クリスマスイブと言ったところで、午前授業ではあるものの、ふつうに学校はあるし、夕方にはバイトがある。
 まぁ、バイトについては「イブに入りたがる子なんていないよねぇ」と泣いていた川又さんを見かねて、「入れますよ」とぼっち申告をした結果のシフトなんだけど。予定もないし、川又さんにめちゃくちゃ感謝をされたので、無問題だ。
 学校が終わってバイトまでの時間が中途半端に空くことにはなったものの、それだって、自分の部屋で本を読んでいれば、あっという間に過ぎるわけだし。
 ――でも、なんていうか、これが本来の日常だよなぁ。
 学校行って、帰って、本読んで、バイトして。その繰り返し。愛すべき、俺の平凡な日常。早い話が、この数ヶ月が異常事態だったということだ。
 そんなことを考えながら、勉強机で文庫本を読んでいると、珍しくコンコンとドアを叩く音がした。ついで、「入っていい?」と尋ねる日向の声。
「なに、いいけど。どうかした?」
 いつもノックなんて、絶対にしないくせに。不審に感じつつ、本を閉じて振り向けば、やたらと神妙な態度で日向が入ってきた。
 ……え、なに、これ、どうしたの。
 イブ当日に羽純ちゃんに振られでもしたのだろうか。わざわざ一回家に帰ってから、外で待ち合わせをして夜デートと浮かれていたのに。
 想像して青くなった俺に、日向が「あのさ」と切り出した。
「なんていうか、ごめん」
「え、なに。まさか本当に羽純ちゃんと別れ……」
「てないし、っつか、なんで、羽純と別れたら兄ちゃんに謝んの。いや、別れないけど」
「いや、だって」
 一転して不服な顔をされてしまい、へにょりと眉を下げる。そうだな、別れてないなら、羽純ちゃんと別れるは地雷だった。
「羽純ちゃん以外で、日向がそんな顔する理由わかんなかったから。違うならいいんだけどね? なんか安心した」
 今日、デートなんだろ、と。取り成すように続けると、日向の口が曲がった。幼いころによく見た、バツの悪いときにする表情。その顔で、日向がもごもごと続ける。
「いや、だから、そうじゃないけど。でも、……うん。そういうとこが、デリカシーないのかなって思って。だから、ごめん」
「ええ……、っていうか、日向にデリカシーがないなんて、俺、昔から言ってるじゃん」
 謎の愛嬌で許されているだけで、たまにとんでもないこと言ってるからね。気をつけなよって。
 最近は、あまり口を出さないようにしていたけれど、昔は一応兄として注意をしていたのである。それを、なにを、いまさら、神妙に。
 俺の呆れが伝わったらしく、ますます日向の唇がとがる。
「だって、兄ちゃん、細かいから。また言ってるよとしか思ってなかったんだけど、瀬尾にまで言われたから、ちょっといろいろ考えちゃって」
 そうか、また言ってるよとしか思ってなかったのか。少し遠い目になっていると、日向がとんでもない告白をした。
「羽純にも相談したんだけどさ」
「おまえ、なんで羽純ちゃんに言うんだよ!?」
 予想外の爆弾を食らった気分で、思わず俺は叫んだ。
 というか、それに関しては、べつにいいって言ったじゃん。あの日の夜も「なんか、もしかしてごめん」ってめちゃくちゃ軽く謝られたけど、そのときもべつにいいって言ったじゃん。
「はっきり言うけど、それだよ、デリカシー! おかしいじゃん、相談する相手! 俺の気持ち考えて!?」
「え、でも、俺、羽純にも怒られたんだけど。そんなの気持ち悪いに決まってるじゃんって。男とか女とか関係ないよって」
 正しいことをしました、言われましたと言わんばかりの瞳に、俺は無言でうなだれた。
 羽純ちゃんはいい子だ。日向と同じく多少ずれているところはあるものの、まぁ、いい子だ。うん、だから、怒ってくれたんだよね。それはわかる。
 だが、切実に知らずにいてほしかった。
 ……というか、だから、嫌なんだよ。真面目に受け取られんのも、同情されんのも。
 そういう目で見られたくないし、なにも知らないで無邪気に笑っていてほしいと思う。同時に、恥ずかしいという気持ちもやっぱりある。
 変わらないいつもどおりの感情の動きなのに、胸の奥にあった重しがひとつ軽くなった感じもあって。溜息を呑み、俺は顔を上げた。
「わかった、わかった。でも、べつにいいから、本当」
 それに、となんでもない調子で笑って続ける。
「おまえにそんなこと言われんの、ふつうに気持ち悪いし」
「それはそうだと思うんだけどさぁ」
 ほっとしたふうに軽口を返した日向に、俺も違わずほっとした。
 デリカシーがなかろうが、俺よりなにもかもが派手で目立とうが、結局のところ、かわいいのである。自分に非があると気づいたら、何日も前のことであっても素直に謝ろうとする気質を含めて。
 たぶんだけど、羽純ちゃんも、瀬尾も、そういうところに絆されているんだろうな、と思う。
「あと、ちょっと話変わるんだけど」
「ん?」
「なんか、瀬尾、最近機嫌悪いんだけど、兄ちゃん知らない?」
 機嫌、悪いんだ。想定外の事実に、ぱしりと瞳を瞬かせたものの、俺はすぐに苦笑を浮かべ直した。
 それは、まぁ、瀬尾だって、機嫌が悪いことくらいあるだろう。
「日向が知らないこと、俺が知ってるわけないじゃん。バ先同じってだけなのに」
「それもそうだけど、でも、あいつ、兄ちゃんに懐いてるからさ。バイトのときにでも聞いてやってよ」
「いや、だから……」
「だって、兄ちゃんも瀬尾のこと気に入ってるでしょ。いや、マジ、バイト紹介した甲斐あったわ、瀬尾に」
「紹介? え、おまえが紹介したの?」
 突然の新事実に声が裏返る。その俺の反応に、日向は「あれ」と首をひねった。
「言わなかったっけ、俺。瀬尾がバ先どうしよ、女子に絡まれて揉める未来しかないって暗い顔してたから。うちの兄ちゃんのコンビニどうって紹介したの。本気で受けるとは思わなかったけど」
「ああ、そういう……」
 納得して、俺は肩から力を抜いた。そういえば、本気だった、受ける、とか言ってたな、こいつ。
 まぁ、たしかに、うちのコンビニはホワイト案件だろうけど。カフェとか居酒屋よりは女の子も寄ってこないだろうけど。
「まぁ、兄ちゃんが知らないなら、瀬尾はいいや。そのうち適当に戻るだろうし。あー、すっきりした」
 にこにこのご機嫌顔で、「デート前に済ましときたかったんだよね」と日向が続けた台詞に、俺はひらひらと手を振った。
 それだよ、デリカシー、という台詞は呑み込む。
「はいはい、行ってらっしゃい。羽純ちゃんによろしくね」
「うん。行ってくるけど。っつか、兄ちゃん、イブなのにバイトなんだな」
 彼女どころか、友達いないんだな、みたいな視線を最後に寄こした日向に、無言のまま、さらに手を振る。ぼっちなんだよ、ほっとけ。