アクション! カット! そんな声が響く中、僕はテレビの中で見たことのある人たちの演技を眺めていた。
僕は、なにをしているんだろうか。
昨日、彼女の洗濯物の乾燥が終わり、僕たちは解散した。
彼女が出来上がった洗濯物を取り出している最中、僕は彼女がそれまで手に持っていた小説を呆然と見ていたから、なにを洗濯していたのかは知らない。いや、知りたいわけじゃないけど。
去り際、彼女はメモを机の上に置いていった。彼女の綺麗な手が少し震えていたからか、その時の映像が、脳にこびりついて離れない。それだけ彼女に魅力があるということかもしれない。
「次の日曜日、ここにきてくれませんか」
そんな言葉とメモだけを残し、犬尾三郷はコインランドリーを後にした。
彼女が立ち去った後に渡されたメモを見ると、一つの住所と日時が流れるような達筆で記されていた。
それが今日だった。
指定された時刻に指定された場所に行くと、そこでは何かの撮影が行われていた。
「水間さん」
どうしようか、と辺りを見回していると、一人の女性が僕に声をかけてきた。
「であってますよね?」
そう聞く女性は、薄水色のスーツを着て、いかにも仕事ができる女性、という佇まいだった。
「あ、はい」
「こちらへ」
彼女に従い、関係者のみが入ることを許されているのであろうコーンで区切られたエリアに入る。
どうして僕のことを認識しているのだろうと思ったが、すぐに説明してくれる。
「犬尾から事情は聞いております。先ほども犬尾から呼んでくるようにお願いされましたので」
その犬尾三郷はどこにいるのだろう、と思ったが、僕がその質問をする前に「もしよろしければ」そう言ってペットボトルのお茶を渡してくれた。
「ありがとうございます」
この女性は、犬尾三郷のマネージャーか何かなのだろうか。
女性の言動の節々にははっきりとした距離感があった。僕との間に明確なラインを引いているような。
警戒心のようなものだろうか。三郷さんがどういった説明をしているかは分からないが、急に現れた彼女の知り合いだ。警戒して当然かもしれない。
案内された場所にはパイプ椅子が置かれており、そこを手で示したのち、ただ「ご覧になっていてください」と、そう言って立ち去った。
撮影が始まると、一気に全体の空気が変わり、ひりつきが肌を刺す。その雰囲気で、この時間を無駄にしてはいけないと、そう理解させられる。
夢の方を見せる――昨日別れ際、彼女はそう言った。
彼女の女優という仕事が、皆が憧れる夢そのものであることは確かだ。
多くの人が彼女や有名な俳優に憧れ、一目でいいから名優たちの姿を見たいと思うはずだ。
まして、生まれ変わるならどの女優がいいか、といったアンケートでも一位を取っている彼女だ。
そんな名優たちの仕事場――撮影現場という貴重な場所で僕はなにをしているのだろうか。
自分の作品が映画化して、これがその撮影なんだったらまだ分かる。それならどれだけいいか。
でも、僕は、何者でもないのにここに座ってしまっている。
何者でもない自分を見つめていると、しばらくして犬尾三郷が現れた。
街の中、迷子になっていた子供を見つけた彼女は、目尻を下げ、愛しさが溢れた表情で笑う。
その表情を見て、僕は違和感を感じた。
目の前にいる彼女が、コインランドリーで話した彼女と別人だったからだ。
もちろん、メイクだとか服とかは違う。けど、そういう次元の話ではない。本当に、違うのだ。
目を疑う。別人を演じている、じゃない。完全に別人なのだ。
これが、本物の演技というものなのか。
大学の時、演劇に触れる機会は何度もあった。けど、それらとは一線を画す洗練さだった。
まるっきり人格が違う。コインランドリーで話した彼女と、目の前で動いている彼女の顔が同じ人物だと頭では理解はしているのに、そう感じられない。
怖ささえ覚え、僅かに身震いする。彼女が渡してくれたメモを握っていなければ、昨日で会話したのは夢だったのではないかと思えるくらいの違いに、僕は圧倒されていた。
今まで、映画は何本も観ている。だけど、出演者の普段は誰一人知らない。こんなところで僕は、何をすればいいのか。知らない世界、あまりにも場違いだ。
とはいえ、彼女がここに呼んだということはなにかしらの理由があるはずで、僕は圧倒に思考を奪われないよう、真剣に目の前で行われている撮影に集中する。今後、こんな機会はないのだ。
そして、気づく。
目が違うのだ。
小説の中でキャラクターを表現するとき、目の描写によってそれぞれの人を書き分けることがあるが、そういう類の変化を感じられた。
道端に咲いた花を眺めるときは、子供の頃を彷彿とさせる無邪気な空気を醸しながら目蓋を開き、急に現れた恋人を見上げる瞬間には湿り気のある瞳を揺らす。
初めて見た撮影現場に、昔、作家仲間と一緒に訪れた映画の試写会を思い出していた。
あの頃は新人賞で受賞したばかりで、この先にはどれだけ幸せな未来が待っているのだろうと、心を躍らせていた。
一緒に行ったのは、僕と同じ新人賞で受賞した、日留賀ユタカという男だ。舞台挨拶が終わり、拍手喝采の中、僕たちもこうやって大勢の人に絶賛される作品を作ろう、そして映画化しようと意気込んでいた。
だから、自分の作品が映画化されるのは、僕とユタカの中では大きな夢の一つだった。もう、彼はその夢を達成し、僕の手が届かないところまで有名になってしまったけど。
撮影の順番は映画の時系列通りではないのか、全てのセリフは聞こえないが、カットごとに演者の感情がばらばらであることが彼らの表情から窺える。
単純な疑問が湧いてくる。
どうやってあの表情を作っているのだろう。
例えば小説でなら、キャラクターのある一部分を描写することにより、読者のそのキャラクター、シーンに対する感情を動かせる。切り取った部分から想定される人物像や情景を把握しながら書き進められる。
けど、俳優はそれら全てを自らの表情、動きで示さなければならない。
国民的人気女優である三郷さんは、カメレオン俳優とよく言われるが、彼女は自分の魅せ方をどう考えて切り取っているのだろう、そう疑問に思った。
彼女が表に出している動きをそのまま受け取るのではなく、そうやって彼女の思考を想像するのは、彼女からしたらもしかすると不本意なことなのかもしれない。
けど、本物は、空気を作る。夢中にさせる。彼女が声を上げるたび、動くたび目がそれを追ってしまう。僕は心を掴まれていた。あてられていた、なのかもしれない。
そして、思考が研ぎ澄まされ、その動きの裏を考えてしまう。
人が魅了される対象にはそれ相応の理由があるのだと突きつけられたみたいだった。
僕は初めての撮影現場に心を奪われてしまっていた。
だから我に帰ったのは、撮影が終わり物理的に肩をたたかれた時だった。
「お疲れ様でした」
気づけば、先ほど僕を案内してくれた女性が近くに立っていた。
「水間さん」
「はい」
「この後ってお時間ありますか?」
「はい……ありますけど」
僕が頷いた瞬間、前の道に黒いハイヤーが停まりドアが開いた。なんだ、怖いな。
「ではこちらにお乗りください」
どこに向かうのかも分からないまま、僕は一人そのハイヤーへと放り込まれた。