「……七瀬?」

 キョトン、として神崎が言う。私ははっとして慌ててお礼を言った。

「わ、わざわざ買ってきてくれたの? ありがとう……!」

「てゆーか今日も売れ残ってた。人気ないんだよ、おれも昨日微妙だなーって思ったけど」

「お金……」

「いや、俺が勝手に買ってきたのに金なんかいらないって。感想聞かせてなー」

「いやでも、悪いよ、なんかお礼を……」

 朝見た会話を繰り返す。意識していなくても、自分の口からは勝手に夢の通りのセリフが出てきてしまう。そして神崎は少しだけ考えた後、私の手元にある弁当箱を覗き込んで言ったのだ。

「じゃ、その弁当のミートボール一個ちょーだい!」

 ついに、最初から最後まで夢の通りになってしまった。

 私はただじっと神崎の顔を見上げている。この不思議な感覚をどう表せばいいのだろう。なぜ? という疑問に、すごい! という興奮、そんなわけないという疑心に恐怖。

 今まで不思議な力とは無縁だった自分にとって、こんな体験特別すぎる。

「陽菜? どうしたの?」

 向かいに座っている美里が小声で心配そうに聞いていた。黙り込んでしまっていたことを思い出した私は、笑顔で弁当箱を持つ。

「あ、えと、ごめん神崎。いいよ食べて。二個あげる」

「まじ? やったね」

「あ、えっとどうしよう箸」

「借りるわ」

 私の言葉も最後まで聞かず、神崎は置いてあった箸を勝手に手に取ってそのままミートボールを挟んだ。綺麗な箸づかいだが、神崎の大きい手に私の弁当用の箸はだいぶ小さく見えた。

 ぽいぽいとすぐに二個口に入れた神崎は笑いかけてくる。

「ごちそうさま!」

 ほんの数秒に起こった一連の行動を、私は停止して眺めていた。私の、箸。

「あれ、七瀬?」

「あ、うん、こちらこそパンご馳走様」

 差し出された箸をおずおずと受け取る。あれ、どうしようこの箸? このまま食べるの恥ずかしいけど、かといってわざわざ洗いに行くのは感じ悪いよね? 少し戸惑った自分だが、ここで狼狽えては私の片思いがバレるかもしれない。平然を装ってそのままブロッコリーを掴んで食べた。

 これまでの人生で一番ブロッコリー食べるの緊張してしまったではないか。

「つーかもうすぐ学祭じゃん? 今年も盛り上がりそうだよなー」

 神崎は立ったまま、買ってきた菓子パンの封を開けて頬張った。美里が答える。

「一年で一番盛り上がるよねー特に、後夜祭、が!」

 やけに後夜祭の単語を強調する。どこかニヤニヤして私と神崎を見ているのはきっと気のせいじゃない。私はブロッコリーを飲み込んで言った。

「ああ……体育館か、校庭かのね」

 美里が何を言いたいのか、私にだけはわかっていた。

 もう間も無く本番を迎える学祭。年に一度のことで今もクラスみんなが力を合わせて準備を進めている。ちなみに私のクラスは今年巨大迷路を作成する予定だ。大量の段ボールを入手したり装飾したりして慌ただしい。

 うちの学校の学祭はなかなかの盛り上がりを毎年見せる。それは去年体感していた。生徒数が多いというのもあるし、出し物も結構な時間をかけて手を込ませる。
 
 そしてその学祭の後、うちの学校は二箇所で後夜祭と呼ばれるものが行われるというちょっと変わったところがある。

 場所は体育館と校庭。バンドの演奏だったり、花火だったりがある。どちらに行くのかは自由だし移動も自由なのだが、いつからの伝統なのか、『体育館は独り身』『校庭はカップルたち』と変に分けられてしまっているのだ。

 分けられているといっても決まり事というわけではない。そんなことパンフレットに書かれているわけでもプリントで配られるわけでもないのに、なぜか自然とそうなってしまっている。

 去年はもちろん私は体育館。このままいけば、今年も体育館参加だ。そういえば去年、まだ隣のクラスだった神崎を体育館で見かけ、「彼女いないんだ」ってホッとしたのは懐かしい思い出だ。

「神崎はー体育館組?」

 美里がこれみよがしに尋ねた。彼は目を座らせて言う。

「おう二年連続」

「へえー陽菜と一緒だねえ?」

 ぐっ。やめてほしい。私はなんとも返事できず困った。そりゃ、本当なら学祭までに神崎と付き合って校庭に行きたいよ! それが本心です文句ありますか!

 神崎が私の方をじっと見ていた。何も言ってこないのがまた気まずい。私はとりあえずミートボールを食べた。

「そういう桑田も体育館じゃねーの?」

「体育館だけど〜私は他校に彼氏いるもーん。学祭の時だって来てくれるって約束してるんだもーん」

「え、まじ? 知らなかった」

「去年体育館だったんなら、今年は校庭を楽しめるといいねえ? ね、陽菜!」

 なかなか勇気を出さない私に痺れを切らしたのだろうか、今日の美里の攻撃はちょっと強めだ。私は返す言葉もなくただただ口を尖らせて美里を睨んだ。

「おい隼人ー」

「んー? なに」

 タイミングよく誰かが神崎の名前を呼んだ。神崎はパンを齧りながら呼ばれた方に歩いていく。ほっと息をついて、小声で美里に非難した。

「美里!」

「あは、ごめんごめん、あんたらじれったくて」

「もう、やめてよ」

 ため息をついてお弁当の続きをと箸を伸ばしたとき、まだ一つ残っているミートボールが目に入った。その隣に置かれているボリューム満点のパンを次にながめた。

 さすがに偶然だとは思えない。何から何まで夢の通りになってしまった。信じられないことだが、もう疑うこともできない。

 ごくりと唾を飲む。

 間違いない。

 私は予知夢が見れるんだ。





 
 予知夢はそれからも不定期に見えた。ただそこには必ず神崎が絡んでいるのが特徴だった。

 神崎が筆箱を忘れてシャーペンを貸すとか、グループ学習で同じ班になるとか、内容はたわいないものだった。だが、神崎に片想いしている身としてはそのたわいない予知がこれ以上なく嬉しい。

 まあ正直、予知夢として見たからといって私と神崎の仲がどうこう変わるようなことはなかった。今日はこんなことが起こるんだ、と私が密かに楽しみにするぐらいで、役立っていることは特にない。

 突然芽生えたこの不思議な力を、私は美里にさえ言うこともできずにいた。美里は私を疑うようなことはしないだろうけどやっぱり普通はすぐには信じられない。

 神崎との細かな生活を夢の中と現実、二回味わえることを、私は一人で楽しんでいた。





 下駄箱で革靴に履き替えたとき、昇降口から物凄い雨音が聞こえてきたのに気が付いた。そちらを向くと、怒り狂ったように雨が地面を打ちつけていた。

「うそ〜……雨予報なんてなかったじゃん」

 私はうんざりしながら言った。

 自転車通学の自分は、雨の日だけはバスに切り替えて通学していた。だから毎日の天気予報は欠かさないし、少しでも雨が降りそうなときはさっさとバスで通うのだが。

 今朝は雨予報だなんてなかった。だから自転車で来たし、朝は雲ひとつない快晴だったのに。こんな土砂降りの中自転車で帰るのは気が引ける。

 困ったなとため息をついたときだった。背後から同じようなため息が聞こえた。

 振り返ると、神崎がそこに立っていた。彼は私に気づくと、困ったように笑った。

「あれ、もしかして七瀬も自転車で来ちゃった?」

「あ、うん……だって天気予報よかったから」

「この雨は反則だよな。俺はちょっとくらいの雨なら全然自転車乗るけど、さすがにこれはないわ」

 ザーザーと水の音は私たちの会話すらかき消してしまいそう。数人傘をさして外に飛び出していくが、傘の意味すらなさそうな降りっぷりだ。神崎が私の隣に並んで外を眺める。

「でも、多分通り雨じゃね? ちょっと待てば帰れそう」

「そうかな、ちょっと待ってみようかな」

「俺も」

 その白いシャツが私の肩に触れそうなくらいの距離
に心臓が高ぶった。私よりずいぶん背が高い神崎は、視線を持ち上げないとその顔が見られない。

 さっきまで文句タラタラだったくせに、今は外した天気予報を神輿で担ぎたいくらいに感謝していた。神崎と二人で雨がおさまるのを待つだなんて、こんなシチュエーション興奮するなという方が無理だ。

 ありきたりな感情だけれど、雨なんて止まなくていいと思った。そんなどっかの陳腐な歌詞みたいなことを考えてしまった自分に苦笑いする。

「神崎今日の数学爆睡だったね、引くくらい」

「引くなよ」

「あはは、だって本当に爆睡だったんだもん。途中夢見てたでしょ、びくんって体がなってた」

 その光景を思い出して笑う。数学の授業、神崎は机に突っ伏して豪快に眠っていた。それは清々しいほどの居眠りだった。面白おかしく隣で観察していたとき、彼は体をびくっと反応させていた。多分何か夢を見てたんだろうな。そんな光景を観察できるのも隣の席ゆえの特権だと思った。

「あーなんか夢見てたかも」

「あは、あそこまで堂々と寝るの凄いよ。ちゃんと夜に寝なよね」

「はいはい」

 恥ずかしそうに言う神崎を見てまた笑った。彼は話題を変えるように、外を観察しながら言う。

「けどもう少ししたら学祭一色で帰りも準備で遅くなるよなあ。前日とか特にさ。七瀬そんな暗い中で自転車で帰るの?」

「え、去年は普通に自転車だったけど……」

「気をつけなよ。夜道を自転車とか」

 つい神崎の顔を見上げる。ちょうどこちらを見下ろした彼とばちっと目が合った。別に目が合うことなんて毎日あるのに、私はその時だけは恥ずかしくてすぐに逸らしてしまった。

「あ、ありがとう。心配してくれて」

「まあ、七瀬も一応女子高生だから」

「一応って何、一応って」

「ははっ、冗談」

 笑った神崎に釣られて笑う。彼はいつだって優しい。友達にも、迷子のおばあちゃんにも。その優しさは、特別な人に向けるときは一体どうなるだろう。

 優しいの最上級みたいな神崎。これ以上優しいのなんか想像つかない。

 ふとなんとなく彼の腕が目に入った。白い半袖のシャツから出ている腕に、赤色が見える。

「……え、やだ神崎、肘血出てるじゃん!」

「え?」

 彼は自分のことだというのに、今初めて気づいた、みたいな顔して肘をみた。直径5センチほどの引っ掻き傷のようなものから血が出て、よくよくみれば袖が僅かに染められていた。

「あー多分自分でやったわ」

「え?」

「蚊に刺されて痒くてかきまくったから」

「どんだけ掻いたのよ!」

 呆れて突っ込んだあと、そうだと自分のカバンを漁る。どこかに絆創膏が入っていなかったっけ、確か鞄のポケットに……!

 好きな人が怪我をして絆創膏を差し出すのはベタなパターンだけど女の憧れでもある。ついに、その時が来たか!

 そう意気込んでカバンの奥から取り出したそれを見て、私は停止した。

 長く仕舞いっぱなしだった絆創膏は、黒ずんでボロボロに折れ曲がっていた。

「……うわ」

 私は小さく声を出して慌ててそれを隠した。そうだ、髪も乾かさずに寝て朝爆発寝癖になるくらいズボラな自分が、綺麗な絆創膏なんてタイミングよく持っているはずがなかった。

 顔が熱くなる。

 なんで今日はこのシーンを予知夢で見なかったんだろう。もし見てたら、私新品の絆創膏カバンに入れてきたのに。いろんなサイズ揃えてめちゃくちゃ準備のいい女になれたのに。恥ずかしくて俯く。

「くれないの?」

 隣からそんな声が聞こえてちらりと見上げた。神崎が私を優しい目で見ていた。

「あ、いや、ごめん。ぼろぼろだった」

「外の包装だけでしょ、ちょうだい」

「で、でもシワシワだよ」

「いいよ、ちょうだい」

 神崎の力強い声に後おしされ、私はおずおずと例の絆創膏を取り出した。さすがにそのまま手渡すのは気が引けたので、外袋を剥がして中身だけ渡す。

「ありがと」

 そんな残念な贈り物に、神崎は白い歯を出して笑った。一瞬あまりに苦しくて、私の周りだけ酸素がなくなったのかと思った。

「ごめん、そんなボロいの」

「いいよ、ありがたい」

「あ、貼ろうか」

「じゃあ任せた」

 肘を曲げて私に突き出す神崎に、そっと絆創膏を貼った。神崎の腕は私のものとぜんぜんちがった。肌色も、太さも、固さも。

 手が震えるんじゃないかと心配していたとき、神崎が言う。

「七瀬は優しいよな」

「……え!?」

「迷子のばあちゃんに声かけたりしてさ」

「そ、そんなの誰でもそうするよ」

「わざわざ自転車降りて話しかけるのって、意外と勇気いるよ」

 なんとか貼り終えた絆創膏から手を離し神崎を見上げた。だって、そんなの。結局私はうまく対応できなくて焦ってただけ。そこに話しかけてくれた神崎だって、十分優しいのに。

「神崎が助けてくれなかったらどうなってたか……」

「はは、大袈裟」

「ほんとに。私全然優しくなんか」

 言いかけて言葉を飲み込んだ。神崎があんまりにも優しく笑っていたから。

 優しいのは、神崎なのに。

 どうしようもない感情に包まれる。褒められて嬉しいだとか、大袈裟だよっていう謙遜だとか、恥ずかしい気持ちだとか。
 
 ただその感情も全て、神崎の無邪気な笑みに消滅させられた。

…………告白、しようかな。

 散々無理だと拒否してきたくせに、私の心にそんな提案が浮かんだ。やっぱり神崎と付き合って、学祭の日は校庭に行きたいと願ってしまった。だって、こんな素敵な人、今彼女がいないだけでも奇跡だと思う。

 本当は心の奥底でわかっているんだ。動いて見ないと何も変わらない、ってこと。

 神崎の肘に貼れられたやけにシワシワの絆創膏をぐっと眺める。

「あの、かんざ」

「あ、雨だいぶ弱まってない?」

 名前を呼びかけたところに神崎の声が重なった。外を見てみれば、確かに空はまだ薄暗いが雨はもうほとんど降っていない状態だった。

「やっぱ通り雨だったな!」

「あ、そ、だね」

「てかごめん、なんか言いかけた?」

 首を傾げてこちらを見てくる神崎に反射的に首を振ってしまった。

「ううん、なんでもない!」

「そう? じゃあ帰るかー」

 大きく伸びをしながらそう言った神崎を横目で眺めて私は口を閉じた。

 明日。また明日にしょう。

 まだ今日は勇気のチャージが足りていない。

 私は俯いてそう自分に言い聞かせた。