「謝ることなんて何もない。謝らなければいけないくらいなら、私はこの家を出ていくわ」
 私がそういうと、父が何かを理解したような顔で返してきた。

「アオは日本で苦しいことがあったのを思い出して、不安になっているんだよ⋯⋯」
 父も母も私に同情の視線を向けてくる。

 それくらい、私は中学時代、日本で酷い目にあって精神が崩壊しかけた。
 色々な国に行った時もいじめにはあった。

 しかし、海外ではいじめが人種差別によるものだったり理由が分かりやすかった。

 やっと日本に住めると思って期待した日本でのいじめは、全く理由がわからなかった。
 ある日、突然周りに無視をされて教師までもが私に嫌味を言うようになった。
 私はその味わったことない空間が怖すぎて、思わずクラスメートになぜこうなったのか尋ねた。

「調子に乗ってるからだよ。みんなあんたのこと嫌っている。学校の裏サイトでも色々書かれている」

 私はその時に学校の裏サイトの存在を知った。
 聞いた通りの検索の仕方をすると、すぐそのサイトは見つかった。

 誰だかわからない人達が、私の事を有る事無い事でっちあげて悪く言っていることに恐怖した。
 私は日本の中学に3ヶ月通ったら、すぐにカナダに引っ越す予定だった。
 でも、その3ヶ月が永遠に感じるくらいに長かった。

 どのような発言が悪かったのかわからないくらい、私の発言はそのサイトに晒されていた。
 発言した記憶のない言葉までも、私の発言として載せられていた。
 私は言葉を発することが怖くなった。

 今回、帰国子女枠で日本の大学に入ったのは、母が私にそうすることを希望していたからだ。
 本当は日本が怖かったから、日本には戻ってきたくはなかった。

「ママ、パパ、私は離婚してと言ったからね。どちらかが気持ちがなくなっていたら離婚してね」

 私はそう言い捨てて部屋を出た。
 子供のせいで離婚しないとか言われるのはまっぴらだ。

♢♢♢

「すみません。保護者の同意がなければ契約はできません」

 私は奇跡的に過去に戻ってきたとしたなら、とにかく父と離れたかった。
 近々、成人年齢が18歳になると聞いて期待していたが、まだ早かったようだ。

 不動産屋に大学近くの物件を探して欲しいと駆け込んだが断られた。
 未成年では契約は難しいらしい。

 私はこれからも、1年後には平気で妻子を捨てる父と住まなければならない。
 不動産屋から出てきた時に、見慣れた車が私の前を通った。

 1年後に飛び降りをする40階の「社長」の運転手付きの車だ。
 私は、衝動的にその車を追いかけた。

 私のその姿に気がついてもらえたのか車は止まってくれた。
「何か御用ですか?」
 黒髪のすらっとしたスーツ姿の「社長」が現れる。
 彼を見ると自然と心が落ち着いた。

「お悩みはありませんか? もしお悩みがあるのであれば、いつでも私を呼んでください。私はどのような時も必ずあなたの元に駆けつけます。あなたは1人ではありません」

 私は成功者であろう彼が頭から血を流して、地面に横たわっていたのを思い出した。
 どのように羨まれる人でも、人には言えない悩みがある。
 彼も、もしかしたら信じていた人に裏切られた人間なのかもしれない。

「昨日、マンションに引っ越してきましたよね。宗教の勧誘ですか?」

「宗教の勧誘ではありません。私はあなたが必要な時に現れます。死にたいような時、その気持ちを私にぶつけてください。社長は幸せになれます。私はあなたに幸せになって欲しいのです」

 私はカバンから黒いペンを出して、彼の手の甲に自分の電話番号を書いた。

 彼が本当に死を決意するくらい苦しい時に、私を呼んで欲しかったからだ。
 誰か1人でも友達がいるだけで、生活は上手くいく。

 私はこれまで、ずっとそう思ってやってきた。

「とにかく、マンションまで送るので車に乗ってください。それから油性ペンで人の体に文字を書くのはトラブルの元になると思いますよ」

 彼はなんとも言えない顔で言いながら、私を車に乗せた。


「私は怪しい者ではありません。社長と同じマンションに住む木嶋アオと申します。ただ、社長が誰にも言えない悩みを抱えているのかと思い、私が相談相手になれればと思ったのです。誰にも相談できない悩みを抱えると、世界に1人きりしかいない気分になります。でも、社長は1人ではありません。私がいます。私をスカッシュの壁当てのように、悩みをぶつけてください」

「スカッシュなどしたことはありませんし、アオさんの方が心配です。アオさんは大学生ですか? 正直、あなた自体が危なかっしくて、悩みなど相談できません」

 私は初めて「社長」と向き合っていることに感動していた。

 毎朝のように玄関で見かけ、エレベーターで見かけた男だが初めてまともに会話をしている。
 そして、彼は私の地獄のような日の最後には地面で血を流して倒れていた男だ。

「私は大学1年生です。まだ、学生の私では頼りないということですね。私のことは地蔵だと思ってください。相談ではなくて、全てを吐き出してください。お互い苦しい身の上です。私は社長のためなら何でもします」

 彼の周りにいない大人な雰囲気に好感を持った初対面。
 たまにエレベーターであった時に交わした爽やかな挨拶。
 私はあまり彼のことを知らないが、彼には地球に存在して欲しいと強く思った。

「昨日、ご家族で引っ越しをしている時、アオさんをお見かけしました。その時も、世間知らずのお嬢様のように見えました。自己紹介が遅れましたが、私の名前は甘城健太郎です。お嬢様から壺を買う気はありませんが、お嬢様自身が俺に献身的に接してくれるということなのですね。それでは、あなたのお望み通り、これから私のために何でもしてもらいましょう」

 健太郎さんが呆れたように笑っている。

 彼は自分が1年後には死ぬという運命を知らない。
 でも、私はその運命を変えたいと強く思った。