五分ほど進んだだろうか? 見えてきたのは、マンションの一階に入ってるスープカレー屋さんだった。メグルは、俺の方を振り向いて「いい?」と尋ねるように首を傾げる。
こくんっと頷けば、安心したようにまた、口元を緩めて前歯を見せた。
カランっという音と共に、店内に入れば、冷房が効いていて涼しい。カラフルな壁で囲まれた席に案内されて、二人で座る。
「サトルは辛いの得意じゃなさそうだから、マイルドを選んだ方がいいよ」
メニューを見つめながら、メグルは両手をおしぼりで拭う。俺も眺めて見たけど、全然意味がわからない。スープを選んで、具材と、辛さを選ぶということだけは分かった。
でも、スープの名前から、味は想像できそうにない。大人しくメグルと同じものにしようかと思えば、メグルはうーんっと唸って、メニューの上で指を動かした。
「全部食べたい……」
「違うのにするから、好きなの選びなよ」
「サトルは、好き嫌いないよね」
好き嫌いは、ないと思う。食べられない食べ物に、出会ったことはない。小さい頃は色々苦手だった気がするけど、いつのまにか食べられるようになっていた。
それもこれも全て、兄の真似をしてきたおかげだけど。だから、好き嫌いはないかというメグルの問いに、小さく頷く。俺の答えに満足したのか、メグルはこれとこれとーと指さし始めた。
適当に相槌を打っていれば決まったのか、メグルはメニュー表の二つを指さした。
「私こってりの薬膳にするから、サトルはトマトベースね!」
「おう」
「メインはどうする?」
全てメグルが決めてくれるかと思えば、そうはないらしい。メグルに任せていればいいと、ただ店内を見回していたから焦って一つを選ぶ。勝手に動いた指は、ラム肉だった。嫌いではないけど、家でもあまり食べもしない。
「ラムで、いいの?」
疑るように一瞬、瞬きして、メグルが唇を尖らせる。間違えたことにしよう。メニュー表に目を戻せば、一つ下に食べられそうな牛すじ煮込みを見つけた。
「牛すじの方」
「えっ……」
「え? ダメだった?」
「あぁ、ううん。牛すじの方ね! トッピングはする?」
「今日はいいや」
そもそも、スープカレーを食べたことないし。メグルは「わかったー」と小さく答えてから、店員さんを呼ぶ。俺の分も一緒に注文してくれるらしい。メグルに任せたまま、スマホを開く。
兄からのメッセージが一件、表示されていた。開いて確認してみればご飯のお誘い。
【友達も一緒でいいから、食堂で食べないか?】
兄も今日、登校していたらしい。大学も登校っていうのか? 通学? そんなことどうでもいいか。
俺がオープンキャンパスに行くことを軽く伝えた時には、「そうかそうか」と嬉しそうに笑うだけだったのに。今更だな。メグルを会わせたら……どうなるんだろうか。
弟目に見ても、兄はかっこいい。スタイルはいいし、顔も悪くない。俺とは違う大人の包容力もある。もしかしたら、兄に惚れてしまうかもしれない。
一瞬ちらついた邪念を、頭を振って消し去る。そうなったって良いじゃないか。俺とメグルは、ただたまたま出会っただけの友人なんだから。それに、兄にいい人が出来るのは良いことだ。
飲み込みきれない微妙な気持ちを、コップに入ったお冷で流し飲んだ。
「スープカレー食べたことないって珍しいよね」
俺そんなこと言ったけ? 確かに食べたことないけどさ。考え込みながらも、きっと口走っていたんだろう。
「札幌民は全員食べてないといけないって法律があるわけでもあるまいし」
「まぁそれもそっかぁ」
「メグルはよく来るの?」
メグルの口ぶり的に、メグルは何回も食べたことがあるようだった。だから、聞いて見れば小さく頷く。そして、嬉しそうに口元を緩めた。
「大好きなの! スープカレー」
「へぇ」
話を広げられるような話術があれば良かった。でも、どれだけ考えても、何て答えればいいのか思いつかない。へぇという冷たい音で、終わらせたくなかったのに。
「ね、ね、サトルは何が好き? 今度はそれ食べに行こう!」
当たり前のように、俺との今度をメグルは口にする。次こそは流されない。楽しんでちゃ、いけないんだ。そう思うほど、今度という言葉は、甘い罪のように胸に流れ込む。
「俺は……」
「甘いものは好きだよね? 駅前のパフェとか、クレープとか。あ、でも、美術館もいいな。小樽も行きたい! あとお祭り? この時期お祭りやってるとこあるかな」
メグルは一人で指折り数えて、行きたいところを上げていく。目の前に、そんな将来があるように見つめながら。美術館は、行ってみたい。小さい頃に行ったきりだけど、そういうのは好きだった。昔は。
メグルのやりたいことを聞いていれば、スープカレーが届く。茶色いスープに、スパイスだろうか。黒い点々が浮いている。
「冷める前に食べよ食べよ」
スプーンを握りしめて、メグルが「いただきます」と手を合わせた。俺もいただきますとあいさつしてから、一口飲み込む。
うん、普通のカレー風味のスープだ。薬膳と書いてあったからもっと苦いような、不安な味を想像していたけど。おいしい。後から後から、色々な旨みが押し寄せてくる。
「一口ちょうだい!」
メグルは躊躇なく、自分のスプーンを俺のお皿に入れようとする。俺は嫌なタイプじゃないけど、普通の女子高生ってこういうの嫌じゃないのか? ほぼ初対面の男だぞ。
「嫌じゃないのか?」
「なにが?」
「回し食べみたいなの」
「私とサトルの関係じゃん、今更だよ」
そんなに仲を深めたつもりもないけど、あっけらかんと言い放つからツッコむ気も起きない。そういうものなのか。素直にお皿をメグルの方に寄せれば、えくぼを唇の横に浮かび上がらせる。
「ありがとー! サトルもほら! 食べてみて! ちょっと辛いけど」
勧められたから、素直にスプーンで一口分掬ってみる。途中でメグルの手が、俺のスプーンを止めた。えっと顔を上げれば「チキンも!」と告げられる。
申し訳なさを感じながらも、少しだけチキンをほぐして掬いとる。口の中に流し込んで噛めば、鶏肉の油が入ってるからか、俺のスープとは違う味がした。
刹那、ぶわっと身体の奥から汗が噴き出る。額の汗を紙ナプキンで押さえながら、コップを探す。先ほど飲み切って、空になってしまっていた。
舌がビリビリと、痛んでる。焦る手で、ピッチャーの水をコップに注いで、一気に飲み込む。ヒリヒリとした痛みは、絶えず舌を刺激している。
「ちょっと、どころじゃねぇじゃん!」
ひぃひぃと、舌を出しながらメグルを非難すれば、きゃっきゃと笑いながらメグルは手を叩いた。そして、ちゃっかりいつのまにか注文していたラッシーを、俺に差し出す。
「ラッシー飲んだら、ちょっとマシになるよ」
回し飲みがどうとか考えてる暇は、なかった。遠慮なくラッシーを一口貰えば、舌の痛みは幾分かマシになる。
「ごめんごめん」
「こんな辛いと思わなかった」
額からぼたぼたとこぼれ落ちる汗を、紙ナプキンで拭い取りながらメグルの方を見つめる。今日一番の笑顔で、俺を見ていた。そして、スープカレーを美味しそうに頬張る。
「サトルの素を見たくなっちゃった」
「素って」