「じゃ、おつかれー」
なんか、いつもの倍は疲れたな。ぐったりとしつつも、表面だけは愛想良く声をかけ、俺は先にバックヤードを出た。
コンビニのバイトは、夏休みは週三で希望を出している。その回数で、果たして何回瀬尾くんと被るのか。
――真矢さんとか木内さんだと楽なんだけどなぁ。
女子大生の真矢さんとフリーターの木内さんはバイト歴が長いし、あと、なによりも俺が喋りやすい。
瀬尾くんがどうなのかは知らないが、俺はそういうことが気になるようにできているのだ。はぁと息を吐いて、空を見上げる。
二十一時を過ぎても、夜の空気は蒸していた。
バイト先のコンビニから家までは徒歩で十分ほど。駐輪場に自転車を止める手間を考えると、歩いたほうが楽との判断で、俺はいつも徒歩で通っていた。というか、駐輪場に向かう道、暗くて嫌なんだよな。
そんなことを考えながら、ポケットから取り出した無線イヤホンを耳に着ける。ポンとイヤホンを叩いて音楽を再生しようとした瞬間。「ねぇ」と呼び止められ、俺はもう一度イヤホンを叩いて振り向いた。
「きみ、あのコンビニでバイトしてる子だよね。高校生?」
どこにでもいるふつうのサラリーマンっぽいおっさんだったわけだが、声のかけ方がきもすぎる。半歩ほど後ずさり、俺はぎこちない愛想笑いを浮かべた。
「はは、えー……と、……まぁ」
道端でおっさんが男子高校生に話しかけたくらいでは、誰も助けてくれないと知っている。俺がかわいい女子高生だったら、違うのかもしれないけど。
だから、適当に、穏便に。笑ってやり過ごすことが最適解。経験則を実践した俺に、おっさんはずいと一歩踏み込んだ。
「コンビニのバイトなんて、たいしたお小遣いにならないでしょ? もっと良いアルバイト興味ない?」
「あ、えっと、……はい。大丈夫です」
間に合ってます、と引きつりかけた笑顔で首を振り、おっさんが近づいた分と同じだけ後退する。
良いアルバイトってパパ活かよ。それとも援交か。どちらにしろ、俺はいっさい興味はないし、SNSで募集をかけているやつに当たってくれと心底思う。
とは言え、だ。断って終わる程度の話なら、べつにいい。そう思っていたのに、今日に限っておっさんはしつこかった。
「待って、待って。そんなに警戒するような話じゃないからさ、本当に」
「いや、だから」
「きみもお金欲しいでしょ?」
にまにまとした笑顔とともに伸びた指が、無遠慮に腕を掴む。汗のにじんだねちょりとした体温に、俺はかちんと固まった。
……え、気持ち悪。
ふつうに鳥肌が立ったのに、おっさんは喋り続けているし、大通りを通る人は多くても、誰も助けてくれる気配はない。
いや、世知辛すぎるだろ。思ったものの、俺はすぐにしかたがないと割り切った。俺は男だし、このくらい、たまにあることだし。
自力でどうにかすべく、愛想笑いを浮かべ直そうとした俺の肩に、誰かがぽんと手を置いた。
「ちょっと、先輩。ひとりで先帰んないでくださいよ」
予想外の声に、ぎょっとして振り仰ぐ。
面倒くさいと言わんばかりに不機嫌そうで、それでいて圧倒的にきれいな顔。その顔が俺を見て、おっさんを見た。
「誰?」
絶対零度の声に、腕を掴んでいたおっさんの指が外れる。
レジで体験したからよくわかるんだけど、美形に睨まれると、けっこうヤバい迫力があるんだよな。美人が怒ると夜叉になるというやつ。男でも美人と言うのかは知らないけど。
「なんだ、お友達待ってたんだ。ごめんね」
俺がなにを言っても、へらへらと言い募るだけだったおっさんが、そそくさと立ち去っていく。
なんだ、あれ。半ば呆然と見送っていると、瀬尾くんが肩から手を離した。人半分ほどの距離を開け、ちらりと俺を見る。
「で。なにしてたんすか、あれ」
「ええっと」
ぶっきらぼうな問いかけに、俺はうろと視線を泳がせた。できれば、なにも言いたくない。だが、さすがに少し無理がある。
だって、たぶんだけど。コンビニを出て、絡まれている俺が視界に入って、なけなしのお情けで声をかけてくれたんだろうし。
「……パパ活?」
「パパ活って」
腕を擦りながら絞り出した回答に、瀬尾くんは遠慮なく吹き出した。
「やべ、受ける。先輩、男に迫られてんの? 地味そうな顔なのに」
小馬鹿にした台詞に、貼り付け直したばかりの愛想笑いが固まる。
声かけてくれてありがとう、変なとこ見せてごめんね、みたいな。そんな殊勝な気持ちは完全に吹き飛んで。ぷつんとなにかが切れた気がした。建前とか、理性とか、たぶん、そういうの。
……ほら、そうやって。誰もそういうことしか言わないってわかってるから、俺だって適当に笑ってやり過ごそうとしてたんじゃん。
「こっちは本気で困ってんだよ!」
声を荒げた俺に、瀬尾くんがぱちりと瞳を瞬かせる。
あ、これ、またヒスったって思ってるんだろうな。一応、助けてもらったのに。そう判断する冷静な感情は残っていたものの、俺は自棄になってぶちまけた。
そりゃ、俺が女の子だったら、親も周りももっと本気で心配してくれるんだろうけど。あいにく、俺は男だし。いや、べつに、自分でなんとかできるからいいんだけど。でも、困ってないわけはないだろって。
「そもそも、俺はなにもしてないのに、勝手に向こうが声かけてくんの! どう考えたっておかしいだろ」
小さく息を吐いた瀬尾くんが、困惑した仕草で頭を掻いた。とんだ面倒に巻き込まれたと思っているに違いない。
「というか、そういう自覚あるなら、絡まれないように自衛したら? 好き勝手触らせないで」
「絡むほうが悪いだろうが! っつか、俺だって、自衛はしてんの!」
でも、としどろもどろに俺は続けた。
「明らかに自分に声かける人間、無視できないじゃん」
でも、べつに、それっておかしいことじゃないんじゃないかな。破れかぶれに言い募りながら、言い聞かせるみたいに俺は思った。
本気で困っている可能性もあるわけだし、下心なんてないのに無視をされたら俺はへこむ。それに、川又さんみたいないいおじさんがいることも知っている。
……まぁ、それと同じくらい、変なおっさんに絡まれることも多いわけだけど。
レジでおっさんに連絡先を渡されたこともあるし、今日ほどしつこかったことはないにせよ、待ち伏せをされたこともある。
「あー……」
反応に困ったとしか表現のできない小さな唸り声に、俺ははたと我に返った。
それは、そうだ。こんなことを聞かされても、反応に困るに決まっている。もしかしなくても、八つ当たりをしてしまったのかもしれない。
気がついて謝ろうとしたタイミングで、瀬尾くんが首を傾げた。俺に問う。
「もしかして、それで、外見てたんすか?」
「え?」
「バイト中。なんか気にしてたでしょ」
「ああ、……いや、まぁ、そうだけど」
思い当たって、俺は頷いた。
「言うほどたいしたことじゃないんだけど、まぁ。なんていうか、たまにあるから」
先ほどと同じ言葉を告げた直後。気にかかって、俺は言い足した。
「でも、本当にたいしたことじゃないっつうか。だから、店長とかにも言ってないし」
余計な面倒を増やしたくない一心だったのだが、川又さんを庇ったみたいな言い方になってしまった。でも、お節介で川又さんに報告はされたくない。
溜息を呑み、そっと瀬尾くんを見上げる。
……というか、なんでこんなこと瀬尾くんに言っちゃったんだろうな。
こんな泣き言、誰にも言うつもりはなかったのに。自分自身の言動に困惑していると、「ふぅん」とよくわからない顔で瀬尾くんが呟いた。
「あの、瀬尾くん?」
呼びかけに、瀬尾くんがにこりとほほえむ。
「俺、彼氏やってあげようか?」
おっさんに迫られてたからってからかうなよとの突っ込みは、なぜか口から飛び出さなくて。
たぶん、ちょっと、世界が止まった。
なんか、いつもの倍は疲れたな。ぐったりとしつつも、表面だけは愛想良く声をかけ、俺は先にバックヤードを出た。
コンビニのバイトは、夏休みは週三で希望を出している。その回数で、果たして何回瀬尾くんと被るのか。
――真矢さんとか木内さんだと楽なんだけどなぁ。
女子大生の真矢さんとフリーターの木内さんはバイト歴が長いし、あと、なによりも俺が喋りやすい。
瀬尾くんがどうなのかは知らないが、俺はそういうことが気になるようにできているのだ。はぁと息を吐いて、空を見上げる。
二十一時を過ぎても、夜の空気は蒸していた。
バイト先のコンビニから家までは徒歩で十分ほど。駐輪場に自転車を止める手間を考えると、歩いたほうが楽との判断で、俺はいつも徒歩で通っていた。というか、駐輪場に向かう道、暗くて嫌なんだよな。
そんなことを考えながら、ポケットから取り出した無線イヤホンを耳に着ける。ポンとイヤホンを叩いて音楽を再生しようとした瞬間。「ねぇ」と呼び止められ、俺はもう一度イヤホンを叩いて振り向いた。
「きみ、あのコンビニでバイトしてる子だよね。高校生?」
どこにでもいるふつうのサラリーマンっぽいおっさんだったわけだが、声のかけ方がきもすぎる。半歩ほど後ずさり、俺はぎこちない愛想笑いを浮かべた。
「はは、えー……と、……まぁ」
道端でおっさんが男子高校生に話しかけたくらいでは、誰も助けてくれないと知っている。俺がかわいい女子高生だったら、違うのかもしれないけど。
だから、適当に、穏便に。笑ってやり過ごすことが最適解。経験則を実践した俺に、おっさんはずいと一歩踏み込んだ。
「コンビニのバイトなんて、たいしたお小遣いにならないでしょ? もっと良いアルバイト興味ない?」
「あ、えっと、……はい。大丈夫です」
間に合ってます、と引きつりかけた笑顔で首を振り、おっさんが近づいた分と同じだけ後退する。
良いアルバイトってパパ活かよ。それとも援交か。どちらにしろ、俺はいっさい興味はないし、SNSで募集をかけているやつに当たってくれと心底思う。
とは言え、だ。断って終わる程度の話なら、べつにいい。そう思っていたのに、今日に限っておっさんはしつこかった。
「待って、待って。そんなに警戒するような話じゃないからさ、本当に」
「いや、だから」
「きみもお金欲しいでしょ?」
にまにまとした笑顔とともに伸びた指が、無遠慮に腕を掴む。汗のにじんだねちょりとした体温に、俺はかちんと固まった。
……え、気持ち悪。
ふつうに鳥肌が立ったのに、おっさんは喋り続けているし、大通りを通る人は多くても、誰も助けてくれる気配はない。
いや、世知辛すぎるだろ。思ったものの、俺はすぐにしかたがないと割り切った。俺は男だし、このくらい、たまにあることだし。
自力でどうにかすべく、愛想笑いを浮かべ直そうとした俺の肩に、誰かがぽんと手を置いた。
「ちょっと、先輩。ひとりで先帰んないでくださいよ」
予想外の声に、ぎょっとして振り仰ぐ。
面倒くさいと言わんばかりに不機嫌そうで、それでいて圧倒的にきれいな顔。その顔が俺を見て、おっさんを見た。
「誰?」
絶対零度の声に、腕を掴んでいたおっさんの指が外れる。
レジで体験したからよくわかるんだけど、美形に睨まれると、けっこうヤバい迫力があるんだよな。美人が怒ると夜叉になるというやつ。男でも美人と言うのかは知らないけど。
「なんだ、お友達待ってたんだ。ごめんね」
俺がなにを言っても、へらへらと言い募るだけだったおっさんが、そそくさと立ち去っていく。
なんだ、あれ。半ば呆然と見送っていると、瀬尾くんが肩から手を離した。人半分ほどの距離を開け、ちらりと俺を見る。
「で。なにしてたんすか、あれ」
「ええっと」
ぶっきらぼうな問いかけに、俺はうろと視線を泳がせた。できれば、なにも言いたくない。だが、さすがに少し無理がある。
だって、たぶんだけど。コンビニを出て、絡まれている俺が視界に入って、なけなしのお情けで声をかけてくれたんだろうし。
「……パパ活?」
「パパ活って」
腕を擦りながら絞り出した回答に、瀬尾くんは遠慮なく吹き出した。
「やべ、受ける。先輩、男に迫られてんの? 地味そうな顔なのに」
小馬鹿にした台詞に、貼り付け直したばかりの愛想笑いが固まる。
声かけてくれてありがとう、変なとこ見せてごめんね、みたいな。そんな殊勝な気持ちは完全に吹き飛んで。ぷつんとなにかが切れた気がした。建前とか、理性とか、たぶん、そういうの。
……ほら、そうやって。誰もそういうことしか言わないってわかってるから、俺だって適当に笑ってやり過ごそうとしてたんじゃん。
「こっちは本気で困ってんだよ!」
声を荒げた俺に、瀬尾くんがぱちりと瞳を瞬かせる。
あ、これ、またヒスったって思ってるんだろうな。一応、助けてもらったのに。そう判断する冷静な感情は残っていたものの、俺は自棄になってぶちまけた。
そりゃ、俺が女の子だったら、親も周りももっと本気で心配してくれるんだろうけど。あいにく、俺は男だし。いや、べつに、自分でなんとかできるからいいんだけど。でも、困ってないわけはないだろって。
「そもそも、俺はなにもしてないのに、勝手に向こうが声かけてくんの! どう考えたっておかしいだろ」
小さく息を吐いた瀬尾くんが、困惑した仕草で頭を掻いた。とんだ面倒に巻き込まれたと思っているに違いない。
「というか、そういう自覚あるなら、絡まれないように自衛したら? 好き勝手触らせないで」
「絡むほうが悪いだろうが! っつか、俺だって、自衛はしてんの!」
でも、としどろもどろに俺は続けた。
「明らかに自分に声かける人間、無視できないじゃん」
でも、べつに、それっておかしいことじゃないんじゃないかな。破れかぶれに言い募りながら、言い聞かせるみたいに俺は思った。
本気で困っている可能性もあるわけだし、下心なんてないのに無視をされたら俺はへこむ。それに、川又さんみたいないいおじさんがいることも知っている。
……まぁ、それと同じくらい、変なおっさんに絡まれることも多いわけだけど。
レジでおっさんに連絡先を渡されたこともあるし、今日ほどしつこかったことはないにせよ、待ち伏せをされたこともある。
「あー……」
反応に困ったとしか表現のできない小さな唸り声に、俺ははたと我に返った。
それは、そうだ。こんなことを聞かされても、反応に困るに決まっている。もしかしなくても、八つ当たりをしてしまったのかもしれない。
気がついて謝ろうとしたタイミングで、瀬尾くんが首を傾げた。俺に問う。
「もしかして、それで、外見てたんすか?」
「え?」
「バイト中。なんか気にしてたでしょ」
「ああ、……いや、まぁ、そうだけど」
思い当たって、俺は頷いた。
「言うほどたいしたことじゃないんだけど、まぁ。なんていうか、たまにあるから」
先ほどと同じ言葉を告げた直後。気にかかって、俺は言い足した。
「でも、本当にたいしたことじゃないっつうか。だから、店長とかにも言ってないし」
余計な面倒を増やしたくない一心だったのだが、川又さんを庇ったみたいな言い方になってしまった。でも、お節介で川又さんに報告はされたくない。
溜息を呑み、そっと瀬尾くんを見上げる。
……というか、なんでこんなこと瀬尾くんに言っちゃったんだろうな。
こんな泣き言、誰にも言うつもりはなかったのに。自分自身の言動に困惑していると、「ふぅん」とよくわからない顔で瀬尾くんが呟いた。
「あの、瀬尾くん?」
呼びかけに、瀬尾くんがにこりとほほえむ。
「俺、彼氏やってあげようか?」
おっさんに迫られてたからってからかうなよとの突っ込みは、なぜか口から飛び出さなくて。
たぶん、ちょっと、世界が止まった。