◆
「――舞衣! あなたの相手はわたしがします!」
何間もの長さに伸びた鞭が、屋敷の屋根を破壊する。瑠衣はそれを自分へと誘導しながら屋根を飛び降りた。受け身を取ってごろりと転がり、素早く体勢を立て直す。
「お姉ちゃん……」
くるくると蔓のように巻かれて、舞衣の武器が手元へと戻る。
「痛いことはなるべくしたくないんだ。ぜーんぶ終わるまで大人しくしててよ」
「舞衣こそおやめなさい。白銀を倒したら、みんな死んでしまいますよ?」
「そんな嘘は効かないよ。お姉ちゃんが術の要だって政重様が。だから、ここでお姉ちゃんを足止めすれば、あたしたちが勝つんだから」
瑠衣の視線の先では、白銀と政重が戦っている。こちらは妖力と呪力のぶつかり合いで、派手な戦いとなっていた。志乃と争っていただけあり、さすがに政重は強い。妖力の弱まった白銀では厳しいのではないかと思われた。
「そう……」
瑠衣は氷の刃を両手で握って正眼に構え、対決の意思を明確にする。
「わたしはこの繰り返しの中で、すでに三度死んでいますから。少々の痛みくらいでは止まりませんよ」
「……よかった」
「よかった?」
意外な返答に瑠衣の眉が上がる。
「うん。この前、お姉ちゃんにこてんぱんにされちゃったじゃん? 負けたままってあたしも面白くないし。今日はあたしがお姉ちゃんをこてんぱんにする番だよ」
なるほど……と苦笑する。
舞衣からすれば、時系列的にはまだ数日しか経過していないのだ。彼女を投げ飛ばしたのが、はるか遠い日のように思える。それほどの時間をこの屋敷で過ごした。白銀と心を通わせてきたのだ。
(この先、たとえ何度死んだとしても白銀を選ぶ)
それが瑠衣の決意であり願いだ。それを阻む者であれば、例え妹であっても倒さないわけにはいかない。
「覚悟してっ!」
舞衣が放った鞭が呪力に反応して、うねりながら瑠衣へと迫った。
(右……いえ、左!)
最後の一瞬まで見極めて、瑠衣の両手が残像を残すように動いた。正確な太刀筋で鞭の先を払うだけでなく、同時に張った結界は不規則な軌道での鞭の攻撃を全て防いだ。
「えっ……!?」
驚きで舞衣の動きが止まった隙を逃さず、素早く瑠衣は肉薄した。
「はっ!」
武器を叩き落としてやろうと振るった刃は、ぎりぎりのところで躱された。追撃を仕掛けようとすると、地面から蔦が生えてきて慌てて飛び退いた。これに足を取られれば動きを止められてしまう。
「呪力……戻ってたんだ」
舞衣の表情から余裕が消える。それは焦りではなく、警戒すべき相手として認識したということだ。己を守るように球状に蔦を展開して、ゆっくりと近づいてくる。
「驚いてくれたようね」
瑠衣は詰められた間合いの分、円を描くように下がった。
(今ので決められなかったのは痛い……)
平静を装っているものの、心の中では焦っていた。舞衣が油断しているうちに勝負をつけたかった。
呪力は戻ったが、やはり五年の空白期間は大きい。今のは攻撃を読んで、待ち構えていたから結界が間に合っただけで、戦いの流れの中で呪力を行使するのは無理だ。正面からぶつかれば、軽く捻られるのは瑠衣のほうだ。
散発的に足元へ生えてくる蔦を切り払いながら瑠衣は言った。
「聞いて、舞衣。お母様が亡くなったのは、妖のせいではないの」
「何を言ってんだか。そこまでお姉ちゃんおかしくなっちゃったの?」
薄ら笑いを浮かべながら舞衣が迫る。瑠衣は次の一手を考えながら続けた。
「わたしが十三の歳で初任務をもらったのには理由があるのですよ」
「……どういうこと?」
舞衣の瞳が揺れた。瑠衣が傷だらけで戻って来た昔を思い出したのだろう。
「それは、知ってしまったから」
ちらりと政重へ視線を移してから、彼へも聞こえるよう大きな声で言った。
「お母さまが亡くなったのは、妖にやられたからではありませんよ。政重こそがその犯人なのですから。それを知ったわたしを無謀な任務に赴かせ殺そうとした」
「はあ? やっぱりお姉ちゃん、白銀に……」
「証拠はあなたが身に纏っている香!」
舞衣の言葉を遮り、瑠衣は氷の刃を突き付けた。
「亡くなった母の身体にも微かに残っていた。その時に舞衣も気が付くべきでした。いえ……わたしのような目に遭わなかったから、それが正解だったのかもしれない」
舞衣の振るった鞭の刃が目前に迫るも、瑠衣は動かなかった。避けるまでもない。攻撃の目標が甘くなっているのは動揺しているからだろうか。
「どうして、わたしに香を浴び続けさせたのか。妖に喰らわせるため? いいえ、それはただの隠れ蓑。本当の目的は、わたしの記憶を封じること。そして、この身に毒を埋め込んだ。妖に好まれるわたしの呪力を餌にして、妖の餌食にすれば、真実を知ったわたしを、誰にも疑われず始末することができる」
白銀に封印を解かれてから、思い出した事実を告げる。
本来なら、自分は初任務で死んでいるはずだった。それが白銀に助けられ、呪力は封じられたものの妖狩りの元へ戻された。政重にとって、これは誤算だっただろう。何としてでも始末したかったはずだ。それこそ、妖に魅入られたと理由を付けて。
しかし、妖狩りも大損害を出した直後で、生きて戻った瑠衣は貴重な戦力だったに違いない。政重の意見は退けられた代わりに、折衷案として毒を埋め込み、妖に対する生身の武器とされた。それを管理するという名目で政重は手元に置き、瑠衣の記憶を封じ続けた。
「嘘だよ。そんな馬鹿なことが……」
「香が政重の術の種です」
呆然とする舞衣へきっぱりと告げる。
「それが証拠に、香の匂いが消えたわたしは全てを思い出しました。あなただって、その香が消えれば元に戻るはず」
説得する言葉に、舞衣の視線が少しだけ落ちた。敵意を向けられていた呪力が少しだけ弱まる。説得に応じてほしい。瑠衣はそう願いながら待ち続けた。
「最初、あたしはわからなかったんだ」
やがて、俯いたまま舞衣がポツリと呟いた。
「お母様を見る政重様は、いつも怖かった。どうしてだか最初はわからなかったけど、お母様と妖狩りの長の座を争っていたからなんだよね」
「舞衣……」
「でもね、あたしにはどうすればいいかわからなかった。残ったのはお姉ちゃんと二人きり。助けてくれるなら疑っててもその手を取るしかなかったよね」
舞衣の言葉が理解できないわけではない。
政重はその弱みにこそ付け込んだのだ。幼い姉妹を恩着せがましく引き取り、成長する過程で教育をして、志乃に対する疑いのことなど忘れさせようとした。その策略に乗らなかった小賢しい小娘が瑠衣だったというわけだ。
「お姉ちゃんが呪力を無くしてから、あたしが守らなきゃって思って、ずっと頑張ってきた。でもね――」
少しだけ舞衣が顔を上げる。その表情を見て、瑠衣はギクリと背筋が冷えた。どこか達観したようでいて、話す内容とは裏腹に危ういほど明るい。
「守られているのはあたしの方だった。全てを失っても、お姉ちゃんはやっぱりお姉ちゃんだった。俯かずに凛としていて……そんなお姉ちゃんが眩しかった」
「舞衣、わたしは……」
「今回だって、あたしの代わりにお姉ちゃんは行っちゃった」
詰るような口調に、瑠衣は反射的に反論した。
「それは……あなたを守るために!」
「ほうら、やっぱりそうじゃん」
すっと刃のように舞衣の視線が鋭くなり、瑠衣は自分の失言を後悔する。本心から出た言葉だったが、それがいかに舞衣を傷つけたか。
何もできない無力さは自分だって知っている。母を亡くした時、呪力を失った時……結局は誰も守れなかった。せめて舞衣だけでも守れるのであれば……身体に埋め込まれた毒は、自分の心の平穏を保つための唯一の拠り所でもあったのだ。
舞衣の呪力がこれまでになく高まった。両手で持つ鞭の武器がわさわさと揺れた。凄絶な笑みを浮かべて構える。
「一回くらいお姉ちゃんに勝ちたいよ。お姉ちゃんを守りたいよ。守らせてよ。ううん。何も言わなくていいよ。これはあたしの我が儘だから」
「……舞衣」
これ以上の説得は無理だと悟り、瑠衣は氷の刃を構えた。
自分にだって守りたいものがある。妥協できないものがある。それが相反するものであるならば、たとえ妹であっても譲るわけにはいかない。
(白銀を守り、舞衣を守り、屋敷の妖を守り……そして、お母様の仇を討つ!)
なんと贅沢な願いだろう。自分でも笑ってしまいたくなるほどに。
けれど、その全てを叶えるために、こうして刃を取った。立ち向かうことを選んだ。
「行くよ――お姉ちゃん」
舞衣の足元で土煙が上がった。瑠衣へ向かって放射状に茨が走った。それに乗るように移動しながら、舞衣の右手が鞭を生き物のように操る。
「舞衣っ!」
何度か鞭を切り払うも、その攻撃は重く、氷の刃が手から弾き飛ばされそうになる。茨に突っ込んでもずたずたにされそうだが、守ってばかりでは絶対に勝機は見えない。危険を覚悟して瑠衣は地面を蹴った。
呪力で足の裏を守ると、茨を踏みつけて疾走する。チクチクと伸びてくる茨に捕らえられぬよう、常に動き回り少しずつ舞衣との距離を詰めた。
(あと少し……これで!)
間合いに入るか否かといった瞬間、舞衣の持つ鞭が無数に枝分かれした。
「甘いよ、お姉ちゃん」
「くっ……このっ!」
網目のように広がり、瑠衣を絡めとらんと覆いかぶさってくる。氷の刃を振り回すも捌き切れず、右手に蔦が巻き付いた。
「しまっ……!?」
後はもう抵抗する暇もない。足元から爆発的に伸びてきた蔦が瑠衣の下半身に巻き付き、立ちながらにして彼女の動きを奪っていく。すぐに上半身も縛められ、骨が軋まんばかりの強烈な締め付けに、瑠衣の喉から苦悶の喘ぎが漏れた。
「これ以上、痛いのは嫌だよね? 抵抗は無駄だよ」
しばらくしてから舞衣が鞭を引くと、全身を蔦に覆われてミノムシのようにされた瑠衣がその足元へ転がってきた。頭だけがかろうじて出ている。瞳を閉じたその表情は、眠っているかのようにピクリとも動かない。
「お姉ちゃんに……勝った!」
勝利を確信した舞衣が唇を綻ばせた。
「あたしが守るんだよ。誰にも指一本触れさせない。このまま堕ちててね、お姉ちゃん」
「――ふふ。かかった」
「……え?」
気を失ったかと思われた瑠衣の瞳がかっ、と見開いた。直後、全身から強烈な呪力が膨れ上がり、束縛していた蔦が四散した。
「なっ……お姉ちゃん!?」
慌てて逃れようとした舞衣の袖を掴み、そのまま思いっきり背中越しに投げ飛ばす。したたかに背中を打ち付けたその上に馬乗りになると、両手で小袖の襟を掴み、ぐいっと交差して締め上げた。
「騙し討ちでごめんなさい。五年も呪力を使ってないわたしが勝つには、こうするしかなかったの」
「お姉ちゃ……ぐぅっ……」
足をバタつかせ、瑠衣の手首を握って抵抗しようとしてくる。
舞衣のように自在に呪力を操れない。できることといえば、あらかじめ決めていた結界を自分の周囲に張ることだけ。
蔦に縛られたと思わせて、その内側に結界を張っていたのだ。気絶した振りをして舞衣が近づいてくるかは賭けだった。だが、ここへ来る前日に、舞衣はこっぴどく負かされている。ここまでの会話でも、舞衣の目的は明白だ。勝利の余韻に浸り、致命的な隙を晒す可能性は高いはずだと思っていた。
これは、自分が殺されないと確信していたからこそできた作戦。無謀と思われた特攻も計算してのものだった。
「舞衣のことが嫌いなわけではない。けれど、白銀のことは絶対に諦められないの」
「はな……して……っ!」
振り回した舞衣の手が頬を打つも、瑠衣はさらに体重をかけた。中途半端に締まっていた襟が、今度こそ完全に頸動脈に入る。舞衣の抵抗が急速に弱まり、瑠衣の手首を掴んでいた手が、ぷるぷると震えて虚空を泳いだ。
「お姉ちゃん……死なないで……」
ぱたり。
軽い音を立てて舞衣の手が落ちる。
「はあっ……はあっ……」
荒い息を吐きながら瑠衣は締めていた手を緩めた。目覚めても動けないよう、舞衣の持っていた鞭で縛ってから額の汗を拭う。気を失った舞衣の目尻からは、透明な何かが流れているようにも見えた。
(死なないで……か)
政重の術の影響を受けていても、姉を想う舞衣の気持ちは本物だった。それを裏切って、すでに三度も死んでしまった。四度も失望させるわけにはいかない。
(あなたの願いも持っていく)
と、思ったところで、背後からの大きな爆発音に、思わず首をすくめた。
「――舞衣! あなたの相手はわたしがします!」
何間もの長さに伸びた鞭が、屋敷の屋根を破壊する。瑠衣はそれを自分へと誘導しながら屋根を飛び降りた。受け身を取ってごろりと転がり、素早く体勢を立て直す。
「お姉ちゃん……」
くるくると蔓のように巻かれて、舞衣の武器が手元へと戻る。
「痛いことはなるべくしたくないんだ。ぜーんぶ終わるまで大人しくしててよ」
「舞衣こそおやめなさい。白銀を倒したら、みんな死んでしまいますよ?」
「そんな嘘は効かないよ。お姉ちゃんが術の要だって政重様が。だから、ここでお姉ちゃんを足止めすれば、あたしたちが勝つんだから」
瑠衣の視線の先では、白銀と政重が戦っている。こちらは妖力と呪力のぶつかり合いで、派手な戦いとなっていた。志乃と争っていただけあり、さすがに政重は強い。妖力の弱まった白銀では厳しいのではないかと思われた。
「そう……」
瑠衣は氷の刃を両手で握って正眼に構え、対決の意思を明確にする。
「わたしはこの繰り返しの中で、すでに三度死んでいますから。少々の痛みくらいでは止まりませんよ」
「……よかった」
「よかった?」
意外な返答に瑠衣の眉が上がる。
「うん。この前、お姉ちゃんにこてんぱんにされちゃったじゃん? 負けたままってあたしも面白くないし。今日はあたしがお姉ちゃんをこてんぱんにする番だよ」
なるほど……と苦笑する。
舞衣からすれば、時系列的にはまだ数日しか経過していないのだ。彼女を投げ飛ばしたのが、はるか遠い日のように思える。それほどの時間をこの屋敷で過ごした。白銀と心を通わせてきたのだ。
(この先、たとえ何度死んだとしても白銀を選ぶ)
それが瑠衣の決意であり願いだ。それを阻む者であれば、例え妹であっても倒さないわけにはいかない。
「覚悟してっ!」
舞衣が放った鞭が呪力に反応して、うねりながら瑠衣へと迫った。
(右……いえ、左!)
最後の一瞬まで見極めて、瑠衣の両手が残像を残すように動いた。正確な太刀筋で鞭の先を払うだけでなく、同時に張った結界は不規則な軌道での鞭の攻撃を全て防いだ。
「えっ……!?」
驚きで舞衣の動きが止まった隙を逃さず、素早く瑠衣は肉薄した。
「はっ!」
武器を叩き落としてやろうと振るった刃は、ぎりぎりのところで躱された。追撃を仕掛けようとすると、地面から蔦が生えてきて慌てて飛び退いた。これに足を取られれば動きを止められてしまう。
「呪力……戻ってたんだ」
舞衣の表情から余裕が消える。それは焦りではなく、警戒すべき相手として認識したということだ。己を守るように球状に蔦を展開して、ゆっくりと近づいてくる。
「驚いてくれたようね」
瑠衣は詰められた間合いの分、円を描くように下がった。
(今ので決められなかったのは痛い……)
平静を装っているものの、心の中では焦っていた。舞衣が油断しているうちに勝負をつけたかった。
呪力は戻ったが、やはり五年の空白期間は大きい。今のは攻撃を読んで、待ち構えていたから結界が間に合っただけで、戦いの流れの中で呪力を行使するのは無理だ。正面からぶつかれば、軽く捻られるのは瑠衣のほうだ。
散発的に足元へ生えてくる蔦を切り払いながら瑠衣は言った。
「聞いて、舞衣。お母様が亡くなったのは、妖のせいではないの」
「何を言ってんだか。そこまでお姉ちゃんおかしくなっちゃったの?」
薄ら笑いを浮かべながら舞衣が迫る。瑠衣は次の一手を考えながら続けた。
「わたしが十三の歳で初任務をもらったのには理由があるのですよ」
「……どういうこと?」
舞衣の瞳が揺れた。瑠衣が傷だらけで戻って来た昔を思い出したのだろう。
「それは、知ってしまったから」
ちらりと政重へ視線を移してから、彼へも聞こえるよう大きな声で言った。
「お母さまが亡くなったのは、妖にやられたからではありませんよ。政重こそがその犯人なのですから。それを知ったわたしを無謀な任務に赴かせ殺そうとした」
「はあ? やっぱりお姉ちゃん、白銀に……」
「証拠はあなたが身に纏っている香!」
舞衣の言葉を遮り、瑠衣は氷の刃を突き付けた。
「亡くなった母の身体にも微かに残っていた。その時に舞衣も気が付くべきでした。いえ……わたしのような目に遭わなかったから、それが正解だったのかもしれない」
舞衣の振るった鞭の刃が目前に迫るも、瑠衣は動かなかった。避けるまでもない。攻撃の目標が甘くなっているのは動揺しているからだろうか。
「どうして、わたしに香を浴び続けさせたのか。妖に喰らわせるため? いいえ、それはただの隠れ蓑。本当の目的は、わたしの記憶を封じること。そして、この身に毒を埋め込んだ。妖に好まれるわたしの呪力を餌にして、妖の餌食にすれば、真実を知ったわたしを、誰にも疑われず始末することができる」
白銀に封印を解かれてから、思い出した事実を告げる。
本来なら、自分は初任務で死んでいるはずだった。それが白銀に助けられ、呪力は封じられたものの妖狩りの元へ戻された。政重にとって、これは誤算だっただろう。何としてでも始末したかったはずだ。それこそ、妖に魅入られたと理由を付けて。
しかし、妖狩りも大損害を出した直後で、生きて戻った瑠衣は貴重な戦力だったに違いない。政重の意見は退けられた代わりに、折衷案として毒を埋め込み、妖に対する生身の武器とされた。それを管理するという名目で政重は手元に置き、瑠衣の記憶を封じ続けた。
「嘘だよ。そんな馬鹿なことが……」
「香が政重の術の種です」
呆然とする舞衣へきっぱりと告げる。
「それが証拠に、香の匂いが消えたわたしは全てを思い出しました。あなただって、その香が消えれば元に戻るはず」
説得する言葉に、舞衣の視線が少しだけ落ちた。敵意を向けられていた呪力が少しだけ弱まる。説得に応じてほしい。瑠衣はそう願いながら待ち続けた。
「最初、あたしはわからなかったんだ」
やがて、俯いたまま舞衣がポツリと呟いた。
「お母様を見る政重様は、いつも怖かった。どうしてだか最初はわからなかったけど、お母様と妖狩りの長の座を争っていたからなんだよね」
「舞衣……」
「でもね、あたしにはどうすればいいかわからなかった。残ったのはお姉ちゃんと二人きり。助けてくれるなら疑っててもその手を取るしかなかったよね」
舞衣の言葉が理解できないわけではない。
政重はその弱みにこそ付け込んだのだ。幼い姉妹を恩着せがましく引き取り、成長する過程で教育をして、志乃に対する疑いのことなど忘れさせようとした。その策略に乗らなかった小賢しい小娘が瑠衣だったというわけだ。
「お姉ちゃんが呪力を無くしてから、あたしが守らなきゃって思って、ずっと頑張ってきた。でもね――」
少しだけ舞衣が顔を上げる。その表情を見て、瑠衣はギクリと背筋が冷えた。どこか達観したようでいて、話す内容とは裏腹に危ういほど明るい。
「守られているのはあたしの方だった。全てを失っても、お姉ちゃんはやっぱりお姉ちゃんだった。俯かずに凛としていて……そんなお姉ちゃんが眩しかった」
「舞衣、わたしは……」
「今回だって、あたしの代わりにお姉ちゃんは行っちゃった」
詰るような口調に、瑠衣は反射的に反論した。
「それは……あなたを守るために!」
「ほうら、やっぱりそうじゃん」
すっと刃のように舞衣の視線が鋭くなり、瑠衣は自分の失言を後悔する。本心から出た言葉だったが、それがいかに舞衣を傷つけたか。
何もできない無力さは自分だって知っている。母を亡くした時、呪力を失った時……結局は誰も守れなかった。せめて舞衣だけでも守れるのであれば……身体に埋め込まれた毒は、自分の心の平穏を保つための唯一の拠り所でもあったのだ。
舞衣の呪力がこれまでになく高まった。両手で持つ鞭の武器がわさわさと揺れた。凄絶な笑みを浮かべて構える。
「一回くらいお姉ちゃんに勝ちたいよ。お姉ちゃんを守りたいよ。守らせてよ。ううん。何も言わなくていいよ。これはあたしの我が儘だから」
「……舞衣」
これ以上の説得は無理だと悟り、瑠衣は氷の刃を構えた。
自分にだって守りたいものがある。妥協できないものがある。それが相反するものであるならば、たとえ妹であっても譲るわけにはいかない。
(白銀を守り、舞衣を守り、屋敷の妖を守り……そして、お母様の仇を討つ!)
なんと贅沢な願いだろう。自分でも笑ってしまいたくなるほどに。
けれど、その全てを叶えるために、こうして刃を取った。立ち向かうことを選んだ。
「行くよ――お姉ちゃん」
舞衣の足元で土煙が上がった。瑠衣へ向かって放射状に茨が走った。それに乗るように移動しながら、舞衣の右手が鞭を生き物のように操る。
「舞衣っ!」
何度か鞭を切り払うも、その攻撃は重く、氷の刃が手から弾き飛ばされそうになる。茨に突っ込んでもずたずたにされそうだが、守ってばかりでは絶対に勝機は見えない。危険を覚悟して瑠衣は地面を蹴った。
呪力で足の裏を守ると、茨を踏みつけて疾走する。チクチクと伸びてくる茨に捕らえられぬよう、常に動き回り少しずつ舞衣との距離を詰めた。
(あと少し……これで!)
間合いに入るか否かといった瞬間、舞衣の持つ鞭が無数に枝分かれした。
「甘いよ、お姉ちゃん」
「くっ……このっ!」
網目のように広がり、瑠衣を絡めとらんと覆いかぶさってくる。氷の刃を振り回すも捌き切れず、右手に蔦が巻き付いた。
「しまっ……!?」
後はもう抵抗する暇もない。足元から爆発的に伸びてきた蔦が瑠衣の下半身に巻き付き、立ちながらにして彼女の動きを奪っていく。すぐに上半身も縛められ、骨が軋まんばかりの強烈な締め付けに、瑠衣の喉から苦悶の喘ぎが漏れた。
「これ以上、痛いのは嫌だよね? 抵抗は無駄だよ」
しばらくしてから舞衣が鞭を引くと、全身を蔦に覆われてミノムシのようにされた瑠衣がその足元へ転がってきた。頭だけがかろうじて出ている。瞳を閉じたその表情は、眠っているかのようにピクリとも動かない。
「お姉ちゃんに……勝った!」
勝利を確信した舞衣が唇を綻ばせた。
「あたしが守るんだよ。誰にも指一本触れさせない。このまま堕ちててね、お姉ちゃん」
「――ふふ。かかった」
「……え?」
気を失ったかと思われた瑠衣の瞳がかっ、と見開いた。直後、全身から強烈な呪力が膨れ上がり、束縛していた蔦が四散した。
「なっ……お姉ちゃん!?」
慌てて逃れようとした舞衣の袖を掴み、そのまま思いっきり背中越しに投げ飛ばす。したたかに背中を打ち付けたその上に馬乗りになると、両手で小袖の襟を掴み、ぐいっと交差して締め上げた。
「騙し討ちでごめんなさい。五年も呪力を使ってないわたしが勝つには、こうするしかなかったの」
「お姉ちゃ……ぐぅっ……」
足をバタつかせ、瑠衣の手首を握って抵抗しようとしてくる。
舞衣のように自在に呪力を操れない。できることといえば、あらかじめ決めていた結界を自分の周囲に張ることだけ。
蔦に縛られたと思わせて、その内側に結界を張っていたのだ。気絶した振りをして舞衣が近づいてくるかは賭けだった。だが、ここへ来る前日に、舞衣はこっぴどく負かされている。ここまでの会話でも、舞衣の目的は明白だ。勝利の余韻に浸り、致命的な隙を晒す可能性は高いはずだと思っていた。
これは、自分が殺されないと確信していたからこそできた作戦。無謀と思われた特攻も計算してのものだった。
「舞衣のことが嫌いなわけではない。けれど、白銀のことは絶対に諦められないの」
「はな……して……っ!」
振り回した舞衣の手が頬を打つも、瑠衣はさらに体重をかけた。中途半端に締まっていた襟が、今度こそ完全に頸動脈に入る。舞衣の抵抗が急速に弱まり、瑠衣の手首を掴んでいた手が、ぷるぷると震えて虚空を泳いだ。
「お姉ちゃん……死なないで……」
ぱたり。
軽い音を立てて舞衣の手が落ちる。
「はあっ……はあっ……」
荒い息を吐きながら瑠衣は締めていた手を緩めた。目覚めても動けないよう、舞衣の持っていた鞭で縛ってから額の汗を拭う。気を失った舞衣の目尻からは、透明な何かが流れているようにも見えた。
(死なないで……か)
政重の術の影響を受けていても、姉を想う舞衣の気持ちは本物だった。それを裏切って、すでに三度も死んでしまった。四度も失望させるわけにはいかない。
(あなたの願いも持っていく)
と、思ったところで、背後からの大きな爆発音に、思わず首をすくめた。