観客の大勢いる暗い部屋の中でスクリーン上に映る彼女を観ながら、彼女と共に過ごした日々を思い出す。
彼女と出会い、書くことの面白さを再認識させてもらい、彼女のために全てのものを注ぎ込もうと思わせてくれた。
彼女に救われた。短期間ではあったが、そんな生活を僕は一生忘れない。
そんな気持ちを胸に抱きながら、大きなスクリーンの中で動く彼女のことを、初めて会った時のことを思い出しながら観ていた。
もうあの時のように話すことは二度と叶わないけど。
ーーー
二十三回目の誕生日を迎えたその日、僕は、夢の中で久しぶりに、大学入学してすぐの頃の記憶を思い出していた。
「夢を運んで来てくれる悪魔がいるんだって」
安さが売りの居酒屋で塩の効きすぎた枝豆を口に運んでいたら、端の方に座っている同回生のバカでかい言葉が聞こえてきた。随分と酔っている彼は、その声量で周囲の注目を集める。
夢を運んでくれる悪魔なんて、随分アンバランスな組み合わせだ。天使の間違いじゃないのか、そう心の中でツッコミながら、ふわふわした頭で話半分に聞いていた。
酔いが回り始めた同じ学部のメンバーたちは、表情に様々な感情を浮かべている。
けど飲み会が開始して一時間、大半はその飲み会テンションの話に興味津々のようだ。みんなの疑問を代表するように、近くにいた誰かが疑問の声を上げた。
「なにそれ? なんの話」
その質問に、端の彼は嬉しそうに口を開いた。
「なりたいものにならせてくれる悪魔ってのがいるって話」
「まじの話? なんかの映画とか?」
「いや、現実らしい」
「どんな夢でも?」
「そうなんだって」
「え、最高じゃない?」
「そう。でも、願った夢を叶えてくれる代償もあるんだって」
「代償? なんか奪われるの?」
「そう」
「それで悪魔、か。で、なにを奪われんの」
「 命 」
熱気の充満する居酒屋の個室でそんな言葉が響くが、一瞬も場の空気は止まらない。
「え、どういうこと」
「対価として寿命を差し出すみたい」
「何それ、夢と寿命を交換するってことかよ」
「え、じゃあ夢だけ叶ったらすぐに死んじゃうってこと?」
「いやいや、夢の大きさによって対価となる寿命が変わるらしい」
「それってどういうこと?」
「大きな夢叶えたらその分多く寿命を取られて早死にしちゃうんだって。後一年しか生きられない代わりに、夢叶いますよーってな感じで」
「うーん、夢叶えた状態を味わってから死ねるなら満足かなあ……いや、流石にそんなわけないか。ちゃんと満足できるレベルの夢だったら、ほとんど寿命取られそう」
「確かに、夢叶えてからの時間を楽しむために叶えたいのに、すぐ死ぬなら意味ないわ」
「夢のような生活が待ってても、一年とかしか生きられないなら嫌だなあ」
楽しそうな同級生は、ひとしきり各々の意見を投げ合っている。
僕はそれを聞いた時、夢みたいな話を面白がりながら、盛り上がる彼らと反対の意見を持っていた。しばらくして、質問の矢印が僕に向いた。少し前、小さな小説賞で最終候補に残ったからか、みんなが僕の言葉を待っている気がした。
「水間は? どうよ、夢と寿命の交換」
僕にも叶えたい夢はある。ミリオンセラーとなる小説を何冊も出版して、映像化してほしい。みんなが知っている有名小説家になりたい。そして、その先にも広い広い夢が広がっている。
僕だって、そんな夢を叶えられる人間は一握りしかおらず、この出版不況の中でそれがとんでもなく難しいことだということは理解していた。
それでも。
「――夢物語だけど……もしそんな話が本当にあるのなら、寿命を差し出してでも夢を叶えたいかな」
あの頃の僕は、自分が、その、とんでもなく難しい、を飛び越えて大成できる側の人間だと勘違いしていた。だから悪魔の話で盛り上がった美大の同回飲み、みんなの目がこっちを向いている中で、僕は迷うこともなくそう言い切った。
その後もみんなの盛り上がりは止まらず、でも一方でどんどん景色が掠れていき、周りの同回生の声も薄れていく。
遠ざかっていく友人たちの声の中で、これは夢なんだと感覚的に理解した。
目が覚めた時、あまりにも鮮明な夢をみていたからか、そもそも過去の記憶を切り取った夢だったからか、久しぶりにみた夢を僕はしっかり記憶していた。黒歴史とも呼べるその記憶に、僕は舌を噛む。そして、わずかに覚醒した脳で考える。
例えば。生きるのは二十五歳まででいいから、あの当時――二十歳の時に出版した処女作が、映像化してほしいと思っていた。生み出した作品が人気になり、大人気俳優が主演を務める映画のオファーを受ける。その後、海外版の発売。翻訳された小説も売り出され、海外でもファンがつく。そんな大きな出来事が起こる事を望んでいた。
けど実際はどうだ。
苦労して書き切った小説が運よく小説新人賞に受賞したときにも想像した程にはその小説は売れず、新人賞受賞という箔がついているその小説に映像化の話はこなかった。その後も数作の本を出したが、出版の度に部数が減っていく一方だ。
あの時一緒に飲んでいた同回生は一握りがそれぞれの分野で有名になり、それ以外はほとんどが就職しサラリーマンとして働いている。
一方僕は、まだ小説という夢を追っている。大学も休学して、小説家として大成する夢にしがみついている。いや、昨日、担当編集者に言われたことを考えると、もうしがみつくこともできていないのかもしれない。
最近よく思う。
このまま中途半端な小説家を続けていいのだろうかと。時代を代表するような人間が溢れるこの世界で、何者にも慣れないまま骨を埋めるのかと。
自分がいつ寿命を終えるのかは知らないけど、数十年分の寿命を犠牲にしてでも、夢が叶った状態で残りの数年を過ごす幸せだと思う。
だけどもちろん、二十三歳になった現時点で大作は生み出せていない。
そもそもが夢物語ではあるが、言うまでもなく悪魔なんか現れず、僕は寿命を毎日一日ずつ消費していた。
そんなことを考えながら、ベッドからもぞもぞと這い出し洗面所に向かう。蛇口を操作し出てきた水を、手で作ったお椀の中に溜めた。そしてその冷たい水に顔を突っ込んで、無理やり脳を覚醒へと引き摺り込んだ。
顔を上げ鏡を見ると、光の灯っていない目がこちらを向いている。
――次の会議で出せないと厳しいですよ。そろそろ次のネタを出してもらわないと困ります。
昨日、担当編集者である飯塚さんに言われた言葉がずっと頭に残っている。その言葉に追い立てられるように洗顔と歯磨きを済ませ、そのままデスクへ向かう。
パソコンをつけ、次回の小説のネタを考える。だが、しばらくの間デスクの前で唸ってみても、全くいい案は浮かばなかった。
不意に吐き気をもよおし、トイレに駆け込む。嘔吐くだけ嘔吐いて何も出てこないから、仕方なく部屋に戻り、冷蔵庫にあったスポーツドリンクを少し飲む。
「だめだ……」
気持ちを切り替えるため、ノートパソコンを開けて度々訪れるサイトにアクセスする。ショートショートの執筆をするのだ。
ショートショートとは数百から千文字程度の小説のことで、長編小説を書いている途中で集中が途切れた時や、新しいネタが思い浮かばない際にはショートショートを執筆することにしていた。結局毎日やっているとは認めたくないが、集中は切れるものだ。
画面に出てきたサイト内、ランダム表示と書かれた部分をクリックすると、ショートショートのテーマとキーワードが指示される。その条件に沿って、即興で執筆するのだ。
ショートショートの執筆はどれだけ長くても三十分以内に終えると決めているため、ゆっくりと考えている暇はない。お題が出てから数分の思考だけで書き始めないといけず、それが僕の性に合っていた。
今日のお題は「三人 ピアノ 自分」だ。また難しい。
ただ、脳内は情報を処理して組み立てる作業へとスッとシフトしていく。
三人の自分……「聞いた音色で感情が変わってしまう」「三人で連弾していると思うくらいの打鍵数での演奏をするための練習の大変さ」「ピアノ好き、ピアノ嫌い、ピアノを知らない自分三人の関わり合い」辺りだろうか。
脳内で一〇〇〇字程度で書き切れるエピソードを作成した後パソコンを打鍵し、最後に友人に完成した小説を送り付けて本日のルーティンを終える。
再度切り替えて飯塚さんからの宿題に取り組もうとするが、頭の中でキャラクターが浮かんでくれない。
しばらくの間ノートの前で唸っていても何も進展がなく、焦りが身体中に広がっていく。
本当にやばい。このまま思いつかなかったら、小説を書くことさえできなくなるかもしれない。飯塚さんは面白いと思うものしか絶対に書かせてくれないし、面白くないものをまた出せばそれこそ売れずに小説家人生は幕を閉じてしまう。
そうなれば休学中の大学に再度通学し、卒業した後、就活をせねばならない。さっきまで見ていた夢の影響か、昨日SNSで見た会社員となった同級生の投稿のせいか、物語を脳内で作り出そうにもそんなことを考えてしまう。
だめだ、悪循環に陥っている。こんな状態で小説のネタを考えようとしても、いい案なんか思いつくわけがない。
いいや、一旦家事でもするか。思考を小説から離そうと思い、僕は立ち上がりテレビをつけた。
小説を書いている時以外はいつでもテレビをつけている。テレビがついていないとなんとなく物足りなく感じるのは、子供の頃から家でずっとテレビがついていたからだろうか。
テレビの音声をBGMに、部屋を掃除していく。耳と視界に入ってくる情報の中で、保険、新しくできた温浴施設、惣菜パンの宣伝が流れていく。そのうち、二つのCMが同じ女優を起用していた。国民的女優と称される犬尾三郷だ。彼女は六、七年ほど前にデビューし、みるみるうちに有名になっていった。年齢は僕と同じ二十三歳だが、売れない小説家として燻っている僕とは違い、既に夢の芸能界において確固たる地位を確立していた。
そんな女優を朝から目に入れてしまい、今朝見た夢をまた思い出させられた僕は舌を噛む。
そして、新作の柔軟剤の宣伝だろう、タオルの香りに気持ちよさそうに包まれている彼女を見て、僕は洗濯物が溜まっていたことを思い出す。
掃除を止め、僕は脱衣所に向かう。カゴの中に詰まっている洗濯物を大きなランドリーバッグに移し替えたのち、重くなったバッグを背負って家を出た。
高校生の時から使っている自転車にまたがり、コインランドリーへと足を動かす。
三ヶ月前洗濯機が壊れ、人生で初めてコインランドリーを使った時、洗濯が週一回で終わることの素晴らしさに気づき、その後は家で洗濯をしなくなった。
洗濯機を購入できないほど生活に余裕がないわけではない。まだデビューして数年、駆け出しの小説家ではあるが、デビュー時の新人賞で獲得した賞金の一部は残ったままだし、今のところはぎりぎり生活に困らないほどの印税が入ってきている。
けど、不安なのだ。ぱっと印税が途切れたら、貯金は減っていくし、そしたら引っ越しをしないといけないかもしれない。引越しにもお金がかかる。それを心配するくらいの小説家ではある。
自転車を漕ぎながらいくつかの信号機を躱していくと、黄色いマークの銀行が現れる。銀行のガラス面には大きくクレジットカードの広告が貼られていて、起きてから何度も見た国民的有名女優が嬉しそうに金色に輝くカードを機械にかざすシーンが映されていた。
まん丸で大きな彼女の目に見守られながら、足を回転させる。
ふと思う。時代を代表する女優である犬尾三郷だったら、なんと言うのだろうか。
もし彼女の目の前に悪魔が現れ、夢を叶えてくれると言ったら、どう答えるのだろうか。
すでに成功している彼女であれば、夢くらい自分で叶えられる、なんてかっこいい事を言うのだろうか。
そんな小説のネタにもならないことを考えながらしばらく進んでいくと、目的地が見えてくる。駐輪場に自転車を止め、僕は大きな荷物を肩に持った。
最近できたこのコインランドリーは非常に清潔感があり、僕のお気に入りの場所だった。
室内はウッド調に統一されており、洗濯を待つための椅子も、ただの丸椅子とかではなく、カフェに置いているようなデザインの凝ったチェアが設置されている。室内は暖かみのある照明に照らされており、洗濯機と反対側の壁にはジュースとお菓子の自動販売機も設置されていた。そこまで広い空間というわけではないのだが、混んでいることも少なく居心地がいいので、洗濯の間いつもゆっくりコーヒーを飲みながら待つことにしていた。
お昼時の時間だから誰もいないだろうと予想していたが、自動ドアを抜けて中に入ると、その綺麗な空間には先客がいた。
ただ、他に客がいたとして、洗濯をしに来ている人の顔なんかいちいち確かめない。一応女性だったので、気を遣って下着が見えないようにランドリーバッグから洗濯機に洗濯物を入れ替え、ランドリーカードを入れて洗濯開始のボタンを押す。
洗濯物が溜まっていたから、自動で判定された洗濯乾燥時間は、七〇分程度だった。
洗濯槽の中に水と洗剤が投入されたことを確認し、待合室の椅子に座る。その後、ランドリーバッグのポケットに入れていた小説を二冊取り出し机に置いた。
片方を手に取り、表紙を開ける。小説のアイデアが浮かばない時は、いつも自分の処女作である『うさぎ階段』を読むことにしている。初心に帰る、というやつだ。もう一冊はある天才小説家の処女作『紅いカラス』という本だ。その天才小説家は僕の親友でもある日留賀ユタカという人物であり、彼とは僕と同じ回の新人賞で受賞した縁で仲良くなった。今となっては小説家としての地位は雲泥の差だが、それはあまり考えないことにしている。
ぺらぺらページをめくり、どこを読もうか考えていると、先ほど乾燥機の前で機械を操作していた女性が僕の向かいのスペースに腰を下ろした。洗濯を終え、乾燥機への移し替えが完了したのだろう。
視界の端で、彼女がサングラスをかけていたことに気づく。洗濯をするだけなのにわざわざサングラスをかけているとは、やはり高級住宅が近くにあるこの街はおしゃれだと、この街に引っ越してきた五年前に思ったのと同じ感想を抱く。
座った彼女が細い指でゆっくりとサングラスを外す。なんとなく綺麗な女性の雰囲気を感じ、文面からちらりと上げた顔が、かたまって動かなくなった。
喉の奥がひゅっと音を立てる。忘れていたように、鼓動が加速する。
まじかまじか。え。
目が釘付けになり、体全体が硬直しながら、僕は自分の目を疑う。
脳が、目に映る情報を整理し始め、そして再度、緊張が全身を駆け抜けた。
深い緑がかったサングラスがなくなり露わになった彼女の目を、僕は見たことがあった。
いや、見たことがある、どころじゃない。
さっき、ここにくる途中に見た。見られていた。銀行の窓から。
テレビでも見た。柔軟剤の香りとタオルに包まれて気持ちよさそうな顔をしていた彼女を。
新しくできた温浴施設の温泉に、幸せそうな表情で浸かっていた彼女を、知っている。
自転車でコインランドリーに向かう僕のことを、クレジットカードを機械にかざしながら見ていた彼女の目は、現実でもやはり大きかった。
目が大きさによるものか、まばたきという行動の輪郭がくっきりとした情報として入ってくる。こんな時でも頭の中で状況が整理されているのは職業病だし、誇れることだと思う。
が、今回ばかりはそんなものじゃなく、心の奥から湧き上がる動揺をどうにかコントロールしようと、平常を取り繕うためだったのかもしれない。分からない。思考に靄がかかり、声を失っていた。
それほど、気が動転していた。
慌てて僕は彼女から目を離す。それがいけなかったのかもしれない。
通常、との差異は人の注意を引く。それこそ、コインランドリーで目の前に座った女性が、その場には違和感に感じるサングラスをかけていた、みたいな。
だから、急に目を逸らした僕に対し、前にいる大女優が、目線をこちらに向けたのを感じた。意識が脳に行きすぎて、緊張で固まった手から小説が滑り落ちる。
「あ」
二人の声が重なる。
なるべく平静を装って小説を拾い、ついてるかも分からない埃をはらう。再度ゆっくりと顔を上げると、彼女は僕が拾い上げた小説を見ていた。数秒後、驚いたような表情のまま上がってきた視線は、僕の顔を真っ直ぐ捉えていた。
視線が交わり、僕は唾を飲み込む。うまく息をすることさえできなかった。
つつ、と背中に汗が流れる。別に暑くなんてない。自転車を漕いできたときも汗なんか少しもかいていなかったし、むしろ新しいコインランドリーはほんのり涼しいくらいだ。なのに、全身の血流が加速し、汗が止まらなくなっていた。
彼女の長いまつ毛が滑らかに動き、数度瞬きする。
なんだ、この雰囲気。このオーラ。こんなにも違うものなのか。心音が叩きつけられるように高まるのを感じながら、僕はある感覚を思い出していた。本を読むのが好きな人だったら分かるあの感覚だ。めちゃくちゃ面白い本を読んでいて、クライマックスに近づいたときの、心がひりひりするような感覚。胸の上の方が圧迫されるような感覚が、彼女の丸く大きな瞳に見られるだけで生まれる。
心の芯を握られるような、揺さぶられるような、そんな。
これが映像作品だったら、周りの音が消え、彼女の動きが解像度高く映し出されるんだろう、そんな間があった。
実際その瞬間、洗濯機の音が周りに響いていることは忘れていた。
彼女はわずかに首を傾げ、こちらに向かって微笑んだ。おそらく彼女のことを認知している人に見つかった時にしているのであろう、その慣れきった動きを見て何かを言わなければと思った。
自惚れかもしれない。だけどその時確かに、彼女が僕の言葉を待っているような雰囲気を感じた。
……なんだ、何を言えばいい?
冷や汗が止まらない。
失礼にならず、けどこの珍しい体験を無駄にしない、そんな言葉……。いや、そんな言葉なんかあるのか。そうやって高速で脳を回したのがいけなかったのだろうか。
「もし――」
今朝、夢の中で訊かれたたバカみたいな質問が口をついて出た。
「もしも、命と引き換えに夢が叶うとしたら、どうしますか」
真っ直ぐに向けていた彼女の大きな瞳がさらに一段大きくなる。
やっぱりまだ、頭が回っていないのかもしれない。