精神が研ぎ澄まされる感覚と、心の奥が振動するような心地。

 飯塚さんが言っていたのは、これか。

 無我夢中でキーボードを叩いていた。頭の中で、三郷さんと過ごした時間と、彼女が教えてくれた思考が映像となって再生され、それらが組み合わさる。エッセイの順番や、書くべきことがズームして見えてくる感覚が頭の中にあった。思考が溢れないよう、必死に手を動かして文章として拾い上げる。

 気づけば僕は、詳細なプロットを書き上げていた。

 まだ本文は書いていない。けど、肌感覚で分かった。心が奥底から高揚している。プロットだけを聞いても面白い作品は傑作だとどこかの大御所作家が言っていた。自画自賛かもしれない。けど、これはいけるという感覚があった。

 詳細なプロットと序章の文章を完成させ、急ぎ飯塚さんに送る。あまり考えないようにはしているが、彼女の寿命はあと三ヶ月もない。

 メールを送ると、疲れがどっと押し寄せてきて、僕はベッドにそのまま倒れた。そして、気づけば意識は睡眠の中に引きずり込まれていく。

 何時間眠ったかは分からないが、僕はスマホの着信音で起こされた。着信元は飯塚さんだった。寝ぼけた頭で画面をタップする。

『めちゃくちゃ良いです』

 耳に当てると、興奮したような飯塚さんの声が飛び込んできた。

『なんですか、これ。マジでいいです』

 勢いのある反応に、思わず口角が上がる。普段忖度のない評価を下す飯塚さんだからこそ、その言い方から掛け値なしに言っているのだと理解する。僕は心の中でガッツポーズをする。

『特にここ、三章の最後、いいですよ。エッセイとしてこの仕掛けは最高です。読者も絶対喜びますよ』

 飯塚さんがどこのことを言っているのかはすぐに分かった。途中、三郷さんからの直筆メッセージを挟み込むことにしていた。小説でもたまにあるが、今回は、三郷さんが世間から忘れられないことが一つのテーマだから、読者にとって印象の残るエッセイにすべきだと思ったのだ。

 このまま書き進めることを承諾され、電話を切ったそのままの流れで三郷さんに読者へのメッセージを書いてもらうように頼む。

 今までにないくらい頭を使ったからだろうか。三郷さんへの連絡をしてスマホを閉じた後もまだ頭がぼうっとしていた。そして再びまどろみの中に潜っていった。






 起きてまず初めに喉の乾燥に気づく。僕は水分を補給するため台所へと向かい、冷蔵庫に入れてある五○○ミリリットルの天然水をそのまま煽り、一気に飲み干す。パソコンに向かっている時から夢中で水も飲んでいなかったから、全身が水を欲していた。

 どのくらい寝ていたのだろう、そう思いスマホを見て絶句する。飯塚さんにプロットを送ってからすでに丸一日以上経過していた。

 確実に寝過ぎだ。でも、こんなにもスッキリと寝起きの時間を迎えられるのは久しぶりだった。

 洗面所で顔を洗い、デスクへ戻るとパソコンにメールが届いていることに気がついた。

 知らないメールアドレスからきたそのメールを開くと、送り主が分かる。三郷さんだ。

 直筆メッセージの完成次第すぐに送れるようにと、先ほど連絡した際に仕事用のメールアドレスを三郷さんに教えていた。

 そのメールにはプロットの内容を絶賛する文面と、直筆メッセージの了解の旨、そして一つのファイルが添付されていた。ファイル名は『メッセージ』となっている。

 もうできたのか。引っ張りだこで忙しいはずの彼女の作業速度に驚きながら、添付ファイルをダブルクリックする。ワードファイルに彼女の手書きメッセージの画像が貼り付けられていた。

『皆さんに伝えておかねばならないことがあります。私はもうすぐ死にます』

 万年筆で書かれた三郷さんのメッセージはそんな衝撃的な言葉から始まっていた。

「あれ」

 僕はそのメッセージを見て、なんとなく違和感を感じていた。

 始めて三郷さんと出会った時、彼女は僕にメモを残している。このメッセージに書かれている文字がその時の字とは違っていたからだ。

 僕はこのメッセージの意図を伝え、彼女に直筆で書くようにお願いした。なので、彼女が書いているのは間違いないのだろう。

 ペンが違うから、ではないと思う。

 そうか。

 流れるような達筆な字が彼女の字だと思っていたが、コインランドリーで僕に撮影場所を知らせるために書いたあの字は急いで書いた字だったのか。

『私はずっと女優として生きるかどうか迷っていました』

 彼女もそのままの字がエッセイに載ると理解しているからか、さらに丁寧な字体で綴られている。

 その瞬間、新たな違和感が生まれる。いや、この数秒の思考は、その違和感を隠すためだったのかもしれない。

『デビューしてから、何度オーディションを受けても合格することはなく、地獄のような日々が過ぎていきました。日々の努力が全て水の泡となり、無意味になったらどうしようと、不安に支配されたままオーディションを受け続けていました』

 知っている。

 僕はその書かれたメッセージの筆跡に見覚えがある。どこだ。

『その後運よくオーディションに合格した後も、ずっと覚悟ができないまま撮影をしていました。撮影現場には、私なんかより覚悟を持って努力し続けてきた先輩たちや後輩たちがいて、心が何度も折れそうになりました。私の演技が批判され、女優であることを続けられなくなったら全てが無駄になりそうで、ずっと怖かった』

 マス目なんてついていないのに、マス目があるかのように整った小さな文字。

 コインランドリーの時じゃない。もっと前。

 しかも、一度や二度じゃない。何回も見たことがある。この万年筆で書かれた丁寧な字。

 テレビとかではない。なかなか芸能人の直筆を見る機会は多くない。

 どこだ。

『けど、そんな時私をいつも支えてくれるものがありました。一つの小説です。私が女優として生きる覚悟を決められたのは、その小説のおかげです。その小説があったから、私は女優という仕事に全てをかけるという道を選べました』

 僕はベッドの方を振り返る。そして、気づく。

 途端、足元がなくなったのと思った。

 脊髄に、冷たいものが流し込まれたように感じ、息が浅くなる。心拍数が急激に上昇する。

 僕はこの字を知っている。

 振り返る。ベッド横の引き出し。

 パソコン上に映されたメッセージ、それと全く同じ字で書かれた手紙――ファンレターを持っている。

 慌てて引き出しから何度も読み返したファンレターを取り出す。送り主の名前が書かれていないファンレター。

 それとパソコン画面の字を見比べ、さらに絶句する。

 これは、彼女の字だ。とすると。

 さらに恐ろしいことに気づき、僕は戦慄する。

 僕の処女作『うさぎ階段』は、命よりも大切な夢がある、というテーマだったはずだ。

 何度も読み返した手紙を、また読む。

 書かれているのは、小説の感想、キャラクターへの想い、そして。

『水間先生のおかげで、夢を諦めずに済みました。勇気をもらえたんです。先生の小説を読んだおかげで、ちょっと怖いけど、夢を選べました(、、、、)』

 切手に押された消印の日付を見る。二〇二〇年三月。

 それは、彼女に聞いた、デビュー作の撮影が終わって少し下タイミングで。つまり、悪魔と契約したという日の後だ。

 選ぶって、そういうことか。

 僕の小説を読んで、彼女――犬尾三郷は悪魔と取引をしたのか。

 僕のせいで、三郷さんは寿命を犠牲にした。

 彼女の表情が頭の中に浮かぶ。

 彼女がインタビューで答えている時の顔。

 星空を見上げながら、もうすぐ死ぬのに幸せだという時の顔。

 学食で僕にエッセイを書いてほしいと懇願した時の顔。

 それらを思い出し、体が震える。胃の奥底が冷えていく。

 インタビューの後に本田陽が言い淀んだ瞬間、それこそ――の後、もしかすると三郷さんが僕にファンレターを送ったことがあると言いそうになったのではないだろうか。会話の流れとしては、それで不自然じゃない。

 そうか、愚作と評される僕の処女作を彼女が知っていたのも。

 僕の小説に救われたと言ってくれていたのも。

 彼女にそう評され舞い上がっていたが、自分で言うのも嫌だけど、そんな人気のない小説について語れるなんて変だ。それこそ、数少ない僕のファンでもない限り。

「嘘だろ」

 僕の手の中で、彼女の文字が震える。血の気が引いていく。

 世界から取り残されたように、僕はしばらくその場から動けなかった。


「三郷さん……」

 突然呼び出した僕に対して、三郷さんはすぐに時間を作ってくれた。

「どした? まさかもう書き終えた?」

 その質問は、彼女が僕の気づきを理解し、わざととぼけているようにも見えた。

「いや、違う」

 訊くことは決まっている。だから会ってすぐに訊くつもりだったのに、言葉が喉に引っかかって出てこない。

 なんで。

 普通に訊けばいい。このファンレターを書いたのは三郷さんですかって、そう訊けばいい。

 そもそも、まだそうだと確定したわけじゃない。字が似ている人なんていくらでもいる。たまたまファンレターの字と、三郷さんの字が似ているだけかもしれない。

 いや、違う。こんな思考になるのは僕が責任から逃れたいからだ。

 だから、自分で自分を裁く気持ちで言う。

「この手紙」

 僕は、何度も読み返して縒れ切ったファンレターを突き出す。

「三郷さんが死ぬの、僕のせいなんですか」

 あえてそう訊く。

 読まなくても覚えている。そこには、先生のおかげで夢を選んだと、そう書かれている。

「違うよ。何を言ってるの?」
「だって、これ」

 もう一度ファンレターを見せる。

「それがどうしたの」

 彼女がとぼける。いや、とぼけたのかと思ったが、あまりにも自然にそう返すから、少し自信がなくなる。まさか、僕の勘違いなのだろうか。それだったら安心だが、本当に違うのだろうか。

 いや、でも相手は女優だ。

 だから、僕は自分の考察を、分かり切ったことのように説明する。

 思えば、僕の小説に対する三郷さんの評価は、ファンレターの中で、それを書いてくれた日田が『うさぎ階段』を絶賛してくれている内容と同じだった。

 初めて会った時、彼女は言った。寿命の交換先――夢の方を見てもらいましょうかと。その夢と、先生が教えてくれた言葉。

「送ってくれたメッセージを見て、これと同じ字だって気付いて。あと、先生から聞いたんだ。三郷さんが僕の小説のおかげで、女優として生きることを選べたって」

 彼女は、僕の解説を聞いて。

 驚き、そして、諦めたような顔に変わる。

 映画『最後の恋文』で彼女が長年ついていた嘘がバレた人の演技をした時と同じ表情がそこにあった。

 三郷さんは状況を整理するみたいに一度目を瞑って深呼吸をし、そしてまた目を開いた。瞬間、彼女の表情が柔らかくなる。

「そっか」

 そして続ける。

「君の想像通り、そのファンレターを送ったのは私」

 彼女の口からその事実が告げられ、目が回りそうになる。

「でも、違う。私が自分で夢を選んだんだよ。自分で、自分が進む道を決めた。そこにカオリくんは関係ない」

 その気遣いが、むしろ僕の心臓を刺してくる。

「カオリくんは何も悪くない。そんなこと気にしてたら、表現者は何もできなくなっちゃうでしょ」

 彼女は、僕が気づいたことには驚いたくせに、その状況は受け入れ切ったみたいに笑う。

「なんでそんなに落ち着いていられるんだ」

 目の前の人間のせいでもうすぐ死ぬというのに、三郷さんはどうして飄々としていられるんだろう。もしかすると受け入れた様子は演技かもしれない、いや、演技だったとしてもだ。どうしてそんな普通にしていられる。

「三郷さんは死ぬのが怖くないの?」

 訊いても意味がないし、僕にそんなこと訊く権利はないと分かっているのに、頭に浮いた質問が口をついて出てしまう。

 すると彼女は、逡巡することもなく口を開いた。

「怖いよ」

 その静かな告白に、背筋に怖気が走る。

「当たり前じゃない。死ぬんだよ、怖いに決まってる」

 彼女の声が震える。

「死にたくないの、本当は」

 受け入れられるわけない。何を訊いているんだ僕は。僕のせいで死ぬ人になんてことを訊いているんだ。

 三郷さんはなおも震える声で続ける。その声に、僕は胸の奥がつっかえる。

「死んだら、これまでしてきたすべてのことが水の泡になるの。私という存在が、消えるの。もう何もできない。そんな恐怖感に追われるの。毎日、夜、どうしようもなく胸が冷たくなっていくの。もはや自分の体が自分ものじゃない気がして」

 僕のせいで、彼女はこんなにも苦しんでいる。

「私がこの世から消えれば、みんなの中の私もすぐに消えてしまうんじゃないかって思うの」
「そんなことない……いや、ごめん」

 思わず反論するが、そこには根拠が全くない。自分でも分かってる。何も言う権利はない。

「いや、カオリくんは間違ってないかもしれない。そんなことないかどうか、私は分からない。だって消えてなくなるのは私だから。けど、私は私の意志で夢を実現させることを選んだの。だから、怖いけど、絶望はしていないの。言ったでしょ、辻褄を合わせるの。悪魔との賭けを、大成功に、私がするの。だから、カオリくんは何も気にしなくていい」

 三郷さんは、私の意志で、という部分を強調した言い方をする。カオリくんは何も関係ない、とあえて言う。

「もしカオリくんに原因の一部があったとして、私はもう十分すぎるほど受け取っているから。女優を諦めずにいさせてくれただけで、これだけ私のわがままを聞いてくれているだけで、十分。だからありがとうね」

 それ以上、彼女はなにも言ってくれなかった。