち着ける。食道からにじんわりと届く熱を感じていると、彼女が口を開く。

「さっきの話。お願いがあります。ちゃんと言えてなかった」

 改めて言われ、居住まいを正す。

 そんな僕の目を、彼女は大きく丸い目で見る。じいっと、まるで世紀の告白をするかのように。

「カオリくんに私のエッセイを書いてほしい」
「また……なんでエッセイ?」
「要は私の人生の軌跡、みたいなものを本として残したいの。」

 僕はエッセイを、どれだけ自分のことを肯定できる人が書くのだろうと思っていた。馬鹿にするとかではなく、僕にはできないと思っていた。でもそうか。彼女のような人間なら確かに。

「そのために本を書いてくれる人を探してて……カオリくんにお願いできないかなって」

 彼女が想像している完成物を正確に把握したわけでもない。けど、ご飯を食べた時に彼女が言っていたような、一生残る過去を本気で作ろうとしていることだけは理解した。

 彼女はこれまでエッセイを出してこなかった。だったら、それを心待ちにしているファンは多いはずだ。

 彼女の力を借りて本を生み出せるということが、僕の中で甘い蜜として煌めく。

 だが、その甘さを理解した上で、僕じゃない、そして今じゃないと思った。

 彼女の覚悟を目の当たりにして、格の違いを見せつけられた今じゃない。

 飯塚さんを幻滅させ、ユタカとのレベルの差を痛感し、そして彼女の言葉に打ちのめされた上で、任せてくれ、なんて口が裂けても言えるわけがない。

 適任ならもっと他にもいるはずだ。

「なんで……」

 僕に依頼するの、とは怖くて訊けない。

 三郷さんの様子を見る限り、軽いノリで頼んでいるようには見えない。だからこそ、わけが分からなかった。

 彼女の人生を描くエッセイの仕事を受けたいという作家はわんさかいるだろう。僕だって、ただ聞いたらそう思う人間の一人だ。たまたま知り合ったからといって、彼女が僕に小説の依頼をしてくるなんて、おかしい。はるか上空にいるはずの彼女が、下界にいる僕に頭を下げるなんて、辻褄が合わない。

「言ったでしょ。私には、休んでる時間なんてないの。幸運の女神の髪の毛は前髪だけっていう話、知ってる?」
「女神の髪の毛?」

 ファンシーなワードに思わず聞き返す。

「幸運は、私たちの方に向かってきた瞬間に掴まないと、それが幸運だって気づいた頃には掴める部分がないよ、みたいな話。だから、前髪だけ」

 聞いたことがない話だ。

「そう、私その話を心から信じてるの。これまでずっとその言葉を大事に生きてきて、そのおかげで上手くいったことも多いし、だからその考え方を大切にしてる」

 話題の可愛さに比べ、僕はその言葉をきちんと受け取った。ここまでさまざまな挑戦をし続けてきたのであろう彼女の言葉、重みしかない。

「だから、思ったら即行動するの。それで今も、こうやって頼んでる」

 言いたいことは分かる。けどそれは僕の質問に対する答えになっていない。僕も出版社にマネジメントしてもらっている身だ。彼女だって、事務所からなんらかの指示が出てるのかもしれない。でも、もし事務所から正式に話が来ているのなら、僕じゃなく出版社に話がいくはずだ。

 僕は飯塚さんから何も訊いていない。つまり、彼女は自分の意志で僕に直接依頼をしていることになる。

 恥ずかしい話だが、僕だったら僕にエッセイの執筆を頼むなんてことはしない。

 彼女が依頼相手として僕を選んだ理由は何一つわからないままだ。

「カオリくんにとっても無駄な時間にはさせないから」

 彼女の言葉の意味が分からないわけではない。

 彼女は恩着せがましくならないためか、オブラートに包んでいるが、僕から見たら、この依頼はとんでもないチャンスだ。

 彼女のような有名女優のエッセイを書けば、多くの人がそれを読むに決まっている。彼女という大きな広告塔が存在するだけで、何万人もの人がその作品を手に取るに違いない。しかも彼女は、僕の名前を出してエッセイを出版するつもりでいる。

 水間カオリという名前が知れ渡り、そうすれば、作品を映画にするという夢が叶うかもしれない。いや、犬尾三郷の影響力だ。それ以上、もっと先にある大きな夢に近づくことができるのは間違いない。

 でも、全部彼女におんぶに抱っこになる。僕がエッセイを執筆することは、彼女にとってなんのメリットにもならない。むしろ足枷だろう。

――もっと良い作家に頼めば良かったのに
――台無しにされてて犬尾三郷かわいそう
――完全に人選ミス

 書評サイトがそんなレビューで溢れかえるのが目に見えている。彼女に迷惑をかけてしまう。

 チャンスと、申し訳なさが、天秤の上で不安定に揺れている。

 そんな僕の心の中の葛藤を理解してか、彼女はさらに意志のこもった声で続けた。

「これはね、私の遺書みたいなものなの」
「イショ?」

 その聞きなれない単語に、すぐに漢字変換ができなかった。

「そう、遺書。もし私がいつか死んだとしても、それが残る限り私はいる。そこにいると思える。映像作品も同じ。私がここにいたんだっていう証明になるの」

 その考えは……分かる。ただ僕は、多分彼女とは違う感覚として捉えていた。

 だから毎回、新作を出す前日は胸がちぎれそうになる。世に一度出てしまったらその作品は残り続けてしまい、取り消せないから。

 残せる、と残ってしまう。その二つの間には、決して埋められない差がある。

「そうでしょ? 私たちエンタメを届ける人間は、世界に自分という存在を残していくものなんだから」

 言い切る彼女の瞳に、僕の目は釘付けにされる。

 なんだ、この目は。

 彼女の瞳は、何かと闘う時の前のような目に見えた。大きな敵が、自分の大切な人だと気づき、それでも立ち向かうことを決めたような、そんな暗くて強い瞳がそこにあった。その意志の籠った目を見て、僕は思案する。

 その先にあるものはなんなのだろうか。

 以前にもこの目を見たことがある。いつだろうか……そう過去を振り返り、すぐに思い当たる。小説新人賞授賞式での日留賀ユタカの目だ。


―――



 僕とユタカは同じタイミングで小説新人賞を受賞した。豪華な授賞式の後、それぞれ受賞者からの挨拶の時間があった。

 自分の受賞作に合わせてか、赤茶色の派手なスーツを着た日留賀ユタカは、大賞を獲った作品『紅いカラス』を手にしながら壇上に登り、そこで言い放った。

 僕は、誰にでも言えるような無難な挨拶を既に終え、壇上の彼を見ていたが、その彼の目は、自分が受賞をすることは、あくまで過程でしかないと、語っていた。

「時代を変えられるような――僕が死んだ後、その後の時代の人が……それはもちろんこの国だけじゃない、世界の人々が今の時代を振り返った時、日留賀ユタカなしじゃ小説やエンタメは語れない。そう言わざるを得ないような面白い小説を書きます」

 多くの有名作家たちが彼の挨拶を聞いていた。取材のためか、多くのカメラマンもいる。一足先に挨拶を終えて前の方で待機していた僕からは、壇上に注目する人たちがさまざまな表情をするのがよく見えた。

 面白いやつが出てきた、と期待する顔。数多の文豪の前で大口を叩いたことに驚く表情。生意気だと思ったのか、顔を顰める人もいる。そして、自分にはそれができないことに対する悔しさを隠そうとする様子も。

 僕がユタカに対して感じたのは、ある種の怖さだった。

 彼の目は、その時行われていた華やかな祝賀会なんて見ていなかった。その場には彼の好きな小説の著者だっていた。

 だが、彼が見ているのは昔から憧れていた作家たちのことでもない。挨拶を終えた僕や他の受賞者のことでもない。そんなものは彼の眼中には入っていなかった。

 夢。

 彼が見ていたのは、彼が追い求める「夢」たったそれだけだったからだ。

 それ以外は二の次だと、心から思っていることがその時の瞳から伝わった。


―――


 あの時のユタカの目と、今僕の前にいる三郷さんの目が全く同じ色を放っていて、僕は体の核のようなものが震えるのを感じた。その震えを抑えようと、唇を強く噛む。

「人気になること、じゃなくて、忘れられないことなの」

 意志のこもった目と同じか、それ以上の強い語り口で彼女は続ける。

「私が存在する間はもちろん、私がいなくなったとしても世間に私という存在が残り続けること――それが私の夢なの。そのためには、いくらあっても時間が足りない。今この瞬間どれだけ映画の主演をやっても、数十年経てば新しい女優に取って代わられて、忘れられる。分かるの。今まで何十人もそんな先輩を見てきたから」

 実際、そうなのだろう。

 彼女の言うことは間違っていないのかもしれない。けど、だったら。

「コインランドリーでの質問ね。人々に本当に忘れられない存在になれるのだったら、夢を選ぶ、だけど、数十年の命だけじゃそれは釣り合わないはずだと思うから、私は命を選んでそれを全て夢を叶えるために使うよ。ちょっとずるい回答になるけど」

 聡い彼女はちゃんと夢と釣り合う命の長さを考慮している。

 そして、彼女の言葉は奇しくも、ユタカが壇上で語った内容と似ていた。

「そのつもりでいるから、絶対カオリくんにも損させないようにする」

 その時、がたんと片方に天秤が傾ききった音が聞こえた。

 誰もが憧れる彼女は僕に彼女の覚悟を伝えることで依頼を受けることのメリットを感じさせようとしてくれたのかもしれない。けど、その言葉を聞いて、僕の中でのチャンスと迷惑の天秤が釣り合わなくなる。

 そんなにも人生を女優業に捧げている彼女のエッセイを、僕なんかが書くなんてできるわけがない。

「何そんな難しい顔してるの」

 彼女の細長い人差し指が、僕の額をつつく。その近すぎる距離感に心音が跳ね上がる。

 が、だからと言って。

「それにね、私、本当はね」

 脳内で、耳に届く三郷さんの言葉と、飯塚さんに言われた「全然面白くないです」の声が重なる。

 さっき本屋で見たポップ、レビューサイトでの僕の小説に対する言葉。

 昔、僕に届いた一通のファンレターと、何百件とある低評価の嵐。

 彼女はなにを言おうとしているのだろう。傾ききったはずの天秤が、ぎしぎしと軋む。だめだ、このまま彼女の強い思いを載せ続けたら壊れてしまう。心が折れてしまう。

 聞いてはいけない。なにを言われたとしても、彼女からの依頼を、僕が受けるのは間違っている。

 僕は首を振る。

「だめだ」

 元々釣り合いなんか取れるわけがなかったのだ。

 僕のような覚悟のない小説家が、多くの人から酷評を受ける小説家である僕がエッセイの執筆なんかして、彼女に迷惑をかけていいわけがない。

「僕にはできない」

 自分の作品さえろくに書けない僕に、彼女のための作品が作れるはずがない。そんな大役を僕が担っていいわけがない。多くの人が憧れる夢を叶えている彼女と横に並ぶ資格が僕にはない。

 小説を依頼するなら、もっと、適任がいるだろう。

 僕は彼女の手をどかして頭を下げる。

「ごめんなさい、僕はできない」

 その日の帰り道、僕の作品の低評価がさらに一つ増えていることに気がついた。