バイバイと小さく手を振る姿すら、残したいと思った。ずっと、頭に焼き付いて、離れなければいいのに。そう願いながら。

 *  *  *

 家に帰れば、兄ちゃんが部屋から顔を出す。そして、ちょいちょいっと小さく俺を手招きした。めずらしいな、と思いながら近づけば、部屋に引き摺り込まれる。

 バランスを崩して、ひざから着地すれば即謝られた。

「悪い」
「いいけど、急にどうしたの」
「サトル、友だちと会ってきたんだよな?」

 まるで幽霊を見たかのような顔をして、俺をまじまじと見つめる。「そうだけど」と頷けば、兄ちゃんは顎を触りながら、ソファにもたれ込んだ。

「それは、彼女か?」
「まぁ、今日から、彼女にはなったけど、急に何?」

 まどほっこしい兄の確認に、続きを急かすようにすれば、兄は一人で「そうだよなぁ」と頷く。モヤモヤとしながらも、顔を上げれば意外な言葉が飛び出してきた。

「なぁ、変なこと言っていいか?」
「もう十分変だよ、今日の兄ちゃん。何さ」
「その子と俺はさ、会ったこと、あるか?」

 兄の言葉に、少しだけ、少しだけ淡い期待が浮かび上がる。メグルの言葉から、察すると兄は多分会ってる、メグルに。でも、今の兄ではない。だから、会ったことあるとも、ないとも言い難い。黙りこくって考えていれば、兄はソファの上で頭を抱えた。

「変なこと言ってるのはわかってる。会った事ないはずなのに、一緒に動画撮ったとか、泊まっていったとか、記憶があるんだよ。おかしいのは、わかってる。でも、なんか、変なんだ」

 兄も覚えてる。なぁ、メグル。俺だけじゃない。他の人も、微かに脳の奥にメグルの存在があるよ。伝えたら、困った顔をする? それとも、喜ぶ?

 兄は一人でぽちぽちとスマホを操作して、俺に見せる。それは、一人で踊ってる動画だった。初めて見た。こんなことしてたのか。

「最初は、教える練習みたいな形で動画を撮ってたんだけど。気晴らしに、流行ってるダンス動画を投稿したらバズってな。それから、色々やってるんだけど」

 スマホを奪い取って見つめれば、いつもの兄からは想像できない動きに笑ってしまう。それでも、キラキラと楽しそうな顔でやってるから、今の兄の夢はこれなんだろう。俺が、野球の夢を奪ってしまったとウジウジしてる間に、一人で見つけた未来。

 だから、気にしなくていいといつも優しく声を掛けてくれていた。メグルといるうちに、それほど劣等感や罪悪感を覚えなくなったけど、この動画を見たらますます、気持ちが楽になる気がする。兄は兄なりに、人生を謳歌してるんだ。

「これがどうしたの」
「誰かと撮った記憶が、うっすらとあってさ。女の子で……サトルの大切な子だったような、気がしてさ」
「そうだよ、俺の大切な子」

 口にしてから、体が熱くなる。俺の、大切な子。好きだと告げた時よりも、額が熱を持ってた。身内に恋バナをするのは、意外に恥ずかしいようだ。

「会ったことあったけ?」
「ないといえばないけど。あるといえばある」
「どういうことだよ」
「科学では証明できない事、兄ちゃん信じてくれる?」

 問い掛ければ、兄ちゃんは一瞬悩んだように顔を顰めた。それでも、すぐにいつもの優しい顔に戻って、わざわざ立ち上がる。俺の頭をわしゃわしゃわしゃと撫でてから、しゃがんで目線を合わせた。

「記憶にない記憶とか、変なこと起きてるんだから、信じるしかないだろ。それに、サトルがいうことだからな」
「メグルは、何回も繰り返してるらしい。この夏休みを」
「まるで、小説みたいだな」

 兄の感想も尤もだと思う。俺だって、まるで漫画みたいだと思った。それでも、俺の下書きも、記憶も、兄ちゃんの記憶も、それが本当だって示してる。

「そうか……違う俺が会ってるのか」
「そういうことだと思う。俺も、全部覚えてるわけじゃないから」
「全部ってことは、お前も繰り返してんのか?」

 兄の言葉に、首を横に振る。それだったら、どれだけいいか。二人なら、きっと楽しい。何万回、何億回繰り返したって、きっと幸せだ。

 メグルはひとりぼっちで、何度も夏休みだけを繰り返してる。じわじわと湧き上がる涙を、飲み込む。

「兄ちゃんは、覚えてる方と、忘れられてる方、どっちが辛いと思う?」
「その子は全部覚えてるってことか」

 こくんっと、頷けば、背中を優しく叩かれる。どれほどの時を一人で、抱えてきたのだろう。

「でも、その子は、それを辛いと思ってんのか? そもそも」

 辛いのかは、わからない。それでも、悲しそうな眼差しだったり、表情を見ると寂しいのではと思ってしまう。メグルは……どうしたいんだろう。このループから抜け出したいと思ってるんだろうか。

――でも、もう終わっちゃうかも

 小さく呟いたメグルの言葉に、頭が痺れた。終わっちゃうかも。終わってほしくない? そう思ってるから、出た言葉じゃないか。確かめてないから、わからないけど。