その言葉に従い、僕たちは一週間後、新幹線に乗っていた。グリーン車に現れた彼女は、真っ白な装いだった。ノンスリーブのワンピースに白いカーディガン。僕は上下真っ黒な服を着ているから、白黒コーデみたいで少し恥ずかしい。しばらく僅かな振動に揺られ、彼女の案内で電車を乗り継ぐ。そこからタクシーで十五分。

「よくきたわね」

 おとぎ話に出てくる洋館のような門から出てきた気の良さそうなおばあさまは、三郷さんと僕の顔両方をしっかりと交互に見た後、ゆったりとそう言った。手には庭の手入れのためか、厚めの手袋をしていた。

「先生、お久しぶりです」
「久しぶりね犬尾さん、元気そうで何より」

 その言葉に、嬉しそうに首肯した彼女が、僕にだけ表情でサインを送ってくる。やめてくれ。
 そんなことをしているから、ではないだろう。ただ彼女の表情を見たその女性は、悪戯っぽい表情になって訊いてきた。

「……それとも、何か大変なことでもあったのかしら」

 なんだこの人。

 鋭さに驚いていると、三郷さんはむしろおどけて「そうなんですー、忙しくて大変で。だから先生に会いにきました!」なんて言いながら満足げに笑っていた。すごいな、女優。

 事前の打ち合わせで、先生と呼ばれている彼女には寿命のことは話さないと決めていたので、僕も表情を変化させないように気を付ける。

「隣のあなた、お名前は」
「水間カオリと言います」
「よろしくね。私はジェシーよ」
「ジェシーさん」

 外国の方なのだろうか。僕が呟くと、先生は愉快そうに微笑んだ。

「ふふ、生まれも育ちも日本だけど、ハーフなの。このお家にはこっちの名前の方が似合うでしょ?」

 洋館のような見た目には確かに合う。素敵な名前だ。

「水間くん、あなたは? 元気?」

 まさか僕に質問が飛んでくるとは思わず、うまく反応できない。

 ただ、その女性は僕が考えるまで待ってくれるような雰囲気があった。だから、僕は三郷さんと先生に見守られながら、口を開く。

 元気、だろうか。ここ数ヶ月の自分を顧みる。

「最近は少しだけ、元気です」
「それはいいことだわ」

 先生は、にっこりと笑いかけてくれる。その表情に、胸が温まる。こちらを落ち着かせてくれる空気のある人だ。

「さ、二人とも、ゆっくりして行ってね」

 先生の後について歩いていく。家の扉までの石畳の両脇がさまざまな植物に挟まれており、あたり一体がが柔らかい花の香りに包まれていた。

「先生の家、久しぶりだ」

 家に入り通されたリビングは内装が洋風なのに縁側があり、光が差し込んでいる。その奥、窓の外には小さな畑があった。

「二人とも、何か飲みたいものはあるかしら」
「私、ハーブティーがいいです」
「はいはい、蜂蜜は」
「じゃあ、ユリの花の蜂蜜で!」

 蜂蜜も選べるのか。彼女に目線を送ると、解説をくれた。

「先生蜂蜜好きでいっぱい種類あるの」
「そうなんだ」
「水間くんは? どうする?」
「ちなみに、どんな蜂蜜があるんですか?」
「アカシア、レンゲ、ソバ、ミカン、ラベンダー、ユリ、コーヒーあたりかしら。おすすめは犬尾さんと同じユリかな」

 言われても何がなにやら分からない。

「じゃあ、それをお願いします」
「分かったわ。二人とも、ソファに座って楽にしててね」

 僕たちは先生に促された通り、柔らかい革張りソファに横並びで座る。先生は、一度縁側から外に出て、台所へと消えていった。

「何回か来たことあるの?」

 懐かしそうに部屋を見回している三郷さんに聞く。

「うん、先生がここに引っ越したのが私の中学卒業の時くらいで、高校の時に年一回ずつと、大学に入学してすぐに一度」

 小学生の時の塾の先生なの。ここにくる道中、彼女と先生の関係を聞くとそう説明されていた。

「なんかすごいね」
「何が」
「小学校の時の塾の先生とそんな仲良くなれるなんて」

 そう言うと、彼女は遠い目をして呟く。

「先生は、小学生である私の話を、カテゴライズせずに聞いてくれたから」
「カテゴライズ?」

 その言葉選びが珍しく、僕は聞き返す。

「大人の話は聞きなさい、とか、先生の言うことに従いなさい、みたいに言う教師いるじゃない? 私は、そういうのが苦手だった。けど、ジェシー先生は私の言葉を、私の言葉として受け入れてくれていたから」
「それは分かる気がするな」
「そう?」
「うん」

 小学生だった頃、学校でウサギを育てていて、その世話を特定の子供にだけさせる先生がいた。外で遊び回っている同級生がいる中、静かな生徒だけに世話を任せることに違和感を持って、先生に質問した。いくら訊いても先生たちに答えはない。

 そんな話をすると、三郷さんも何か苦い思い出があったのか「同感」と頷いた。

「そういう厄介な疑問にも、ジェシー先生はちゃんと答えてくれたの」

 その後三郷さんが先生の良さを説明してくれていると、先生がお盆を持って現れる。

「できましたよ」
「先生のハーブティーもひさしぶり。これ美味しいんだよねー、摘みたてのハーブ」

 先ほど庭に出ていた時に摘んだのだろうか。

 湯気の立っているコップに口を近づけると、ミントの香りと蜂蜜の甘い香りが混ざって鼻に入ってくる。

 ほんのり黄緑色っぽく色づいた液体が喉を通ると、体が内部から温まる。

「ほんとだ、美味しい」
「そんなふうに言ってくれるの、嬉しいわね。やっぱり料理は食べてもらえる人がいてこそね」

 先生が出してくれたこれまた手作りのクッキーを食べながら、僕の自己紹介や、三郷さんの近況報告が行われる。

 しばらくした後、彼女がお手洗いに立ったタイミングを見て僕は先生に訊いた。

「先生――あ」

 無意識に先生と呼んでしまい、自分でも驚く。三郷さんが先生と呼んでいたから無意識にそう呼びかけてしまった。先生はそんな僕の様子を見て、微笑んだ。

「先生、でいいわよ」
「ありがとうございます。……では、先生。昔の三郷さんはどんな感じだったんですか?」
「人のことをよく観察している子だったかしら」
「観察、ですか」

 三郷さんを表す一言目が、観察というのはわずかな驚きがある。

「いや、正確に言うと、人のことを観察するようになった、かしら。あの子、昔から結構自由なところがあってね」
「それは分かります」
「絶対周りには迷惑はかけないけど、やっぱり周りがその自由さを受け入れてくれるとは限らないじゃない。それが災いしてあんまり周囲に馴染めないこともあって、いつからか自分を出さなくなったの。人を観察しすぎちゃうのね」

 そんな時期があったのか、と思う。

「だから、事務所にスカウトされて、女優を目指すか迷ってるって相談された時は、驚いたわ」

 三郷さんは先生のことを、女優にさせてくれた人物だと表現していた。先生は三郷さんの選択を後押ししたのだろう。

「でも、よかった。ずっと生きづらそうにしている犬尾さんを見てきたから、女優という仕事をし始めてから生き生きしているのを見れて嬉しいわ。水間さんも犬尾さんに振り回されていない? こんなところまで連れてこられて」
「全く振り回されてないと言ったら嘘にはなりますけど……彼女のエッセイを書くためでもありますし。僕が彼女のことを知るためでもあるし、それに、三郷さんのことを知れるのは嬉しいです」

 言って自覚する。僕はこの取材を楽しんでいるのだ。

 すると、先生は無邪気に微笑んだ。

「そう言ってもらえると私も嬉しいわ。それに、彼女の自由さが分かるってことは、彼女があなたに心を許している証拠だと思うわ。あの子の中学以降の性格上、本当に受け入れてくれない相手には、本当の気持ちを隠すから」
「そうなんでしょうか」
「きっとそうよ。それにね、三ヶ月前に電話で会話したときよりも、今日の犬尾さんの声には元気がある気がするわ」

 三ヶ月前といえば、僕に会う前のことだ。

「あなたのおかげかしら?」

 そう言われ、ドキリとする。

 僕は死を待つ彼女の役に立っているだろうか。

 先生が続ける。

「逆に、水間さんから見ると、犬尾さんはどんな人に映っているのかしら」

 その質問は、僕がエッセイを書くにあたって中心に据えるべき印象なのだろう。少しだけ考えて口を開く。

「目の色が強いです」
「面白い表現するのね」

 先生は、僕の言葉に口に手を当てて微笑む。僕は意図を伝える。

「三郷さんの整った容姿からは想像できないくらい、目の中に籠っている強い意志を感じられます」

 もうすぐ死ぬのに、最後まで彼女は夢を追い続けている。

「そうね、彼女はすごく肝が据わっていると思う。でもね」

 先生の声に、重みが乗せられる。

「どんな人でも、辛い瞬間はあるものだから、犬尾さんを支えてあげて」
「分かりました」
「なんの話してるんですか」

 リビングに戻ってきた三郷さんは、きょとんとした表情で僕たちに問いかける。

「犬尾さん、いいパートナーを見つけたわね」

 その言葉に、心臓が跳ねる。

 ビジネスパートナーという意味で言ったのだろうが、ちらりと三郷さんの方を見ると、彼女はなぜか複雑な表情をしていた。

 僕は先生と顔を合わせる。そして、秘密を共有するみたいに笑い合った。

 その後、先生が用意してくれていたバーベキューが行われた。久しぶりのバーベキューに僕と三郷さんは二人してテンションが上がる。庭に設置された物置にコンロなど道具一式が詰め込まれていたので、手分けして準備すると、祖父母の家で出てくる料理数を彷彿とさせるくらい沢山の料理が出てきた。それらを美味しくいただき、片付けをした後、僕たちは庭の椅子に座りながらまたハーブティを飲みながら話していた。ラベンダーの甘い香りが喉から鼻にぬける。

 庭には焚き火台があった。ぱちぱちという静かな音と共に落ち着いた音楽を流しながら、しばらくたわいもない会話をしていると、三郷さんが小さな寝息を立て始めた。僕は先生と顔を見合わせ、静かに笑う。

 そして、ハーブティーを飲み干した先生が立ち上がり、音楽のボリュームを下げた後部屋へ戻っていく。

 扉へ向いた視線を隣に移すと、国民的大女優の気持ちよさそうな寝顔がそこにあった。

 この世で彼女の寝顔を見れる人は何人いるのだろうか。

 彼女は後何回眠れるのだろうか。

 変な想像をしそうになり、僕は立ち上がる。

 彼女と自分の飲み終わったコップを持ってキッチンに持っていくと、先生は何か錠剤を飲んでいた。

「薬ですか?」
「ええ」

 先生は、手に持った錠剤数粒を一気に口に入れ、水で流し込む。

「もうかなわないわねえ。いろんなところにガタが来ちゃうわ。あ、持ってきてくれたのね。ありがとう」
「いえいえ、このハーブティーも美味しかったです」

 先生はにっこりと目尻を下げたあと、口を開く。

「あなたが、『うさぎ階段』の作家さんだったのね」

 まさか先生から僕のデビュー作の名前が出るとは思わず、声が止まる。

「そうです……ご存じですか」
「もちろんよ。あの子に教えてもらったから。実はね」

 先生は、少し懐かしみを含んだ声で教えてくれた。

「私あの子の先生になってから、おすすめの小説をいくつも紹介してもらっていたのよ。あの子に読書の楽しさを教えてもらったの」

 先生と生徒の関係が逆、じゃないのだろうか。

「実は私ね、恥ずかしながらあんまり本を読んでこない人生だったのだけど、犬尾さんと仲良くなって、彼女が毎月好きな本を一冊私に紹介してくれるようになったの」

 元々本を読まない先生が、小学生である三郷さんのおすすめを読んでいたということからも、先生の人柄の良さが想像できる。

「小学校卒業と同時に彼女からの本紹介は止まってしまったのだけど、数年前、一冊の本が送られてきたの」

 先生は、後ろの棚から一冊の本を取り出す。

「それが、この本」

 先生が出してきた本は僕のデビュー作だった。そして、孫を見つめるような目で続ける。

「先生のおかげで女優になれたけど、女優を辞めなかったのはこの本のおかげなんだって」

 僕は少し恥ずかしくなり、なんでもないように返す。

「そうなんですか」
「そうらしいわよ。この本のおかげで、女優として生き続けることを選べたんですって、素敵よね」

 三郷さんの言葉を思い出す。

『本当に私の人生を変えてくれた小説だと言っても過言じゃない。だから、エッセイを書くことを決めた時、私の中でお願いしたいと思えるのは一人しかいなかった。決まってたの』

 胸に暖かい風が流れ込む。

「そんなあなたにエッセイの執筆を頼んだって知って、安心したの。だから、私からもお礼を言わせて。ありがとう」

 目の奥と声が震えそうで、僕は少し俯いて答える。

「僕は何もしてないです」
「そうかしら?」
「はい。なにもできてないんです」

 ずっと、釣り合っていない。

「それでも、彼女はそうは思ってないのよ」

 その言葉に顔を上げる。先生の確信を持った笑顔がそこにあった。

 瞬間、最後の章のピースがはまる音が聞こえた気がした。

 何もできていないんだったら。辻褄を合わせればいい。

 だから、これから、彼女を世界から忘れさせないために全力を尽くす。

「先生と話せてよかったです」
「あなたはきちんと思いを表現してくれるわね。素敵だわ」
「そんなこと……ありがとうございます」
「ほんとよ。長年生きてきて、それが一番難しいことだと思うから。犬尾さんが信頼するわけだわ。あなたが書いた犬尾さんのエッセイ、楽しみにしているわね」
「はい。待っていてください」

 その後、先生との会話で見つけたピースを抱えたまま三郷さんの元へ戻ると、目を覚ましていた彼女は、椅子の背もたれ部分をリクライニングして夜空を見上げていた。

「きれい」
「星がよく見えるね」

 僕は彼女の隣の椅子に座る。背もたれを同じよう倒し上を見ると、視界にいくつもの光点が写り込んできた。

「はぁー」

 その煌めきに、思わずため息が漏れる。深い黒の背景に小さな光が散らばっているだけなのに、どうしてこんなにも心が洗われるのだろうか。

 夜の闇と焚き火の音を挟んで、三郷さんの息遣いが間近に聞こえていた。その静けさに、僕は彼女の方を見れず、天を見つめたまま大きく深呼吸をする。

「ああ、幸せだなあ」

 隣から聞こえていた小さな息づかいが、言葉に変わる。その声に彼女の方を向くと、彼女はなぜか僕の方を向いていた。焚き火の光に照らされた表情を見て、心が跳ねる。

「私、選択の結果がどうなるかなんて、選択を迫られた時には分からないから、決めた後は深く考えすぎないことにしているの。選択の中で全力を尽くすだけって思ってた。でもね」

 呆けてしまいそうだったが、彼女が言葉を続けるので相槌をうって話を聞く。悪魔の話だろうか。

「でも、カオリくんに会った日、君にメモを渡した選択に関しては、自分を褒めたい」

 あの流れるような字で書かれたメモを思い出す。

「見て、これ」

 彼女はスマホを差し出してきた。見ると画面には、この前の三郷さんと本田陽のインタビュー記事が開かれていた。そこには多くのコメントがついていた。

「こんなこと書く人もいるのね」

 コメント欄には、彼女と本田陽に対するアンチコメントが並んでいた。応援の言葉だってたくさん並んでいる。さすが彼女たちだ。でも、その応援の言葉がどれだけ多くても、アンチコメントばかりが目に入ってくる。

「こんなひどいことも書かれるから、私のことをどう思っているか分からない人と関わるのは正直怖いの。怖い目にあったこともあるし」

 わずかに三郷さんの目に影が落ちる。

 そうか、彼女ほどの人であれば、嫌な経験もしているはずだ。有名税という言葉があるが、そんな言葉を使うのはいつだって彼女たちを攻撃する側だ。許されることではない。一方で、事実有名人が悪意の標的になるという状況は当たり前のように存在する。

 たいして有名でもない僕だって、口コミを見ればひどい言葉が並んでいる。

 客観的に見れば、そんなものは無視すればいいと思う。そんなことは分かっている。けど、自分ごとであれば、その悪意の言葉を受け取ってしまう。頭では無視しても、感情が受け取ってしまう。あのユタカでさえ、ひどいコメントを見たときは苦しんでいた。

 だから彼女の気持ちは痛いほど分かった。

「だから正直、カオリくんと初めて話す時は、すごく緊張した」

 あの時の、震えるように見えた手を思い出す。

「始まりが悪魔との契約の結果つかんだ成功からっていうのもあるし……私、メンタルはあんまり弱くないタイプのはずなんだけど……これだけはね。だから自信が持ちきれない部分もあるみたい。だから出会う相手が私に対してマイナスの印象を持っていないか分かるまで不安で仕方ないの」

 その訥々とした話し方に、彼女がこれまでそれに悩まされ続けてきたことなのだと容易に想像できた。

 インタビューを受けている時の凜とした受け答えの裏に、こんな本心が潜んでいたのか。無遠慮に本心を話せない、という三郷さんの言葉の意味を理解する。

 どれだけ経験をしてきた大女優だといっても、三郷さんもただの人だ。同じ大学に通っているただの同い年なのだ。

「僕は味方だよ」

 だから僕は、三郷さんの目をしっかり見て、彼女に言葉を届けられるようゆっくりと言った。

 すでに伝わっているかもしれない。けど、僕は彼女に感謝を伝えたくて言った。先生に褒められた言葉も、僕の気持ちを後押ししてくれた。

「三郷さん、君はすごい」

 三郷さんは、きょとんとした顔で僕の言葉を聞いていた。

「『サマーナイト』を観た。悪魔の力が関わっていない二作目だ」

 悪魔と契約をした彼女からすれば、二作目が僕の一作目のようなものなのかもしれない。

 世間から見ると、すでに有名になりつつある女優の二作目だ。だから、一作目の勢いに乗って高評価になりやすい……なんてことはない。むしろ逆だ。

 一作目が売れるということは、それ以降が大変になる。比べられる対象が一作目という傑作なのだ。

 前作より売れない小説は、出させてももらえない。

 だからこそ僕は『サマーナイト』を見た時、度肝を抜かれたのだ。彼女の演技は、本物だと思った。

「心を掴まれたんだ。高架橋の下での三郷さんの表情が、頭にこびり付いて離れない。何でこんなに素晴らしい演技ができるんだって、僕は演技をする人間じゃないのに悔しさまで湧いてきた。同じ人間が、どうしてこんな演技をできるんだって。どれだけの努力が積み重なっているんだ、って慄いた。それで、三郷さん、僕自身があなたのエッセイを読みたいと思った。だから決めたんだ」

 そうだ。あの映画を観て、僕は背中を押された。あの瞬間がなければ、僕は三郷さんのエッセイ執筆をしていなかった。こんなふうに、彼女のことを知れる機会を失っていたのだ。

「三郷さんのエッセイを書きたい、いや、三郷さんの思考を知りたいってその時思ったんだ。正真正銘、三郷さんの演技力で僕の気持ちは動かされた」

 彼女は僕の方を向いたまま、静かに話を聞いていた。

 僕の熱弁を彼女は聞いている。その瞳が、ゆらゆら揺れていた。

「僕は……三郷さん、あなたの――」 

 頭上の星よりも綺麗な彼女の双眸をしっかり見て、伝える。

「あなたのことを忘れさせないよ」

 二つの覚悟の塊を握りしめ、彼女に言う。

「忘れない、どんなことがあろうと」

 ぽとっと、彼女の目から雫が溢れる。暗闇の中、そんな彼女がいつにも増して輝いて見えた。

「ああ、やっぱり幸せだなあ」

 その表情は、今まで観た三郷さんのどの演技よりも美しい表情で、僕は胸を貫かれた。

「ありがとう、カオリくん」

 彼女の奥に広がる星空は、彼女に呼応するかのように煌めいていた。





「ねえ」
「ん?」
「カオリくんはどうして小説を書こうと思ったの?」

 僕は特に考えることもなく言う。

「早瀬翔吾っていう純文学作家の本を読んだんだ」
「あの有名な?」

 彼女がそう訊いてきて、頷く。有名な? で通じる早瀬翔吾は一人しかいない。

「そう。今まで小説を読んで、その瞬間の余韻に浸ることはあっても、行動が明確に変わったことはなかった。けど、彼の小説を読んで、僕は小説家になりたいと思って、気づいたら書き始めていた。もう、その瞬間には小説家になりたいと思ってた」

 彼女はゆったりと僕の言葉を受け入れ、そして訊いてきた。

「じゃあ、どうして小説家を続けようと思うの?」

 その質問は、あまりされたことのないものだった。みんな「どうして小説家になろうと思ったか」という夢として分かりやすい部分を質問する。

 でも、その質問に対し、僕には明確な理由があった。

「最初に書いた小説が全然売れなくて。ネットでの評価も散々だったんだけど、一通だけファンレターが届いたんだ」
「ファンレター」

 彼女は数えきれないほど貰っているんだろう。けど、これに関しては枚数じゃない。たとえ僕が何百枚貰っていたとしても、気持ちは変わらない。

「初めてファンレターをもらって、そこに書いてあったんだ。先生のおかげで、夢を叶えられたって。先生のおかげで、夢を諦めずに済んだって。その時に思った」

 これを話すのは初めてだ。今まで、ずっと心の奥に秘めていた気持ち。

「僕が頭の中で考えた物語が、顔も知らない人に届いて、その人たちの気持ちに影響を与えられるって、すごいことだと思ったんだ。だから、続けようと思ったのはそれが理由かな。小説家になりたい、の夢が、もう一段進んだのはその瞬間だったと思う。とはいえ、まあ、最近は全然だったけど」

 彼女は大きな目をさらに広げて真剣に僕の話を聞いてくれていた。

 その時、なぜだか分からない、けど、彼女とちゃんと横並びになった感覚があった。

「私もね、思うの。その感覚、分かる。演技している時も楽しいけど、それが誰かに届いて、その人の何かに響いてくれた時が一番嬉しい。だから映画館で観終わった人の表情を見るの好きなんだ」
「分かるよ」

 その気持ちに気づかせてくれたのは、三郷さんだ。

「描きたい物語が溢れる、なんてかっこいいことは言えない。正直、全然浮かばない」

 でも。

「けど、伝えたい想いは、ちゃんと僕の中にある。三郷さんに会って、それを思い出させてもらったんだ。だから、あなたのために文章を書きたい」
「書けそう?」

 その言葉に、自信を持って頷く。もう大丈夫だ。

「うん、書ける気がする」