彼女と別れ家に帰ると、宅配ボックスに飯塚さんからの大きな封筒が届いていた。

 ファンレターの束だったりしないか、なんて無駄だと分かっている夢想を僅かに持ちながら取り出すと、予想以上の重量感があった。

 そもそも、ファンレターはこうやって直接自宅に届くものではない。過去に一度もらったものも、飯塚さん経由だった。そういえば、最近ファンレターを抱えてベッドの上で胸の苦しさに耐える時間がなくなっていた。これも三郷さんのおかげだろうか。

 家に入りそのずっしりと重い包みを開けると、中には小説家やエッセイストが執筆したエッセイが入っていた。その中に、芸能人によるエッセイはひとつもなかった。

 それを見て妙に納得する。僕が名前を出して三郷さんのエッセイのライターとなるのだとすると、参考にするべきは小説家やエッセイストの筆力なのかもしれない。彼らは、表現力で戦っているプロなのだから。飯塚さんもそう考えたのだろう。

 今回、僕がライターとして協力する理由はそこにある。三郷さんが出すエッセイへの付加価値は、小説家としての筆力だ。

「これ」

 並んだエッセイの表紙を見ていると、ある一人の人物が目に入ってくる。僕が大好きな――それこそ、僕が小説家になるきっかけとなった純文学作家――早瀬翔吾によるエッセイだった。

 早瀬翔吾の小説は全て読んでいる。ただ、彼のエッセイは読んだことがなかった。

 これまで僕の心を魅了してきた物語を作った小説家は、どんなエッセイを書くのだろう、そう思い、彼のエッセイを手に取りページを開く。そして。

 と、その手が止まったのは、最後のページを閉じてからだった。

 エッセイを軽視していたわけでは全くない。ただ、僕が本屋で適当に選んだものとは圧倒的に違っていた。現実に即した内容で、ここまで心を鷲掴みにされるとは思わなかった。

 心音が耳元で鳴り響いてるのかと思えるほど心臓が大きく鼓動している。アドレナリンが出ているのか、体は熱を持っており、家の中の様子がいつもより鮮明に映って見えた。

 筆力で、ここまで変わるのか。

 飯塚さんにお礼を言わなくてはならない。エッセイを読んで以前感じた、エッセイにおける筆力の重要性は、まだまだ序の口だった。何も分かっていなかった。

 表現力が問われる、とかのレベルではない。

 早瀬翔吾が純文学作家だからだろうか。描かれた思考が、まるで自分も元々同じことを思っていたように頭の中に染み込んできて、読むだけで、自分の脳が一段上の世界へと上り世界への解像度が上がった気がする。

 書き始める前に知れてよかった。

 もう一度初めから彼のエッセイを読み直し、その筆力の素晴らしさを分析する。

 僕自身が早瀬翔吾を好きだということが魅力を底上げしているのは確かだ。だが、著者を伏せて読んだとしても、エッセイの中で語られる思考は、納得感と、親近感と、それでもぎりぎり手が届くか分からない感覚の発見というバランス感を兼ね備えていた。普段自分が意識している思考の、ほんの少しだけ外側を忠実に、かつ丁寧に描いてくれているからなのだろうか。

 どうすればこんなふうに魅力的なエッセイを書くことができるのだろうか。

 そんなことを数時間考えながら読み直し、思う。

 書いた本人に直接聞けばいい。手段はある。

 そう思い、僕は久しぶりに彼へ連絡を取る。

 超多忙な作家なので数日待つことを覚悟していたのに、彼はすぐに返信をくれた。

「今からでもいいんだよ」

 返信に書かれていたその一言で、僕は一時間後、彼の行きつけというバーに向かっていた。

「こんなところで悪いね。打ち合わせ帰りで」

 会うのは久しぶりだ。彼の芥川賞受賞パーティー以来だろうか。

 店に入ると、彼は僕の方に手をあげた。僕の方が一方的に連絡したのに、彼はそう言ってくれる。彼の傍にあるテーブルにはウイスキーグラスが置いてあり、昼からお酒を飲んでいるのか、と思ったが、その隣にはペリエの瓶が置いてある。そういえば彼がお酒を飲んでいることは見たことがない。

「ご無沙汰してます。お忙しいのにありがとうございます」

 彼の服装は濃紺のスリーピーススーツで、おそらくフルオーダーなのだろう、イタリアの街を闊歩していてもおかしくないと思ってしまうほどだった。シャツに着けたカフスボタンが原色のオレンジで、それをうまくファッションに取り入れていることも含め映画から飛び出したみたいに見えた。

 そこで思う。そういえば彼は一時期イタリアに住んでいたのだ。

 打ち合わせに行くのにこの格好をするなんてやはり。こんなことを言ったら怒られるだろうが、僕の親友もいつかこんな服を着るようになるのだろうか。

「いいんだ。それより水間くん、ユタカと仲良くしてくれてるみたいだね」
「はい、定期的にご飯一緒に食べてます」

 答えると、彼は嬉しそうに目尻を下げた。

「ありがとう。あの子はちょっと集中すると周りが見えなくなるところがあるだろ」
「それは……そうですね」

 僕が初めて三郷さんと会った時、気が動転しながらもある程度普通に話せたのは、目の前にいる方のおかげでもあるかもしれない。

 早瀬翔吾は、日本でトップ五本の指に入るほど有名な小説家だ。彼が書く小説の読者の年齢層は高めなので、年齢層によっては三郷さんよりも認知度は高いかもしれない。

 彼は超有名な文豪だが、僕からすると友達の父という印象が強く、失礼かもしれないが口調が柔らかくなってしまう。

 タイミングを見計らってか、真っ黒なスーツを着たバーテンダーが注文を取りに来てくれる。

「なにか飲むかい? お酒?」

 早瀬翔吾は悪い顔をして僕に訊いてくる。

 彼を差し置いてお酒は飲めないし、それに、今は彼の話を真剣に聞きたい。

「同じものをお願いします」

 言うと、そのバーテンダーはすぐにグラスを持ってきてくれた。急いで来て喉も乾いていたので一気に飲むと、ぱちぱちと気泡が弾け喉を刺激した。

「で、何を聞きたいのかな?」

 冷えた炭酸が食道を通り、体が内部から冷やされる。僕は、一旦冷静になって訊きたいことを整理し、カバンの中から、先ほど読んだエッセイを取り出す。

「このエッセイを読みました」

 拝読しました、の方がいいだろうかと頭に浮かぶが、それよりも訊きたいことが追いかけてきて、口が動いてしまう。

「ああ、それか。懐かしいな」
「エッセイがこんなにも直接的に自分の心に響くものなのだと、知りませんでした」

 僕は、思考の納得感と親近感と手を伸ばして爪だけが引っかかる感覚を説明する。人生を変えられるほど自分にハマった映画を初めて見た時の余韻を説明する。スタンディングオベーションのさらに上の、ため息しか出ない感覚。圧倒され、息をすることさえままならなくなりつつも視界が研ぎ澄まされるような、そんな心地よい感覚を早瀬翔吾に伝える。

 彼は、僕のその言葉を静かに聞いていた。

「感情の激動と静謐さが共存しているような感覚……そういう感覚を味わわせてくれました。ありがとうございます」

 説明しているうちに、それは確かな感謝に変わり、思わずお礼の言葉が出てくる。

「本当に失礼な質問だと思うのですが……エッセイをどうやって書かれてますか」

 そう真っ直ぐに訊くと、早瀬翔吾は愉快そうに笑う。

「エッセイを書くことになって……だから僕も先生のエッセイみたいなすごいエッセイを書きたいです」

 思ったままに口に出してから気づく。こんな小説を書きたいと思うことは多々あるが、こんなエッセイを書きたいと思ったのは今が初めてのような気がする。

 彼は何度か頷いてから口を開いた。

「そうだね……もうめっきりエッセイは書かなくなってしまったけど」

 彼は言葉を一つずつ区切って、丁寧に話してくれる。

「私がエッセイ――いや、エッセイだけではなく物を書くときは、その主人公となる人物を「見る」んだ」
「見る……」
「深く観察する。キャラを理解しなさい、と耳が痛くなるほど聞いたことかもしれないが、僕はそれを少し違う感覚として持っている。人をリアルに感じるんだ。それこそ、友達や家族、好きな人が夢で出てくることがあるだろう? 君にとってそれと同じかそれ以上の存在に、これから書くキャラクターがならなくてはならない、そんなふうに思っているんだ」

 キャラクターを、実在する人間と並列で考える、か。そんなことしたことがない。確かにキャラクターの理解のために多くの時間を使う。だけど、そこまでの深さじゃない。少なくとも、僕はそこまでできていない。

 彼は傍に置いたグラスを持ち上げ、一口炭酸水を呷ってから再度口を開く。

「簡単な方法は、キャラクター以外の人間との接触を断つ」

 そのピシャリと言い切るような口調から、彼が本気でアドバイスをくれようとしてくれていると理解する。

「キャラクター以外……全員ですか」
「そうだ。全員、誰とでもだ。小説のこと以外考えないし、元々の知り合いの濃度を限りなく薄めて、相対的に小説に出す予定である登場人物の存在を、自分の中で克明な存在にさせるんだ。分かるかな? 創作に集中する時は外部との連絡を断つ作曲家の話とか聞いたことないかい? 小説家だってそう。昔の文豪が、温泉旅館にこもって作業したり、山にこもって小説を執筆する作家が多いのもそれが理由なんじゃないかって、僕なんかは思うんだ」

 彼は過去を顧みるように遠い目をしながら語ってくれる。

 もしかすると彼のその考え方が、ユタカにとっては、家族を蔑ろにしているように映ったのだろうか。正直、早瀬家の家庭事情は分からない。だけど、過去にユタカと父親の話をした時、彼は家族を大切にしていない父親に憤りを感じているように見えた。

「それとエッセイの書き方として考えると、僕が自分のエッセイを書くときは、今言ったみたいに、自分だけを見つめる。その時の自分がどれだけ嫌なことを思っていたとしても、全てエッセイにすることで、忘れてしまいそうになる思考を拾い上げるんだ。そのためにはアンテナを張らなければならない。わずかな引っ掛かりでも取りこぼさないように、愛さなくてはならないんだと思う。ほら、大好きな恋人がいつもと違う表情をしていたら気づかなくてはならないだろう?」

 そこまで言って彼は悪い顔をこちらに向けた。

「そうして自分だけを見ていると、自然とその人物を言語化するのに必要なことが浮き上がってくる。アンテナが敏感になるからかな。そこまでいけばあとはそれを文字に起こす作業になる。そうなれば、おそらくほんの少しだけ書くことが楽しくなる。感覚的な話かもしれないが、「言葉を捻出する作業」がほんの少しだけ楽になり「言葉を見つける作業」に近づく」

 そして付け加える。

「ただまあ、これは良し悪しかもしれないし、このやり方が完全に正しいとも思わない。だからもう少しラフに考えてみてもいいのかもしれないね。その人のことを知れる機会を逃さないことだったり、その人中心で物事を考える、とか、その人の言葉や仕草を一生忘れない覚悟で集中して接する、みたいに。まあ、君は人の話を聞くのが上手だから、いろんな人と会話し、吸収したものをリアルタイムで物語に昇華することは得意なんじゃないか? あの難しい性格のユタカと仲良くしてくれているくらいだしね。あと息子にでさえ嫌われている僕なんかとも。それに」

 彼には僕とユタカの関係はどう映っているのだろう。

「人の話を聞くのが上手いということは、特にエッセイを書くのには非常に役立つと思う。結局のところ、他人の思考を表現するためには、その人を知ることが必須だからね」

 飯塚さんも同じようなことを言っていた。こうやってプロの作家や編集者に直接教えを乞う機会があって、僕は恵まれている。

「僕なんかに話を聞きにきてくれたから、あえて偉そうに言うが、そのエッセイで描く人物と、その人物に関わる人だけを優先して生活してみるといいよ。そうすると、少なくともその人の思考を言葉で表すくらいはできるようになる」

 彼はそこまで言い切って、切り替えるように口調をほんの少し軽くした。

「じゃあ、僕からの質問」

 にこり、と笑う。

「それで、その本は読んでみてどうだった?」

 僕は僅かに首を捻る。今この本に対する僕の思いをぶつけたはずだ。その疑問を感じ取ってくれたのか、彼が説明を加えてくれる。

「小説家としてではなく、一読者として。読者としての感想を聞きたい。まあ水間くんは小説家だから切り離すのは難しいかも知れないが」

 大先輩から僕を小説家だと認めてくれた気がして、心の中で喜びが光るが、彼の問いを受け、もう一つ思うことがあった。

 数多くの小説賞を受賞し、メディアでも取り上げられている彼のことだから、人の評価はそれほど意識していないのではないかと思っていた。そういうことを気にするのは、人気によって次の小説を出せるかどうかが決まる僕みたいな弱小作家だと。だが違うのか。

「そういう評価とか感想とかって……気になるんですか?」

 純粋な疑問をぶつける。言い方が悪いかと気になったが、彼も純粋な質問だと理解してくれたのか、からっと笑って答えてくれる。

「そりゃもちろん。自分が生み出したものを人様に見える形で提示するんだ。人様の時間を頂戴するんだから、その時間が有意義だったかどうか、不安にならないわけがない」

 何か事例を思い出しているのか、彼はグラスを持って小さく呷り、数度頷いてから言う。

「どれだけ小説がうまく書けても、どれだけ売れたとしても、一部の人からは嫌われるからね。もしかすると、うまく書けたり売れたりしたから、より、なのかも知れないが」

 その言葉で、彼の中にも、覚悟が潜んでいることが感じられる。

「だから、聞かせてくれるかな。どうだった?」

 考える。飯塚さんから渡されたこともあって、三郷さんのエッセイを書くための勉強としてこの本を読んでいた。だけど、もしそんなことは関係なく、たまたま本屋で手に取ったとしたらどうか。

 目の前に座っている彼から、僕の言葉を待ってくれる空気を感じたので、僕はしばらく時間を使い頭の中を整理してから正直に答える。

「これを書いた人が作った物語を読みたい――これを書いた人が生み出したキャラクターが考えて行動しているシーンを見たい……と思う気がします」

 僕は昔、友達のお父さんが書いたという理由で早瀬翔吾の本を手に取ったが、もしこのエッセイを本屋でたまたま見つけたとしたら、その後絶対に彼の書いた小説も読んだはずだと確信できる。

「それだけ、このエッセイの中で考えられて表現されていることに親近感を覚えました。手を伸ばした時、ぎりぎり爪が引っかかるかどうか、くらいの距離にある考えが書かれていて、こういう考えの人ともっと関わりたいと思ってしまう。だから、この著者に会いたい、そしてこの著者が生み出したキャラに会いたい、そう感じると思います」

 僕の言葉をじっと聞いていた彼は、満足そうに微笑む。

「それはよかった。書いた甲斐があったよ」

 そして、グラスを持って、今度は一気に中身を飲み干した。





 バーを出て駅へと向かっている途中、スマホに着信が入った。早瀬翔吾と表示された画面を見て、さっきまで話していたにも関わらず緊張が走る。

 ユタカとの血のつながりを感じながら電話に出ると、彼は訊いてくる。

「さっき訊くのを忘れていたんだが、今日僕と会ったことって、ユタカは知っているのかい?」
「いえ、ユタカには話してないです」
「そうか」

 何か逡巡しているような間が空いたので、僕は再度お礼を言う。

「今日は本当にありがとうございました」
「じゃあ今度ユタカと一緒にご飯を食べられる機会でも作ってくれるかな」
「それは……」

 僕がユタカにその提案をする時のことを考えると、ユタカのめちゃくちゃ嫌そうな顔が想像できる。そうしていると、彼はからからと笑った。

「あはは、君は正直だね。いいことだ。人に好かれる。今言ったことは忘れてくれ、ユタカと仲良くしてくれているだけで十分だよ。ご飯に行くというなら、私からきちんと誘うべきだ」

 彼は僕からお願いして会ってくれたから、正直なんと返答すればいいか困った。

「そのときは一緒に来てくれるかね?」
「それは、ぜひ」

 僕からユタカを誘うのは気が引けるが、ユタカが父親と一緒にご飯を食べることを受け入れ、そこに参加する形ならまだいい。

「助かるよ。何か私から盗んで帰れたものがあれば嬉しいが」

 そんなことを言ってもらえて恐れ多い。だから電話を持ちながら僕は首を振る。

「本当に勉強になりました」
「後、思ったんだが、水間くん。なんだか前にあった時よりも楽しそうな目をしていたね」
「そうですか?」

 憧れの大作家にそう言ってもらえ、自然と口角が上がる。

「文章を書くことはとてつもなく苦痛が伴う行動――それこそすぐにでも辞めてやりたくなる事だが」

 それこそ多くの作家が羨むような作家生活を送っているはずの彼が赤裸々にそんなことを言うから少し笑ってしまう。

「それでも、おそらく僕らは、叶えたい夢があれば相応の茨の道を歩まなくてはならない。そんな時に支えとなる心の支柱――それこそ誰のために、とかがあれば、しんどくても光が消えることがなくなると思うんだ。結果的に、それが、今やっていることを捨てることにつながるかもしれない。それはそれでいいんだ。分かるかな?」
「……はい、なんとなく分かる気がします」
「よかった……ああ、すまない、電話でこんなこと。君と話していると饒舌になってしまうな」

 彼の優しい表情が脳内に再生される。

「もしかして君も」

 その表情が、少し悪い顔をした気がした。

「何か見つけたのかな」

 しばらく考え、答えとして合っているか分からないが、脳内に一人の女性を浮かべながら言葉を返す。

「まだ、分からないところも正直ありますが、前よりは少しだけ心が楽な気がします」

 僕の言葉に何を感じ取ったのかは分からないが、彼は愉しげに笑ってくれた。

「それはいいことだ」
「早瀬先生は、なんのために小説を書いているんですか」
「大切なものを、守るためだよ。その手段が僕は小説だった。それだけだよ。だから僕はこれからも小説を書き続けようと思えるんだ。もし筆を折るくらいしんどくなったって、どれだけ嫌われたって書き続けるよ」

 真面目に聞くべき場面なのに、その回答を聞いて、僕の頬は緩んでしまう。

 やっぱり彼は、ユタカの父親だ。