――怖いよ。

 家に帰り、呆けたようにパソコンを見つめていた。

 彼女が分かり切ったかのように言ったその静かな告白を思い出し、僕はショックを受けていた。

 手の中にある、何度も読んで縒れてしまったファンレターを開く。

 何度読んでも、僕の小説を読んで、彼女が自分の命を犠牲にしたことが読み取れる。

 彼女の声は震えていた。ずっと苦しんでいたんだ。

 彼女と別れる前にできた胸の中のつっかえが、徐々に上へ上がってきて、具現化する。

 ……ショックってなんだ?

 生まれた感情に違和感を覚え、僕は考える。僕は何にショックを受けているのだろうか。三郷さんが、死ぬのを怖いと言ったことに、だろうか。ショックを受けるということは、彼女が死ぬのを怖いと思っていないことを期待していたということだ。

 彼女がとぼけた時、一瞬安心がよぎったのも。

 それに気づき、僕は心底自分に辟易する。

 ばかか僕は。この後に及んで、死ぬという事実を彼女が本気で乗り越えてくれていたらと思っていたのだ。自分のせいで彼女が苦しんでいるわけでははないと思いたかった。

 僕は自分を裁いてなんかいなかった。まだ許されると思っていたのだ。死を受け入れたような彼女の態度に甘えていた。さっき僕の口から出た質問は、それを確認したかった気持ちの表れだ。

 そして思い出す。

 さっき、彼女は一瞬ファンレターの事実を隠そうとした。

 仮に、もし本当に僕の小説が彼女の選択に寄与していないのであれば、ファンレターのことを隠す必要がない。隠すということは、つまりそういうことだ。

 また、僕は彼女を苦しめようとしていた。こんなひどい人間が、彼女の価値を下げてはいけない。





「悪魔、なるほどな」

 ユタカは、落ち着き払った様子で、僕のぶつけた感情を受け止めてくれた。

「だから、僕が書いちゃいけないと思うんだ」

 心の中にいる自分が、うずくまっている。

「一度彼女を苦しめて、エッセイもこんな僕が書いてしまったら、彼女の夢が達成されない。死んだ後も彼女のことを苦しめることになる」
「本気で言ってるんだな」
「ああ」
「本心で、そう思っているんだな?」

 彼は同じことをもう一度訊いてきた。

 僕は首肯する。彼女に迷惑をかけた。未来を奪った。

「もうこれ以上迷惑をかけたくないんだ」

 そんな僕の言葉を聞いて、彼は肩をすくめる。

「もう一度言うぞ。あえて悪い言い方するけど、犬尾三郷が大好きな本に出会って、その影響で寿命を犠牲に夢を叶えたとして、それを恨んでるのかは知らないけど、その上で、最後死ぬ間際にエッセイを書くときに、頼りにしたのが、カオリ、お前なんだぞ。なあ? 自分の選択を他人の責任にするのは違うし、話聞く限り犬尾三郷もそう思ってる気がするけど……もし仮にカオリのせいで命を捨てたとして、それでも、最後に彼女が依頼をしたのはカオリなんだ」

 彼は「分かるか?」と言いながら僕の肩を両手で掴む。

「依頼者である犬尾三郷がカオリに書いて欲しいって言うんだ。だから、絶対大丈夫。カオリが書けばいいんだよ」
「何が大丈夫なんだよ。知ってるだろ。僕の本が売れてないってこと」
「それがなんだって言うんだ」

 ユタカは少し苛立っているみたいだった。人気作家であるユタカのその反応は看過できず僕も言い返す。

「部数を見たら分かる。重版したことさえないんだよ。ユタカとは違う。寿命が奪われて、あげくこんな作家に自分のエッセイの執筆をさせて。三郷さんはおかしいんだよ」

 売れている人間にはこの苦しさは分からない。そんなことを、売れて遠い存在になっても僕と会ってくれるユタカに対し思ってしまう。

「それが全てなんだろ」
「は?」
「あえて言うわ。重版したことがなくて、寿命も奪われた作家でも、自分の最後の作品を任せたいと思える相手、それがお前だったってことだよ」

 彼はため息を漏らす。

「言いたくなかったんだけど、正直、すげえ羨ましかった。ノイズが混ざってくるのが嫌とか言ってたけど、正直、俺だって犬尾三郷のエッセイ書けるなら書きてえよ」

 僕は耳を疑う。

 彼はいつだって自分の書きたいものがあって、それ以外は書かないんじゃなかったのか。

 犬尾三郷はそれほどの人物ということか。

 でもなんで。そんなこと一言も言わなかったじゃないか。前聞いた時だって、俺はやらないってすぐに断られたし、今だって、即断で、僕に自分で書けと言ってくる。

「だったら」
「言えるわけないだろ、ライバルにそんなこと。俺にもプライドあるんだよ」

 そんなことを言われ、僕はうまく言葉を返せない。

「本当は書きたいんだろ?」

 彼に引き継ぐために持ってきたプロットに目線を落とす。

「分かるって。こんなすげえプロットが出来上がって、書きたくならない物書きはいない。それに、ユタカ。書けない、とか書くべきじゃない、とかは言うけど、書きたくないって一回も言わねえじゃねえか」

 違う、そう言おうとしたのに口は開かなかった。

 心の奥で閉ざされていた箱が開く。

 図星だ。

「じゃあ、こっちは本心だから言うわ。面白いプロットだけライバルからもらって、書いて売れたとしても俺は嬉しくない。犬尾三郷だって、面白いって言ってくれたんだろ? だから大丈夫」

 彼の笑顔は、心から友達を誇るような顔に見えた。

「犬尾三郷と、これまでずっと書き続けてきた事実を信じろよ。俺、カオリのショートショートめちゃくちゃ面白くて好きなんだ。俺だって調子悪い日もある。そんな日にお前からショートショート送られてきたら、やらないとって思えるんだ」
「でも」

 それだけ言ってくれたとしても、僕が彼女を苦しめたという事実は変わらない。彼女を死に近づけたのは、僕だ。

「自己評価が低いカオリにあともう一つ。これだけ有名な俺と同じ新人賞の受賞者だろ。作る作品が面白くないわけない。犬尾三郷の見る目があるって言ったのはそういうことだよ。俺が負けたくないと思ってる作家は二人だ。早瀬翔吾と――」

 彼は真剣な表情で続ける。こんな僕をライバルだと言ってくれる彼が、はっきりと言う。

 その言葉を聞いて、頭の中で、うずくまっていた自分が顔を上げる感覚があった。

「そんで水間カオリだよ。だから、大丈夫」


ーーー


 家へ帰り、パソコンを起動させる。三郷さんから送られてきた手書きメッセージの画像が添付されたワードファイルをもう一度開く。

『皆さんに伝えておかねばならないことがあります。私はもうすぐ死にます。

 そんなこと言われても困るかもしれないけど、おそらく皆さんがこのエッセイを手に取っている時、私はもうこの世からいないはず。だから、驚かせてごめん、でもないかもしれない。

 事務所にスカウトされた後、私はずっと女優として生きるかどうか迷っていました。

 デビューしてから、何度オーディションを受けても合格することはなく、地獄のような日々が過ぎていきました。日々の努力が全て水の泡となり、無意味になったらどうしようと、不安に支配されたままオーディションを受け続けていました。

 その後運よくオーディションに合格した後も、ずっと覚悟ができないまま撮影をしていました。撮影現場には、私なんかより覚悟を持って努力し続けてきた先輩たちや後輩たちがいて、心が何度も折れそうになりました。私の演技が批判され、女優であることを続けられなくなったら全てが無駄になりそうで、ずっと怖かった。

 けど、そんな時私をいつも支えてくれるものがありました。一つの小説です。私が女優として生きていく覚悟を決められたのは、その小説のおかげです。その小説があったから、私は女優という仕事に全てをかけるという道を選べました。

 水間先生のおかげで、夢を諦めずに済みました。勇気をもらえたんです。先生の小説を読んだおかげで、ちょっと怖いけど、夢を選べました(、、、、)。

 だから、その小説の作者である水間カオリくんに最後を託しました。エッセイを書いてもらうことにしました。私の夢の手助けを依頼しました。

 みんなに忘れられない作品の執筆をお願いしました。

 私はもうすぐ死にます。でも、忘れないでほしい。そりゃ、生きている人には敵わないかもしれないけど、皆さんの中に私が少しでも長く残ってくれると、私は生きていて、女優を続けてきてよかったかなって思えるから。あの時の選択が間違いじゃなかったと思えるから。

 けど、そんなことは強制することじゃない。皆さんのおかげで女優であれたのだから、そんな贅沢なことは言えない。

 だから一番伝えたいことを記します。今まで私を生かしてくれて、ありがとう。

 私は、幸せに死にます』

 メッセージの分量は伝えていた。だからこれで終わりかと思ったが、ファイルの最後に画像ファイルが添付されていた。クリックすると、パスワードの入力を求められる。

 少し考え、彼女と出会った日付を入れてみた。

 開かない。

 僕は立て続けに思いつくものを入れ込んでいく。彼女と出会った日付、開かない。彼女の誕生日、開かない。僕の誕生日、開かない。彼女と出会ったコインランドリーの名前。開かない。

 以前コレクションの時に渡されていた暗証番号。

 『200331』

 ファイルが開く。彼女の手書きの文字が映し出される。

『そして、このエッセイを執筆してくれた、水間カオリくんへ』

 無事に画面に現れた画像ファイルは、そんな言葉から始まっていて、僕は思わず目を逸らす。そして、心を整える間に作業用プリンターで印刷をする。

 印刷中、ふと気づく。その番号に覚えがあった。僕はカバンに入れていたファンレターを取り出す。

「……なんだよ」

 気づく。その番号は、ファンレターの消印日付――二〇二〇年三月三十一日を表していた。排紙トレイから出てきた紙を読む。

『そして、このエッセイを執筆してくれた、水間カオリくんへ。

 私は、昔から人のことを観察しすぎるところがあるから、気づいちゃった。あなたは、自分を責める。絶対に。分かる。

 だから、もし自分を責めるくらいなら、一つお願いしたい。

 小説を書いてほしい。

 カオリくんが書いた『うさぎ階段』だけが、演技を否定されて存在意義を見失った私の心の苦しみにちゃんと寄り添ってくれたの。この作者は私の苦しみを理解してくれるんだと思った。だからカオリくんに頼んだの。私の気持ちを理解してくれるのはカオリくんしかいないと思った。大学同じなのは嘘。私は通ってないよ』

 なんだよ、完全に騙された。これが女優か。

『ずっと救われていたの。あの時も、今も、これからも。

 あなたに救われる女優人生でした。女優で辛くなった時も、いつだって『うさぎ階段』が私に寄り添ってくれた。

 あの時、カオリくん言ってくれたよね。忘れさせないって。

 強制はできない。もう十分カオリくんに救われた。けど、私はやっぱり命を使い切っても夢を追いたい。だからお願い。

 これから私が死んだ後も小説を書き続けてください。そして、それを有名にしてください。

 私がこの世にいたことを、多くの人に伝えてほしい。

 私を救ってくれてありがとう』

 文字が滲んで読めなくなる。

 手が震え、力が入り、印刷した紙が潰れる。

 彼女がかろうじて伸ばした手を掴むイメージが頭に浮かぶ。

 そうだ、三郷さんのファンレターのおかげで支えられていたのは僕の方だ。前も伝えていたが、意味が足りていなかった。ずっと支えてくれていたのだ。ファンレターを抱えてベッドにうずくまらなくなったのは、三郷さんがそこにいたからだ。ファンレターが届いたあの日から今日までずっと、彼女のおかげで小説家でいられたのだ。

 彼女の言葉が胸に入ってきて、気づく。

 早瀬先生の言葉を思い出す。

 何か、見つけたのかな。

 彼女をこの世界に残したい。

 もう、自分がエッセイを書き切ることに、何も躊躇いはなかった。





 ポケットに入れたスマホが振動する。飯塚さんからだ。

「すみません、水間さん。ちょっとプロットで微修正の提案があって……ああ、すみません、ちょっと送ってもらったプロットまた確認しててテンション上がっちゃって。順番変えた方が読者的には盛り上がるんじゃないかって思ってかけちゃいました。あ、犬尾さんからの言葉はもう貰いました?」

 僕は飯塚さんの勢いに押され「ええ」と相槌を打つ。

「早いですね、それはよかったです」

 電話の向こうから、期待を込めた声が聞こえてくる。

「飯塚さんはなんで編集者なんですか」
「へ?」

 彼女ははじめ、素っ頓狂な声を上げたが、僕が「どうして編集者であろうとしたんですか」と訊くと、しばらく考える間があった。

 察する、そういう能力も編集者には求められるのかもしれない。

「小説を書いていたら間に合わないから、かな」

 意図を考え、心配する。何が間に合わないのだろうか。寿命のことを考えて敏感になってしまっている。

「私は、生み出したい、じゃないの。死ぬほど面白い、死ぬほどワクワクする文学作品を自分で生み出したいんじゃなくて、そんな作品に、この世で一番多く触れたい」

 飯塚さんは、真剣な表情でそう言う。

「だから編集者なのよ」

 面白くないものには面白くないと言い切る彼女の原動力を今更ながら理解する。

「だから、水間くんの担当編集になることをお願いしたの」

 デビューの時に担当してくれた編集者が退職され、その後任が飯塚さんだった。手を上げて担当になってくれたのは知らなかった。

「あなたが成し遂げたいことは、私とは違うはず。じゃなきゃ、こんなに苦しい作業、ずっと続けてなんていられないでしょ? だから、あなたが、小説家として成し遂げたいものは何?」

 生み出して、成し遂げたいものは何? 何を変えたい?

「僕は」

 飯塚さんが、死ぬほどワクワクする作品に触れたい。

 ユタカは、満足する作品を書きたい。

 僕は。

「人の気持ちを楽にできる――考え方を変えられる作品を作りたい」
「でも、それだけじゃない」

 今回の作品で言えば、人の記憶に残り続けるものを作りたい。

 三郷さんが人々に忘れられない作品を作れたら、彼女が死ぬ時の後悔は少しだけ緩和されるだろう。

 でも、それだけでもない。

「それで良いのよ。夢が一つじゃなきゃいけないなんて、そんな悲しいことないもの。でも、書くことだけは諦めちゃいけない」

 小説を書くきっかけとなった人物に会いたい。認められたい。

 書いた小説を映画化したい。

 大切な人を救いたい。

 自作が映画化され、世界中の人の気持ちが楽になるきっかけとなりたい。

 それを捨ててでも、叶えたいことがある。





 書く前に、一度話さないといけないと思った。

 毎回、彼女からの依頼から逃げようとしてしまう自分にけじめをつけたくて、僕は彼女と会った。どんだけ挫折すんだ、自分。

 その挫折の間違いを正してくれた親友に感謝しながら、僕は三郷さんに会ってすぐ謝った。

「ごめんなさい」

 三郷さんは、何も返答せず続く言葉を待ってくれた。

「僕のせいじゃないって言ったけど。僕は、読んだ人の気持ちを変えられるような小説が書きたいと思って執筆しているから。だから、小説家である僕の小さなプライドで、勝手に謝らせてほしい。ごめんなさい」

 彼女は僕の方をじっと見つめていた。

「私ね、あのファンレターを見て驚いたけど、それよりも嬉しかったの」
「どうして」
「ぼろぼろだったから。私の書いたファンレターを何度も何度も読み返してくれて嬉しい。考えてみて。ファンからしたらこんな嬉しいことはないよ。少しでも、水間カオリ先生の心の支えになってくれていたのかもって思うと、死ぬほど嬉しい」

 こっちの台詞だ。彼女のファンレターがどれだけ僕の心の支えになっていたか。いや、心の支え、なんてものじゃない。彼女からのファンレターがなければ、僕はとっくの昔に小説家であることをやめていたはずだ。

「三郷さん。あなたと関わったことで、僕は数えきれないほど様々なことを学ばせてもらった」

 本を書く楽しさ、世界への存在の残し方、覚悟。あなたに会う前から、僕はずっと三郷さんに救われてきた。

「僕が、君をみんなの記憶に残すから、安心して」

 彼女がその双眸をゆっくりと大きく開く。

「僕にエッセイを書かせてくれて、書くことの楽しさを思い出させてくれて、ありがとう」

 そして、目尻が下がっていく。

「ああ、嬉しいなあ。大好きな先生にそんなこと言ってもらえて。だって、もうすぐ死ぬのに、今こんなに幸せだなんて」

 こんな幸せでは収めない。小説だったら、もっと望んでいいはずだ。

 彼女が出ていたどの作品よりも印象を残せる作品を作らなければならない。そんなことできるかは分からないが、やりたい。

 小説家としての夢を持ち始めた時の気持ちを振り返る。僕は早瀬翔吾の作品を見て、人の心を救えるような作品を作りたいと思ったのだ。

 救うべきものは、決まってる。

 だから言う。

「三郷さんを、僕が救う。だから今まで、ありがとう」

 彼女は、覚悟を決めたような朗らかな表情で頷いた。