二十時を過ぎて客の入りも落ち着き、背後の台にもたれてレジ内で一息を吐こうとした瞬間。瀬尾くんが小姑のようなことを言った。
「先輩。チルドの品出しでもしてきてよ」
「おまえ、先輩を顎で使いすぎだろ」
 いや、べつにいいんだけど。そもそも、瀬尾くんの呼ぶ「先輩」って、記号っぽいし。名前を覚える代わりです、みたいな。そんなことを考えていると、淡々と瀬尾くんが続けた。
「そうじゃなくて」
「うん?」
「このあいだのパパ活じゃん、あれ。違うの?」
 瀬尾くんの視線と指が店の外に動く。自動ドア越しの大通り、なにを指しているのかを悟り、俺は顔を青くした。ただの通勤経路という可能性もあるものの、入ってくる可能性も否めない。
「ウオークイン行ってきまーす」
 違わない、と認める代わりに、俺はそそくさとバックヤードに向かった。もしかしなくても、これも偽装彼氏の特権なのだろうか。
 ふつうにいいやつだな、瀬尾くん。この時間帯は川又さんは帰宅済みなので、バックヤードは無人だ。バックヤードからドリンク類が並ぶ冷蔵庫――ウオークインに入って、ドリンクを補充しながら、まぁ、でも、と俺は自分に言い聞かせた。
 帰り道に立ち寄るコンビニは定まってることが多い。それを「俺が嫌だ」で拒絶をすることは横暴というやつだ。それに、接触を回避すれば双方問題はないわけで、瀬尾くんの配慮に大変感謝である。
 対価になるとは思えないが、瀬尾くん目当ての女の子が来店した際には、空気の読めないそぶりで間に入るくらいのことはしてあげよう。
 すっかり持ち直した気分でそう決めて、ウオークインのドアを閉める。冷えた腕をさすりながら店内に戻ったところで、俺は「ん?」と首をひねった。
 なんか、今、いやに慌てた様子でおっさんが退店したような。
 ――いや、でも、声もなにも聞こえなかった……よな?
 だから、揉めたりとかはしていないと思うんだけど。というか、そう願いたいんだけど。
 そそっとレジに戻り、しれっとした顔の瀬尾くんに話しかける。幸いと言うべきか、ほかに客の姿はない。
「あの」
「ん?」
「瀬尾くん、なんかした?」
「べつに、なにも」
「ならいいんだけど……」
 その答えに、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、しれっとした顔のまま、瀬尾くんがとんでもないことを言った。
「俺の彼氏に手ぇ出さないでくれます? とは言ったけど」
「いや、してんじゃん!?」
 レジカウンターの中で大声を出した俺に、瀬尾くんがぱちぱちと睫を瞬かせる。
「迷惑でした?」
「違うって、迷惑とかじゃなくて。その、……なんかあったらどうすんの」
「なんかあったこと、あるんです?」
「いや、ないけど! ないけどさぁ、九回なくても十回目にあるかもしれないじゃん」
 言い募ったものの、瀬尾くんはどこかきょとんとした顔のままだ。妙に幼いそれに、俺はたまらず溜息を吐いた。
 力が抜けたというか、思い出したというか。落ち着いているし、大人っぽく見えるから、すっかり抜け落ちていたけれど。瀬尾くんは日向の同級生なのだった。
 配慮ありがとうじゃねぇよ、俺も。自身にも呆れた気分になったものの、これ以上叫ぶと、またしてもヒスっていると評されかねない。気分を鎮め、俺はぽつりと呟いた。
「ああ、もう、マジ瀬尾くん猪」
「はじめて言われたんだけど、そんなこと」
 ……そりゃ、そんな顔面持ってたら、誰も言わないだろうね。
 内心で俺は言い返した。だって、やっぱり、めちゃくちゃきれいな顔してると思うもん。あだ名が王子で笑われないやつって希少だと思うよ、俺。
 だが、問題はそこではないのだった。さらなる溜息は呑み、瀬尾くんに言い聞かせる。
「あのね、瀬尾くん。そういうことはしてくれなくていいから」
「なんで?」
「なんでって……、さすがに弟の友達にそこまでさせられねぇわ」
「俺、あんなおっさんに負けないけど」
 いや、わかんねぇだろ、そんなこと。どうすんだよ、ガチのヤバい人で刃物とか持ってたら。俺もそこまでヤバいおっさんを引いたことはないけど。でも、そんなことわかんないじゃん。との懸念が駆け巡ったものの、とにかく、と俺は語気を強めた。
「俺が心配だから。やらないで」
「はーい、はい。わかりました。了解です」
 ちらっと俺を見たあと、それ以上の説教はいりませんとばかりに瀬尾くんはホットスナックの準備に取りかかった。つんとした横顔に、隠さない溜息を吐く。
 いや、かわいくねぇな。