まだ暑さが残っているというのに、駅近くにあるカフェのテラス席には外国人観光客がたくさんいた。アイスカフェラテを飲みながら、僕はぼうっと彼らの様子を眺める。
僕は、数日の間に起こった出来事を振り返る。彼女の空気に飲まれ、ずっと落ち着いて思考できていなかった気がする。
どうして、自分がかの有名な犬尾三郷と話しているのか?
実際、この近くに住み始めた時は楽しみにしていたことだ。有名人が住んでいるといわれているこの街に住めば、もしかしたら誰かに出会えるかもしれないし、あわよくば知り合えてそこから仕事につながるのではないか、なんてことを空想したりもしていた。まだ、自分も有名人側に行けると信じていたからだ。
今までも、有名動画配信者や、人気歌手に一瞬すれ違ったりしたことはある。
だけど、見かけただけで会話したことはもちろんないし、まして、ご飯を食べるなんて。それがあの犬尾三郷だ。思わずにやけてしまう。
でも同時に、筋違いの危機感があった。
これで、終わりかもしれない。そんな危機感だ。胸の引っかき傷も、そこからきている。
一瞬、なにかの気まぐれでたまたま会話し、たまたま撮影を見て、たまたま一緒にご飯を食べただけで、別にここから何事もなかったかのような日常が続くのかもしれない。
新作のプロットに頭を悩ませ、コインランドリーに行くたびにそこにいない誰かを想像し、映画やドラマを見るたびに、昨日一昨日のことを思い出すような、そんな毎日が続いていくのかもしれない。そして、プロットも書けず、小説家ですらなくなってしまうかもしれない。
そんな情けない不安を抱えていたら、ポケットの中のスマホが震えた。
彼女からか、と心臓がはね、急いで画面を見ると、一つのメッセージが届いていた。
『調子はどうですか? 順調?』
三郷さんじゃない。担当編集者である飯塚さんだ。
全く順調ではない。次の会議で出せないと厳しい――そう言われてからも、進捗はゼロだった。
演者たちはどうして正解を見つけられるのだろう。どうして自分は面白いものを思いつかないんだろうか。
思考がどんどんマイナスに引き寄せられるのが分かり、自分が嫌になる。よくないことを考え出すと、タイミング悪くマイナスのものが引きつけられるんだろうか。
ため息をつき、スマホの電源ボタンで一旦画面を閉じる。返す気になれなかった。
まあ、カフェを出る前には返信するけど。
一週間後、僕は自宅最寄り駅と出版社最寄り駅の中心に位置する駅に来ていた。その駅構内にあるファミレスでの打ち合わせのためだ。
小説の打ち合わせは長引くことも多いので、ドリンクバーを利用可能なこの店で集合することが多かった。それに、周りにも勉強をしたり本を読んでいるお客さんが多いから、存分に資料を広げながら会話できるのだ。
とはいえ、最近はドリンクバーが必要となるほどの長い打ち合わせができていない。僕が面白いネタを考えてこないからだ。
今回も新たな長編小説のプロット出しをしてくる約束だった。
打ち合わせまでには間に合わせないとと思いいくつか考えてきたが、いい出来とは言えない。
大した武器も持ってないが、集合時間になったので僕はお店の扉を押し開ける。
待ち合わせであることを店員に伝えフロア内を見渡すと、パソコンで作業中の飯塚さんの姿があった。
「おはようございます」
近づき、邪魔にならないように小さな声をかけると、彼女は眠そうな表情でこちらを向いた。
「ああ、水間さん。おはようございます」
徹夜でもしていたのか、目元にはクマができている。
クマの下にはいつも通り灰色のマスクをしている。
「お疲れ様です」
以前マスクをしている理由を聞くと「夜中とか、風呂出た後に呼び出されることが多いから、マスクするのが癖になってんですよ」とちょっと怒気を込めた返答があった。僕達のための行動による弊害のため、頭が上がらない。
座った後、前作の売れ行きのことを訊くと、
「売れてないですね」
彼女は躊躇いもなくそう言い切った。無駄な気遣いの方がきついからありがたいのだけど、真っ直ぐそう言われると流石に落ち込む。
「そう……ですか」
「過去の話はいいんです。次の小説の話をしましょう」
そう明るく言い切った後、飯塚さんは「どうですか、その後」そう言って、疲れた目を孤にしながら手を差し出してくる。
飯塚さんは敏腕編集者らしく、有名作家の担当編集を並行して行っている。そんな中、僕のような売れない小説家を担当してくれている彼女の期待は答えたい。
一方で、最近全く描きたいものが見つからなくなってしまっているのも事実だ。
とはいえ、何か生み出さねばならないので、捻り出したプロットを書いてきたメモを渡す。
「これですねー、面白い小説のネタっていうのは」
「読みます」
といっても一つ四十行くらいの箇条書きメモが三つだけ。彼女は数分もかからないうちに内容を読み終えた。その顔が、どんどん曇っていくのが分かる。その表情の意図が汲み取れている僕は、恐る恐る確認する。
「どうですか」
「まずい、まずいですよ。全然面白くないです」
「ですよね」
分かっている。
「これ考えている時、心の中に震えるものありました? 一作目を書いている時以上の胸の高鳴りは? 胸の奥のどこかが熱をもつ感じしました?」
「いえ……」
次のネタが全く思い付かず、かといって打ち合わせの日程が近づいてきていたから無理やり捻出しただけだ。
彼女は何かを吐き出すように大きく深呼吸した。
「私、お世辞じゃなく、水間さんに期待してるんです」
飯塚さんは、いつものようにそう言ってくれる。けど、今回はその言葉にむしろ自分の心が追い込まれていく。壁際に押し込まれるようなイメージが頭の中に浮かぶ。
「一作目を呼んだ時、体に電流が走ったんです。これは面白いと思った。この作品を書く作家さんに会いたいと思った」
「それは……ありがたいですど……でも、そんなこと言ったって売れてないじゃないですか」
「売れるかどうかはやっぱり分からないところがありますから。でも、面白い前作よりも面白いものを出し続ければ、絶対いつか売れる」
つまりは、毎回、最新作が最高の出来でなければ、飯塚さんは本を出してくれない、ということだ。飯塚さんのスタンスは知っていた。敏腕だからこそ、妥協しない。してくれない。
「水間さんは絶対に、このまま書いていけば面白い作品を書ける。そんな作家です。だから考えてきてくだいよ。また新しいネタを持ってきてください」
「このままって……いつまでですか」
書きたいものが見つからないストレス、そして数日間心の中で自覚している危機感で、そんな言葉が口をついて出る。
小説家デビューしてから目立った売り上げも出すことができず、新刊を出すたびに発行部数が減っているのに、このまま書いていけば、なんて。
「面白い作品はいつになったら書けるんですか。毎日毎日――」
飯塚さんの目を見て、僕は言葉を止める。彼女は僕の情けない言葉を聞きながら、じっとこちらを見て黙っていた。
彼女は、他の有名作家の担当もしている。面白い作品は、他の作家がいくらでも書いている。面白いものを書けていない僕に期待する時間をそちらに当てたほうがいいのかもしれない。
彼女はそれでもこうやって、僕の次の作品のために時間を作ってくれているのだ。
面白い作品をいつ書けるかなんて、飯塚さんの台詞だ。
「いや……すみません。考え直してきます」
僕は言いかけた言葉を飲み込んで謝る。それは僕が飯塚さんに聞く言葉じゃない。答えなんてないし、飯塚さんを困らせるだけだ。
飯塚さんは悪くない。悪いのは、書きたいものを見つけられない僕だ。
素晴らしい作品を生み出せない、夢を掴めない僕が悪い。
「水間さん……最近、ワクワクする本読んだり、心動かされる映画とかエンタメに触れたりしてます?」
「……いえ」
「心震える出来事はありました?」
頭に一人の女性が浮かんだ気がしたが、首を横に振る。
「……ないです」
「だったら……新しいこと初めてみてはいかがですか? もしかしたら何か見つかるかもしれないですよ」
新しいことってなんだ。
「一緒にボイトレでもします? カラオケとかもストレス発散できますよ?」
「いや、それはいいです……僕がカラオケ苦手なの知っているでしょう」
苦手なものを挙げられ、僕はさらに首を振る。飯塚さんが暗い雰囲気を変えようと言ってくれたのは分かる。けど、そんな風に前向きにはなれない。
「すみません……もう少し考えてみます」
その日は結局なんの進展もなく、僕はファミレスの扉を閉めた。
帰りは数駅。すぐに最寄り駅につき家への帰宅中、スマホであるサイトを開く。多くの小説の試し読みができたり、それら作品に対する口コミの数々が集約されているサイトだ。
画面上部にある欄に『水間カオリ』と打ち込み、検索をする。駄目だと分かっていたけど、その手を止められなかった。
もしかしたら高評価が増えているかもしれない。そんな甘い考えで現れた画面――半年前に出版された新作本の口コミを開いたのがバカだった。
――全然面白くなかった。
――クライマックスの意味が分からなかった。ご都合主義すぎる。
――同じ小説新人賞で大賞を取った作者の新作が面白かったから買ってみたのに……残念。途中で読むのやめちゃった。
――新人賞も落ちたか。
――主人公の感情が違和感。読んだ時間返してほしい。
――時間を無駄にしたい人以外は読まない方がいい。
家に帰ってすぐ風呂に向かう。シャワーを頭からかぶりながら、頭の中で響く声が鳴り止むのを待つ。
しばらくして風呂から出ると、僕はベッド横の引き出しに入れてある手紙を取り出す。
そしてそれを持ったままベッドにダイブした。
僕に唯一届いたファンレターだ。
僕の処女作に対する思いが、万年筆で丁寧に綴られたその手紙。僕は苦しい時、いつもこのファンレターを読み返す。
何度も読んで縒れてしまったファンレターを、再度開く。
マス目なんてついていないのに、マス目があるかのように整った小さな文字。それを布団にくるまりながら読む。
『先生の小説が人生を変えてくれました。勇気をくれました』
今日もその優しい言葉を握りしめて、この苦しさが止むのをただずっと待っていた。
駅構内にある時計が、長針が12に合わさったことを示す鐘を鳴らす。
作家仲間とのご飯の約束は十八時半からだったが、駅に着いたのは集合の約三十分も前だった。平日だというのに、駅前には人が溢れている。見回すが、待ち合わせ相手は流石に来ていない。
プロットが一ミリも進まず諦めて早めに家を出たはいいものの、まだ時間がある。
辺りには、ゆっくりと座れそうなところはないし、正直人混みは好きじゃない。
結局、僕は仕方なく駅近の大手書店に足を踏み入れた。
本屋のクリアな空気を吸うと、いくらか気持ちが緩むのが分かる。
純文学のエリアを歩いていると、大きなサインが飾ってあった。僕はそのサインを見てすぐ、それが早瀬翔吾(はやせしょうご)のものだと気づく。その作家は僕が一番好きな小説家で、国内外問わずファンが多い作家でもあった。この書店でも何度もサイン会を開催しており、僕も学生の時からよくサインをもらいに来ていた。
彼の書く小説が大好きで、僕は小説家という仕事に魅力を感じたのだ。
とはいえ早瀬翔吾の最新刊は一ヶ月前に出版されたので、すでに読んでしまっている。だから僕は彼の小説を眺めながら書店の奥へと進んでいく。
目当ての本があるわけではない。ただ、僕の無意識は一つの本を探していて、だからか文芸のエリアに踏み込むと、その本はすぐに僕の目に入ってきた。
『『カラーシリーズ』第一作〜第三作全て映画化決定! 超人気天才作家による最新刊『黄緑がかった愛』』
そんな煽りポップを受けた小説が平置きされ、贅沢にも一つのワゴンが占領されていた。日留賀ユタカの新作本だ。その横には過去作も表紙が見えるように積み上がっている。彼の小説は装丁がカラフルなものが多いから、ワゴンの中もさまざまな色で鮮やかに見えた。
僕は少し迷い、スマホを開く。著作権の問題は、目的のためだけなら許されるだろう、そう思い、その様子をスマホに収める。
これから一緒にご飯を食べる予定である、この本の原作者に見せるためだ。
「すみません」
僕がワゴンの前にいると、横から声が聞こえ、スーツを着た男性がワゴンに手を伸ばした。並んだ本の前で立ち止まっている僕が邪魔だったのだろう。
「あ、すみません」
僕も謝り、少し横にずれてワゴンの前を開ける。スーツの彼は手に取った新刊の表紙をしばらく眺めていたが、小さく頷いてその本を持ったままその場を離れた。購入することを決めたらしい。
もう一度ワゴンに目を戻す。五×三で十五冊の表紙が見えていて、それぞれが六冊ずつ重なっている。単純計算で百冊ほどがこの場所にあることになる。
おそらくここだけでなく本棚にも並んでいるだろうから、入荷はさらに、だ。
昨今の本屋状況は知っている。だからこそこの状況の凄さが理解できる。本屋の仕入れ担当は、それだけの冊数を売り切ることができると信じているのだ。
そんなことを考えているうちにも一人、また一人とユタカの新刊に手を伸ばし、迷うことなくレジへと向かっていく。僕もその新刊に手を伸ばした。
見たところで後悔する、そんなことは分かっているのに、好奇心に負けてしまい、ユタカの新刊を開いた。
後ろの方に書いてある作品情報を開く。そこには、初めて出版された日付と、本が売れて再出版が決まった回数が日付と共に書かれている。
『二〇二五年六月一日 第一刷 発行
二〇二五年七月二日 第四刷 発行』
右側に書かれた日付は、一ヶ月前くらいだ。つまり、この短期間で、三度も重版されていることになる。
途端、喉の奥が少し乾く。そこでやめれば良いのに、僕は取った本の横に置かれていた彼の処女作である『紅いカラス』を開いた。同じように作品情報を。
一刷は三年前。同じタイミングで受賞しているからそれは知っている。
『二〇二五年七月一日 第三十五刷 発行』
重版が決定した時は、担当編集から連絡が来るらしい。僕が経験したことないそれを、彼は、一作目だけでさえ、三十四回も経験しているのか。
だから見るなって言ったのに。
僕は自戒の気持ちを込めて強く舌を噛んだあと、そっと小説を閉じ、その場から離れた。
本屋とは反対側、駅前にある居酒屋に現れた彼は、すでに秋の装いで、ニット帽に厚手のカーディガンを羽織っていた。しかも、黄緑色の。派手すぎるだろ。
店の中にいた数人が、入ってきた蛍光色を振り向く。いつもの光景だ。
「久しぶりだな」
彼の言う通り、ユタカと飲むのは四ヶ月ぶりだった。彼が執筆に忙しかったからだ。何作も連載を抱えている彼は、だいたい執筆に追われている。だからいつも、ご飯を食べる会は彼から連絡が来た時に予定を合わせて開いていた。
「コーン茶お願いします」
オーダーを聴きに来てくれた店員さんに、彼はメニューも見ずに伝える。
彼は、一滴もお酒を飲まない。コーン茶が好きすぎるのだ。大抵彼と会う時はこの店なのだが、その理由はコーン茶を提供しているという一点のみだ。
ユタカはいつもほんのちょっと変だ。だが、この変さがきちんと小説への想いに向けられているのを知っているから、僕は会うたびに感化される。何かしなければ、と思わせられる。
「ジャスミン茶で」
僕もノンアルを頼み、その後フードメニューを開ける。
「ユタカは焼き鳥、どれにする?」
この店の焼き鳥は王道から珍しい焼き鳥の部位まで数十個のメニューに分かれている。
「もも、ふりそで、ちょうちん、せぎも、あいだ、あとやげんで」
「オッケー」
聞き馴染みがないであろう部位の羅列に僕がすぐ頷いたのは、いつも彼が頼むメニューが変わらないからだ。「どれにする?」と聞きつつも記憶通りのものを頼むだろうことは分かっていた。それが面倒臭さからきているのではないということも、僕は知っている。
彼は好きなものを、心配になるくらいとことん好きになるだけだ。
だから僕は数種類の焼き鳥と、彼の健康を思って野菜串をオーダーする。オーダーを終えた頃、別の店員が飲み物を持ってきてくれた。
「乾杯」
甘辛さと香ばしい炭の混じった香りの焼き鳥が到着し、僕はこころの串を食べる。柔らかい肉と塩気が口の中に広がる。
「うま」
彼はいきなりレバーにかぶりつき、幸せそうに顔を綻ばせていた。その顔は、前に会った時より少し疲れているように見えた。
「新刊、また売れてるみたいだな」
さっき本屋で見た光景を浮かべて言う。
「ん、まあ少しは」
あれが少し、か。彼の言葉に嫌味が混じっていないことを理解するくらいの仲ではあるから、僕はシンプルに頷き、さっき撮っておいた写真を見せる。
「そうか、こんな風にしてくれてるんだ。最近ずっと籠ってたから行けてなかった。さんきゅ」
彼は同時期に数作の依頼を受けているから、いつも忙しい。
というか、書くモードになったら家から出てこなくなる。まるで山に籠もって修行でもしているみたいに、食事も全て配達ですませ、全く外出をしないのだ。それで、彼が行き詰まった時のみ外に出てきて連絡してくるから、そんな時にタイミングが合えばご飯を食べるというのをこの三年続けている。彼のとことん、はこうして小説との向き合い方にも現れている。
どこかで聞いたことのある文豪のような生活に、多少の心配は覚えつつも、だからこそ彼の作品は人気なのだろうな、と思う。
少なくとも三ヶ月間、いやもしかしたら他のタイミングでも外に出て、誰かと会ったりしているのかもしれないが、食事もそこまでこだわらず何週間も家に篭りっきりで小説を書くなんて、僕にはできない。
以前、彼と同じような生活をすれば満足のいく作品が書けるのではないかと思って、食料などを買い込み、十日間家から出ない生活を試してみたことがある。
四日目くらいから頭が回らなくなり、睡眠の質も落ちて結局最後の三日は一文字もかけずに終わった。正直、自分の集中力と忍耐力のなさに少しへこんだ。
「この焼き鳥食べたら地に足ついた感じするな」
「何それ」
僕が笑うと「俺の中で思考のリセットの役割あるみたいだわ、この店の焼き鳥とコーン茶」と言って、少しだけ眠そうな目をこっちに向ける。
「行き詰まってるの?」
長期間の山籠りを終えて折角誘ってくれたのだ。僕がいつもそうするように尋ねると、彼は悔しそうな顔をする。
「だめなんだ、書きたいものがずっとふわっとしてる。何回考えても、言葉としてまとまらねえ」
彼の言った悩みは、僕の「書きたいものが思いつかない」とはまるでレベルの違う悩みだったが、かといってその苦悩を大したことのないものだなんて思わない。まあ、羨ましくはあるけれど。
「物語に落とし込めない、本当むかつく」
書きたいものがあった上で悩んでる方が、圧倒的に小説完成に近いが、たとえ書きたいものがあったとしても、その思いを読者に共感してもらうために言葉で具現化するのには、途方もない労力が必要だと僕自身痛いほど分かっていた。
「で、下界に降りてきたと」
「なに下界って。でもそう。何十回整理し直してもしっくりこなくて、頭おかしくなりそうだったから一旦離れることにした」
多分言葉通り本当に何十回もやっているのだろう。ユタカのことだ、下手したら百回くらい試行してるかもしれない。
「次も青春小説にするつもりなの?」
彼がこれまで書いてきたのは、高校生や大学生が主人公の小説で、瑞々しい感性で描かれるキャラの心情が、若者だけでなく全世代の読者を魅了していた。
僕が彼の作品を好きなのには別の理由もあったが、世間の人たちは彼が生み出す言葉を求めていた。
「正直迷ってんだよ。まだ分かんねえし、正確なこと言えないかもしれねえけど、多分今までみたいなキャラクターじゃ、俺が書きたいことが全然伝わらない気がすんだ」
小説を書く土台に乗っている彼の言葉を、僕は地面の上に立って眺めながら聞いていた。
感覚的に分かるんだろうか。
少しだけ言葉のスピードを落とし紡ぐようにそう語る彼の声には苛立ちも含まれていたが、同時に芯がある。そう思う。
輪郭がはっきりしているような、三郷さんと話した時に感じたのと同じ空気を感じる。
才能に秀でているからだろうか。
僕とは違う。また、ちりっと心が引っかかれる。
「あれ、何、カオリも行き詰まってるの」
ぼうっと聞いていた僕の心を読んだわけではないだろう。けどユタカは逆に聞いてきた。
彼の言う通り、行き詰まっているのは確かだ。次のプロットも書けないし、そもそも書きたい内容も思いつかない。
小説の方は、まだ僕の段階では相談するレベルでもない。
だから、小説とは違う危機感の方を話そうか、少し迷った。
「なに、話してみたら。いつも聞いてもらってばっかりだし、たまには聞くぞ」
ユタカの思考の整理に何かしらで役立つかもしれないと思い、僕は口を開く。いや、それは口実だ。
「実は……」
ユタカの口の堅さは信用しているし、大丈夫だろう。
「ほう、犬尾三郷、ねえ」
昨日までのことを彼に説明すると、ユタカは意外にも大して驚くことなく話を聞いていた。その様子に僕は少々肩透かしを食らう。同時に、僅かに落ち込んだ。
僕と違い有名作家である彼にとっては、その経験は驚きの対象ではないということだろうか。それだけの差が、この数年で生まれてしまっているのか。
彼は続ける。
「驚いた。大学生なんだ、犬尾三郷」
「それは僕も思った」
「いいじゃねえか、ちゃんと奇なり、だろ。面白い経験、小説のネタにできんじゃん」
それは僕も考えた。けど。
「なんかそういう気分にもなれないんだ」
飯塚さんとの打ち合わせから、全くもって思考が進んでいなかった。机に座ってもなにも浮かんでこないし、気分転換のためにショートショートを執筆したとしても、なにもいい効果は得られなかった。何も広がる気がしない。
「それに、多分……もう連絡はないと思う」
「なんで」
「だって、僕とじゃ住む世界が違う」
本当だったら、ユタカとだって一緒に飲んでいるのはおかしいのだ。
僕は、まだ何者にも慣れていない売れない小説家だ。それにひきかえ彼女は――犬尾三郷は世間から圧倒的な支持を得ている大女優だ。そんな彼女と僕が横に並んでいいはずがない。
だから、あの二日間の出来事は、偶然と彼女の気まぐれが重なっただけだ。こんな僕に、神様がほんのちょっとの夢を見させてくれただけだ。事実、店で三郷さんと解散してから、お礼メール以外の会話はなかった。
「だから、彼女の気まぐれだったんだよ」
ユタカなら、三郷さんと並んでも許される。
「宝くじに当たったみたいなものだよ。だからいいんだ、この話は」
話しているうちに、惨めになってくる。話さなきゃよかっただろうか。ユタカにも聞き流してほしい。なのにユタカは言っている意味が分からないという顔をする。
「そうやって犬尾三郷が言ったのか?」
「いや、そんなこと直接は言わないだろ」
「だったらどう思ってるかまだ分かんねえだろ」
「まあ、そうかもしれないけど……」
けど、と思ってしまう。彼女の立場になって考えたら、コインランドリーでたまたま出会った僕と仲良くするメリットなんて一つもない。
「まあ、人が思ってることなんて分からないもんな……あっ」
三郷さんほどではないが、まつ毛の長い彼が大きく目を広げる。その顔は、行き詰まっている彼と話している最中に幾度となく見たたものだった。彼が何かを閃いた瞬間の呟き。
僕は立ち上がる。
「そろそろ出るか」
「ああ、助かる。キャラの問題、解決するかも」
彼が頭に浮かべた内容は、おそらく思いつきの一歩目だ。自分の頭の中で整理した方が、洗練されたものが出来上がるだろう。
僕は彼に思いついた内容を聞かず、店員さんにお会計をお願いした。
内容は聞かなかったが、すっきりした表情で店を出たユタカに、ずっと思っていたことを尋ねてみる。
「な、ユタカはさ、なんのために本書いてるの?」
どうして目の前の彼が、過去を小説として残しているのか。
「なんのためって、カオリと一緒に出た新人賞授賞式の時と何も変わってないよ」
「ああ」
そうだった。
「満足のいく本を書くため。ただそれだけ」
さも当然かのようにそう言い放つ彼。彼の作品は多くの人を魅了し、それでも満足のいく本を書けていないと言う。
「いや、それには親父を超えることが絶対条件だから、正確に言うと『親父の力は関係なく』満足のいく小説を書くためだな」
彼の父親は超有名な小説家だが、その事実は世間に公表していない。親の人気にあやかって売れた、と言われたくないらしく、ずっと隠し続けていることだ。
彼の瞳の奥に存在する炎を見て考える。
僕には、そんなことできない。追い風となるものは使いたいと考えてしまう。跳び箱を飛ぶ時、ロイター板があれば使いたい。けど彼は、どれだけ高い目標でも、自分の足だけで飛び越えたいと考える。
そんなユタカは、最後にどこを見ているんだろうか。彼と一緒にいると、時々自分が情けなくなる。根本の部分で彼に負けてしまっているみたいな気になり、歯の奥をぎりりと噛み合わせる。
けど、同時にやっぱり。
帰ってもう一度パソコンに向かおう、彼に手を振って家に向かって歩き始めた頃には、自然とそう思わせられる。
「帰るか」
帰り道、カバンからワイヤレスイヤホンを取り出そうとすると、ついさっき別れたユタカからの電話が鳴る。僕はイヤホンを耳に入れながら、スマホの画面をタップした。
「なに?」
「楽しすぎて言い忘れてた。話聞いてくれてサンキュな。書けそう」
できた人間である彼は、声に恥じらいを全く乗せずにわざわざそんなことを言ってくる。くそ、かっこいいな。
「いやいや、こちらこそありがとう」
思うことは色々ある、けど、ユタカのおかげでやる気になったのは確かだ。だからそれだけだったらただの良い奴で終わるのに、声は続いた。
「それとさっきの話だけど」
「ん?」
「思ったんだけど、なんで自分から連絡しないんだ?」
なんの話をしているかは、さすがに明白だった。
好きな部位頼めば良いのに、くらい軽いテンションで言う彼に、僕は電話を持ったまま舌を噛んだ。
余裕だからか。
つまりはさっき思った通りだ。ユタカと僕では普通の感覚が違うのだ。立っている場所が違う。そもそも彼自身が有名人なのだ。書いた小説の内三本が映画化だし、これまで何度も取材などで有名人と話したことがあるはずだ。
だから、ここ二日間の出来事も「面白い経験」というひと言でまとめられる。
その上で、犬尾三郷への連絡をクラスの仲良い友達を遊びに誘えよ、くらいのノリで言う。
「すればいいじゃん」
「だって」
「あの犬尾三郷なんだよな? 忙しいに決まってるだろ。カオリが暇って言いたいわけじゃないけどさ、こっちから連絡しないと予定だって合わせらんねえって」
でも、と思ってしまう。僕が彼女の時間を奪うなんて、そんなことしてもいいのだろうか。
相手はあの犬尾三郷だ。時間の価値が違う。一方で、ユタカは、だからこそ連絡しろ、と言う。
相手が彼女だから連絡できないんじゃないか。
彼のフラットな物言いに、筋違いだとは分かっていても、微かな苛立ちすら覚える。
ユタカと僕の新人賞授賞式の出来事が思い出される。
悔しい、けど、事実、彼の方が先を行っているのも事実だ。
その時、手に持ったスマホが震える。メッセージの通知だ。ユタカに断って音声をワイヤレスイヤホンに切り替えた時に見えたメッセージに驚き、思わず変な声が出る。
「あえぁ」
「どした、変な声出して」
「き、来た」
「来たって何が」
「れ、連絡」
「犬尾三郷から?」
「……うん」
「よかったじゃん、なんて?」
「な、なんか、お願いがあるから、会って……ほしい、って」
文面を読み上げると、電話の向こうのユタカは愉快そうに笑っていた。
「まあ、お互い頑張ろうや、あ、あと先週土曜に送ってくれたショートショートおもろかった」
そう言って一方的に電話を切られ、沈黙が流れる。
音が聞こえなくなったイヤホンをつけたまま、僕は天を見上げる。空にはいくつかの星が煌めいていた。
お願いってなんだ。
そもそも犬尾三郷はどうして僕なんかを。彼女にはどういう意図があるんだろうか。
頭を抱える。今夜もプロット作成は捗りそうにない。