「先輩、一緒に帰ろ。送ってってあげる」
 シャツを脱ぎ、さぁ帰ろうとしたタイミングでのお誘いに、俺は胡乱な顔を向けた。その視線を受け、瀬尾くんがことりと首を傾げる。
「なに、嫌?」
「いや、嫌じゃないけどさぁ」
 瀬尾くんの顔でお願いされて、断ることのできるやつはいないんじゃないかな、とも思うけどさ。
 スマホを取り出そうと尻ポケットに突っ込んでいた手を抜き、瀬尾くんに問いかける。
「あのさ、この恋人ごっこ、どこまで有効なの」
「どこまでって、どこまでやれるかって話?」
「じゃ、なくて」
 なんだ、どこまでやれるって。モテる男の言うこと、違いすぎるだろ。内心でドン引きしつつも、俺はへにょりと眉を下げた。
「バイト中だけだと思ってたから」
「いや、外に俺のこと待ってるっぽい女いたんすよね」
「ああ、……そういう」
「先輩のこと助けてあげたでしょ? だから先輩も俺のこと助けてよ」
「いっそ清々しいな、瀬尾くん」
 べつに、まぁ、いいんだけど。なにせ、いろいろと恩はある。呆れ半分で了承し、俺はバックヤードの扉を押した。
 
「あ、瀬尾くん。これ、あげるよ」
 外に出たところで、店を出る前に思い立って購入したジュースを渡すと、瀬尾くんは不思議そうに瞬いた。夏の夜の蒸し暑い空気が、さらりと瀬尾くんの髪を揺らしていく。
「なんすか、これ」
「いや、お礼言ってなかったなと思って」
 瀬尾くんの斜め上の行動力には、大声が出たわけだけど。「女の子を引き受けてもらうため」の等価交換だったとしても、俺のために動いてくれたことは事実だ。その点を無視するわけにはいかないだろう。
「危ないことはやめてほしいけど、でも、ありがと」
 不審げな顔でもう一度瞬いたあと、ふっと瀬尾くんが笑った。気のせいか、ちょっと小馬鹿にした感じのそれ。
「マジ素直」
「お礼言わないほうがよかったかな、これ」
「まさか。助かってますよ、彼氏」
 平然と応じた直後、瀬尾くんはなぜか俺の手を握った。意味がわからない。正しく困惑する俺の背後で、ぎょっとした声が響いた。
「え!?」
「は……?」
 なに、今の。振り向いた先にいたのは、同い年くらいの女の子だった。驚愕の表情で固まっていた女の子が俺を見て、瀬尾くんを見る。次に手元、そうして、最後。ぎこちなく動いた視線は、ぴたりと瀬尾くんで留まった。
「か、彼氏」
 呆然自失とした呟きに、「そう」と瀬尾くんがほほえむ。正直ちょっと似非くさい笑顔だな、と俺は思った。
「ごめんね」
 駄目押しの謝罪に、女の子がふらりと歩き出す。背中からはとんでもない哀愁が漂っていて、なんとも言えず気の毒だ。
「……あれ?」
「そう。あれ。よかった、面倒なことになんなくて」
 満足そうに笑った瀬尾くんが手を離す。その顔を見上げ、俺は小さく溜息を吐いた。
「いや、いいけど」
 いいけどさぁ、せめて、事前になにか言ってくれないかな。あの女の子の中で、完全に瀬尾くんの彼氏になってるじゃん、俺。
 恨みがましい視線を送ったものの、なんのその。楽しそうに喉を鳴らし、瀬尾くんは歩き始めた。俺の家の方角だったので、しかたなく隣に並ぶ。
「あの子が待ってるのが嫌だっただけなら、まっすぐ帰ったら? こっちだと遠回りでしょ」
「いいよ、ついで」
「ええ、なんのついで……。まぁ、いいけど」
 もごもごと呟くことで自分を納得させて、口を噤む。ちょっと、気まずい。
 ……いや、本当に、まぁ、いいんだけど。
 魔法の言葉を胸の内で繰り返し、心持ち歩幅を大きくする。
 いいんだけど。それにしても、わけわかんねぇな、瀬尾くん。はっきり断ったほうが楽だったんじゃないの。変な誤解もされないしさ。
 そう言ってあげるべきなのだろうか。悩んでそっと窺った横顔は、予想外に機嫌が良さそうで。まぁ、いいか、と俺はもう一度思い直した。
 だって、そもそもの話だけど、こんなお遊び、瀬尾くんに本物の彼女ができたら終わるわけだし。それで、瀬尾くんに彼女ができるのも、そう遠い未来の話ではないのだろうし。
 だったら、そのあいだくらい構わないだろう。少なくとも、俺にメリットはあるのだから。会話乏しく夜道を歩きながら、俺はそう思うことに決めた。