シフトが終わって、バックヤードでとりとめのないことを喋る時間が好きだった。ふたりで一緒に深夜シフトの人に挨拶をして、外に出る瞬間も好きだった。
 蒸し暑い夏の夜も、金木犀のにおいがするようになった秋の夜も、一緒に歩くだけで楽しかったけれど。汗ばむようだった夜風が、鼻の頭が赤くなるまでのあいだ一緒にいたんだから、もう、いいかな、と思った。
 どれもぜんぶ好きだったけど、潮時というやつだ。
 瀬尾に彼女ができるまでの期間限定だったわけだから、そう考えると長すぎるくらいだったのかもしれない。

「あのさぁ、瀬尾。もうやめよっか、これ」
 決めた以上はすぐに実行をしないと、俺は絶対に引き延ばす。みっともない確信だけはあったので、コンビニを出て早々に俺は言った。
 たぶん、五ヶ月前、はじめて一緒のシフトに入った日。瀬尾がおっさんに絡まれていた俺を助けて、「彼氏やってあげようか」と言ったところ。
 あのときは、好きになるなんて想像もしなかった。むしろ、ちょっと苦手だったし。回想しながら、黙ったままの瀬尾を見上げて笑う。
「これ、この、偽装彼氏みたいなやつ。もう送ってくれたりしなくていいしさ、終わりにしよ」
「なんで?」
 なんで、ときたか。いや、でも、それもそうか。決めたのなんてついさっきなわけで、予兆もなにもなかったよな。納得して、俺は苦笑を浮かべた。
「なんでって、なんとなく。……まぁ、そろそろいいかなって。それに、瀬尾にメリットないだろ、これ」
「メリットって」
 お互いさまと言って提案をしたのは、五ヶ月ほど前の瀬尾なのに。妙に不満そうな顔をする。
 ……でも、間違ったこと言ってないと思うんだけどなぁ。
 だって、メリットがあったのって、結局、ぜんぶ俺のほうだ。力になりたくて助けたこともあったけど、余計なことにしかならなかったし。
 でも、だから。せめて、今、テンパった喋り方にならずに済んでよかったなぁと思う。まぁ、最近は、焦ってテンパる回数はだいぶ減ったんだけど。これも、瀬尾の影響だったのかもしれない。年下とは思えないくらい、落ち着いているやつだから。
 一緒にいると、移るね、けっこう。そう言って笑った瀬尾の顔を記憶から押しやる。余計なことばかりを考えなら、それでも返事を待っていると、瀬尾がゆっくり話し始めた。
「そもそも、俺、メリットでやってたわけじゃ、……いや、最初は、まぁ、そうだったけど」
 それ。その言い方。今はメリットでやっているわけではないと勘違いしそうになるからやめてくれないかな。
 まぁ、どうせ、情みたいなものだと思うけど。本当に人が良いよな、瀬尾は。
 必死に言い聞かせていると不思議とおかしい気持ちになって、また少し俺は笑った。ついでに、なんでもないふうに見えていたら儲けものだな、と思う。
「まぁ、だからさ。つまり、瀬尾にもメリットないってことでしょ。だったら、いいじゃん。やめよ、やめよ」
「でも、そんないきなり。やっぱり、あいつ、なんか言ったんじゃ」
「違う」
 笑ったまま、俺ははっきりと否定した。
「違うよ、大丈夫」
 事実だ。あの子に言われたせいじゃない。もちろん、まったく影響がなかったとは言わないけど、でも、いつか、こうなったとわかっている。
 俺が、瀬尾を好きかもしれないと思ってしまった時点で。
 なんか、俺、おまえが面倒だって言った「ちょっと喋ったら好きになる女子」そのものだったわ。嫌われなくないから、言わないけど。絶対、言わないけど。 
「もういいかなって思っただけ」
 瀬尾も、デメリットしかないお守りから解放されて、すっきりしたらいいんじゃないかな、と思う。
 元カノと口を滑らせていたけれど、それなり以上に良好な関係なんだということは見たら十分にわかったし。
 日向と羽純ちゃんみたいになれるかもよ、とも、やっぱり言わないけど。俺は人間ができてないから、背中を押して、はい、ハッピーエンド、みたいな真似はできないんだけど。
 でも、もろもろを腹にしまって、笑うことくらいはできる。まぁ、一応、先輩だし。
「いろいろありがと。でも、ちょっと甘えすぎたなぁって思って。だから」
「べつに、……っていうか、先輩、ぜんぜん甘えたりしなかったと思うけど」
「そうかなぁ。でも、たぶん、そうだったんだって」
 むしろ、と続きそうだった雰囲気を遮って、俺は笑顔で手を振った。
「バイバイ」
 バイト先だって同じだし、学校でもすれ違うことくらいはあるだろうし、瀬尾が日向に会いに来たら家で会うこともあるんだろうけど、とりあえず。偽装彼氏はこれで終了ということにしてしまいたい。
 本格的に好きになって、本格的に瀬尾が面倒になる前に。
「じゃあ、まぁ、気をつけて帰りなね。俺はこっちだから」
 もう遠回りはしなくていいと念を押した気分で告げ、背を向ける。瀬尾はなにも言わなかった。そこまで言うならもういいと思ったのかもしれないし、勝手なことばかりを言う俺に呆れたのかもしれない。
 だが、どちらであったとしても、しかたのないことだ。寒いなぁとポケットに手を入れて、夜道を進む。
 ――ああ、でも、知らなかったな。
 忘れていた、というほうが正しいのかもしれないけど、でも。白い息を吐き、そっとひとりごちる。
 夜にひとりで歩くと、家までってこんなに遠かったんだな。